第二十九話 「それでいい」
薬草庫は、夜の冷えた空気に満ちていた。
祭りの喧騒が遠くに消え、領主館の裏手にある小さな石造りの建物には、乾燥したハーブの甘く鋭い香りだけが漂っている。
アデリアは一人、棚の前に立っていた。
銀金色の髪をゆるく後ろで束ね、作業用のエプロンをかけている。
祭りの片付けで散らかった薬草を仕分けし、明日からの保存用に束ねている。ランプの明かりが、彼女の横顔を柔らかく照らす。
長い睫毛が影を落とし、淡い青の瞳は真剣に薬草を見つめていた。
「……陛下は、もうお帰りになったかしら」
小さく呟くと、自分でも驚くほど掠れた声が出た。今日、何度も交わした視線。
収穫祭の最中、ふとこちらを見ていた金色の瞳。
「君のおかげでな」
と、少しだけ照れたように言った言葉。胸の奥が、じん、と熱くなる。
(どうして……こんなに、落ち着かないの?)
指先がわずかに震える。
薬草を束ねる紐を落としてしまい、慌てて拾い上げたとき、
「……まだ起きていたのか」
背後から、静かな、しかし確かに届く低音。アデリアは息を呑み、ゆっくりと振り返った。そこに、カリオンが立っていた。祭りの礼装を脱ぎ、黒の簡素な上着に着替えている。
ランプの明かりに、金の瞳が妖しく光った。
「陛下……?もうお休みになられたのでは」
「馬車の中で眠れなくてな。……少し、散歩をしていた」
カリオンはゆっくりと近づいてくる。
薬草庫の狭さに、二人の距離が自然と縮まる。アデリアは無意識に一歩下がり、棚に背中を預けた。
「ここは……薬草の匂いが強いので、お体に悪いのでは」
「構わない」
彼は首を振り、ほんの少しだけ微笑んだ。
「君の匂いがする」
瞬間、アデリアの頬が熱くなった。カリオンはすぐに咳払いし、視線を逸らす。
珍しく、耳の先が赤い。
「……失礼した。言い方が悪かった」
「い、いえ……」
沈黙が落ちる。薬草の香りだけが、二人の間を漂う。カリオンが、ゆっくりと口を開いた。
「アデリア……私は、君ともっと話したい」
アデリアは目を丸くする。
「仕事の話ではなく」
彼は一歩、また一歩と近づき、
彼女が逃げられない距離まで来た。
「君自身のことを。君が何を考え、何を望み、どう生きてきたのか。……それを知りたい」
アデリアの鼓動が、耳の奥で鳴り始めた。
「私は……陛下のお役に立てるなら、なんでも」
「違う」
カリオンは静かに、しかしはっきりと首を振った。
「そういう話ではない。……私は、君という人間に、近づきたい」
その言葉は、まるで長い間胸にしまっていた宝物を、ようやく開けたように、静かに、でも確かに、彼女に差し出された。
アデリアは息を止めた。金色の瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。
そこには、皇帝としての威厳ではなく、ただ一人の男としての、切実な願いだけがあった。
「……光栄です」
掠れた声で、彼女は答えた。
「陛下のお力になれるなら、いつでも……」
カリオンは小さく笑った。
優しく、どこか切なげに。
「それでいい。少しずつで構わない。……長く、君のそばにいさせてくれ」
薬草庫のランプが、ゆらゆらと揺れる。二人の影が、重なり合い、ほんの少しだけ、近づいた。
この夜、皇帝の“密かな願い”は、確かに、彼女の心に届いた。




