第四十四話 「頭がおかしいのか?」
ターヴァ領・領主館、朝の執務室。
窓から差し込む暖かな陽射しが、羊皮紙の山を金色に染めていた。
アデリアはいつものように薬草の配合表を広げ、隣では侍女ミレイユが新しい薬瓶に詰め替えをしている。
穏やかで、どこまでも平和な朝だった。そこへ、兄レオナルドが顔を真っ赤にして飛び込んできた。
「アデリア!これを見てくれ!また王国だ!」
差し出されたのは、一通の外交文書。
封蝋にはローデン王国の紋章が押されている。アデリアが封を切ると、中から硬い文面が現れた。
『前王妃アデリア・ターヴァ殿下へ 貴殿は本王国において王妃としての義務を未だ果たしておらぬ。国政の混乱は、貴殿の不在に起因するところ大なり。よって、ただちに王都へ戻り、内政の一切を掌握せよ。これは王命である。拒否は許されぬ。ローデン国王 ユリウス・ローデン』
下には、妃ラウラの署名まで添えられていた。アデリアは文書を読み終えると、静かに机に置いた。
「……まるで、私が“物”であるかのような書き方ね」
声は穏やかだったが、瞳の奥に冷たい光が宿った。ミレイユが震える声で叫ぶ。
「ひどいです!そっちが勝手に離縁したくせに。今さら王命って何ですか!?しかも“拒否は許されぬ”って……どれだけ偉そうなんですか!」
レオナルドは拳を握りしめ、歯ぎしりする。
「王都の連中、頭がおかしいのか?こないだのでケリがついたと思ったのにまだこんな要求をしてくるのか」
アデリアは小さく息を吐いた。
「でも……確かに、国は苦しんでいるのでしょう」
その優しすぎる一言に、兄とミレイユが同時に顔を上げる。
「アデリア!?」
「私は、もうあの国の人間ではありません」
アデリアは静かに、しかしはっきりと告げた。
「離縁された以上、私には従う義務も、戻る理由もありません。もう決まっています」
そのときだった。執務室の扉が控えめにノックされ、帝国からの急使が入ってきた。
「失礼いたします。陛下より、至急のお言葉を」
差し出されたのは、漆黒の封蝋に金の双頭の鷲が押された文書。
アデリアが開くと、そこにはたった一行、皇帝自身の筆跡で書かれていた。
『──どんな要求が来ようと、君が心配する必要はない。安心して、自分の選んだ場所にいてくれ。カリオン』
短い、だが絶対の意志が込められた文字。アデリアは文書を胸にそっと押し当てた。温かい。まるで彼がすぐ隣で守ってくれているような、確かな温もりだった。
レオナルドが苦笑いしながら呟く。
「はぁ……あいつ、外交文書をラブレターにしちまったな」
ミレイユは目を輝かせて叫んだ。
「かっこいい~~~!!もう完全にプロポーズじゃないですか!」
アデリアは頬を赤く染めながら、小さく首を振った。
「……プロポーズなんかじゃないわ」
けれど、心の奥で。確かに、何かが動き始めていた。
王国の強引な呼び戻しと、皇帝の静かな拒絶。
二つの国が、彼女を巡って動き出す。この瞬間、アデリアの運命は、もう誰にも止められない流れへと変わった。




