第三十五話「燃やせばいいのよ」
王妃の間(かつてはアデリアが使っていた、陽当たりの良い広間)は、今やラウラ・ヴァンスの私室と化していた。
床に敷かれた深紅の絨毯、壁一面に飾られた金縁の鏡、香炉から立ち昇る甘ったるい薫香。
どれもこれも、彼女が「王妃に相応しい」と自ら選んだものだ。
豪奢な天蓋付きの寝台に寝転がり、ラウラは金の髪を指で弄びながら不機嫌そうに舌打ちした。
「また増えたの?この紙の山……本当に鬱陶しいわ」
机の上には、未処理の書類が積み重なっている。
ラウラは立ち上がると、侍女たちを睨みつけた。
「あなたたち、何をしているの?早く片付けなさい!どうせ王妃の判を押すだけの書類なんだから、いちいち私に確認を取らなくていいのよ、面倒だわ」
「は、はい……でもラウラ様、こちらは……」
若い侍女が震える手で絨毯の上に散乱する紙束から一枚を差し出す。
それは――支出明細書。そこには、
「王妃ドレス購入費」「宝石・香水・化粧品」「パーティーへの演奏家招聘費」「ヴァンス家への贈答品」
などという項目が記されている。
どれも庶民の家庭の年間予算級の金額が並んでいた。
ラウラは一瞬顔を強張らせたが、すぐに笑い飛ばした。
「はっ、これが何?これくらい、王妃の嗜みでしょ?アデリアだって、きっとこんなものよ」
「で、でも……前王妃様は……」
「黙りなさい!」
ラウラの声が鋭く跳ねる。
「アデリアはアデリア!私は私!今、王妃の座にいるのは私なんだから!王妃は国の象徴みたいなもの!そのための支出なんだから国庫から出すのは当然よ!」
侍女たちは顔を見合わせ、俯いた。――実際、アデリアは私的な支出を一切していなかった。
ドレスは古いものを直し、宝石もほとんど身につけず、国庫から出す金は孤児院や医療施設にしか使われていなかった。
それを知っている古株の侍女頭が、小さく呟いた。
「……ですがラウラ様、さすがにこれほどの金額は……」
「うるさいわね!」
ラウラは床に散らばる支出明細書を乱暴に掻き集め、暖炉に放り込んだ。炎がぱちぱちと音を立てて紙を呑み込んでいく。
「証拠なんて、燃やせばいいのよ。誰も私に逆らえないわ。だって……私は、国王陛下の愛する女なんだから!あなたたち、今見た事は全て忘れなさい、いいわね?」
だがその声は、どこか震えていた。
侍女たちは青ざめて硬直したまま、ただ深々と頭を下げるしかなかった。
その時部屋の外の廊下から、通りすがりの文官たちが話している声が、少し遠いが聞こえてきた。
「何回計算しても国庫の収支が合わない……誤差ってレベルじゃないぞ」
「……誰かが国庫から持ち出してる、とか?」
「まさか!国がこんな状況でそんなことをしていたら、それはもはや国家反逆罪だろう……」
ラウラは扉に耳を当て、唇を噛んだ。そして鏡に映る自分を見る。
完璧な化粧も、高価なドレスも、すべてが急に色褪せて見えた。
ラウラは思わず息を詰まらせる。胸がひどくざわつく。
「全部……全部、あの女のせい……!王国がこんな事になってるのも……私のせいじゃないわ。全部、あの女が悪い」
燃える書類の明かりに、彼女の瞳が狂おしげに揺れた。
「アデリア……アデリアのせいよ……あの女がいなくなれば、全部うまくいくって思ってたのに」
彼女は震える唇で繰り返す。
「……私が、悪いの?違うわよね?ありえない……だって私は、側妃から正妃になったんですもの。王妃に選ばれた、私が……」
だが、狂気じみたその声はもう誰にも届いていない。現実を拒絶するラウラを見つめる侍女たちは、静かに目を伏せた。
ラウラは自分に言い聞かせるように呟く。
「大丈夫……まだ大丈夫。陛下は私を愛してる。誰も私を責められない。だって私は――王妃なんだから」
暖炉の炎が、最後の一枚まで灰に変えていく。だが、灰になったからといって、消せないものは消えない。
ラウラはまだ知らない。自分の足元が、もう崩れ始めていることを。




