第五十八話 「好きなの選んで」
朝の帝都エヴェルドは、まるで祭りの前夜のように騒がしかった。
大理石の回廊を駆け抜ける足音。皇帝の私室から大聖堂に至るまで、宮廷中の人間が走り回っている。
「花はターヴァ領産の白銀リリーで統一するそうです!」
「礼服の裾に聖獣の刺繍を入れるって本当ですか!?裁縫師が泣いてます!」
「招待状の金箔が剥がれてる!もう一度刷り直しだ!」
普段は厳粛そのものの帝国宮廷が、完全に制御不能の歓喜に包まれている。――原因はただ一つ。
「皇后陛下が、ついに決まった」
その一報が帝都に流れてから、まだ三日しか経っていない。
皇帝カリオン・エヴェルドが、ターヴァの聖姫アデリア・ターヴァに求婚し、彼女が「はい」と答えた。
それだけで帝国は沸き、宮廷はひっくり返り、街は祝賀ムードに包まれた。
急遽、宮廷内に設置された『聖帝聖后御結婚奉祝式典対策中央総本部』にヴァレンティナが書類の山を抱えたまま、駆け込んでくる。
「もう無理です!私、死にます!この三日、一睡もしてないんですよ!本当に!」
式典で披露される騎士団の演舞の構成を考えていた騎士団長シオンは、珍しく苦笑いを浮かべている。
「……その割には顔は楽しそうだがな」
「そっ……それは、そうだけどそうじゃないっていうか……あ~もう!」
ヴァレンティナが両手を広げて天を仰ぐと、ちょうど通りかかった皇太后エレーナがにこやかに声をかけた。
「ヴァレンティナちゃん、泣かないの。あなたが音を上げたら誰がスケジュール管理するの?」
「皇太后様ぁ~~~!もう限界です~~~!」
「大丈夫よ。アデリアちゃんは『派手なことはいいです』って言ってるから、最小限に抑えてるつもりなの」
「これが最小限!?大陸全土の王族と、ターヴァ領の領民全員を招待してるんですよ!?」
ヴァレンティナの叫びが木霊する。
☆
宮廷内ドレスルーム。
銀金色の髪を優雅に結い上げたアデリアが、真っ赤な顔で立っている。
周りをぐるりと囲んでいるのは、帝国宮廷のメイドたち。所狭しと各々が動き、アデリアのドレスや髪飾り等を調整している。
皇太后エレーナが両手を広げて満面の笑み。
「さあさあアデリアちゃん!これが皇后のティアラ候補よ!全部あなたに似合うように新調したの!好きなの選んで!」
「……え、えっと、皇太后陛下……これはちょっと派手すぎませんか……?」
「何をおっしゃる!聖女が后になるんですもの!大陸中が祝福するんですから、これでも控えめよ!」
隣ではミレイユが、故郷から持ってきたターヴァ領の伝統衣装を抱えて涙目。
「姫様ぁ……!私、夢みたいです……!王都で泣かされてた姫様が、こんなに幸せそうで……!」
「ミレイユまで泣かないで……私まで泣きそうになるじゃない……」
その背後では、諜報長ルーファスが珍しく満面の笑顔で、「ターヴァ領の祝賀団がもう国境を超えました。総勢三千人です」と報告している。
アデリアは完全に混乱していた。
(私が……本当に、皇帝陛下の后に……?)
あの離縁の朝、馬車の中で流した涙が、こんな未来に繋がっていたなんて。
ふと、背後から聞き慣れた低く優しい声が入ってきた。
「入るぞ……悪い、母が騒がしくて」
振り向くと、そこには黒髪に金の瞳を輝かせるカリオンが立っていた。
まだ朝の執務服のまま、しかし表情はどこか照れくさそうで。指先で何度も髪を梳いているのが、どうにもそわそわしている証拠だった。
周囲の喧騒がぴたりと止まる。カリオンはゆっくりと歩み寄り、アデリアの前で立ち止まった。
「いいえ。私が……こんなに大げさになってしまって、申し訳ありません」
「君が謝ることじゃない」
カリオンは柔らかく笑い、そっと彼女の手を取る。
「俺が、君を娶るんだ。帝国中が祝福するのは当然だ」
その瞳に宿るのは、決して揺るがぬ愛情と。あのターヴァ領で初めて出会った日と変わらぬ敬意。
アデリアは胸の奥が熱くなって、思わず目を伏せ、頬がほんのり桜色に染まる。
「……でも、私なんかが皇帝陛下の隣にいて、本当にいいんでしょうか」
その呟きに、カリオンは静かに微笑んだ。そして、彼女の手を自分の胸に押し当てた。
「ここにいる。俺の心臓が、君を呼んでる」
少しだけ照れながら、しかし真っ直ぐに。
「だから、もう迷うな。アデリア」
アデリアは目を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
「……はい」
カリオンはそっと彼女の手を近づけ、指先に口づけた。
周囲から「きゃああああああ!」という悲鳴のような歓声が上がる。
ミレイユが鼻血を出しそうになりながら叫ぶ。
「最高です姫様!今死んでも何の悔いもありません!」
「縁起でも無いこと言わないで!もう」
騒がしい、でもどこまでも温かい。これが、彼女が選んだ新しい居場所。
離縁された王妃は、もういない。ここにいるのは、大陸が祝福する、聖帝の后となる女性だけだった。アデリアは恥ずかしそうに微笑みながら、カリオンに握られた手を、そっと握り返した。──あと三日後。この帝国は、永遠に語り継がれる結婚式を迎える。




