第六十二話 「どんな未来でも」
春。大婚から三ヶ月が過ぎ、宮廷はようやく祝宴の熱狂から落ち着きを取り戻しつつあった。
朝の謁見の間──かつては「冷徹皇帝の玉座」と恐れられたその場所に、今は二つの椅子が並んでいる。
右にカリオン、左にアデリア。銀金色の髪を簡素に編み上げたアデリアは、まだ真新しい皇后の正装に慣れない様子で、膝の上で指を絡めていた。
「では、次は医療改革案について」
宰相ヴァレンティナが一歩進み出て、厚さが指二本分ある提案書を掲げる。
「皇后陛下がご提案された『全国治癒院網の整備』と『薬草栽培義務化法』ですが、すでに二十三の地域で試験導入を開始し、効果は予想を上回っております。特に北部三州の乳幼児死亡率は、前年比で四割減……」
「四割!?」
思わず声を上げたのは、老練な財務大臣だった。
「たった三ヶ月で……?前政権時代は十年かけても一割しか下がらなかったというのに」
アデリアは少しだけ頬を赤らめ、小さく首を振る。
「私の案は、特別なものではありません。ただ……民が病気で苦しまないように、昔からターヴァ領でやっていたことを、少し規模を大きくしただけです」
その控えめな言葉に、列席の大臣たちが一斉に頭を垂れた。
「それがどれほど凄いことか、我々はもう痛いほど理解しております」
誰かが呟く。
「聖后殿下……いえ、皇后陛下こそが帝国の宝です」
カリオンは隣で、わずかに口元を緩めていた。
(……宝、か)
彼はそっと、アデリアの手を握る。謁見の間でも、誰もそれを咎めない。
むしろ微笑ましく見守る空気が、すでに宮廷全体に広がっている。
「では、次は教育改革について」
今度は若手の文部大臣が前に出る。
「皇后陛下のご提案で、地方にも『読み書きと薬学の初等学校』を設置する件ですが……その……予算が」
「私が責任を持って工面します」
即答だった。
「薬草畑の収益と、私個人の所領収入を充てます。足りなければ、私の装飾品を売っても構いません」
静かな、しかし揺るぎない声。議場がどよめく。
「皇后陛下、それは……!」
「民の子どもたちが、病気で親を失うことも、字が読めずに騙されることもないようにしたい。それだけです」
アデリアは微笑んだ。
カリオンは静かに立ち上がると、アデリアの前に片膝をついた。
「アデリア」
突然のことに、彼女が目を丸くする。
「へ、陛下……?ここは謁見の間で……」
「構わない」
彼は彼女の手を取り、指先にそっと唇を寄せた。
「君が望む未来を、俺は必ず叶える。だから、どうかこれからも……俺の隣で、帝国を、民を、世界を救ってくれ」
静寂。そして、次の瞬間。
「「「おおおおおおっ!!」」」
貴族、大臣たちが一斉に歓声を上げ、拍手が鳴り響いた。
ヴァレンティナは涙を拭い、シオンは苦笑しながら肩をすくめ、ルーファスは珍しく満面の笑みで拍手している。
アデリアは耳まで真っ赤になりながらも、小さく、小さく頷いた。
「……はい。あなたとなら、どんな未来でも」
その瞬間、窓から差し込む春の陽光が、二人の姿を柔らかく包んだ。




