第二十五話 「あの皇帝」
ターヴァ領は、秋の実りを祝う収穫祭の準備で沸いていた。
朝から領民たちが広場に集まり、色とりどりの布を掲げ、子どもたちは花冠を編み、若者たちは酒樽を転がしている。
薬草の香りと焼き菓子の甘い匂いが風に乗って流れ、どこからか笛の音が聞こえてくる。アデリアは作業着の上にエプロンをかけ、広場の片隅で侍女ミレイユと一緒に薬草を束ねていた。
「姫様、これで去年の倍はできそうですよ!みんな、姫様が戻ってきてくださったから張り切ってるんです!」
ミレイユが小動物のようにぴょんぴょん跳ねながら言う。アデリアは苦笑しながら束を結わえる。
「私はただ、みんなが元気でいてくれるだけで嬉しいの。……それにしても、今年は本当に豊作ね」
そう呟いた瞬間――遠くの街道に、黒い馬車の影が見えた。金と深紅の帝国紋章が朝日にきらめき、馬の蹄の音が地響きのように響いてくる。領民たちの動きがぴたりと止まる。
「……あれ、まさか」
「帝国の……?」
「えっ、また陛下が!?」
ざわめきが波のように広がる。ミレイユが目を丸くしてアデリアの袖を引っ張った。
「ひ、姫様!また来ましたよ!皇帝陛下、また来ましたよ!?」
アデリアの手から、薬草の束がぽとりと落ちた。
「……視察は先月終わったはず?」
声が裏返る。馬車は広場のすぐ前で停まり、扉が静かに開かれる。黒髪に金の瞳。
冷徹と噂される皇帝カリオン・エヴェルドは、いつもの漆黒の外套を羽織ったまま、悠然と降り立った。領民たちが一斉に膝をつく。
「帝国皇帝陛下のご来訪に、心より感謝を――」
形式ばった挨拶の声が重なる中、カリオンは静かに手を上げてそれを制した。そして、まっすぐに――アデリアを見据える。
「収穫祭の視察だ」
短く、しかしはっきりと告げた。周囲が
「……え?」
と固まる。アデリアも、思わず瞬きを繰り返す。
(収穫祭の……視察?)
そのとき、馬車の陰から現れた兄レオナルドが、額に青筋を立てながら小声で呟いたのが聞こえた。
「……妹目当てじゃないだろうな、あの皇帝」
アデリアの頬が、じわりと熱くなった。カリオンは平然とした顔で近づいてくる。金色の瞳が、朝陽を浴びてまるで溶けた蜜のように輝いていた。
「邪魔をするつもりはない。……ただ、君の領地がどんな祭りを迎えるのか、見たくなっただけだ」
そう言って、ふっと微笑んだ。その一瞬、広場にいた領民全員が
「あ……」
と息を呑んだ。――皇帝陛下が、笑った。しかも、明らかに柔らかな笑顔で。
ミレイユがアデリアの耳元で嬉しそうにささやく。
「姫様……これってもしかして……?」
(ミレイユはそういうことばっかり考えすぎよ、そんなわけないじゃない)
と思ったがアデリアは答えられなかった。ただ、心臓がどきどきと、うるさいほどに鳴り始めていた。収穫祭の喧騒の中で、皇帝の再訪は、誰の目にも「ただの視察」には見えなかった。




