第五十一話 「姫様ぁぁぁぁ」
ターヴァ領主館。
神殿から戻ったアデリアは、まだ頬に朱を残したまま、ぼんやりと自室のソファに腰を下ろしていた。
手には、カリオンが最後にそっと握ってくれた指の感触が残っている。
(……宰相として、そして、妻として)
頭の中で言葉が何度も繰り返される。自分でも信じられない。
あの世間で冷徹と謳われる皇帝が、自分に向かってひざまずいたのだ。
「……私、どうすればいいの」
小さな呟きが漏れた瞬間。ガチャッ!扉が勢いよく開け放たれ、ミレイユが飛び込んできた。
「姫様ぁぁぁぁ────っ!!」
「ひゃっ!?」
ミレイユは涙と鼻水を流しながら、アデリアの胸にダイブする。
「ついに!ついに来ましたね!!皇帝陛下からの求婚!!私、生きててよかったぁぁぁ!!」
「ミ、ミレイユ、落ち着いて……!」
「落ち着けませんよぉ!だってだって!陛下が『妻として』って!はっきりおっしゃったんですよね!?私、外で全部聞いてました!!」
「えっ……!?」
アデリアの顔が一瞬で真っ赤になる。廊下から、さらに複数の足音が雪崩れ込んできた。
「お嬢様!これはもう決まりではございませんか!」
「領民一同、祝福の準備を始めます!花飾りは三万輪で足りますか!?」
「……ちょっと、みんな、少し静かにして……!」
アデリアが慌てて手を振っても、誰も止まらない。そこへ、どっしりとした足音。兄レオナルドが、剣を研ぐ音を響かせながら現れた。
「アデリア」
「に、兄さま……?」
レオナルドは無言で剣を眺め、妹の前に仁王立ちになる。
「……あの皇帝が、泣かせるようなら、たとえ相手が皇帝でも容赦しない」
「ちょ、ちょっと兄さま!?立ったまま剣を研がないで!」
「いや、念のためにな」
「念のためって何!砥石に水をつけないで!」
その背後で、帝国からの使者ヴァレンティナが、書類の束を抱えて目を輝かせている。
「アデリア様!もう皇后教育のカリキュラムを三案作りました!こちらは医療・行政重視コース、こちらは聖女イメージ戦略コース、そしてこちらが──」
「ヴァレンティナさん、まだ返事してないんです!」
「えっ、でも時間の問題ですよね!?だって陛下があんなに真剣に……私、泣きました!」
館内は完全に祭りの騒ぎだった。アデリアは両手で顔を覆い、小さく呟いた。
「……私、まだ、心の整理がついてないのに」
けれど、頬は熱い。
胸の奥は、確かに震えている。
騒がしい声の波の中で、彼女はふと神殿でのカリオンの言葉を思い出す。
『君が納得できる答えを出すまで、どれだけでも待つ』
その誠実さに、初めて、答えが少しずつ形を成し始めていた。
(……私、もしかして)
アデリアはそっと自分の胸に手を当てた。鼓動が、誰かを想う音を、確かに奏で始めている。廊下で、ミレイユが叫ぶ。
「さぁみんな!姫様が決められるまで、毎日祝福ムードで攻めましょう!」
「「おおおおおっ!!」」
「……もう、ほんとに、静かにしてってば!!」
アデリアの叫びは、歓声にかき消されていく。けれど、その瞳は、もう逃げていない。この騒がしい、温かい場所で、彼女は確かに「次の答え」を探し始めていた。
☆
騒ぎがようやく落ち着き、領主館に静けさが戻る。
長かった一日を終えるように寝台で横になり目を閉じたその時、ふわり。
小さな白い影がアデリアの前に降り立った。
聖獣ノアだった。普段は仔狐ほどの大きさしかないのに、今夜はなぜか少しだけ大きく、毛並みに淡い光が宿っている。
ノアはアデリアの膝の前に座り、紫色の瞳でじっと彼女を見上げた。そして、初めて、はっきりと声が聞こえた。
「怖がらなくていいよ、アデリア」
「え……?」
アデリアは目を見開く。ノアは鼻先で彼女の指を軽く突いた。
「もうすぐだよ。あなたの力が、全部目覚める時が。その時、あなたはもう“ただの人間”じゃなくなる。だから、今は迷ってもいい。でも、逃げないで」
小さな体から響く声は、どこか懐かしく、どこか神聖で、胸の奥まで染み渡る。アデリアは息を呑み、震える声で尋ねた。
「ノア、どういうこと……私は、何になるの?」
ノアは一度だけ、優しく微笑んだように見えた。
「世界を癒す者。そして、誰かを真に愛せる者」
その瞬間、ノアの瞳が突然、眩い光を放った。
白銀の光がアデリアの全身を包み、髪の毛一本までが淡く輝く。
「っ……!」
胸の奥で、何かが弾けた。
アデリアは両手で胸を押さえ、涙が零れた。怖くない。不思議と、怖くなかった。
(今のって……何?)
光が収まった時、ノアはもう寝台の上で丸くなっていた。




