第三十七話 「何を失ったんだ」
夜更け、王宮最奥の私室。
蝋燭一本だけの灯りが、ユリウス国王の顔を赤く染めていた。机の上には、開かれたままの書類の山。
どれも「緊急」「至急」の朱印が押され、どれもが「前王妃アデリアの立案した政策の継続が不可能」と結論づけられている。
疫病対策室からの報告書。
農政局からの悲鳴。
国庫の収支が合わないという会計官の震える手紙。
そして、今日届いたばかりの――北部国境で魔物大群に蹂躙された騎士団の壊滅報告。ユリウスはグラスを握りしめたまま、ずっと動けない。
「……アデリア」
ぽつり、と名前が漏れる。
その瞬間、胸の奥にあった何かが、音を立てて崩れ落ちた。彼女がいた頃は、こんな報告は来なかった。
毎朝、彼女は静かに書類をまとめ、穏やかな声で「こちらを優先した方がよろしいかと存じます」と告げた。
自分はそれを「余計なお世話だ」と笑って、横に放り出していた。彼女がいた頃は、民の声もこんなに荒れていなかった。
街を歩けば「王妃様のご活躍で」と感謝された。
自分はそれを「それがどうした」としか思わなかった。彼女がいた頃は――
「……俺は、何を失ったんだ」
声が震えた。グラスの底に残っていた葡萄酒が、指の震えでこぼれる。
「キャハハハハァ!」
正妃ラウラの部屋から聞こえてくる気違いじみた甲高い笑い声。
彼女はここ最近、全ての公務を放り出して毎晩のように酒宴を開き、遅くまで乱痴気騒ぎをしては日が高くなるまで目を覚まさないという日々を過ごしている。
「……っ」
頭痛が強くなり、全てが急に遠のいていく。
代わりに浮かぶのは、銀金色の髪を静かに揺らす、あの穏やかな横顔。最後に見たのは、離縁を告げた朝。
彼女は一歩前へ出て、深く礼をした。――
「王国の永い安寧をお祈りいたします、陛下」
あのときの瞳に、涙はなかった。
ただ、どこか安堵しているような、澄んだ光があった。
「……あれは、俺への別れの挨拶だったのか」
ユリウスはゆっくりと顔を覆った。
「アデリア……」
もう一度、名前を呼んだ。今度は、誰にも届かない。
「呼び戻すしかない……のか」
嗚咽が漏れる。王の威厳も、誇りも、何もかもが崩れ落ちていく。
この夜、ユリウス・ローデンは初めて理解した。自分が捨てたのは、ただの王妃ではない。
国を支えていた、唯一無二の柱だったということを。
蝋燭の火が、ぷつり、と小さく音を立てて消えた。
闇の中、王はただ一人、震えていた。




