第十二話「お願いがございまして」
朝の光がターヴァ領を優しく染め始めた頃。
アデリアはいつものように、薬草の入った籠を片手に領主館の裏門からそっと抜け出した。まだ寝静まっている館を起こさないよう、足音を忍ばせて歩く。
王都にいた頃は、こんな朝の散歩すら許されなかった。誰かに見咎められ、「王妃らしくない」と咎められるから。だからこそ、今この時間が愛おしい。石畳の小道を抜け、広場に出た途端、
「お、おはようございます……!聖姫様!」
小さな声がいくつも重なった。見れば、広場の端に、朝早くから十人以上の領民が集まっている。農夫の老人、若い母親、孤児院の子どもたち、そして村の薬師まで。
全員が、まるで神殿に詣でるように両手を組み、目を輝かせている。アデリアは思わず立ち止まった。
「……みなさん、こんな朝早くから、どうしたの?」
すると、先頭に立っていた白髪の老人が、震える手で一枚の紙を差し出した。
「実は……お願いがございまして」
紙には、ぎこちない字でこう書かれていた。『聖姫様にお教えいただきたいこと』
・新しい薬草畑の土の作り方
・赤ん坊がよく飲むミルクの配合
・冬を越すための薪と食料の貯め方
・魔物除けの結界石の置き方
アデリアは瞬きをして、ふっと息を吐いた。
「……これ、全部、私が前に話したことでしょう?」
「はい!でも、聖姫様が王都に行かれてから、誰もちゃんと覚えていられなくて……!」
若い母親が恥ずかしそうに頭を下げる。
「私たち、聖姫様のお言葉を“神託”だと思って大切にしてきたんです。でも、やっぱり直接お聞きしないと、不安で……」
アデリアは籠を地面に置き、ゆっくりと膝を折って子どもたちと同じ目線になった。
「神託だなんて、そんな大それたものじゃないわ」
優しく微笑みながら、彼女は子どもが握りしめていた小さな手を取る。
「ただ、私がみんなに伝えたいと思ったこと。みんなが元気で、笑っていられるように、って思ったことだけ」
その瞬間、ぽろり、と年配の薬師の目から涙がこぼれた。
「聖姫様……お帰りになって、本当に良かった……」
「王都の連中は、どれだけ愚かだったんだ……」
「こんなに民のことを想ってくれる方を、どうして……」
声が震え、嗚咽が漏れる。アデリアは驚いて立ち上がり、慌てて皆を見回した。
「ねえ、泣かないで。私、戻ってきたんだから。もうどこにも行かない」
その言葉に、広場にいた全員が一斉に顔を上げた。次の瞬間、
「聖姫様ぁぁぁ!」
子どもたちが駆け寄り、母親たちが手を合わせ、老人たちが深く頭を下げる。
朝の広場は、まるで祭りのように歓喜の渦に包まれる。
アデリアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ここが、私の居場所なんだ)
はっきりとそう思えた。
遠く、領主館の窓からその様子を見ていた兄レオナルドが、満足げに頷く。
そして、彼女の足元に、ふわりと白い影が寄り添った。聖獣ノアが、朝日に透けるような毛並みを揺らしながら、小さく鼻を鳴らしてアデリアのドレスに頬をすり寄せた。




