第二十七話 「君のおかげでな」
ターヴァ領の中央広場は、まるで星が降ってきたような灯りに包まれていた。
松明と魔導灯が揺れ、子どもたちが手に持つ小さな光球がふわふわと夜空を漂う。
焼きたてのパンの香り、甘い果実酒の匂い、どこからか聞こえる笛と太鼓の音。
広場の中央に設けられた高い壇の上、アデリアは少し照れくさそうに立っていた。
銀金色の髪に秋の花冠を載せ、淡い空色のドレスが灯りに透ける。
領民たちが次々と駆け寄っては、握手を求めたり、子どもを抱っこさせてくれたり。
「聖姫様、今年もありがとうございます!」
「来年も、ずっとここにいてくださいね!」
そのたびにアデリアは優しく微笑み、頭を撫で、時には小さな子を抱き上げて頬ずりする。
その笑顔があまりに自然で、温かすぎて、見ているだけで胸が熱くなった。
少し離れた場所、木陰のテーブル席。皇帝カリオンは、黒い外套のフードを深く被ったまま、じっとその光景を見つめていた。
「……あれが、本当の王の姿か」
隣に立つシオンが、小さく苦笑する。
「陛下、もう三杯目ですよ。さすがに酔われます」
カリオンは無言で杯を置いた。
果実酒など、彼にとっては水と大差ない。それでも、今夜だけは喉が妙に渇く。
壇の上で、アデリアがこちらを見た。目が合う。瞬間、カリオンは無意識に視線を逸らした。
金の瞳が、わずかに揺れる。
(……なんだ、これは)
心臓が、普段の戦場でも鳴らない音を立てて跳ねた。アデリアは小さく会釈をして、壇から降りてきた。
人垣をかき分け、まっすぐにこちらへ向かってくる。
「陛下、お楽しみいただけていますか?」
差し出されたのは、素朴な木の皿に乗った焼きたてのパンと、蜂蜜を塗ったリンゴの薄切り。
「領民たちが、どうしても陛下にも食べてほしいと」
カリオンは無言でそれを受け取った。
指先が、ほんの一瞬、彼女の指に触れる。
「……ああ」
声が、少し掠れた。
「君のおかげでな」
思わず出た本音だった。アデリアが目を丸くする。
「私の、おかげ……ですか?」
「ああ」
カリオンはゆっくりとフードを外した。
黒髪が夜風に揺れ、金の瞳が真正面から彼女を見つめる。
「この領地が、ここまで明るい理由は、君がいるからだ。民があんなに笑えるのは、君が笑っているからだ」
静かな、でも確かに届く声。周囲の喧騒が、まるで遠のいたように感じられた。アデリアの頬が、灯りに照らされて朱に染まる。
「そんな……私なんて、ただ……」
「違う」
カリオンは一歩、近づいた。
「君は知らないのだろう。自分がどれだけ人を救っているか。どれだけ……」
言葉を飲み込む。言えなかった。
まだ、言えない。代わりに、彼は静かに微笑んだ。
普段は決して見せない、柔らかな、本物の笑みだった。
「今夜は、祭りを楽しめ。君が笑っていれば、それでいい」
アデリアは息を呑み、それから、ふっと息を吐いた。
「……はい。陛下も、どうぞごゆっくり」
二人の間に流れる、ほんの少しだけ特別な空気。
その背後で、ミレイユが両手を握りしめて震えている。
(やっぱり……これってもう、恋ですよね……!?)
祭りの灯りが、二人の影を優しく長く伸ばしていた。
まだ誰にも気づかれていない、静かな、でも確かな始まりの夜。




