第十八話 「ここにいると、息が楽なの」
月が満ちて、領主館の屋上は銀の光に包まれていた。
アデリアは手すりに肘をつき、眼下に広がる小さな灯りを眺めている。
まだ十日あまりしか経っていないのに、どの家の灯りも以前より明るく、暖かそうに見えた。背後で扉が静かに開く音。
「やっぱりここにいたか」
レオナルドだった。
兄はいつもの豪快な笑顔を少しだけ抑え、妹の隣に並んで腰を下ろす。
二人して足をぶらつかせるようにして、屋上の縁に座った。昔、子どもだった頃と同じ格好だ。
「……兄さまこそ、夜遅くまでお仕事?」
「ああ。明日からまた新しい井戸を掘る場所を決めてたんだが……お前の案があまりにも完璧で、俺の出番がねぇ」
レオナルドは照れ臭そうに頭を掻いた。
「薬草畑の拡張、孤児院の増築、魔物の罠……全部、お前が戻ってきてから一週間で片がついた。領民どもの中の、特に年寄りにはもう、お前を“聖姫”だの“神の娘”だのと冗談抜きで本気で言い出してる奴らもいるぞ」
アデリアは苦笑して首を振る。
「ほんとに困ったことになっちゃったわ。私、何も特別なことはしてないのに」
「してない?」
レオナルドが大きく息を吐いた。
「お前、王都にいた頃は……どれだけ辛かったんだ?」
突然の問いに、アデリアの肩が小さく震えた。
「風の噂で聞いてるぞ。お前が夜通し薬を作ってたこと。王宮の会議で誰にも相手にされなくても、資料を山ほど抱えて出かけていったこと。それでも誰一人、お前の価値に気づいてくれなかったこと」
レオナルドの声が低く、怒りに震える。
「俺は……兄として、妹をあんな目に遭わせたまま何もできなかった。王都に乗り込んでユリウスって野郎を引きずり出してやりたかったが……お前が“それはやめて”って言ったからな」
アデリアは静かに目を伏せた。
「……あの頃の私は、きっと誰の役にも立ててなかった」
「違う」
レオナルドは即座に否定した。
「お前は、あの国を救ってたんだ。ただ、救われるべき奴らが、お前を捨てただけだ」
静寂が落ちる。風が二人の髪を優しく揺らす。やがて、アデリアがぽつりと呟いた。
「……ここにいると、息が楽なの」
「ん?」
「王都では、いつも息苦しかった。誰かの期待に応えなきゃ、誰かに認められなきゃ、って自分を縛ってた。でもここでは……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、満天の星を見上げた。
「みんなが、私を“アデリア”のままで受け入れてくれる。王妃じゃなくて、領主の娘の、ただのアデリアでいいって言ってくれる。…………聖姫様とか妙な持ち上げられ方しちゃってるけど」
レオナルドの目が熱を帯びる。
「もう無理しなくていい。ここがお前の居場所だ。誰が何と言おうと、俺が守る」
アデリアは小さく笑って、兄の肩にそっと頭を預けた。
「ありがとう、兄さま。私……やっと、自分の家に帰ってこれた気がする」
二人はしばらく、無言で星を見上げていた。その時、遠くの空に一筋の流れ星が走った。レオナルドが照れ臭そうに笑う。
「……そういえば、近隣の城から妙な噂が入ってきてな」
「噂?」
「隣のエヴェルド帝国の皇帝が、どっかの地方領地を視察したいって言ってるらしい。しかも、相当に優秀な人物がいる領地だって指定してるってよ」
アデリアは首を傾げた。
「地方領地……?まさか、うちのこと?」
「さあな。でもまあ、もし来ても――」
レオナルドはにやりと笑った。
「俺たちの“聖姫”を見せつけて、向こうの皇帝をびっくりさせてやろうぜ」
「それやめてよ、兄さままで……」
アデリアはくすりと笑い、夜風に銀金の髪をなびかせる。まだ二人とも知らない。
その皇帝が、すぐに、すぐ隣にやってくることを。そしてその出会いが、アデリアの人生を再び、まったく違う光で照らすことを。夜は深まり、ターヴァ領の灯りは静かに瞬き続けていた。
まるで、これから始まる新しい物語を、優しく祝福するように。
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