第四十六話 「絶対に曲げない」
ターヴァ領・領主館の奥まった書斎。
夕暮れの茜色が窓から差し込み、薬草の香りと古い羊皮紙の匂いが混じり合う静かな部屋。アデリアは机に広げた外交文書を前に、固まっていた。
「アデリア・ターヴァは帝国の保護下にある。これ以上の干渉は友好関係の破綻を意味する」
カリオンが帝国の名で出した、まるで宣戦布告に近い一文。彼女のために、ここまでのことを。
「……私のために、戦争にまでなりかねない状況を」
指先が震える。王国からの横暴な要求書簡は、まるで彼女を“所有物”のように扱っていた。
「元王妃は王国の財産である」
「義務として戻るべきだ」
と、人の心など一切考えていない言葉ばかり。それに対して、カリオンは迷いなく帝国の威信を賭けた。
「どうして……ここまでしてくださるの?」
呟きは、誰にも届かない。けれど、胸の奥が熱い。
痛いほどに、熱い。ドアが静かにノックされた。
「……お邪魔します」
入ってきたのは、ヴァレンティナだった。
帝国宰相補佐の才女は、普段の凛とした表情を少し崩し、心配そうにアデリアを見ている。
「大丈夫ですか?お顔色がちょっと……」
「……ありがとう。少し、考え事をしていただけよ」
アデリアは無理に微笑んだ。ヴァレンティナはそっと近づき、机の上の文書に目を落とす。
「陛下は本気です。あの方は一度決めたら、絶対に曲げない」
「……わかっています」
「でも、あなたは怖いんですよね。自分のせいで、国同士が争うかもしれないって」
図星だった。アデリアは俯いた。
「私は……ただの地方領の娘です。王妃だったのも、ほんの数年だけ。それなのに、こんなに大きなことになってしまうなんて……」
声が震える。ヴァレンティナは、珍しく優しい声で言った。
「アデリア様。あなたは“ただの”人なんかじゃない。ターヴァ領を見てください。あなたが帰ってきてから、どれだけの人たちが笑顔になったか。あなたの薬がどれだけの命を救ったか。……陛下が見ているのは、“ただの地方領の娘”なんかじゃないんです」
アデリアは顔を上げた。
「陛下は、あなたが笑っていられる世界を、作りたいと思ってる。それが、帝国のためでもあるって、本気で信じてる」
「……そんなに、私を」
「ええ。正直、私たち側近はもう半ば諦めてました。あの方は誰にも心を許さないって。でも、あなたには……全部、見せちゃってる」
ヴァレンティナは小さく笑った。
「だから、どうか自分を責めないでください。あなたがここにいてくれることが、すでに奇跡なんです」
アデリアの瞳に、涙が滲んだ。怖い。
嬉しい。
信じられない。
信じたい。胸の中で、いろんな感情が渦を巻く。窓の外、夕日が最後の光を落としていく。アデリアはそっと文書に手を置き、呟いた。
「……私、どうしたらいいのかしら」
答えは、まだ出ない。けれど、確かに。この胸の熱は、もう冷ますことはできないこともわかっていた。




