第二十一話 「唯一の理由」
謁見の間は、いつもより空気が重かった。
ターヴァ領主館の中では最も格式高い部屋。普段は埃をかぶっている古いシャンデリアが磨かれ、窓から差し込む午後の光が大理石の床を金色に染めている。
アデリアは控えめに一歩下がり、兄レオナルドの横に並んでいた。銀金色の髪を丁寧に結い上げ、淡い水色のドレスに身を包んでいる。
王妃時代よりもずっと軽やかな装いなのに、どこか気品が際立って見えるのは、彼女がようやく「自分の場所」に戻ってきたからだろう。
正面に立つのは、黒の外套を羽織った長身の男性――エヴェルド帝国皇帝、カリオン・エヴェルド。彼はまだ二十代の若さでありながら、すでに「冷徹の皇帝」と恐れられる存在だ。
黒髪に金の瞳。感情をほとんど表さない顔立ちは、確かに近寄りがたい威圧感を放っている。
しかし、今その瞳はまっすぐにアデリアだけを見据えていた。
「――カリオン・エヴェルド皇帝陛下、遠路はるばるターヴァ領へお越しいただき、誠に恐縮に存じます」
兄レオナルドが深く一礼する。その背中に、わずかに警戒の色が滲んでいるのがアデリアにもわかった。
(妹を値踏みするような輩なら、たとえ皇帝でも容赦しない)
という、兄らしい殺気がほのかに漂っている。カリオンは静かに一歩進み出た。
「突然の来訪への対応、痛み入る。頭を上げてください、レオナルド領主。そして――」
視線が、まっすぐにアデリアへ。
「アデリア・ターヴァ嬢。あなたも」
その声は、低く、どこか澄んだ響きを帯びていた。
まるで氷の底から湧き出る泉のように、冷たくも清らかで。アデリアは驚きに瞬きを一つして、ゆっくりと膝を折る。
「帝国皇帝陛下のご来臨、恐れ入ります。ターヴァ領の娘、アデリア・ターヴァにございます」
深く、優雅に――王宮で何年も叩き込まれた完璧な礼法だった。だが、次の瞬間。カリオンが静かに片膝をついた。
「――頭をお上げください」
彼はそう言いながら、アデリアの右手にそっと指を添え、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりと彼女を立たせた。
触れた指先は、驚くほど温かかった。
一瞬、館にいた全員が息を呑んだ。
皇帝が、自ら膝をついて女性を立たせるなど、前代未聞だった。レオナルドの眉がピクリと跳ねる。
侍女ミレイユは目を丸くし、後ろに控えていた帝国側近のシオンでさえ、かすかに目を見張った。アデリア自身も、頬が熱くなるのを抑えきれなかった。
「……陛下、どうかご自身のお体を」
「構わない」
カリオンは静かに立ち上がり、しかし手を離さないまま、金色の瞳でまっすぐ彼女を見つめた。
「あなたの成果を、この目で確かめにきた。それが、私がここに来た唯一の理由です」
その声は、誰に向けたものでもない――ただ、アデリアだけに届くように、静かに響いた。
館の中の空気が、ほんの少しだけ、甘く揺れた。
誰もまだ気づいていない。この瞬間が、帝国の歴史を、そして二人の運命を、永遠に変える出会いの、本当の始まりだったことを。




