第五話「自由に……なれた」
王都の正門をくぐり抜けてから、すでに約一時間が過ぎていた。
石畳の音が土の道に変わり、馬車の揺れが少しだけ柔らかくなる。
窓の外を流れる景色は、もう王都の高い建物ではなく、田園と遠くの森だった。
アデリアは、膝の上で固く握りしめた小さな袋を、ぼんやりと見つめていた。侍女たちが泣きながら渡してくれたクッキー。
母の形見の髪飾り。
そして、自分が王宮で密かに調合し続けていた薬草の種と、小さなすり鉢。
王妃として五年。
華やかなドレスも宝石も、すべて王宮に置いてきた。
置いてこなければならなかった。馬車が少し大きく揺れた。その拍子に、頬を伝う熱いものがぽたり、と膝に落ちた。
「……あれ?」
自分でも驚くほど自然に、涙がこぼれていた。最初は一粒、また一粒。
やがて堰を切ったように、音を立てずに流れ続ける。アデリアは慌てて袖で拭おうとしたが、無駄だった。
涙は止まらない。
「…………」
喉の奥から漏れる嗚咽を必死に噛み殺しながら、アデリアは両手で顔を覆った。
五年もの間、誰にも見せなかった涙だった。
国王の前でも、側妃ラウラの嘲笑を浴びても、貴族たちの冷ややかな視線を浴びても、彼女は一度も泣かなかった。
泣けば弱さを見せることになる。
泣けば、相手の思うつぼになる。だから耐えた。
笑顔で、丁寧に、完璧に。けれど今、誰も見ていない。馬車の御者も、護衛の騎士も、彼女の顔を見ることは許されていない。だから、ようやく、ようやく許された。
「自由に……なれた」
震える唇で呟いた言葉は、自分でも信じられないほど軽やかだった。涙はまだ止まらない。
けれど、それは悲しみだけではないことも、自分でもわかっていた。
「……もう、いいんですよね……」
掠れた声が、馬車の狭い空間に溶けていく。
「私はもう……王妃じゃなくて、いいんですよね……」
指先が震える。
胸の奥が、痛いほど熱い。望まれなかった。
必要とされなかった。
どれだけ尽くしても「控えめで大人しい王妃」としか見られなかった日々。自分の提案は「余計な口出し」と笑われ、夜通し調べた資料は「暇つぶし」と捨てられた日々。それでも務めようとした。誰かの役に立ちたいと、ただそれだけを願って。
それでも、国のために、誰かのために、と自分に言い聞かせて頑張った日々。そのすべてが、今朝の一言で終わった。
「王妃の資格なし」
たったそれだけの言葉で。
けれど、同時に、
(……自由になれた)
胸の奥底で、ほんの小さな、でも確かに温かいものが芽生える。
重かった鎖が、外れたような感覚。息が、初めて深く吸えたような気がした。涙はまだ止まらない。
アデリアは両手で顔を覆い、誰にも聞こえない、誰にも見られない場所で、静かに、静かに、泣き続けた。これで、終わった。
窓の外、遠くに見える緑の丘が、日の光を浴びて柔らかく輝いている。
まだ知らない。あの丘を越えた遙か向こうで、どれだけの人が、どれほどの想いで、彼女の帰りを待ちわびているかを。
そして、これから始まる。運命の車輪が、ゆっくりと、確実に、彼女を新しい世界へと運んでいく。
お読み頂きありがとうございます!少しでも楽しんで頂けたら、評価やブックマークを頂けると励みになり嬉しいです!




