第四十一話「いくらでも逆らってやる」
領主館・大広間。
外からどよめきが聞こえた次の瞬間、扉が勢いよく開いた。
「聖姫様を、どこへ連れていくつもりだ」
老いた農夫の声だった。扉が開け放たれ、領民たちが雪崩れ込む。
最初は三人、四人……たちまち数十人。鍬を握った農夫、包丁を腰に差した主婦、薬草籠を抱えた娘たち、孤児院の子どもたちまでが、必死の形相で詰め寄る。
「聖姫様は私たちの命の恩人だ!」
「薬をくださった!井戸を浄化してくださった!子どもたちを飢えから救ってくださった!」
「王都の連中が何と言おうと、聖姫様はターヴァの宝だ!」
声が重なり、怒りが渦を巻く。先頭に立ったのは、かつてアデリアが自ら治療した脚の不自由な老婦人だった。
「この子が戻ってきてから、初めて……初めて孫の笑顔を見たんだよ!それを、今さら奪うって言うのかい!」
老婦人は杖を突きながら一歩踏み出し、使者の前に立ちはだかる。子どもたちが泣きながらアデリアのドレスにしがみつく。
「聖姫様、いかないで……!」
「ぼくたち、またお腹すかせたくないよ……!」
使者は顔を真っ赤にして叫んだ。
「下がれ、下がれ!王命に逆らう気か!」
すると、広間の隅で静かに見守っていた兄レオナルドが、ゆっくりと前に出た。
「……王命、だと?」
低く、しかし誰もが震えるような声。
「俺の妹を泣かせた王命なら、いくらでも逆らってやる」
レオナルドは剣の柄に手を置いた。その背後で、領民たちが一斉に鍬や鎌、薪割り斧を掲げる。
「聖姫様を連れていくなら、まず俺たちを殺してからにしろ!」
「ターヴァの民は、聖姫様を守る!」
「誰にも渡さない!」
怒号が天井を突き抜ける。
使者たちは完全に気圧され、後ずさりする者もいたが、その中の一人が顔を真っ赤にして叫び返す。
「無礼な!前王妃は王国の財産だ!力づくでも連れ戻す!」
その言葉が引き金だった。領民の誰かが石を投げ、次の瞬間、広場は一触即発の空気に包まれた。アデリアは静かに一歩前へ出る。
「皆さん、落ち着いて。私は──」
そのときだった。地響きのような蹄の音が、広場の外縁から轟いた。
黒い軍馬を先頭に、漆黒のマントを翻した騎士団が一直線に駆けてくる。
旗印は、金地に双頭の鷲。
エヴェルド帝国の皇帝旗。馬群が広場に雪崩れ込むように入り、ぴたりと整然と停止した。
埃が舞う中、最前列に立つ一人の男。
黒髪、金の瞳、氷のような威圧を纏った若き皇帝、カリオン・エヴェルド。
彼は馬を降りると、一歩、また一歩と静かに歩み寄る。
その足取りだけで、領主館の空気が凍りついた。
カリオンはアデリアのすぐ横に立ち、彼女を背に庇うようにして、静かに口を開いた。
「……アデリア嬢に、無礼を働く者は」
声は低く、しかし広間全体に響き渡る。
「帝国の敵と見なす」
その一言で、すべてが決した。
帝国騎士たちが一斉に剣の柄に手をかけ、整然と、しかし圧倒的な威圧で王国使者を囲む。
使者団の護衛騎士たちは、震える手で剣を抜こうとするが、誰一人として鞘から引き抜くことができない。クレインが後ずさり、ガイード子爵は言葉を失う。
カリオンはゆっくりとアデリアの方を振り向き、先ほどまでの冷たい皇帝の顔を、ほんの一瞬だけ溶かした。
「……陛下」
「怖い思いをさせて、申し訳ない」
囁くような声は、彼女だけに届く優しさで満ちていた。
彼はそっと、しかし確かに、彼女の肩に手を置く。その手の温もりに、アデリアは初めて、胸の奥が熱くなるのを感じた。広場の領民たちが、一斉に歓声を上げた。
「皇帝陛下だ!」
「聖姫様をお守りくださる!」
「やったーっ!!」
子どもたちが飛び跳ね、老いた司祭ベルドは涙を流しながら手を合わせる。
王国使者は、もはや言葉すら出せず、ただ震えて地面を見つめていた。




