第十九話 「興味深い女がいるようだ」
深夜、エヴェルド帝国・黒曜宮。
燭台の火がゆらゆらと揺れる執務室で、カリオン皇帝は一枚の羊皮紙を手にしていた。
《ターヴァ領現況報告書》
・人口増加率 王国平均の3.2倍
・疫病死亡率 ほぼゼロ
・魔物被害 過去五年でゼロ
・民の満足度 調査不能
(「聖姫様のためなら命も惜しくない」と全員が同回答)
諜報長ルーファスが差し出した数字は、どれも異常だった。
「王国の端っこにあるはずの地方領が、ここまで繁栄している理由は一つしかない」
隣に立つ騎士団長シオンが、低く補足する。
「元ローデン王妃アデリア・ターヴァ。彼女が王都を追放され故郷に帰ってから、わずか数ヶ月でこれほどの結果だ」
カリオンは報告書の最後に添えられた一文に目を留めた。『領民は彼女を“聖姫”と呼び、半ば信仰している。王都では“大人しくて目立たない王妃”と評されていた人物とは思えぬ』
「……面白い」
短く呟いた金色の瞳に、静かな炎が灯った。
「王国が捨てた女が、ここまでできるというのか」
彼は立ち上がり、黒の外套を羽織った。
「シオン、ルーファス」
「は」
「少人数で準備しろ。明日、ターヴァ領へ向かう」
シオンがわずかに眉を上げた。
「陛下自ら、ですか?」
「ああ」
カリオンは窓の外に広がる夜の帝都を見下ろしながら、はっきりと言った。
「人の上に立つ者は、数字ではなく事実を見るべきだ」
「それに」
声のトーンが、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「どうやら……興味深い女がいるようだ」
ルーファスが無言で微笑み、シオンは小さくため息をついた。
(陛下がここまで関心を示されるとはな……)
翌朝。まだ朝靄が残る街道を、黒い馬車が静かに走っていく。
車体には帝国の紋章はなく、護衛も最小限。皇帝の外出とは思えぬ地味な一行だった。
馬車の中で、カリオンは窓の外を眺めながら、報告書をもう一度開いた。
銀金色の髪、淡い青の瞳。添付された小さな肖像画に描かれた女性は、確かに美しかった。しかしそれ以上に、瞳に宿る静かな知性と、どこか寂しげな影が、彼の心を捉えて離さない。
「……アデリア・ターヴァ」
初めて口にした名前に、カリオンは自分でも驚くほど自然に微笑んでいた。
「会いたいものだ」
馬車は、朝日を浴びて輝くターヴァ領の境界線へと、静かに、しかし確実に近づいていく。この出会いが、帝国の歴史すら変えることになるなど、まだ誰も知らない。




