第三十四話「国のために知識が必要」
夜の王宮、図書室。
小さいランプ一つだけの灯りの下、クレイン・ローデンは膝を抱えて床に座り込んでいた。
二十三歳の王弟は、まだ少年のような顔立ちをしていたが、今夜はその瞳に深い影が宿っている。王国の窮状に際し、自分に何か出来ることを探しにやってきたのだ。
目の前に山積みにされた羊皮紙の束――それは、かつての王妃アデリアが残した政策資料だった。
追放後、誰も触れようとしなかった書棚の奥から、今日、偶然見つけたものだ。クレインは震える手で、一枚、また一枚とめくっていく。
《王国南部農地土壌改良五年計画》
《孤児院および貧民救済施設運営指針》
《魔物結界維持費削減と効果向上の併用案》
《次年度穀物品種交配スケジュール》
《王都治癒院薬剤在庫管理表――在庫切れ予測と代替配合案付き》
どれもが、信じられないほど正確で、途方もないほど緻密で、そして恐ろしいほど現実的だった。
「……これ、全部……姉上が一人で?」
これだけの事をたった一人でやっていた。想像するだけで途方もない作業量に身震いがした。
クレインの喉が鳴った。彼は思い出す。
アデリアが王妃だった頃、いつも静かに微笑みながら、「クレイン様も、いつか国のために知識が必要になりますから」と、難しい本をそっと差し出してくれたことを。
その時はそっけなく受け取り、そのまま何の興味も持たずそれっきり開くことも無かったその本を取り出すと、最後の方に、折りたたまれた一枚の紙が挟まっていた。
開くと、そこにはアデリアの丁寧な字でこう書かれていた。
『クレイン様へ。あなたはきっと立派な王族になれると信じています。だからこそ、今のうちに知っておいてください。国を動かすのは、剣でも宝石でもありません。民の笑顔です。いつか、あなたがその笑顔を守れる日が来ますように。この本が少しでもあなたのお役に立てば幸いです。 アデリアより』
クレインの目から、熱いものがこぼれ落ちた。
自分はそれを「王妃の気まぐれ」「義理の姉としてのただのポーズ」としか思っていなかった。思い込んでいた。――実際は、期待されていただけだったのに。
クレインは両手で顔を覆った。震えが止まらない。
「……姉上……!」
彼は立ち上がろうとして、膝が崩れた。床に突っ伏し、声を殺して泣いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!俺は、俺たちは、あなたの価値を、能力を……砂粒ほどもわかっていなかった……!王国がこんな事になるなんて……!」
図書室の外では、夜警の足音が遠く響く。その嗚咽は誰にも届かない。
遅すぎる後悔は、ただ静かに、冷たく、クレインの胸を抉り続けるだけだった。
――もう、取り戻せない。あの優しくて、強くて、誰よりも国を愛していた王妃を。




