(8) 満月の虚妄
小休止を終えてから、山賊王ニーチェ配下の一味はユーリンと霜妖魔キタンを連行して山道を歩く。静かな行進であり、ユーリンはたっぷりと思索の海に潜る時間を確保できた。
(どういう順序で片付けようかな……まず霜妖魔の゙王国は心配無用でしょ、山賊王の゙武力がなんぼのもんでも、あれは攻め落とせないよ。大勢で押しかけられる地勢でないし、ウンチョーとかリンゲン並のトップ英雄クラスでギリじゃない? あるいは大国がマジにならないとムリだろうね)
考えながら髪を弄び、ときおり、数本をつまみ抜いて山道に捨てる。ユーリンを丁重に監視して取り囲む連中も、その行為を見咎めることはない。黙々とユーリンは頭の中を整理した。
(かと言って、霜妖魔の強さは霜妖魔自身の家畜化の脅威を撃退するにしても、フユッソ村の゙安全には寄与しない。霜妖魔の強さにイモ引いて引き上げる本業は山賊なヤツらが、癇癪もおこさずおとなしく帰宅するわけがない。とりあえずフユッソ村に『あるモノ』と『いるヒト』はよろしく全部お持ち帰りだろうな。ピクニックのマナーだし……て、バカの視線、うっざ……)
小休止の間にユーリンにすっかり魅了されたジーノは、山賊仲間と徒党を組んで歩く中で、こっそりとユーリンを執拗に窃視していた。己に課せられた監視の任の口実として、ときめきの甘味を胸中で丹念に転がしているのである。その這いずるような卑しい視線を、ユーリンは鋭敏に感じ取ってしまっていた。
(この際だ、せいぜい励んでもらおう。このご執心ぶりなら、一匹だけで事足りそうだけど、念のため他にもバカそうなのに後で唾つけとこう。……さて、つまりボクは、霜妖魔の家畜化がそもそも経済的に割に合わないことを山賊王に理解させる必要がある。それでいて、フユッソ村への腹いせ行為も未然阻止したい。できれば今後のフユッソ村への野心も抱かせないカタチで……ええと、とりあえず、いちばん簡単なトコから手をつけますかね。つまり『ボクたちの身柄』ね。本題に専念するためにも、さっさと仕上げちゃおう)
決意を固めると、ユーリンはタイミングを吟味して、後方を振り返った。その先には、ユーリンの全身にくまなく視線を這わせるジーノがいる。2人の目が見つめ合う格好になった。急激な劣等感を覚えたジーノが顔を逸らそうとするのを、ユーリンの空色の瞳が許さない。吸い寄せられるように、ジーノはユーリンを見つめた。
周囲の男たちも違和感に気づき、ユーリンを警戒するが、ジーノとの関係までには気がつかない様子である。何事か、とユーリンが振り返った事情を考察している。
(他の連中はジャマだな……)
目線や仕草、声色や表情の機微だけで他者の心理に干渉できるのが、ユーリンの特異な権能である。
ユーリンは不意に顔を空に向けた。つられて、他の男たちも上空を見上げる。しかし、ユーリンに心底から見惚れているジーノだけは、ユーリンから視線を逸らせなかった。
他の男たちの監視が緩んだ瞬間を見計らい、ユーリンはジーノと2人きりで見つめ合った。微笑みをたたえた口元に人差し指をあて『内緒ですよ』と仕草で伝える。思わせぶりにイタズラっぽく片目をつむった。ジーノの心がとろけ落ちるを見届ける必要を認めず、ユーリンは前方に向き直って、何事もしなかったかのように歩き続ける。
「あ? なんだ?」「何もねぇじゃねェか」「あー、鳥だな、ありゃ」
ユーリンにつられて空を見上げていた男たちが雲ひとつない大空への興味を早々に失い、何事もなかったかのように時が流れる。
つまらなさそうな面持ちを隠さない男たちの群の中にあって、ただジーノだけが、甚だしい惑乱に襲われていた。
小休止の終わり際に内々にユーリンから涙ながらに懇願された依頼内容が、今の何気ない『秘密の共有』という心理的な愛撫により、まざまざと脳裏に蘇って濃厚な葛藤となったのである。
———さっきヴェスプさんに取り上げられたナイフ、あれボクの父さんの形見なんです。たいした値打ちものというわけでもないですし、でもボクにとっては大切なモノなんです……どうにか取り返してもらえないでしょうか。……といっても、ボクには何も差し上げられるモノは無いんですが……ボクにできることなら、なんでもしますから……お願いです、ボクを助けてください
ユーリンの仕掛けた言毒が、生来豊かではないジーノの理性を蝕む。ジーノが稚拙な決断力を発揮するまでに要した時間は、長くなかった。拳を握りしめて、意を硬くし、蒙昧な騎士道精神を奮わせ、身勝手な妄想の世界のユーリン像に厳かな誓いをたてた。
そんなジーノの迷妄を手際よく惹起した当のユーリンは、ジーノに対してまったく関心を抱いていなかった。
(……どっちに転んでもいいな。首尾よくボクの手元に戻ってきても……まぁ、良し、そのままサヨナラバイバイでも良い。サヨナラした後の末路まで責任負えないって。あわよくば山賊王に押しつけられないかな、アレ)
ユーリンの愛刀としてつきまとうエーテルナイフは、今はヴェスプが所持している。小ぶりなナイフであり、所持するのは容易いのである。しかし、所有となると話が違う。現在もエーテルナイフの所有者は間違いなくユーリンであり、当のユーリンはこれを機に哀惜の離別をしてしまってもよいと考えていることは、ヴェスプもジーノも知るよしがない。
(さて。まだしばらく歩きそうだし、保険としてジーノの他にもあと何匹か篭絡しとくか。どーせ損はしないだろうし、毒を食らわばナイフとフォークでメインディッシュまで、てね)
足元の段差に躓いたフリをしたユーリンは、近くの男に偶然都合よくもたれかかった。
「お、おい!? 大丈夫か?」
「……あいたた、すみません、つまずきました」
不意のアクシデントであるかのような仕草で豊かな銀髪を風に膨らませながら、内面はともかく———外見的には非の打ち所がない麗しい顔を、悲痛げに、不安げに、かつ若干の疲労を滲ませたかのような表情でもたげて、その手近な男にゆっくりを顔を寄せた。
男の身体に分不相応な緊張が走るのを、ユーリンは嫌悪感を堪えながら、肌で感じ取った。
(うっへ。便所の染みでもしゃぶってたほうがマシだな)
山道を歩き続けた一同がたどり着いたのは、朽ち果てた砦であった。対獣を想定した簡易な堀と塀に覆われている。辺鄙な山中にありながら、その中央には石造りの建物があった。そこに掲げられた木彫りのシンボルの模様に、ユーリンは見覚えがある。
(ずいぶんと古びているが、あれは間違いなくエロヒムの紋章。こんなところに? ……そうか『守護の教会』か。この付近に神代の残骸らしい何か旧跡があったのか。エロヒムに持ち帰ったのか、それともハズレだったのかはわからないが、旧跡調査団がここにずいぶんと長く滞在したのだろう。その廃墟にコイツらが陣取っている、と)
敷地を囲う獣避けの柵の向こうから、山賊の一味が迎えに出てきた。
「ヴェスプさん、お帰りですか。首尾はいかがでしたか」
「最高だ。予定通り霜妖魔の巣穴も確認できたし、土産も拾った。お試し用の霜妖魔一匹と、極上の売りモンまである。よーく拝んどけ、見るだけなら自由だ!触んなよ、絶対に傷をつけるな、高値で売る。いずれ上等の酒を振る舞ってやる」
丁重に取り囲まれて連行されてきたユーリンが前面に引きずり出される。その横に、どさり、と荷を放るようにキタンの身体が投げ捨てられた。
キタンはぐったりしていた。長時間の無理な拘束が身体を痛めたのである。キタンの弱々しい呼吸音を聴いたユーリンの胸を再燃した憤りが焦がしたが、今は堪える時間であると己を戒めて、耐えた。
これら土産を目の当たりにして、アジトでヴェスプらの帰還を待ち構えていた山賊の一味がどよめいた。
「こりゃあ、すげぇ」「よくこんなの捕まえましたね」「とんでもねぇ美人ちゃんだ」
たちまち歓声があがる。それが霜妖魔キタンに対するものでないことは明らかであった。
(はーあっ? セカイ、マジ、クソ。どうして初対面の他者に対して好意を向けられるんだよ、どういう精神構造だよ、ありえないだろ)
心の中で毒づきながら、ユーリンは1人の男に注目した。ユーリンとキタンを取り囲む人垣の中にいる、溢れんばかりのマナを蓄えた若い男である。賊徒たちの中にあっては身体の線が細いが、陰鬱で理知的な顔つきをしていた。他の男たちとは異なり、ユーリンには目もくれず、拘束された霜妖魔キタンを興味深げに観察している。
ユーリンはすぐに理解した。
(……魔術師。それも一級品だね。ったく、そんだけの体内マナを持って生まれたクセに、どう頭の悪いシクジリをしでかせば山賊の一味になり果てるやら。『誓いの騎士ロジェ』だって、もうちょっとマシな堕落っぷりだぞ。……あと顔に覇気がない、魅力ゼロ、アタマもそこまで良くなさそうだ、取り柄はマナだけか。出がらしの茶葉より面白味がない)
ユーリンの初対面の他者に対する悪意ある批評には、上限がない。それを知る由もなく、魔術師の男は霜妖魔キタンの状態を丹念に調べ、診断した。暗く、くぐもった声であった。
「霜妖魔のほうは油断ならん。衰弱しているが、相当な魔力だ、私が直接監視する。明日にでも早速実験を始めよう、なるべく長く使いたいものだな。……そっちの坊やの方は……何のマナもないな。単純な物理的拘束でいいだろう。……すごいぞ、これが氷マナか……極上の研究成果が得られそうだ……」
(はいはい、才に恵まれた生まれのアナタからすれば、ボクのマナは『ない』に等しいレベルでしょうよ、知ってますって)
グチ混じりの不貞腐れた言葉を、ユーリンは心の中でつぶやいた。そして、ある直観を抱く。
(どことなくアイツらと同じ気配がするな。さてはコイツ、アムリテの『魔導書院』崩れか)
かつて自分が手にかけた4人の大魔道と同じ性質を、ユーリンは眼前の魔術師から嗅ぎ取った。ユーリンの怨敵として無残に屠られた男たち———その最後の1人が、霜妖魔の女王の覚えめでたき光神ルグスの寵人に至った男である。その4人は、いずれも魔法大国アムリテの魔導書院に学徒として籍を有していた。その男たちと同じ気配が、山賊の一味に身を崩したこの魔術師からは漂っている。
まるで篤信的な医師が患者を診察するかように、魔術師の男は霜妖魔の氷マナの触診に没頭していた。冬の訪れを控えてすっかり落葉したさみしげな木の枝を吹き抜ける涼風よりも冷ややかに乾いた視線で、ユーリンはそれを睥睨する。
(屍霊術系統の『混沌魔法』を扱える人材か。よくこんなもんを仲間に引き込めたな、山賊王。ひょっとして人材マニア? やっぱただの狼藉集団じゃないね。山賊王ニーチェは、たぶん、マジでヤバいヤツっぽいな。……絶対に会いたくないけど、すごく会いたい。……ま、いまは、この場にいないことを喜ぶとしよう。今日はもりだくさんで満腹なんだ。日取りを改めて文を認めて吉日を選んで届けてから会いに行くよ、いずれね)
物質は与えられた理力に従ってのみ変成を来たす―――その創造主が定めた自然法則へ造反するのが『混沌魔法』である。創造界の秩序を乱す屍霊術系統の一種とされており、善良なる国家文明においては禁術としてその研究や使用を戒められている場合もある。生命体に対して外的な『変異』を与えられるほどの混沌魔法の術者は希少な人材である。
山賊王という存在への関心の高まりを覚えつつ、馴れ馴れしくユーリンの肩に腕をまわす三下に言った。
「たいそうな歓迎ぶりですね。……こんなに大勢いるとは」
「おうよ。ざっと50ってトコだ。明日には100を超える。ムダなあがきはしねェで、ジッとしてな。その顔に傷つけても誰も喜ばねェからよ」
(人数、バラすー? 脅しのつもりか、ダッサ。手勢の規模は隠せよ、馬鹿。……完全に油断してるね、こりゃ楽勝、ラクショー。ウンチョーの到着を待つまでもないな)「とりあえず喉が渇いたんで、お茶、くださいな」
「んな上品なモンはねぇが、水と飯は用意しよう。大事なカラダだからな」
「ご親切に、どうも。快適な宿泊になりそうだ」
「不自由させるが、せいぜい寛いでくれ、……あーっと、……ところでオマエ、名前は?」
「名前? ……おお、そういえば。……ボクは、ビホウです。よろしくね」
「ビホウ? 変な名前だな」
「よく言われます。裏切り者っぽいとか」
怪訝な顔のヴェスプの肩越しに、ユーリンは何人かの男たちに目配せを送った。ヴェスプの知らぬユーリンの本名を知る男たちの独占欲と優越感を愛撫したのである。
その後ユーリンと霜妖魔キタンは引き離され、別の場所に拘禁された。
ユーリンは、獣用の檻の中に収容された。金属製の、意匠や大きさの異なる雑多な檻が部屋のなかに乱雑に積まれている。霜妖魔の捕縛のためにかき集められたものらしかった。ユーリンを閉じ込める檻の錠前は、ヴェスプ自身が保管している。
薄暗いその部屋には窓がひとつあった。日が沈み、月灯りが差し込んだ。山の稜線から、満月が昇る。ヴェスプたち山賊の徒党は、声の遥か遠い所で酒盛りに興じている様子である。時折威勢の良い歓声が、美しい夜の闇を汚していた。
供された簡素な食事を手早く済ませて、ユーリンは耳をそばだてて、機を伺っている。
(ことの成就を道半ばにして、酒盛り。オマケに見張りもゼロか。ダメだな、コイツら。リスティン峠の大山賊団といっても、僻地にパシらされる程度の連中の質はこの程度か。山賊王がいなくて本当によかった。ヴェスプとかいう頭領、マヌケすぎる。つまみ食いをしない程度の見張りすら立てられないなら、ボクを檻になんて入れなくても、裸にひン剥いて宴会場の真ん中に座らせときゃいいのに。拍子抜けだ)
ヴェスプはユーリンをこの檻に収納する際に、少し悩んで、結局、見張りを立てないことを選択した。錠前の鍵を自身が持ち歩くことで、その代替としたのである。その時のヴェスプの表情から、ユーリンはそのヴェスプの性格の一端を覗き見た。
(……吝嗇)
賊徒の頭目らしく、気風の良い親分肌たろうと努力している様子はうかがえるが、ヴェスプ本人の性質は隠しきれていない。売り物に目垢がつくことを嫌ったか、職分を逸脱した行為に及ぶ者が商品の価値を下げることを恐れたか、おそらくその両方の理由がユーリンから部下たちを遠ざける選択をヴェスプにさせたのである。
見張り役を任せられる程度に節操ある部下すらいない———それが事実であるか否かはユーリンにはわからないが、少なくともヴェスプが部下たちをそう見做していることは疑いなかった。そして、上役のそういう態度は部下にも伝わるのが常である。ヴェスプによる荒くれ連中への統制は、意外なほど脆いのが実情であるとユーリンは判断した。
(……こりゃ、今夜、動くね。誰が一番早いかな)
ユーリンの運命観が、皓々と輝く満月のように、不確実な未来を見通した。
己の下品さを競い合って仲間うちでの序列を高めようとするような不毛な乱痴騒ぎが催された。この僻地の作戦行動における頭領であるヴェスプは、上機嫌で酒杯を重ねている。したたかに酒精を嗜み、すっかり赤ら顔で前後左右の認識を怪しくし始めていた。
宴をこっそりと抜け出したジーノは、ヴェスプが個人の寝室として占領している一室に忍び込んだ。ヴェスプの衣類や私物の小物が散らかっている。
「……ったく、きったねぇな……オレも人のコトは言えないが……と、あった、コレだ」
ジーノの目当ての品は、すぐに見つかった。ユーリンから接収した、木製の鞘に収められた小ぶりのナイフである。ユーリンにとっては大切な父の形見の品であると聞いているが、所詮は綺麗なだけの飾り細工のような刃物である。大した値打ちのあるものとも見なされず、ヴェスプが日中に着用していた山道用の装備を脱ぎ捨てた上に、無造作に放置されていた。
ジーノはそれを恭しくつかみ取った。ユーリン本人を苦境からすくい上げる英雄的行動の予行演習であるかのような仕草であった。
「ユーリン……いま……行く……」
ヴェスプは商品への乱暴を部下たちに戒めている。しかし、それがどのくらい遵守されないものであるかを、自身のこれまでの遵守してこなかった経験によって、ジーノは熟知していた。危機感を抱いていた。このまま宴が進行し、酒が回れば、酔った勢いで美貌の姫に迫る者が必ずでてくる。それを咎めるべき立場であるヴェスプは頼りにならない。いずれ酒の誘う深い眠りに落ちるのが確実であった。ユーリンの貞操が損なわれる前に助けなくては―――ジーノの中で、貧弱な騎士道が芽吹いていた―――認め難い倒錯的な恋情を土壌とした、奇形の徒花の蕾を実らせて。
ジーノはヴェスプの私室を出てから、音もなく敷地を歩いた。闇を払うようにときおり松明が立てられているが、夜の山中にあっては儚い灯火である。ジーノは誰にも見咎められることもなく、ユーリンを収監する部屋の前まで来た。
ごくり、と生唾を飲み込む。胸の動機が高まった。扉の取っ手にを握り、逡巡し、離す。己の身だしなみが、果たしてユーリンの前に姿を現すに足るものであるか、唐突な不安を覚えたのである。ジーノはもじもじと身体を検めて、乱れた髪を整え、衣服の綻び糸をつまみ捨て、全身の泥汚れ払うなどの、懸命な美容行為に励んだ。この瞬間において、ジーノこそが創造界で最も無意味に時間を浪費している存在であったが、ジーノ本人にその自覚はなく、胸が張り裂けんばかりに切実である。
そんなジーノの無意味かつ不毛な努力を嘲笑うように、ジーノの背中に声がかけられた。
「お、先客か。ジーノ、何してんだ、こんなところで」
3人の男たちが連れ立って歩いてきた。無論、山賊一味の仲間であった連中である。ジーノは率直に「殺してやりたい」と思ったが、相手が3人組であるために、その衝動を抑え込んだ。
3人の男たちは、己の野卑さにある種の誇りを抱いているような面持ちである。
「オマエの好きな酒が向こうにあるぞ。ヴェスプさんの気前がいい日にたらふく飲んでおけよ」「そういやオマエ、ガラにもなく神妙な顔して……あんま飲んでなかったよな、どうした?」
「……あぁ、今日は気分が乗らなくてな、山道で足に来たらしい。……そういうオマエらは?」
ジーノは白々しくも慎重に応答する。愉快な宴席を抜け出してユーリンを監禁する部屋を訪れる理由は、ひとつしかない。
「ん? そりゃ……」「決まってるだろ、今のうちに、味見だよ」「売りモンの質は確かめておかねぇとな」
「やめとけ、ヴェスプさんにどやされるぞ」
「なーに、あのバカ騒ぎっぷりならバレねぇって。つぶれるまであと少しだな」
「……錠の鍵はどうする?」
ユーリンの檻にかけられた錠前の鍵は、ヴェスプが肌見放さす持っている。開けるためには、錠を壊すしかない。
「なぁに、隙間は十分だろ。なんせそこまで太くねぇ」「そうそう、仕込みだよ。ちゃんと教育してから売らねェとな」「買われた先でイキナリじゃカワイソウだからな、オマエもいっしょだろ? 抜け駆けはよくねぇぜ」
下品な手振りであったが、それが意味する内容をジーノはよく理解していた。鮮血の衝動が溢れる。―――殺す。
「どちらさまー?ドアは開いてますよー?」
部屋の奥から扉越しに、ユーリンの声が響いた。室のすぐ外にはギリギリ漏れ聞こえる程度の音量である。
「まぁ、入ろうぜ、騒がれるとマズイ」
男たちがユーリンを拘禁する部屋に入室した。その背中に向けてジーノが衝動的な行為に奔らなかったのは、ここでそれを実行するよりも、容易に彼らの不意をつける機会がすぐに訪れると確信したためである。愛しの姫が汚される、その直前―――無防備を晒す背中を襲えば、3人相手でも十分に勝機はある。
世話の焼ける馬鹿の世話にユーリンは辟易する。
「どちらさまー?ドアは開いてますよー?」(……ったく、出たり入ったりする穴から垂らし始めた雌じゃねぇんだから便所の前でポコチン固めてたむろすんな。―――静かにしろ、余計な声を出すな、人を呼ばれて困るのはお前の方だろ?)
まるで襲う側の男が言いそうなことを心の声として、ユーリンは歓待の声を4人の入室者に向ける。ジーノの他の3人は初見の男たちである。
「こんばんは。もしかして食事のお代わりですか? ボク、長く歩いて、お腹がペコペコなんですよ」
扉の外の会話をしっかり聴き取っていたユーリンであるが、まるで男たちの意図をまるでまったくわかっていないかのような、無垢そうな顔を見せる。
清らかな純白であるほどに汚しがいがある。3人の男たちは、高揚感に口元をほころばせた。悲壮な決意を固めるジーノのみが、表情を沈める。
彼らの態度の明暗差から、ユーリンは状況のすべてを把握した。
(ほほー、やるじゃん、ジーノ、決断が早い。3ミリくらい見直したよ。判決はやっぱ死刑だけど。にしても団体さんでおつきか。カスとサシならともかく、4人相手じゃ強硬策はムリだね。安全策といきましょうか。ごくろうジーノ、オマエの役割はココまでだ)
ジーノがすでに危ない橋を半ばまで渡り終えていることを察知すると、ユーリンはまるで嬉しそうな声で言う。
「ジーノさん! ボクのナイフ、ヴェスプから取り返してきてくれたんですね!」
満天の星空のような笑顔で、ジーノの最後の退路をためらいなく断ったのである。
「……え? あっ、いやっ……」
「ジーノ?」「……テメェ、何してんだ」「まさか、オマエ……」
男たちがジーノを取り囲む。ジーノの懐から、木製の鞘に収められた小ぶりのナイフが出てきた。全員が緊張する。裏切り者―――その言葉を誰が発するか、最後の遠慮が場に沈黙をつくった。
「みなさん、商談をしませんか」
その時を待っていたユーリンが、すかさず声を発した。
動けば目で、話せば耳で、笑えば心で―――周囲の耳目を集めることにかけて天与の才に満たされたユーリンである。月明かりの差す薄暗い部屋の中で、皆がユーリンに注目した。空色の瞳が、暗夜に浮かぶ。
「それ、実はエーテル鉱石製なんですよ。たいそうな値で売れます。王都の一等地で家を買えるくらいです」
ユーリンの意外な告白に、男たちの動きが止まる。
「……エーテル……? まさか、そんな」「つまんねぇハッタリだな」「そうそうお目にかかれるモンしゃねぇだろ」
「刀身に水を垂らしてみてください、染み込んで消えるんです。エーテル鉱の不思議な特性として有名でしょ?」
「お、おい、誰か、水、持ってねぇか」
狼狽する男たちが暗緑色の刀身に、腰に下げた水筒から水を垂らす。刀身は一瞬、鈍い光沢を闇夜に輝かせたが、すぐに収まった。水は染み込んで、消えた。男たちの目の色が変わる。
「……マジか」「うっそだろ、これが、エーテル……」「いくらで売れるんだ、コレ」
「父がボクに遺した唯一の財産なんですが、この際、仕方ない。それを皆さんに差し上げます。こっそり売って金にしてください。その代わり、『ボクたち2人』がこっそり出ていくのを見逃してもらえませんか? そのナイフは事実としてジーノさんが盗み出したということで、あえてあなたがたが疑われることはないでしょう、というか価値を知らないヴェスプは気にもとめないはず。あなたたちは『今夜、ココには来なかった』だけでいいんです、簡単でしょう。ボクが今、大声で騒いで目論見どおり円満にボクがヴェスプに売却されるよりも、あなたがたの実入りは大きいですよ。お情けで振舞われる上等の酒とやらよりも、遥かにね」
ユーリンの言う『ボクたち2人』とは、無論、ユーリン自身と霜妖魔キタンの2人を意味しているが、ジーノには違う意味に聞こえることをユーリンは当然認識している。しかし、その誤解を無視しないほどユーリンは善人ではなかった。
「ついでに言うと、見張り役を信用せず、ボクにあえて見張りをつけなかったヴェスプのメンツは丸つぶれになります。きっとさぞかし見物ですよ」
「はっ。ソイツぁ、なんとも」「いい話だな」「だがヴェスプが荒れるのは困る。マジでキレると手に負えないんだ」
ヴェスプの求心力の乏しさを目の当たりにして、ユーリンはほくそ笑む。
(当然か。女ごときにすらモテないヤツが、男の上に立てるわけがない)「大丈夫です。ヴェスプが部下に八つ当たりしてる暇はないでしょう。だって霜妖魔の件でもともとお忙しいでしょう? ここでモタモタして山賊王の叱責を招くようなことはできないはず、捜索に避ける時間もない。せいぜいひとしきり怒鳴った後に捜す指示だけ出して、手持ちのタバコを空にしておしまいです。あなたがたはそれを陰から笑って見ていればいい。何ならタバコを恵んで差し上げるのも一興かと」
ジーノを除く3人の男たちは互いに顔を見合わせる。ジーノだけが沈んだ表情をしていた。ユーリンは事態の推移を、確信をもって眺めていた。
やがて3人の男たちは、にやり、と笑った。
「あっはっは、本当におもしろいヤツだ」「なるほどなー、そりゃアリだ、オレらに何の損もねぇ」「ただこのまま何も見なかったことにするだけってわけだ」
「まさに! そーゆうことです」
みじんの毒気すらも滲ませない望月のような笑みを浮かべて、ユーリンは満足げに首肯する。そして、皓々たる満月の明光を受けて自身の空色の瞳が最も艶やかに輝く角度を計算し、彼らに向けた。生命とは、畢竟、印象による好悪感情の支配から逃れられない存在であることを、ユーリンは知っている。神秘すら帯びたユーリンの外貌は、最後の一足を渡らせるのに十分な道を開拓していた。
「ボクの提案、いかがです?」
「ノッた」「それでいこう。オレらはココには来なかった、それでいい」「せいぜい頑張りな。オマエが捕まると具合が悪い、うまく逃げろよ」
「ありがとうございます。みなさんも金の使い途には気をつけて。派手に散財するとヴェスプのあらぬ嫌疑を招きますよ。痛い腹を探られると、とっても痛いです」
「あっはっは。そりゃそうだ」「おぉ、ソイツは怖い、気をつけるよ。……そんじゃあな。オレらは長い便所から酒盛りに戻るとするよ」「気張って逃げろよ、この山には獣がいるぞ、オマエが食われて死ぬのは、もったいないからな」
納得尽くのすまし顔で、男は腰の剣を抜いて、ユーリンを閉じ込める檻の錠にねじ込んだ。角度をつけて腕を体重を乗せて、錠を砕く。
「やっぱオンボロだなぁ」「大慌てでかき集めたモンだからな」「ま、この際、良しとしようや」
ユーリンは悠々と檻を出て、脱獄を遂げる。
ひらひらと手を振って、男たちは背を向けた。ユーリンとジーノの脱走を黙認する提案を受け入れたのである。エーテルナイフの譲渡を引き換えとして―――
(……あるぇ? 案外、あっさり成功したな……もっと拗れるかと思ったのに)
手応えのなさをユーリンが驚いているのは、彼らがユーリンの提案をすんなり受諾したことではない。渦中のエーテルナイフが、何のトラブルもなくユーリンの手から離れたことに対してである。
(まいっか。平和ならそれがイチバンだ。あばよっ、オマエとのゴタゴタは楽しかったぜェ、達者でなァ……てね。あとはジーノを適当なところで処分して、キタンさんを助けないと)「それじゃジーノさん、さっさと移動しましょうか……て、ジーノ……さん……?」
ユーリンの目には予期しない光景が飛び込んできた。思い詰めた表情のジーノが、ゆっくりと腰の剣を抜いたのである。
(……? ……いったい何を!?)
ジーノが去りゆく男たちの後ろに、音もなく忍び寄った。そして、上段からためらいなく剣を振り下ろす。
「……返せ」
「ッ!? ジーノ、テメェ!」「あぁ!? 何言ってやがる!?」
「……それは、オレと、ユーリンの、結婚資金にする。……返せ」
ジーノの極まった妄言を耳にして、ユーリンは自身の聴覚が健在であることを呪った。
(うっわ……馬鹿を極めるとクチから夢精できるんだ、知らなかったぁ。……うっへ、浴びちったよ、ちくしょう、鼓膜が腐る。ナルハヤでコイツ殺して消毒しないと)
ユーリンを含むその場の全員にとって不幸だったのは、ジーノの不意打ちを浴びた男が、右手に件のエーテルナイフを剥き身で握っていたことである。男は斬られ際、反射的にその右手を跳ね上げて、ジーノの腕に薄い剣傷を作っていた。傷にかまわずジーノは、よろめく男からエーテルナイフを奪い取った。エーテルナイフによってつけられた傷のある、その腕で―――抜き身のエーテルナイフから、満月の光を遮るように、暗緑色の光があふれ出た。
(うわぁっっっッっちゃーッ! なんつうことをしでかしてくれとんじゃいッ! このオタンチンコがぁ!)「いや、あの、ボク、これは想定してなかったからね!? ……しーらない!」
とっさに頬かむりを決め込もうとしたユーリンであったが、現実がそれを許さなかった。
「あ……? あがっ……っ……! あ……ぁぁ……」
エーテルナイフの放った暗緑色のマナは、ジーノ身体をまたたく間に覆い尽くした。ジーノの目が焦点を失い、虚ろな口を開いてうめき声を出す。斬りつけられた男たちも呆然として、声も出ない。
ジーノの身体が痙攣して震え、いたる関節が不自然に捻じ曲げられた。皮膚が変色し、不吉な黒味が混じる。瞼が吊り上げられたように開かれ、焦げたような異臭が漂い始めた。
崩れゆくジーノの様子を、ユーリンは冷淡に眺めていたが、さすがにいくらかの気まずさを覚えた。
(多少は同情する。曰く付きのマナのカクテルを無指向なまま原液で浴びるとはね。身体がもたないぞ……あぁー、もう、仕方ない、爛れた屍になるよりゃマシだったと運命を受け入れろ。……多少はボクの責任もまったくゼロてわけでもないでもないし)
現実逃避を断念し、ユーリンは覚悟を決めた。
「……出口に誘ってやるよ。自分のクチに合いそうなウンコを選んで食いつなぐのが人生だろ? ……しいて選ぶのなら、ボクのマナが、いちばん無害だ! ……気持ちはわかるが、クレームは受けつけない。……『シコり焼けしたノドチンコ晒した罪』は忘れてやるよ」
汚臭を避けるような歪な表情の下、ユーリンは凛呼とした言葉の音を紡ぐ。それは、深海の汚泥をかき混ぜるような低音の響きであった。
『———微睡みに身を包め、深き海の誘いの御手は汝の寝台に添え置かれたり』
『———微睡みに身を包め、大いなる昏き呼び声は汝の内より湧き出でん』
『———微睡みに身を包め、水神ダナリンの夢は泡沫の眼となりて汝を永久に魅了せん』
朗々と発した言葉が、ユーリン自身の胸に疼痛を招く。が、それでユーリンがいまさら我を失うことはない。失うものなど、とうの昔に喪い尽くしている。己が生涯を焼き尽くした復讐劇を遂げた残骸の後始末―――ユーリンが関羽に望んだことであり、関羽が示したその投棄先こそが、今のユーリンの大望———すなわち建国なのであった。
厳かに不吉な言葉をつづり終えたユーリンが自嘲的にぼやく。
「はー、まっさかこの忌々しい宣句を自分で言うハメになるとはね。ほんと今日は踏んだり蹴ったりだな」
魔法ではない。ただ想起させただけである。ユーリン自身の記憶の内に秘められた忌々しい光景を、エーテルナイフは所有者のマナの一部として吸収していた。
ユーリンは、自身の心象風景を熟知している。
それに基づいて、自分の心の瘡蓋をもっとも痛ましく掻きむしる言葉を、ユーリンは発したのである。
エーテルナイフの所有者であるユーリンの呼び声に従って、エーテルナイフの所持者であるジーノにまとわりつく無指向のマナに、一定の流れが生まれ、穏やかな空色に変わる。それは、エーテルナイフが蓄えていた、紛れもなく、いとも微弱で朧で頼りない、ユーリンのマナであった。
「……あっ……ああっ ……あ、ぁぁぁぁ」
ジーノの両目が光を失い、喉を裂くように大きく口が開かれた。掠れた声が小さく漏れる。
エーテルナイフからユーリンのマナが流れ込み、その心象風景がジーノの目の前に展開されたのである。
「……それがいっとうマシなんだから、仕方ない。たぶんすぐ終わるよ、きっと。……さぁさ、深海の狂信者ごっこの始まりだ。宴の肴になりそうなものは……あの満月くらいだね、創造界にはロクなもんがありゃしない、セカイ、マジ、クソ、滅べ」
ユーリンの嘆きを、ユーリンの髪と同じ色の満月が聞き届けた。
烏賊の臓物を煮詰めて固めた蝋燭は、己の血液であった。鱗と海藻でふんだんに彩られた灰色の長靴は、さすがの晩餐らしい豪華さである。オーク樽を削ってこしらえた自分の舌が、優雅に泳ぐ海蛇の尾っぽのように猛々しく羽ばたいて真鍮製の羅針盤をかみ砕く音を聴いた。鰯の皮で編んだ杯に注がれた紫色の墨汁を飲み干し、鼻腔に吹き抜ける潮騒の香りに酩酊する。思い出した。墓穴を掘り返し、空いた穴に埋めねばならない。珊瑚礁の板を削って握りしめる。土を握る手には生臭い海月がついていた。何を埋める? 決まっている。産まれたての亡骸である。この忌々しき産声を土に還さねばならない。亡骸は無邪気に笑っている。その首を右手の薬指と左手の親指ですりつぶすのが効率的であった。断末魔と産声が入り乱れる。これは何だ? 知っている。これは自分の弟妹である。月明かりに照らされた自分の子供になりえた未熟な奈落の獣たち。故に墓穴を広げるのである。4つの墓を新たに建てなければならない。なぜなら弔ってはいけないからである。墓になど埋めてはならない。墓は安住の地であるはずだ。その決意が海嘯に揺らめく。波の合間には無数の触手、夥しい数の目玉が浮かぶ。逃れられない。ならばひとつずつ迎え入れよう。そのための段取りを童歌の3番が示していた。耳の鼓膜が鰓の匂いを見た。腕を振るって取り出そう。それを切り刻まなければ蝋燭の灯火が起き上がれない。要るのは勇気であり、希望の筵であった。儚い関節が肘となって、大理石の粉末を振る。凡庸な喝采が背筋に貼りつく。もう一度、今度こそ過たず、ためらいなく足の指を折りちぎる。傷口から蝋燭が伸びた。まだ斬り落とすための肉がある。躊躇は禁忌。あの先に差し込むのだ。もっと鋭く、直角のまま、右手の触手を曲げずに……。
ジーノは一心不乱であった。狂信的な使命感に身を委ね、力の限り、切り刻んだ、血が海のように広がる。その温かさが衝動を高める。もっと、斬らなくては―――!
肉を刻む音の規則正しい韻律を、満月の光が照らしていた。
「……あっ、が……テメぇ、ジーノ……」
唯一まだ息のある男が、ジーノに恨めしげな声をかける。ジーノの耳には入らない。その男の顔にエーテルナイフを差し込み、右に左に波打たせて、恍惚顔のまま踊るように男の息の根を止めた。
檻の中に戻って避難していたユーリンと、血に塗れたジーノだけが残っていた。しかし、ジーノの心は、ここにはなかった。ジーノは、ジーノ自身の明白と信じる意志のもと、あらぬ幻想を相手に決死の覚悟で戦っていた。現実では動かぬ肉塊を、いまなお丹念にむしりとっている。
事態の発端であるユーリンも、怖気を隠しきれない。
「うっわぁ……やっぱ、世間的にはだいぶアレなんだね、ボクのアレて」
ユーリンの自傷的な宣句を耳にするなり突如としてエーテルナイフを振り回しはじめたジーノによって、徒党の男たちは殺害された。負傷を恐れることのないその剣筋は常人のものではなく、事態の急激な変遷に恐れ慄くまま、男たちは無惨に息絶えたのである。
唯一、檻の格子を隔てたユーリンだけが、唯一、正気を保ったままの観客として、その狂気の舞踏会から締め出されていた。静寂が場を包む。遠方の宴の酔声も途絶えた。
「……ほんと、ロクなもんじゃないね、ナイフ。お気に召したのなら差し上げますよ……ま、もちろんボクは、逃げますけど。……さて、キタンさんはどこかな。いや、まずは隠れようか、この騒ぎは、さすがに大将にも気づかれた」
あらぬ言葉を喚きながら走り去るジーノの後姿を見送り、ユーリンは足早に移動した。
(処理できない状況の責任を狭い頭に押しつけると、どうなるか。……答えは単純、高負荷に耐えかねて事態を散らかし始める……はずだけど、でも、果たしてちゃんと散ってくれるかな、コイツらポンコツだかんなー……)
正気を失ったジーノがしばらくは山賊連中の耳目を引きつけてくれることを計算しつつ、まずはユーリンは自身の安全を図って、闇夜に身を溶かした。
賑やかな宴が催されていた広間を、陰鬱な空気が覆っていた。静寂の中で、瀕死のジーノが口から喘鳴をこぼしている。
「ジーノ……テメェ……何したか、わかってんだろうな?」
怒りに満ちたヴェスプの声が、響く。傘下の男たちは、怯えたように口をつぐんでいた。
狂乱のただ中にあるジーノは、ヴェスプの剛腕によって取り押さえられた。口中には血があふれ、床にはジーノの歯であった石灰質の破片が散らばっている。しかし、それに同情する眼差しは、ほとんどなかった。ユーリンがかけた保険として念のために籠絡されていた幾人かの者だけが、薄っすらと驚きの顔を浮かべているばかりである。
しかし怒り狂うヴェスプは、部下たちの細かな表情に目を向ける余裕はない。
「コイツは処刑する。全員の前で、なるだけ派手に、むごたらしく、だ。……だが、だが、その前に……その前に……」
ヴェスプは激情のあまり息を絶え絶えにしながら、怒鳴り声を張り上げる。
「だがその前に、逃げた小僧を探しだせ! 何としてもだッ!」
しかし手下の男たちは、動かない。戸惑ったような目線を互いに交わすのみである。
苛立ったヴェスプがさらにがなり立てる。
「探せェ!」
「……つっても、ヴェスプさん、もうすっかり暗くなっちまって」「この状況で山の中を探すってのは、さすがに無理がある」「下手すりゃ遭難者がでるんじゃ。獣の遠吠えも聞こえますし、やめといたほうが」
おそるおそる、けれども明確に、手下連中は意思を示した。暗夜の山に逃げ込んだであろう少年を探す労力と危険を嫌ったのである。野山の獣に襲われる脅威をくぐり抜けながら山肌を朝までさまよったとしても、目的を果たせる成算は薄い。逃亡した少年がすでに獣によって生命を散らしている可能性もあり、徒労に終わる見込みが大である。
「テメェら……」
部下たちの反応にヴェスプは狼狽しかけたが、飲み込んだ。器量の不足をユーリンに看破されつつも、悪党一味の中で一応の地位を得た男である。
ヴェスプは、気乗りしない態度を示す手下連中を、最も効果的に奮いたたせる報酬を、反射的に宣言した。
「捕まえたヤツのモノにしていい! 捕らえたら、好きなように、使え! 売るなりヤルなり、好きにして良い! 小僧は、捕らえたヤツのモンだッ!」
たちまち夜の闇を覆すかのような歓声が上った。
奮い立った山賊たちは、我先にと山の闇に身を投じた。各々が松明を片手に捧げ持ち、木々の間をぬうように歩きまわる。競うように慌ただしく進路を交錯させつつも、四方に散開して逃げた少年を探していた。
「……おい、どうだ?」
「いーや、物音ひとつ、しねぇ」「コッチはハズレか。向こうに回るか?」「いや、もう少し下った先まで……」
ヴェスプの提示した報酬に血眼になった山賊連中は、忙しなく駆け回る。満月の淡い光が、宵闇のなかに木々の輪郭を描いていた。
「あんのケチ野郎もたまにはイイコトするじゃねぇか」「バーカ、ありゃただのヤケクソだろ、次はねぇよ」「なおさらコレを逃すテはねぇな」
興奮した口ぶりで言葉を交わし、闘志を漲らせる。夜の山の危険については、熟知していた。恐怖を飲み込むために、他愛もない会話を続けた。
「あの小僧を売ればいくらになる?」「さぁて、躾次第じゃねぇか」「おれ、得意だぜ、いつでも手伝ってやるよ、タダでな」「むしろ払う側だろ」
難事を踏破した先にある報酬を確認し、下卑た笑いを漏らした。どういう用途としても、一獲千金の機会である。溢れる欲望が燃料となって、高揚感が収まる兆しはない。逸る心が五感を研ぎ澄まし、風が木の葉を揺らす音さえも聴き逃すまいという姿勢である。
「……おい」
異音を捉え、声を落とす。
夜の闇の向こうに、足音を認めたのである。期待に胸が高鳴った。
「あぁ」「聴こえた」「ていうか、近づいてきてる……よな……?」「傷をつけるなよ」「殺すなよ、したら殺すぞ」
咄嗟に樹木の陰に身を潜め、徐々に近寄ってくる足音に意識を向けた。獣ではない。2足歩行である。闇夜に迷う内に進路を見失い、逃げ出した拠点方向に逆行してきたものと思われた。
口中の唾液が増して、喉を鳴らして、舌なめずりをする。
足音は一定の間隔で、地を踏みしめている。視界の利かぬ中で、駆け足である。陰に潜む徒党に気づく様子はない。
(ぎゃはははは、来やがった!)(マジかよ、嬉しいぜぇ)(最高の夜だぜチクショウが)
喜悦のあまり口の端が上がり、歓声を漏らさぬために歯を食いしばった。心の中ではすでに祝宴が催されている。
そのため、駆け寄る気配の足音が止まり、野太い胴間声で発した言葉の意味を、すぐには理解することができなかった。
「……その方ら、夜分にすまぬが、ちと尋ねたい」
その声が、自分たちに向けられたものであると悟るまで、数秒の時を要した。そんな男たちの都合に構うことなく、夜の帳を底からめくり返すかのような声が、言葉を続ける。
「銀髪の、やたら性格のひねくれた少年の行方を知らぬか? 何分、見た目だけはすこぶる良いので、一目見れば忘れられぬ姿形をしておる。おおよその位置は奇縁にて漠然とわかる故に、撒かれた髪の気配を辿ってここまでは来られたのだが、此処に至って夜目が効かず難儀しておってな。その方ら、心当たりはないか?」
ここに至って、ようやく全員が理解した。声の主は、目的の報酬の人物ではない、と。期待を裏切られた失望が怒りに変わり、弾かれたように木の陰から躍り出る。
「……っ! アァ!?」「なんだ、テメェは!」
「……問いのみに、答えよ。……否とあらば、その方らことごとくを、熟れたカシューの果実の如くして進ぜよう」
声の主が、闇を割って、迫ってきた。大柄な、極めて体躯に優れた若い男である。腰には古びた鞘の剣を下げ、小箱のような荷物を肩にかけた紐で吊るしている。全身から異様な闘志を放っており、ヒューマン族の言語を発さねば、それとわからぬほどの野性的な威圧感があった。この男と並べれば、熊や虎さえも愛玩動物といえる。
山賊は荒事を生業とするが、その暴威は弱者に向けるのが原則である。強者と戦うことに賊徒としての益はなく、それゆに強者との戦闘経験も乏しい。その乏しい経験においてさえ、眼前の男の武威は肌身で感じられた。
つい先刻まで鼻息荒く意気込んでいた徒党は、股間の痛みを生温かい湿りにしないだけで、精一杯となった。呼吸が止まり、膝関節が意思に反して萎縮する。
「う……わ……」「ひっ! ……ぃ」
「安心せい。……大方の事情は察しておる故……力尽くでも口を開かせてやるわい……尤も、儂は非暴力を望むのじゃが、な……これも天命のうちか」
男は両腕を鎌のように左右に広げ、強靭な握力で手近な2人の男の顔面をそれぞれ片手で掴んだ。2人の男が宙吊りになる。携えた武具を振るう者はいなかった。それが無意味であり、自分たちの立場をいっそう悪くするだけであることを、本能的に悟ったのである。
「さて、口を割るか、頭骨を割るか、『なるはや』で選べ。……命を取る気はないが、そのために労を費やすこともない。改めて尋ねるが……我が友は、どこだ?」
硬質な何かが軋む音が、鈍く響いた。