第四十七話 「よく育ってくれたわね」
ターヴァ領の東、薬草畑が広がる小高い丘。
朝の陽光が柔らかく降り注ぎ、風に揺れるラベンダーとカモミールの香りが辺り一面に満ちていた。
アデリアはいつものように白いエプロンを着け、籠を片手に薬草を摘んでいる。銀金色の髪を三つ編みにし、裾を軽くたくし上げただけの簡素な姿。
それでも、彼女がそこにいるだけで風景が絵画のように見えた。
「この子たちは今年もよく育ってくれたわね……」
小さな声で呟きながら、彼女は紫色の花弁をそっと摘む。その背後で、聖獣ノアがふわりと跳ねて寄り添う。
白い仔狐の姿をした小さな体が、アデリアの足元でくるりと丸くなる。
「……ノアも一緒にいてくれると、なんだか安心するの」
微笑みながら、彼女が屈み込もうとした瞬間。
ズシュッ!鋭い風切り音が耳を裂いた。
次の瞬間、黒い矢がアデリアをめがけて一直線に飛来する。
「っ!」
アデリアの身体が反射的に硬直する。
だが、矢はアデリアに届かなかった。
ガキィンッ!!金属と金属が激突する甲高い音。
黒いマントを翻した人影が、アデリアの前に割り込んだ。カリオンだった。皇帝の礼服ではなく、軽装の騎士服姿。
右手に抜いた長剣で、矢を弾き飛ばす。
「……陛下!?」
アデリアが息を呑む。カリオンは振り返らない。
金の瞳が、森の奥、矢の飛んできた方向を冷たく射抜いていた。
「……出てこい」
低い、凍りつくような声。森の陰から、三人の黒装束の男が姿を現す。
いずれも顔を布で隠し、手にした短剣に毒が塗られているのが一目でわかった。
「何者だ、貴様ら」
「目標は女だけだ。皇帝が邪魔なら、殺せ」
リーダーらしき男が舌打ちしながら言った。その瞬間、カリオンが動いた。
風よりも速く、一閃。
最初の一人が切り倒される前に、残る二人はすでに剣を抜いていた。
だが、勝負は一瞬だった。カリオンはまるで舞うように剣を振るい、二人目の腕を薙ぎ払い、三人目の胸を突き刺す。血しぶきが朝の陽光に赤く光る。
戦闘は十呼吸もかからなかった。
静寂が戻る。
カリオンは剣を収め、ゆっくりと振り返った。額に薄く汗を浮かべ、息すら乱れていない。
「……怪我は?」
短く問う声に、アデリアは首を振る。
「ありません……でも、陛下は」
そのとき、彼女は気づいた。カリオンが右肩を押さえていること。礼服の黒い生地が、じわりと赤く染まっていること。
「……!」
アデリアが駆け寄る。
「傷が……!すぐに治療を」
「大したことはない」
カリオンは平然と言ったが、声の端にわずかな痛みが混じっていた。アデリアは震える手で彼の肩に触れる。
「……どうして、こんなところまで来てくださったんですか」
カリオンは初めて、真正面から彼女を見た。金色の瞳が、いつもより熱を帯びている。
「君を見に来た」
一言。それだけで、アデリアの胸が締めつけられた。
「でも……こんな危険な」
「危険なのは、君を一人にしていることだ」
カリオンは静かに、だが決して揺るがぬ声で続けた。
「俺はもう、二度と、君を誰にも傷つけさせない」
その瞬間、アデリアの中で何かが、音を立てて壊れた。
これまでずっと、自分は“守られるべき存在”だとは思っていなかった。
王宮では誰にも必要とされず、故郷では“聖姫”と呼ばれながらも、どこか他人事のように感じていた。でも今、この人は、自分の命を賭して、ただ「君を」と言い切った。アデリアの瞳に、熱いものが込み上げる。
「……どうして、そこまで……」
声が震える。カリオンは傷ついた右手をそっと離し、血に濡れた左手で、彼女の頬に触れた。冷たい指先だったのに、熱かった。
「怖かった」
低く、掠れた声。
「君が傷つく姿を想像しただけで、俺は……」
言葉を飲み込む。代わりに、ただ強く、強く、彼女を抱き寄せた。
アデリアの額が、カリオンの胸に当たる。鼓動が、速く、熱く、確かに伝わってくる。
「……もう、離さない」
カリオンが、ほとんど呻くように呟いた。
「どんなことがあっても、君だけは、俺が守る」
アデリアは目を閉じた。
涙が一筋、頬を伝って、カリオンの服に落ちる。
……このとき、二人はまだ言葉にしていない。けれど、もう戻れない地点に、確かに立っていた。
森の風が優しく吹き抜け、血の匂いと薬草の香りを混ぜながら、二人を包み込む。遠くで、聖獣ノアが静かに目を細めて見守っていた。




