第五十話 「急がせない」
ターヴァ領の神殿、深夜。
月明かりがステンドグラスを通って、床に青白い光の帯を描いている。
祭壇の灯火だけがゆらゆらと揺れ、静寂があまりに深くて、自分の鼓動がうるさいほどだった。
カリオンが庇ってくれたときの衝撃が、温度が、身体にまだ残っている。
扉が静かに開く音。
振り返ると、そこにカリオンがいた。黒の外套を脱ぎ、礼服の上着も脱いで、シャツ一枚の姿。
いつもは完璧に整えられた黒髪が少し乱れ、金の瞳だけが輝いている。
「……静かな夜だな」
低い声が神殿に響く。
「なんだか眠れそうになくて」
二人は自然と祭壇の前に並んで立つ。しばらく、口を開かない。
静けさがあまりに深くて、二人の呼吸音だけが響く。
やがて、カリオンがゆっくりとアデリアの前で膝をついた。
「アデリア・ターヴァ」
名前を呼ばれた瞬間、彼女の指先が震えた。
「私は、帝国の皇帝としてではなく」
カリオンは一度だけ深く息を吸い、まっすぐに彼女を見上げた。
「カリオン・エヴェルドという、一人の男として、あなたに伝えたいことがあります」
アデリアの喉が鳴る。
「私は、あなたを帝国の宰相として迎えたい。あなたの知識、あなたの優しさ、あなたの強さは、帝国に必要だ。……いや、必要という言葉では足りない。欠かせない」
静かな、しかし揺るぎない声。
「そして」
カリオンは右手を差し出した。
「私の妻として、生涯を共に生きてほしい」
神殿の灯火が、ぱちりと音を立てて揺れた。アデリアは息を止めた。
「……陛下」
「カリオンでいい」
彼は静かに訂正する。
「ここに皇帝はいない。ただ、あなたを愛しているだけの男がいる」
愛している。その言葉が、胸の奥にまっすぐに突き刺さった。アデリアの瞳が熱くなる。
「……私は、とても嬉しく思います。本当に」
彼女は一歩だけ前に出て、差し伸べられた大きな手を見下ろす。
「でも……」
「私には、ターヴァの民がいます。兄上がいます。ミレイユも……この領地を離れることが、私に許されるのか、まだ分かりません。私を必要としてくれる人たちが、ここにいる。私がここを捨てて、帝国へ行ってしまうことが……傷つけてしまう事にならないか、怖いんです」
声が震えた。
「この領地を離れたら、私はもう……」
カリオンは静かに目を閉じ、それからゆっくりと立ち上がった。
彼はアデリアの両肩にそっと手を置き、まるで壊れ物を扱うように、優しく包み込んだ。
「……急がせない」
低い、けれど揺るぎない声。
「君が納得できる答えを出すまで、どれだけでも待つ。一年でも、三年でも、十年でも」
彼は額を彼女の額に軽く寄せ、熱を込めて囁いた。
「私は、君が笑っていてくれる場所を、どこまでも守る。ターヴァ領であっても、帝国であっても」
アデリアの瞳が揺れる。
「君を想う気持ちは、もう止められない。だから、君が決めるまで、私は待てる」
カリオンは一度だけ、彼女の左手の薬指に、そっと唇を落とした。まだ指輪はない。
けれど、そこにいつか嵌める約束を、彼は確かに刻んだ。アデリアは目を閉じ、熱いものが頬を伝うのを感じた。
「……答えは、必ずお伝えします、少しだけ……時間をください」
カリオンは微笑み、彼女の涙を親指でそっと拭った。
神殿の灯火が、二人の影を一つに重ねる。月が雲の間から顔を出し、静かに、祝福するように、光を降り注いだ。




