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第五十六話 「ヴェルディアでの奇跡」

 ターヴァ領・領主館の大広間。

 夜更けを過ぎても、灯りは消えていない。

 中央に置かれた長テーブルの上には、一通の封書がぽつんと置かれていた。

 蝋の封印はローデン王家の紋章。

 紙は上等だが、端が縮れて破れかけている。よほど急いで書かれたのだろう。

 アデリアは静かに座り、開封された手紙を両手で持ったまま、動かない。

 手紙の内容は──


『前王妃アデリア・ターヴァ殿下へ 我が国は今、未曾有の疫病に苛まれ、滅亡の危機に瀕しております。既に死者は千人を超え、王都の治癒院は満床、王族の中にも病に倒れた者がおります。殿下がかつて開発された薬も、配合を再現できる者がおらず、在庫は尽きました。どうか、どうかお力をお貸しください。あなたしか、この国を救える者はいません。跪いてでもお願い申し上げます。 ローデン王国国王 ユリウス・ローデン』


 最後の署名は、インクがにじんでいた。

 おそらく、震える手で書かれたのだろう。静寂が落ちる。


「──死者はすでに千人を超えた、ですか」


 声は震えていない。

 ただ、淡い青の瞳が、まるで氷のように冷えきっていた。

 王国からの使者は今は膝を折り、額を床に擦りつけるようにして震えている。


「お願いいたします……前王妃殿下……いえ、聖女アデリア様……!ヴェルディアでの奇跡をお聞きしました。もはや、あなた様以外にこの疫病を鎮める術はございません!王都の治癒院は死体が溢れ、街は暴動寸前……」


 言葉の端々に、かつての傲慢さは微塵も残っていない。

 あるのは、ただの恐怖と絶望だけ。

 傍らに立つ兄レオナルドが、低く唸る。


「今さら何を言ってる。自分たちでなんとかしろ」


 使者は顔を上げられず、ただ小さく震えるばかりだった。

 カリオンは腕を組み、壁に背を預けたまま無言。金の瞳は使者を射抜くように鋭いが、口は開かない。

 広間には、ターヴァ領の重臣たち、司祭ベルド、そして帝国から同行していたヴァレンティナとシオンも控えている。誰もが息を呑み、アデリアの次の言葉を待っていた。

 アデリアはゆっくりと立ち上がり、使者の前に歩み寄った。白いドレスの裾が床を滑り、まるで光の筋のように見えた。

 使者は恐る恐る顔を上げる。

 そこにあったのは、かつての「控えめで大人しい王妃」の面影はどこにもない、静かで、しかし誰にも揺るがせない意志を宿した瞳だった。


「……再三申し上げておりますように私は、もう王国の人間ではありません」


 最初の一言に、使者の肩がびくりと震える。


「離縁された身です。あの国に、私の居場所はどこにもなかった」


 使者は唇を噛み、涙をこぼし始めた。


「ですが」


 アデリアは一歩、また一歩と近づく。


「苦しんでいるのは、王や貴族だけではないのでしょう?罪のない子どもたちが、母親を失い、母親が子を失い、明日を信じられずに泣いている人々がいる」


 彼女は静かに、しかしはっきりと告げた。


「……行きましょう」


 一言。たった一言で、大広間が凍りついた。


「姫様!?」

「待て、何を考えてる!」

「アデリア様、そんな……!」


 ミレイユもレオナルドも、ヴァレンティナさえも声を上げる。

 だがアデリアは、誰の声も遮るように、ただ前を見据えたまま続けた。

 まるで、ずっと前から答えを決めていたかのように。


「これは政治ではありません。人の命の問題です。私の力が必要とされているなら、差し伸べるのが、私の選んだ道だから」


 カリオンが初めて口を開いた。


「……本当にいいのか?君をないがしろにした国だぞ」


 アデリアは振り返り、静かに微笑んだ。


「だからこそ、です。私はもう、誰かの都合で動かされる人形ではない。私が、私自身の意志で歩く」


 その笑顔は、どこまでも優しく、どこまでも強い。

 使者は感極まり、床に額を打ちつけた。


「ありがとうございます……ありがとうございます……!」


 カリオンは深い溜息を吐くと、静かに歩み寄り、アデリアの手を取った。


「……なら、俺も共に行く。君一人で行かせるつもりはない」


 アデリアは驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます、陛下」


 大広間に、再び静寂が落ちる。誰も、誰も、彼女の言葉を否定できなかった。


「でも 私を、過保護にしすぎないでくださいね?」


 その微笑みに、カリオンが苦笑を漏らす。ミレイユは泣きながら、それでも拳を握った。


「……姫様がそう決めたなら、私も行きます!どこまでもお供します!」


 レオナルドも、ヴァレンティナも、司祭ベルドも 全員が、覚悟を決めた顔で頷いた。

 アデリアは静かに窓の外を見た。

 遠く、王国の方向に今も苦しむ人々の声が聞こえる気がした。

 私はもう、逃げない。傷つけられた過去に縛られることも、誰かに認めてもらうために生きることもない。

 私は、私の選んだ道をただ、まっすぐに。その決意を胸に、アデリアは静かに呟いた。


「準備をしましょう。明日の朝、出発します」


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