第十話「いいから食え」
夕暮れの領主館、大食堂。
長い旅と先刻の騒動で疲れきっていたはずなのに、アデリアは不思議と心地よい倦怠に包まれていた。テーブルには、故郷の味がぎっしり。
ハーブをたっぷり効かせた子羊のロースト。
ターヴァ特産の山菜とキノコのクリーム煮。
かつて母がよく作ってくれた蜂蜜とレモンが香る温かいスープ。
そして、焼きたてのパンに塗る、ミレイユが「姫様のためだけに!」と張り切った発酵バター。
「……こんなにたくさん、食べられないわ」
アデリアが苦笑すると、レオナルドが豪快に笑って肉を切り分ける。
「いいから食え!王都じゃろくに飯も喉を通らなかったんだろ?」
「……そんなことは」
言いかけて、言葉を呑み込む。実際、王都での食事は味気なかった。
豪華な食材は使われていても、誰とも目を合わせず、誰とも会話を交わさず、ただ黙々と口に運ぶだけの日々。味が、まるでしなかった。
ミレイユが隣で目を真ん丸にして見つめてくる。
「姫様……王都のお食事って、やっぱりおいしくなかったんですか……?」
小さな声で聞かれて、アデリアは慌てて首を振った。
「いいえ、とても豪華で……」
「でも、笑ってなかったって聞きました!いつもお一人で、寂しそうに食べてらしたって!」
ミレイユの目がみるみる潤んでいく。レオナルドも箸を置いて、眉間に深いしわを寄せた。
「……あのクソ王宮が、妹をどれだけ瘦せさせたか」
「兄さま……」
「もう二度と、あんなところにはやらん」
レオナルドの声は低く、怒りに震えていた。けれどその怒りは、決してアデリアに向けられたものではない。アデリアはそっと微笑んで、スープを一口飲んだ。
温かい。
蜂蜜の甘さとレモンの酸味が、胸の奥までじんわり染みていく。
「……おいしい」
思わず呟くと、ミレイユが
「きゃーっ!」
と小さく跳ねた。
「姫様が!姫様が笑ったーっ!!」
「ちょ、ちょっとミレイユ!?」
「だってもう何年ぶりか、こんなに自然に笑ってる姫様……!」
ミレイユはテーブルに突っ伏して、ふかふか泣き始めた。侍女頭も、他の使用人たちも、みんな目を赤くしながら笑っている。アデリアは恥ずかしくて顔を覆った。
「……もう、みんなったら」
でも、心のどこかで、確かに糸が切れたような感覚があった。王都でずっと張り詰めていた、誰にも見せない仮面。
それを、もう外していいんだ、と。
レオナルドが大きな手で、妹の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ゆっくり食えよ。今日はお前が主役だ」
「……うん」
アデリアは頷いて、もう一度スープを口に運んだ。
生きている、と実感できる味だった。窓の外では、夕焼けがターヴァ領の空を優しく染めている。
もう、無理して笑わなくていい。もう、誰かの期待に応えるために自分を殺さなくていい。ここが、私の帰る場所なんだ。そう思った瞬間、胸の奥にあった小さな氷が、音を立てて溶け落ちた気がした。




