第三十二話 「なぜ、こんなことになった」
ローデン王国・王宮、大理石の会議室。
いつもなら朝の光が鮮やかに差し込むはずの高い窓も、今日は厚い雲に遮られて薄暗い。
長テーブルの上座に座る国王ユリウスは、目の下に濃い隈を作っていた。
テーブルの周りには十数人の重臣たちが顔を揃えているが、誰もが俯き、沈黙している。重苦しい空気を最初に破ったのは、財務卿の老貴族だった。
「……陛下。本年度の穀物収穫量は、昨対比で三割減でございます。しかも南部三州では土壌改良が追いつかず、来年はさらに落ち込む見込み……」
「そんなはずはない」
ユリウスは即座に遮った。声は低く、苛立ちが滲んでいる。
「ちょっと前までは、こんな数字は出なかったはずだ」
重臣たちの顔が一瞬、苦く歪む。内政卿が恐る恐る咳払いをして、書類を差し出した。
「それが……実は、前王妃アデリア殿下がご在位中に作成された『土壌改良三年計画』が、昨年で途切れておりまして……」
「途切れた?」
「はい。殿下がご退去された後、担当者が誰一人引き継がず、計画書そのものが倉庫の奥に眠ったまま……」
「何を言っている!誰かがやればいいだろう!」
ユリウスはテーブルを叩いた。
音が響く。だが、誰も口を開かない。
誰も、あの複雑極まる計画書を読解できる者がいなかったのだ。
アデリアが王妃だった頃は、彼女が毎朝のように会議に出席し、「ここはこう変えましょう」
「この薬草を混ぜれば土壌が三年で回復します」と、まるで当たり前のように提案し、実行していた。
その結果が当たり前すぎて、誰も真剣に考えなかった。農政卿が震える声で続ける。
「……加えて、治癒院からの報告です。アデリア殿下が開発された『ハーバ薬』の在庫が、今月末で確実に底をつきます。代替薬の調合法は、殿下以外に把握している者が……おりません」
今度は魔法卿が顔を上げた。
「魔物対策結界の維持費も、前王妃殿下が交渉で三割削減してくださっていた分が、今年から元の金額に戻り、国庫を圧迫しております……」
まるで連鎖するように、次々と“アデリアがいなくなった穴”が報告されていく。
疫病の兆候。
井戸水の汚染。
孤児院の運営資金不足。
学校の教材が届かない。
すべて、彼女が一人で回していた歯車だった。ユリウスは額を押さえ、うめいた。
「……なぜ、こんなことになった」
その呟きに、誰も答えられない。側近の一人が、恐る恐る口を開いた。
「陛下……ラウラ様が、先ほど『前王妃がいい加減に管理していたせいだ』と仰せで……」
「黙れ!!」
ユリウスが突然立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、甲高い音を立てる。
「ラウラは関係ない!関係ないと言っているだろう!」
だが、その声には、もはや威厳はなかった。
あるのは、ただの焦りと、逃げ場のない恐怖だけ。重臣たちは顔を見合わせ、誰ともなく同じことを思った。──王妃を失って、はじめて気づいた。
この国は、あの人の上に成り立っていたのだと。
会議室の外では、朝の鐘が鳴り始めていた。だが、その音は、まるで葬送曲のように重く、王宮全体に響き渡った。まだ誰も口に出さない。
けれど、皆の胸の奥で、静かに、確実に、「平和を取り戻さなければ」という焦燥が、黒い炎となって燃え始めていた。




