第八話「私、そんな大層なことは」
馬車が石畳の坂を上りきると、正面に懐かしい領主館が見えてきた。
白い壁に蔦が這い、屋根にはターヴァ家の紋章が風に揺れている。
昔と変わらないその姿に、アデリアの胸がぎゅっと熱くなった。馬車が止まるより早く、玄関の扉が勢いよく開いた。
「アデリアッ!!」
懐かしい、けれど聞き慣れた、どこか野太い声。
レオナルド・ターヴァ――彼女の兄であり、この領地の領主――が、まるで少年のように駆け出してきた。
「兄さま……!」
次の瞬間、アデリアは固い腕にがっしりと抱きしめられていた。
「戻ってきてくれたな……!本当に、本当に……!」
レオナルドの声は震えていた。
いつもは豪快に笑う兄が、こんなに声を詰まらせるのを、アデリアは初めて見た。
「……ただいま、兄さま」
掠れた声で返事をすると、彼女の目から熱いものがこぼれ落ちた。王都を出てからずっと張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「王宮の連中……妹を何だと思っていやがった!あんな扱いをして……!」
兄の腕の中で、アデリアは小さく首を振った。
「もう、いいんです……ここに帰ってこれたから」
そのとき。
「姫さまぁぁぁぁっ!!」
甲高い、でも愛らしい悲鳴が響いた。
見れば、ミレイユ――アデリアが王宮へ嫁ぐときも一緒に付いてこようとしたがなんとか抑えた幼馴染の侍女――が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で飛びついてきた。
「うわあああん!生きて帰ってきてくださったぁ!私、もう死ぬかと思いましたぁ!」
「ミレイユ、落ち着いて……!」
「落ち着けませんよぉ!姫さまがあんな目に遭って……私、王都に乗り込んでラウラとかいう女の髪の毛全部抜いてやろうかと思いましたぁ!」
「ちょ、ちょっと……!」
館の玄関前は一瞬で大騒ぎになった。家臣たちも、次々に駆け寄ってくる。
「アデリア様、お帰りなさいませ!」
「聖姫様が戻られた……!これで領地は安泰です!」
「もう二度と離しませんよ!」
その言葉に、アデリアは目を丸くした。
「……その、聖姫って?」
レオナルドが苦笑いしながら肩をすくめる。
「ああ……お前がいなくなってから、領民たちが勝手にそう呼び始めたんだ。お前の作った薬で命を救われた者、お前の案で飢えを逃れた村、お前の結界で魔物から守られた子どもたち……みんな、お前を“神の娘”みたいに慕ってる」
アデリアは呆然と瞬きをした。
「……私、そんな大層なことは」
「大層も何も、事実だろ」
レオナルドは妹の肩に大きな手を置き、真っ直ぐに見つめた。
「このターヴァ領が今、こんなに豊かで平和なのは――全部、お前のおかげだ」
その言葉に、アデリアの涙がまた溢れた。王都では誰にも理解されなかった。誰にも必要とされなかったと思っていた。けれど、ここでは。
「ありがとう……みんな。ちょっと実感がないけど……」
彼女が苦笑い気味に呟くと、周囲から歓喜の声が湧き上がった。
「お帰りなさいませ、聖姫様ぁぁぁ!」
もう、誰が言い始めたのかもわからない。
ただ、領主館の前は、まるで祭りのように熱狂に包まれた。アデリアは涙を拭いながら、ふと思った。
(ああ……私、帰ってくる場所がちゃんとあったんだ)
その瞬間、彼女は初めて――本当に初めて――王都を離れたことを、心の底から“正しい選択”だと感じた。




