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次の日の朝、扉をノックする音でリラは目覚めた。
昨夜遅くまで作戦会議をしていたのでミーアまだ眠っていて起きてこない。
(何かしら?食事はいつも無言で置いてあるから食事を持ってきたわけではないわよね…)
上着を羽織って扉を開けると客室メイドが立っていた。
「リラ王女殿下にお伝え下さい、ノアール殿下が昼食を一緒にと言っておられます。」
この使用人は部屋付きメイドではないのだろうリラの顔を知らなかった。
「かしこまりましたわ。」
メイドが去っていった後で、リラは小さくため息をついた。
(このタイミングで昼食に誘われるなんて…嫌な予感しかしないわ。)
リラは、ミーアに声をかけて身支度を手伝ってもらう。
髪を洗って乾かし、体にクリームを塗って肌を整える。
ドレスは立ち襟で、袖が長めで丈がくるぶしまであるものを選んだ。
色は淡いグリーンでレースとパールの装飾が少しだけ入っている。
髪も後ろに一つにまとめてもらう。
準備をすませて、客室から大広間の方へ向かう。
本来は、メイドが食堂まで案内するかノアール王子が迎えにくるのが筋だろうと思ったが、短期間でこの待遇の変化だ。
期待などできないと思い、食堂に一人で向かう。
(私……一応トゥアキスの王女なのに一人で移動って…)
リラは今日の昼食の席で、なにかしら話があるだろうと覚悟を決めて食堂に向かった。
食堂にたどり着くと、入口に使用人が立っていて扉を開けてくれる。
食堂の長テーブルには白い布が掛けてあって、もう昼食が配膳されていた。
数種類のパンとサラダ、野菜のクリームスープに、豆と鶏肉の煮込み、他にマフィンなどがジャムと一緒に皿にのっている。
フルーツタワーがテーブルの真ん中においてある。
「急に呼び立てて悪かったね、リラ王女殿下。」
ノアール王子が席に付いたまま使用人に椅子を引くように手で命じる。
「お待たせしてしまったようですみません。ノアール王子殿下。」
リラが使用人が椅子を引くのに合わせて座る。
(よかった…椅子を自分で引く羽目にならなくて。)
「さあ、先に食事にしよう。」
ノアールが隣に座る人魚姫を優しく見詰めて微笑みながら言った。
その後にリラの方を向き、口元だけは微笑を浮かべながら非難がましく言った。
「君の支度にだいぶ待たされたから、彼らの紹介は食後にさせてもらうよ。」
(そうは言われても…昼食時間も告げられなかったし、誰も迎えにこなかったんですけどね。これでも、呼ばれてすぐ準備に取りかかったし、恥ずかしいけど少し早めに来て食堂で一人で待つ覚悟だったんだけど…)
テーブルには、人間になった人魚姫の他にもう一人男が座っていた。
瑠璃色の髪は爽やかなマッシュショートで、鮮やかな紫味の青い瞳はタンザナイトのようだ。
ノアール王子とは、また違った美しい男だった。
リラは黙々と食事をする。
(久しぶりに、安心してちゃんとした食事がとれるわ。)
紹介されていないので、お互いに話を振ることもない。
三人は人魚姫を中心にして会話が弾んでいた。
なにせ、もと人魚は声が出ないせいで筆談に頼ることになる。そのせいか三人の席は近い。
ノアール王子が人魚の書いた言葉を見て、それに返事をしながら笑ったり、見詰めあったりしている。
時々、タンザナイトの瞳の男がリラに視線を送ってくる。
(もう一人のこの男性の存在は何?なぜか元人魚がこちらの男にもノアール王子にするのと同じように、見つめたり体を寄せたりしているんだけど…人魚姫に二股をかけているシーンなんてなかったわ。)
リラは一つの可能性がひらめいた。
(人魚姫の世界だと私が思っていただけで本当は違うの?)
リラは頭をフル回転させて状況の整理をしながらも、食後のお茶を優雅な仕草で飲んでいた。
(染み付いたクセってすごいわ。考えごとしててもこんなふうに指先まで気を配ってティーカップをつまめるのだもの。)
「リラ王女殿下、実はあなたに紹介したい人が二人いてね。」
「この朝食の席に呼んだんだ。」
(ようやくね。)
リラは、ティーカップをソーサに静かに戻してからノアール王子を見て口元だけ微笑んだ。
「ノアール王子殿下におかれましてはお元気になられたようで良かったですわ。」
元気になったら『一緒に食事を』と言った約束をすっぽかされた嫌味をここでチクリと言った。
「ああ、そういえば君にも心配かけたね。」
ノアール王子はそんな約束をしたことも忘れてしまったように話し出した。
「実は君に彼女を紹介したくてね、彼女はローザというんだ。声が出ないのでトゥアキスの王女たる君にも、じかに挨拶できずに悪いが大目に見てやって欲しい。」
ローザがリラに軽く会釈したので、リラも同じように会釈をした。
「実は嵐に遭った日、彼女が転覆した船から私を救い出して浜辺に運んでくれたんだ。」
「にわかには信じられないかもしれないが……ここだけの話、彼女は人魚なんだよ。」
「私に会うために自分の声と引き換えに、足を手に入れたらしいんだ。」
人魚が、こくこくとノアール王子を見て頷いた。
「私と結ばれないと彼女は海の泡となって消えてしまうそうなんだ。」
ノアール王子は人魚の手を握った。
リラは、ノアール王子の話を顔色一つ変えずに微笑を浮かべたまま聞く。
人外の美しさを持ちながらも愛らしい見た目をした人魚はノアール王子の袖を始終離さず、上目遣いで見詰めたり、庇護欲をそそられるような仕草をしている。
普通なら人魚なんてすぐに受け入れられないところだが、リラは最初に目撃しているところへもって前世の知識を思い出したので疑うことなく受け入れた。
「そうでございましたか、命の恩人が見つかって良かったですわ。」
ノアール王子に向けて人形のように始終同じ微笑みを向ける。
反論も疑うこともしないリラの様子を見て、ノアール以外の二人は理解できないという顔をする。
リラは、これで話は終わりだろうと推察する。
「私、そろそろ失礼いたしますわ。」
席を立とうとすると、ノアール王子が不機嫌さを隠さずに言った。
「私の話はまだ終わってないのだけど。」
「失礼いたしましたわ。」
リラはため息を飲み込みしょうがなく座りなおす。
「あなたと私は政略結婚を強いられている。」
ノアールが、唐突に切り出した。
「……そうでしたわね。」
(強いられているって雰囲気じゃなく、最初はいい感じで始まりそうだったけどね…どちらかというとノアール王子の方から婚約の話を進めてくれてたけどね…)
「私は命の恩人である彼女に報いたいのだ、彼女は私と結婚すれば声も戻るし命も助かるという。」
「どうだろうか、あなたを私の愛人という形で迎えさせてもらえないか?」
(なるほど、こちらの話の方がこの朝食会で伝えたいメインだったのね。)
「側室ではなく、愛人ですか……トゥアキス王国がなんというか……」
(この可能性はさすがに、考えてなかったわ。)
(側室は予算があてられると思うけど、愛人って王子の予算で面倒見るのよね……そんな不確かな身分にトゥアキスの王女を落とすことに、あのプライドの高い王妃が許すとは思えないけど…)
「すまないリラ王女殿下…このローザが、妻は自分だけにして欲しいというのでね。」
(ノアール王子殿下は野心の無い方だと聞いてはいたけど、私にとったらそれが仇になったわね。)
(野心以前に、政治的感覚すらお持ちではなかったのね。)
「トゥアキスには私から話そうと思っている。」
(どういう交渉をするつもりなのかしら…)
「ノアール王子殿下、ちなみに子は授けていただけるのでしょうか?」
「あ、ああ…も」
「ン〜……」
隣のローザがノアールの袖を掴み上目遣いで首を横に振った。
「そうか…じゃあ、リラ王女殿下には悪いが閨を訪れるのは叶えられそうにない。」
「そうですか……」
(まあ、そうよね。隣国の王女に子ができたりしたら後ろ盾という面でいえば、ローザには脅威よね…)
(寵愛も得られない形だけの愛人…こんなの扱いでは両国ともに私には全く価値はないと判断するわね。)
(うーん…この国に私の存在って必要?)
(でも、この王子がグラッセン王妃と交渉なんてした日には婚姻破談の慰謝料に水洗トイレの技術提供を要求されそうね。なんなら設備資金も無償提供させられるんじゃないかしら。)
(恋は人を馬鹿にするって本当だったのかしら…文武両道って評判だったけど。今のノアール王子を見てるとあの王妃と交渉なんて無理じゃないかしら。)
「ノアール、私からもいいか?」
静かに成り行きを眺めていた男が口を挟んだ。
「私はアーベント・フロイデ・グリュックだ。君さえ良ければだが私と婚姻しないか?」
「君の国が欲しがっている水洗トイレの技術は元はうちの国の技術だ、提供しよう。」
「君の国の資源があれば、我が国にも悪くない話だ。」
(アーベントといえば、グリュック王国の王太子じゃない!雰囲気からしてどこかの王族だと思ったけど…急にすごい大物登場ね。)
(え……なんでそんな大物がこの昼食の席に?)
(確か、国内に有力貴族の婚約者がいたはずだわ。)
(それに、こんな大国が私との婚約なんて全く国益にならないことを言うわけないわ。)
(からかわれているのかも……あとで人魚と三人で笑いものにでもする気かしら。)
リラは、テーブルから離れて優雅にカーテ
シーをした。
「アーベント・フロイデ・グリュック…王太子殿下にお初にお目にかかります、トゥアキス王国第3王女リラ・ズィルバーン・トゥアキスと申します。お見知りおきを。」
流暢なグリュック王国の言語で挨拶を述べた。
「丁寧な挨拶をありがとう、椅子にかけてくれ。リラと呼んでも構わないか?」
アーベントがリラに優しい声で問いかけた。
「いかようにもお呼びくださいませ。」
リラは警戒していることを悟らせないように声の調子に気を使った。
使用人が椅子を引いてくれたので、リラは腰掛けた。
グリュック王国は力のある平和主義国だ。
技術力も他国の追従を許さないほどに発展している。
どの国とも友好的な付き合いをしているが、この国の陛下は皇帝のような立ち位置だと思って間違いない。
「私のことはアーベントとでも呼んでくれ。」
アーベントの口元は笑っていて、声の調子も優しげに見えるが、全く感情が読めないことにリラは緊張した。
(そうよね、王族ってこうよね。)
リラは遠まわしに遠慮していることを伝えた。
「畏れ多いことでございます。」
リラが自分を拒絶したことが意外だったようで、アーベントの作ったような声音が変わった。
フっと笑ったような吐息がアーベントから漏れた。
「頑なだな、先程の返事はどうだ?」
(なぜかしら…少し心を許してくれたようね…)
(不興を買ったと思ったけど、大丈夫そうだわ。)
「私は王女とはいえ三番目にて、グリュック王国の王太子殿下のお相手にはふさわしくないでしょう。」
「まして、我が国の所有する鉱山資源程度ではグリュック王国次期国王の持参金にするにはいささか不釣り合いかと存じます。」
リラはアーベント王太子を見つめすぎないよう気をつけながら口元と目を交互に見て自分の見解を述べた。
「振られたぞ、ノアール。」
アーベントが投げやりな言い方をした。
「立場をわきまえているんだよ、君はなんでもかんでも自由過ぎるから。」
人魚がなにかを書いてノアールに見せた。
「違うんだよ、ローザ。彼は彼女の境遇を哀れんで婚姻の話をしたわけじゃないんだ、彼女の国の資源という国の利益を見て申し込んだんだ。」
「それだけではないが、私は聡明な女性が好みなんだ。」
アーベントが先ほどの視線を一変させて、リラにわかりやすく親しげな視線を送った。
タンザナイトの瞳に熱がこもって光の反射なのか揺らめいて美しく見える。
(なにを考えているのか、全くわからないわ。)
リラは自然な感じを装って目をそらした。
(そういえば、人魚はローザというのね…)
リラがローザへ視線を移す。
「え……?」
ローザがこちらを睨んでいる。
(なぜ……ローザが私をにらむのかしら?もしや目が悪いとか…?)
(それより、もう用件は終わりかしら…)
「私、そろそろ失礼いたしますわ。」
リラは席を立った。
「じゃ、婚約のことは私にあとは任せてくれるね。トゥアキス王国に手紙をやって愛人という形で迎えるつもりだと伝えておくよ。」
ローザが心配気にノアール王子を見る。
「大丈夫だと何度も話しただろう、形だけだよ。」
ノアール王子がローザを安心させるように微笑む。
(そううまくいかないと思うわ、愛人なんて両国ともになんの旨味もなくなるでしょうから。)
「御前失礼いたします。」
アーベント王太子にそう言ってその場を辞した。




