第十六話「これ、本当に効くんですか?」
森の入り口、朝の靄がまだ立ち込めている。
アデリアは革の手袋をはめ、大きな羊皮紙を地面に広げていた。
そこには、まるで工学者が描いたような精密な罠の設計図が、炭とインクで描かれている。
「ここに落とし穴を三つ。間隔は八メートル。誘引剤は魔狼が最も反応する『血草の蒸留液』を薄めて……最後は槍を斜めに固定して、逃げ道を完全に塞ぐわ」
周りを囲むのは、領民の若者たちと猟師、そして兄レオナルド。全員が、まるで神のお告げを聞くように息を殺して彼女の言葉に耳を傾けていた。
「……姫様、これ、本当に効くんですか?」
若い猟師が恐る恐る尋ねる。
「効くわ。魔狼は群れで動くけど、頭が良くない。匂いに飛びついて、一匹が突っ込めば残りもそのまま同じ道を突っ込んでくる。私が王国で読んだ軍略書に、似たような記述があったの」
「軍略書……?」
「ええ。魔物対策用の古い書物よ。……王宮の図書室には、埃をかぶってたけど」
最後の言葉は、ほんの少しだけ自嘲気味に笑った。レオナルドが腕を組み、感心したように鼻を鳴らす。
「相変わらずだな、お前は。王宮じゃ『王妃が妙な本を読んでる』って陰口叩かれてたらしいが……その“妙な本”が、今、俺たちの命を救うんだ」
アデリアは小さく首を振る。
「ううん、命を救うのは、みんなの力よ。私一人じゃ何もできない」
その瞬間――
「姫様……!」
森の奥から、子供たちが駆けてきた。
「魔狼の群れが近づいてるって!もう里の外れまで来てる!」
空気が凍りつく。レオナルドが剣に手をかけ、猟師たちが弓を構える。だが、アデリアは静かに一歩前に出た。
「……予想より早いわね。でも、ちょうどいい。今日のうちに終わらせましょう」
彼女は設計図を畳み、若者たちに向き直る。
「怖いかもしれないけど、私を信じてくれる?」
若者たちは、一瞬で頷いた。
「もちろん!姫様が言うなら、何だって全財産だって預けます!」
その言葉に、アデリアはふっと優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう。全財産は大事にして。……じゃあ、始めましょう」
――三十分後。森の小道に、完璧な罠が完成していた。
落とし穴は枯れ葉で巧妙に隠され、血草の匂いが風に乗って漂う。アデリアは最後に、槍の先端に自分の調合した麻痺薬を塗りながら呟いた。
「……これで、誰も傷つかずに済む」
遠くで、獣の咆哮が響いた。
群れが、近づいてくる。
レオナルドが低く言う。
「アデリア、後ろに下がれ。危険だ」
「だめよ、兄さま。私が誘引剤の匂いを調整したんだから、私が最後まで見届ける」
彼女は静かに、しかし揺るぎなく立ち続ける。
その背中は、王宮にいた頃とは別人のように――どこまでも強く、まっすぐに光っていた。
やがて、最初の魔狼が姿を現した。
銀の毛並み、赤く光る瞳。
群れの先頭が、匂いに誘われて――ズシャアアアアッ!地面が崩れ、悲鳴のような咆哮と共に三匹が同時に落下。
続いて、残りの群れが混乱しながら同じ道を突進してきて――ドサッ、ドサッ、ドサッ!次々に罠にかかり、間髪入れずに麻痺薬が塗られた槍が突き刺さり動けなくなる。
わずか数分で、十匹を超える魔狼の群れが完全に制圧された。静寂が戻る。若者たちが、呆然と口を開けたまま固まっている。
「……終わった、のか?」
「怪我人、一人も出なかった……」
レオナルドが、信じられないという顔で妹を見た。
「お前……本当に、ただの王妃だったのか?」
アデリアは、少し照れくさそうに笑って答えた。
「私は、ただ……みんなに笑顔でいてほしいだけよ」
その瞬間――森の奥から、小さな白い影が飛び出してきた。仔狐のような、透き通る白い毛並みの聖獣ノア。ぴょん、とアデリアの肩に乗ると、満足そうに喉を鳴らす。
遠くで、領民たちが駆け寄ってくる声が聞こえた。
「姫様がまた奇跡を!」
「やっぱり聖姫様だ!」
アデリアは苦笑しながら、空を見上げた。
(……私、本当にここにいていいんだよね)
風が優しく、彼女の銀金色の髪を揺らした。この日、ターヴァ領に伝説がまた一つ増えた。
「聖姫が一人で魔狼の群れを退治した」
――もちろん、真実は違う。彼女は一人ではなく、みんなと一緒に戦ったのだ。ただ、誰もが知っていた。
この領地にアデリアがいる限り、どんな闇も、決して彼らに届かないことを。




