第五十三話 「怖くないよ」
ターヴァ領の市街地から外れた古い森、その奥にひっそりと佇む廃聖域。
苔むした石碑が一本だけ、木々の隙間から差し込む陽光に白く浮かび上がっていた。
アデリアは息を切らしながら、雪のような白い小さな聖獣を追いかけて、ここまで来た。
「ノア……!待って、どこに行くの?」
仔狐ほどの大きさの聖獣ノアは、ふわりと石碑の上に飛び乗り、紫色の瞳でこちらを見下ろしている。まるで「早く来い」と言わんばかりに、短い尻尾をぴんと立てている。
アデリアは足元の枯れ枝を踏みしめながら、近づいた。
「……ここは?」
見たことのない場所だった。
ターヴァ領の地図にも載っていない、忘れられた聖域。
石碑の表面には、古い文字がびっしりと刻まれている。
文字は光を帯び、触れる前から彼女の指先に微かな疼きを伝えてきた。
ノアが小さく鼻を鳴らした。
(触って、アデリア。もう時間だよ)
少年のような透き通った声の念話。
アデリアは息を呑み、それでも恐れずに手を伸ばす。
指先が石碑に触れた瞬間、世界が白く弾けた。視界が、真っ白に染まる。轟音のような静寂。無数の光の粒が彼女の体を突き抜け、心臓の奥まで流れ込んでいく。
記憶ではない記憶が、洪水のように押し寄せた。
遠い昔、大陸を癒し続けた一人の聖女の生涯。
疫病を鎮め、荒れた土に花を咲かせ、戦乱の傷を縫い合わせた日々。
そしてその血は、途切れることなく、ターヴァの家系に受け継がれていたこと。
「私が……」
声が震える。
石碑の光が渦を巻き、アデリアを中心に巨大な魔法陣が幾重にも地に描かれる。
銀金色の髪が風なく舞い、淡い青の瞳が神々しい光を宿す。
体の中を駆け巡る力が、あまりに大きくて、怖い。身体が浮きそうになる。
その瞬間、小さな温もりが胸に飛び込んできた。
ノアが彼女の胸元にぴたりと寄り添い、ふわりとした白い毛を震わせる。
(大丈夫。怖くないよ。これは、あなたがずっと持っていたものだ。封印されていただけ)
次の瞬間、光が爆発した。
薄暗い森全体が、一瞬だけ何も見えないくらい明るくなる。
鳥が驚いて飛び立ち、眠っていた動物たちが怯えて地に伏せた。
光が収まったとき、アデリアは静かに立ち上がっていた。
瞳に宿る光は、もう人間のものではなかった。けれど、同時に、誰よりも優しく、誰よりも温かい光だった。
彼女は自分の手のひらを見下ろし、小さく息を吐く。
「……これが、私の中に眠っていた力……」
ノアが満足げに尻尾を振って、彼女の肩に乗る。
(おかえり、聖女。やっと、全部取り戻せたね)
アデリアは、静かに微笑んだ。怖くなんて、なかった。
むしろ、ずっと待ち焦がれていたものを、ようやく手に入れたような、なぜか懐かしい帰郷の感覚だけが、胸いっぱいに広がっていた。彼女は石碑にそっと手を置き、囁く。
「ありがとう……先祖さま。この力があればもっと多くの人を助けられる」
風が優しく吹き抜け、森の木々が祝福の音を立てて揺れた。




