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スイーツ巡りのぶらり道中  作者: das
遥けき夏の霜妖魔 ~カシューナッツのカッサータ~
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(6) 霜妖魔の女王

ユーリンは単身で氷洞に戻った。陽光乏しく、薄暗く細い足場を踏みしめて、闇の道をたどる。


腰には剣を下げている。護身用としては相応の技量であるが、体躯に恵まれた戦士には遠く及ばない。かと言って分不相応と割り切ることもできず、未練がましく装備し続けていた。

されど懐には本命の武装を忍ばせている。()刀のエーテルナイフ―――奇縁あってユーリンの所有となった品である。積極的に使用する意図はないが、己の血肉の一部と認めざるを得なかった。


(ま。カタチだけはね。身だしなみてことで。使うつもりもなし、使う意味もなし)


懐のエーテルナイフが熱を帯びた。


(か、勘違いすんなよ!? 義理だかんな? ビーリさんへの義理で持ち続けてるだけだかんな? オマエの出番はないから、そのつもりで……)


懐に不吉な暖かさを感じながら、ユーリンは進む。


つい先刻、歩いた場所である。ユーリンは足腰の感覚で、その道程を記憶していた。迷うことなく、躊躇うことなく、氷のマナで燦然と輝く広間まで戻ってきた。奥には、境界として設けられた、粗末な木柵が見える。木柵を越えた向こうには洞穴が伸びており、その先が霜妖魔の王国であるという話であった。


ユーリンは雪を踏みしめながら氷の広間を横断する。

足取りに迷いはなく、腰ほどの高さの木柵を乗り越えた。


たちまち吹き付ける冷気が一層の厳しさを増す。

関羽が『死地』と断言した領域に、ユーリンは一歩を踏み入れたのである。


「さて、即死だけはマジ、かんべん。……ないよね? ないよね?」


ユーリンは緊張を噛み殺すように唇を微笑のカタチに整えて、洞穴に身を進ませた。


「———ッ!」


狭いのは、入り口だけであった。


氷マナの調和発光が、ユーリンの目を刺した。壁や天井の発光が足元に積もった白い雪に反射して、一面を光で満たしたのである。


同時に身が凍るような痛みを覚える。


猛然たる吹雪である。

雪と氷の礫の混じった———明確な殺意に満ちた冬の奔流が、真正面から押し寄せてきた。

切り刻まれるような痛みが耳朶を走り、空色の瞳を純白の雪が覆い尽くす。銀色の豊かな頭髪は後方になびき、引き抜かれるような衝撃を受けた。


「ありがたい! 歓迎はされてるみたいだッ! ……方向性はさておきとしても……相手にされなかったら、めったに拗ねないボクでも拗ねるところだよ」


ユーリンの独り言は、生命を凍てつかせる風にかき消された。


そして、洞穴が震えた。

まるで根雪を掘り起こすかのような重みのある音が、洞穴に響く。


―――退ケ


ユーリンにも理解できる、ヒューマン族の言葉である。


(……? どこから?)


ユーリンの疑問に答えるように、眼前にソレが姿を現した。

洞穴の奥から、雪を踏み固めるかのような重厚な足取りで歩き迫ってくる。


ソレは、人型の氷であった。


直方体に切り出された美しく透き通る氷をつなぎあわせて四肢として、左右の二足で行軍する氷の巨人である。

頭部の口に相当する箇所には空洞があり、風車のような構造の氷の羽を含んでいた。


ユーリンが、氷の巨人に呆然としていると、再び、声が雪を震わせた。


———退ケ


その声に合わせて、巨人の口中の氷の羽がわずかにゆらめく。

ユーリンは理解した。


「驚いた。氷の彫像の内側に空洞を作って、大気魔法の風でヒューマン族の声の音を作ってるのか。つまるところ、笛の原理……とんでもないね。ヒューマン族の声を再現する楽器を作れるか……すごい魔術精度だ」


氷細工を操作して大気魔法で他種族の声を奏でて創造する———ヒューマン族にはない発想である。

その工夫に満ちた発想に、ユーリンは吹雪の寒さを忘れるほどの感動を覚えた。が、すぐに現実に目を向ける。

魔法で操作された氷の巨人の質量は、ユーリンの貧困な体躯を遥かに凌駕する。腕の一振りだけでも、ユーリンの背骨を圧し折れるであろう。そしてその氷の巨人は、ユーリンの侵入を明確に拒絶する警告を発しているのである。


(……やさしいな)


その優しさと暖かさに、ユーリンの心がほだされかかった。

己を引き締めるようにユーリンは声を張り上げた。


「ボクはユーリン! アナタがたと争う意思はない! 友好的な訪問を、どうかお許しいただきたい」


―――退ケ。次の警告は、ナイ


「術者殿は近くに居られるはず。なにとぞ、面会の機をいただきたい!」


しばしの間の後、氷の巨人が駆動した。胴体部から伸びた2本の脚を踏み出し、腕を振り回してユーリンに襲い掛かってくる。格闘になれば、勝機は皆無である。


ユーリンは冷静に分析する。


(……可動部は四肢の付け根のみ。速さではなく質量が持ち味だね。単調動作だと信じるよ)


氷の巨人が、いよいよ目の前に肉薄した。


巨木の枝のような大腕の振り上げにタイミングをあわせて、ユーリンは氷の巨人の懐に飛び込む。その右手には、エーテルナイフが握られていた。


白い雪の世界を、不吉な暗緑色の閃光が染めた。


そして、氷の巨人は、その場で()()した。脚や腕に相当する直方体の氷塊が雪の中に落ちて砕け、粉雪が舞い上がる。ユーリンは手早くエーテルナイフを懐に収納した。


(なんだかんだで、ボクにはコレしかないんだな。……何もかも他人任せか)


ユーリンは自嘲する。このエーテルナイフを好んで使用したことはない。けれども、危難に際しては、どうしても頼ってしまうのである。


沈黙が、洞穴を満たした。それを打ち破るように、次の氷の巨人が姿を現した。たったいまユーリンが崩壊させたものと、同じ姿形である。


(術者のマナが無尽蔵てことはないだろうけど、とんでもないね。氷魔法ははじめて見るけど、つまりコレはマナ元素の精霊じゃん? ……コレ一個作って動かすのにどんだけマナ使うのさ)


2体目の氷の巨人がゆっくりと、歩を進める。

ユーリンの身に緊張が走る。今しがたのような不意打ちもどきは、何度も通用する物ではない。

覚悟を決めるユーリンを他所に、氷の巨人はユーリンとはだいぶ距離のある地点で立ち止まった。


その挙措に戦闘の兆候はひとまずみられない。

ユーリンは怪訝に思った。


(……おや?)


疑問が浮かぶのと同時に、氷の巨人の足元に異変があった。

あたかも薄氷が太陽に溶かされるかのように光が滲み、風景が混濁する。

その陽炎のようなゆらめきの向こうに、一匹の霜妖魔がいた。


キタンよりもおそらく年長の、おそらくは老齢の霜妖魔である。

霜妖魔特有の鈍い眼光で、値踏みするようにユーリンを見つめていた。


見つめられたユーリンは、負けじと視線を相対させる。

しかしその内心は焦慮で乾いていた。


(また『影魔法』!?全然気配を感じなかった。まいった、白旗だ。戦闘の勝機はゼロだね、ホント。……わかってたけどさ!)


相手の霜妖魔は、ユーリンには気配すら検知不能な精度で姿を隠蔽できるのである。正面から戦闘をせずとも、背後から忍び寄って刃物を一振りするだけでユーリンは容易く落命するだろう。


(……。ホントにおやさしい方だな。……ダメ、マジ惚れしそうだ。自制、じせい。ボクはウンチョーひとすじ。これはただの吊り橋効果で、浮気じゃない。たぶん、きっと。……ていうか節操なしかボクは……)


ユーリンが命の危機に不釣り合いな感想を抱いているところに、氷の巨人が()を奏でた。その声が、足元の霜妖魔の()()であることは明らかである。


―――何をシタ?


「争う意志はありません! けれどボクにはコレを解呪できる術がある。それをお見せしたかった。もう使いたくはない。どうか話をさせて欲しい」


―――話すことなどナイ


「あなたの声は魔法によるものだ! けれどもヒューマン族の言葉を学んだのは、術者であるあなた自身であるはず。ボクはそれを本当に『尊敬』しているのです!」


一方的なユーリンの告白に、霜妖魔の口元が引き締まる。鈍い瞳の光に、波が泳いだ。


―――戯れ言ヲ


その霜妖魔の後背にマナが広がり、星のような煌めきを発した。鋭く研ぎ澄まされた夥しい数の氷柱(ツララ)が、宙に浮いてゆらめいている。


ユーリンの首筋を、冷気ではない寒さが伝った。


(……! やっぱ、そういう使い方するよね! 氷を創れるならさ!)


突風が吹いた。


氷魔法と大気魔法の同時併用。ユーリンには不可能な、高度な魔術行使である。そして、術者の意図は明確であった。ユーリンにマナを解呪する術があるのならば、それがどの程度の手数に対応しきれるのかを見定めるのが狙いの攻撃である。


ユーリンは空色の瞳で、氷の矢を見据えた。そして、違和感を覚えた。


(うん? この角度……)


驟雨のごとき勢いで、氷柱が横なぎに飛来する。

迷っている猶予はない。ユーリンは瞬時に腹をくくった。


(さて。読み違いなら、サヨナラだ、ウンチョー……結局、()()()()にはなれなかったね)


確信のないまま、決断を下す。


ユーリンは、氷の矢を無防備のままで浴びた。手足が擦り切れ、出血する。鮮血が、足元の白き雪を朱色に彩った。

傷口に熱のような痛みが生まれ、ユーリンは涙目になる。


(いったぁ……けど、やはり……)


ユーリンは、あることを確信した。得心に表情を明るくする。

対する霜妖魔は、疑問を眼の間に浮かばせた。


―――なぜ身を護らヌ?


ユーリンは、自身から紅く滴る雫には目も向けず、ただ見惚れるように相手の霜妖魔を見て、微笑んだ。


「あなたは、ボクの急所を狙わない……まずはそう信じることにしました」


―――我を愚弄するカ。我は王国の守護を委ねられた番兵。無礼な立ち入りを試みる身の程知らずのヒューマン族どもを排除する任を女王より仰せつかってイル!


膨大なマナの沸騰が、洞穴の重い大気の内に雪を舞わせた。

足元を埋め尽くす雪がまるで身体を持ち上げるかのように起伏し、たちまち澄明な氷を成した。氷塊は膨れ上がり、カタチを創る。

ユーリンを取り囲むように、無数の氷の巨人が顕現した。


戦闘面におけるユーリンの敗北は、決定的になった。ユーリンの体術では、氷の巨人の群れをかいくぐって術者である霜妖魔にエーテルナイフを当てることは不可能である。


しかし、ユーリンはそんなことを気にもとめない。

自身の非力など、とうに痛感しつくし、嘆き飽いている。涙腺の渇きを覚えるほどの焦燥を味わいつくした果てに、今、ユーリンは、大望を志して生きているのである。その信念の導きが、ユーリンを迷わせなかった。


つい先刻まで、まったく考えもしなかったコトを、ユーリンはあたかも誠実な悲願であるかのように、言葉にした。


「ボクも霜妖魔の言葉を学びたい」


ユーリンは、確かな手応えを感じながら、死地を味わっていた。周囲を取り囲む氷の巨人たちは、ひたすらに数を増して、もはや把握できないほどである。術者である霜妖魔の意志一つで、ユーリンは容易く落命する。恐怖がユーリンの心を凍らせ、同時に、沸き立たせた。


欠陥だらけの神々が、身勝手に創造したこの世界を生きることが、苦しみばかりの地獄であるならば、せめて自分が選んだ道を、納得の末に、朽ちて死にたい―――世界を恨むユーリンの情念が、狂気に変性し、ユーリンを支える不屈の柱となっている。ユーリンは、天を蕩かすような笑みをつくって、死の気配を堪能した。


ユーリンは、内より溢れる衝動に突き動かされるまま、思考すらせずに言葉の音だけを創っていた。この場を乗り越えるために最適な音色を、何の感慨もないまま情熱的に奏で、言語化された自らの内面に、自分で驚く。


(……ボクはこんなことを想っていたのか)「……けれどもそのツテが、今はまだない。だから今はボクたちヒューマン族の言葉で会話することを許して欲しいのです」(……正直、意外だな。存外にまともそうじゃん……?)「……そして今の会話で確信しました。あなたは、せっかく学んだヒューマン族の知識を活かしたいと思っておられる」


ユーリンは、己の意志を制御せぬまま、相手の霜妖魔に音の羅列をつきつけた。


武力で勝るのは霜妖魔であるが、それは意味をなさない。気圧されたのは、霜妖魔の方である。逡巡するような間があってから、ユーリンに応えた。


―――我の役目は、我が王国に仇なす身の程知らずのヒューマン族の尖兵を冬神ムルカルンの御下に還すコト……ヒューマン族どもの言葉を学んだのは、その役目を全うするためダ


「ボクはあなたがたの王国を侵略する無礼の徒ではありません。また身の程も知っています。無役無官の流浪の身ではございますが、なればこそ端緒として振る舞える。……伏してあなたがたの女王陛下への謁見を申し入れたく存じます」


―――何の地位もない身で我らが女王陛下への謁見を申し入れるか。それこそが無礼であると知レ


ユーリンは、にっこり、と破顔した。


「……その言をたぐるに、つまりあなた()()は、ヒューマン族との対話を望んでおられますね。いつか然るべき形で、然るべき職位の人物を通して、ヒューマン族の文化と対話する機会を伺っていたのでは?」


――― ッ……!


「あいにくボクはどっかのなんかの王子サマでもないけれど、これからあなたがたがヒューマン族とのツテを広げていくつもりがあるのなら、ボクは絶好の札ですよ」


その申し出を吟味するように、霜妖魔はユーリンを観察する。


―――お前にそれ程の格があるのカ?


「いささか格落ちなのは認めますが、ボクとお話しませんか? 殺すのは後でもできるはず。ボクに見込みがないようなら、そう認めたときに始末すればよいのです。ただし、そのご判断を下す裁量は、あなたより相応しい御方が有しているのでは?」


―――お前に何ができル?


「人……特にヒューマン族と仲良くなることかけては、右に出る者はいないと自負しています。ボクには何の益得もないのですが、特にそのうちの半数(メス)に対しては常勝不敗ですから。残る半数(男性)相手も、よほどのことがなければ、まずまず」


―――無官のお前の今後に期待しろというのカ。気の長い話ダ


「もしもあなたがたが、今すぐにヒューマン族の大国との盛んな交流を望んでおられるのなら、ボクにとっては残念な結末しかありません。ですが、もしもこれからヒューマン族と交流を少しずつ、慎重に増やしていく意図があるのなら、ボクはあなたがたにとって良い札です。はたして、ボクがあなたがたのお役に立てるのであればうれしいのですが、いかがでしょう?」


しばしの逡巡の後、霜妖魔からマナが発された。

ユーリンの身体を萌黄色の光が包んだ。至るところにあった出血が収まり、傷口が治癒していく。傷口のひりつくような熱は、包み込むような温かさに変わった。


(『変成術』系統まで会得してるのか……しかもこの距離で、対象との接触もなしに物質の変成を!? 初対面のボクに!? ……こりゃヒューマンなら『大魔道』ランクだね、紛れもなく)「これは……『肉体魔法:再生』……? ありがとうございます」


―――勘違いするナ。見苦しい姿で女王陛下の御前に立つことは許さン


「それでも『まさに、やっぱり』さ。ありがとう……ねぇ、あなたの名前、教えてください。ボクはユーリンです」


―――エクロ……


それきり、霜妖魔エクロは押し黙ってしまった。氷洞内を覆う一面から氷は容赦のない冷気を浴びながらユーリンの心はポカポカと暖かかった。


(いけない、イケない。ボクは、ウンチョー、ひとすじ、たぶん、きっと)


ユーリンの数多くある悪癖のひとつ『才気ある者にすぐ惚れる』がまた発動しかけていたが、霜妖魔エクロのかたくなに対話を拒絶する態度が冷や水となって、恋心も鎮静化していた。



---


霜妖魔エクロの先導に従って、ユーリンは歩いた。起伏の多い坂道を下り、奥へと進んでいく。道幅は広く、頭上は高い。積もる雪の深さは増すばかりであり、壁面を覆う氷から発されるマナの調和発光を受けて、揺らめくように輝いていた。


やがて閉路に至った。ユーリンの先を歩く霜妖魔エクロの前方には、ゴツゴツとした岩肌が露出し、行く手を阻んでいる。


「おや? 行き止まり?」


ユーリンの疑問に対して、霜妖魔エクロは上方を指で示した。はるか頭上に、壁面を穿つ穴が空いてる。


―――あの先が、我らの王国であル


「……ついに! しかしどうやって登ってるんです?」


霜妖魔エクロが氷マナを発し、足元から澄んだ氷を隆起させた。四角く切り出された氷塊が段をつくり、王国へ至る透明な階段をなす。


霜妖魔エクロが氷の階段に足をかけて登っていった。驚きに立ちほうけていたユーリンが、あわてて後を追う。


「これは独創的な玄関ですね。実家だったら足がすくみそうだ」


―――歩めぬならば捨て置ク。ここで朽ちるが良イ


突き放すようにな態度を崩さぬエクロであるが、自ら生成した氷の階段を登るその歩幅はやや大ぶりで、不慣れな段差の高低に戸惑っていることは明らかであった。

ユーリンは、滑りやすい足元に細心の注意を払いながら、ユーリンにとっては歩きやすい高低差の階段を、感謝しながら登った。


壁面の穴をくぐると、そこは輝ける白の王国であった。

広大な空間が天高く、茫洋たる雪の白き煌めきが無窮と思えるほどに光を発している。


「ここが、霜妖魔の王国……すご……」


ユーリンは高台から全景を眺めていた。緩やかな雪の坂を下った先には、雪で組み上げた球体状の建造物があちこちに点在している。その中は住居として空洞になっているらしく、小さな穴の入り口から霜妖魔が出入りしていた。霜妖魔の秩序ある生活がうかがい知れる集落である。数え切れぬほどの多くの霜妖魔たちが、そこかしこを歩き回り、文明を成していた。


「あの、エクロさん、いくつか質問が―――」


感激に打ち震えながらユーリンが声を漏らし、衝動の赴くままにまくし立てる。


「衣服の布地はどうやって調達を? 食料は? これは、貨幣経済もありますね!? 文字は外の世界と同じですか? ならば筆記の媒体は? ……あ、あれ、まさか雪蜥蜴では!? 仲良しなんです? 種族間の秩序はどうやって―――」


―――お前の(まなこ)が飾りでないならバ、間近で見ることダ


素っ気なく応えたエクロは、ユーリンを案内するために足取り軽く雪の坂を下っていった。


「……! ありがたく!」


平地に降りると、霜妖魔たちの視線がユーリンを迎えた。たちまち、恐慌のようなざわめきが起こる。


「キッキー?」「……キ!? ッキー?」「カ! カキキッ!」「キケッー?」


(まーそーなるよね)


ヒューマン族と霜妖魔は敵対関係であり、生命の応報も珍しいことではない。霜妖魔の王国にヒューマン族であるユーリンが足を踏み入れたことに対する、当然の反応である。


何人かの霜妖魔が、氷のマナを練り始めたのがユーリンにはわかった。辺り一面には真冬のような冷気が満ちており、存分に氷魔法を行使できる環境である。ユーリンは、霜妖魔からの殺意を一身に浴びた。


「キケッ、キッキー、キキキ……キケーキッキー……」


エクロが、威厳のある態度で何事かを周囲の霜妖魔たちに話した。ユーリンには理解できない霜妖魔の言葉であるが、その内容は推測できる。ヒューマン族がここにいる事情を説明し、危険のないことを訴えて安堵させようとしているのであろう。


周囲の霜妖魔たちは、尊敬を込めた眼差しでエクロの言に耳を傾けている。エクロが霜妖魔の王国において、相応の地位と信頼を築いていることが、うかがえた。


やがて霜妖魔たちのざわめきが収まり、静かになる。ひとまずユーリンへの攻撃は控えることで合意したらしい。警戒心を残したまま、遠巻きにユーリンとエクロを観察する姿勢である。


(……今だ)


種族の違いを理由として心の機微を仕損じるユーリンではない。


「みなさん、こんにちは! 驚かせて申し訳ないです。ボクはユーリン、しばし入国をお許しいただきたく、エクロさんの案内でここまで来ました!」


天禀の声音が霜妖魔たちの胸を打った。言葉は理解できずとも、音を聴く耳はある。ユーリンの奏でる声は、美しい音色となって、聴衆の心を捉えた。つい先刻は敵意を向けていたはずの霜妖魔たちが、いつしかユーリンの次の言葉を待っている。


「ボクはみなさんとお友達になりたい。共に語らう術と時が欲しい。それらをつかむために、ここに参りました。……前途の遙遠(ようえん)ぶりは、いっそこの際はご愛嬌ということで! さしあたりボクの顔と名前だけ覚えてください。ボクはユーリンです 」


ユーリンは、久しぶりに、義理でも儀礼でもない笑顔を見せた。心底から友好を望む求愛行動としてである。


場の雰囲気が弛緩し、冬の陽気のような暖かさを迎えた。


(……いける。伝わる。やはり道は必ずある!)


ユーリンは内心で、ぐっ、と手応えを感じた。




エクロの案内で、ユーリンは霜妖魔の国を奥へと進んだ。霜妖魔たちとすれ違うたびに、 繰り返し好奇と驚愕の視線にさらされたが、そのすべてをユーリンは丁重に受け止めた。


(やっぱ、アイサツてのは、こうでなくては! 称賛だか劣情だか憧憬だかをごちゃ混ぜスクランブルした粘性の好意をハナから向けられるより、こういうビンビンした敵意を正面から粉砕するほうが、よほどイイ! 生きてるて感じだ。ゾクゾクするね)


霜妖魔たちの反応はさまざまである。あからさまにユーリンに殺意を示す者、恐れおののいて逃げ出す者、驚き立ち竦み震える者―――いずれにおいても、好意的な姿勢という評からは、天地ほどのへだてりがあった。


(良い。これは善い反応だ。だって思ったとおりなんだから。だから先は拓ける、ボクの思ったとおりの未来へ……)


ユーリンの前方の雪の野原をひときわ小柄な霜妖魔たちが群れをなして走り回っていた。霜妖魔の子供たちであると思われた。霜妖魔の子供たちは、互いに追いかけ合うように走り回り、足元の雪を丸めて投げ、大気魔法の風でそれを迎撃し、ときおり氷魔法で氷柱を生成して剣に見立てて、撃ち合いの遊戯に興じている。


「あんな子供たちまで自在に氷魔法を……噂には聞いていましたが、本当に魔法にかけては種族として卓越しているんですね」


―――ヒューマン族どもの卑しい尺度で測らぬことだナ


「ご尤もで。ただただ脱帽ですよ」


ユーリンの賛辞に対して、霜妖魔エクロの反応はない。けれども、その歩く姿にどこか誇らしげな足取りをユーリンは感じとった。


やがて霜妖魔の子供の一人が、ユーリンの存在に気がついた。興味深げにユーリンを指さし、他の子供たちもつられてユーリンを物珍しげに眺める。ユーリンにはわからぬ言葉で「キーキー」と歓声をあげた。


「こんにちは!」


ユーリンが手を振ると、霜妖魔の子供たちの動きがピタリ止まり、雪が静けさを取り戻した。


「あの子たちにご挨拶をしても?」


―――害になるなら、この場でお前を処理すル


霜妖魔エクロのあまりに迂遠な承認の言い回しにユーリンは苦笑を噛み殺した。

ユーリンは霜妖魔の子供たちに堂々と語り掛ける。


「ボクはユーリン、ヒューマン族です。今日は友好のために、あなたがたの国を訪問させていただきました。ボクはあなたがたとお友達になりたい。今はまだ通じ合える言葉をもたないけれども、いずれたどり着ける道があることをボクは知っています。まずはボクの顔と名前だけ、憶えてはもらえませんか」


まるで雪を溶かすかのような天禀の声音を朗々と響かせ、ユーリンはヒューマン族の言葉で名乗った。


ユーリンの視線が霜妖魔の子供たちと正面から向き合う。粉雪が空に舞い戻るかのように、ユーリンの瞳の空は子供たちの視線を集めた。霜妖魔の子供たちの無警戒で無遠慮な好奇心が、白雪に映えるユーリンの空色の瞳に注がれた。


「……エクロさん、霜妖魔の言葉で、友好のアイサツて、どう言うんですか?」


―――ヒューマン族の身体では、出せヌ


「難事は承知な(ことごと)く! されど先達に恥じる振る舞いを(よし)とするわけにはいきません」


ユーリンの友人(として一方的な無断認定)である霜妖魔キタンは、果敢にもヒューマン族の言葉を発することに成功している。それを目の当たりにして以来、ユーリンの胸には雪を焦がすような恋にも似た熱が満ちていた。それゆえに、挑まずにはいられないのである。


(だって、()()たいんだもん……)


ユーリン自身の自認に反して、ユーリンの行動原理は瞬間的な情動に基づいている。生来の明晰さと磨き抜かれた知性は、この激情家としてのユーリンを支える補助輪としての役割しかない。


(……やりたい! ボクだって、霜妖魔の゙言葉を使ってみたい! だって、やってみたいんだもん……)


ユーリンの決意に満ちた眼差しを受け止めて、霜妖魔エクロは渋々といった調子で手本を示した。


「キケッキーキカッ」


それは霜妖魔エクロが自身の喉でユーリンに発したはじめての言葉であった。ユーリンの胸に密やか感動が沸き起こる。

傍らの氷の巨人の口から、ヒューマン族の声の音色が響き、補足した。


———ヒューマン族の言葉に訳すならバ『寒さに満ちた天の差配に感謝を』といったところダ。我らの間では面会時の礼句として常用すル


「ふうむ。『らしさ』に満ちた風情ある口上ですね」


———我に言わせれば、ヒューマン族は風情を知らヌ。なにゆえ『今が当日であること』が面会の無難な端緒の句となるのダ?


「……? あー……『こんにちは』ですね。うーん。そういわれてみれば、なんで『当日(今日は)』が挨拶なんでしょうね……考えてみればなかなかに『無様(ぶざま)不間(ぶま)な』もんですね……なるほど、キケッキーキーカ……キケッキィキカッ……キケキーキッカ……」


ユーリンは口中で幾度かの発声練習を繰り返し、やがて納得のできる音韻に至ってそれを噛みしめると、霜妖魔の子供たちに向けて、それを放った。


「『キケッキーキカッ』」


言い切ったユーリンの顔に微かな緊張が混じり、霜妖魔エクロが好奇の視線をはじめてユーリンに向けられたことにも、気がつかない。

霜妖魔の子供たちは、驚愕に口を開いて眼をしばたたかせた。互いに顔を見合わせて安堵の拠り所をみつけたような仕草をして、ユーリンにおずおずと返答した。


「キケッきーキカッ!」「……キけッキーキかッ」「キケッキーきカッ」


ユーリンは飛び上がった。


「きたっ! 反応良好……だよね? だよね? ……いまはこれが精いっぱい。けど限界じゃないからね! いずれまたちゃんとお話をしましょう。ボクもあなたがたに歩み寄りたいんです」


霜妖魔の子供たちと手を振って別れ、ユーリンはご満悦であった。

ふと疑問に思って、傍らのエクロに尋ねる。


「もしかして、ボクがヒューマン族で、はじめて霜妖魔の゙言葉を使いました?」


―――神代(パトリア)の頃に、記録があル


「あちゃあ。ざんねん。……でも、そんな遥けき伝承を受け継いでおられるんですね。……ごめんなさい、ヒューマン族の側はそれを失伝しちゃいました。たいがいの現存する書物には目を通しているんですが、記録が残っていない。ざんねん」


―――無理もない。あくまでそのヒューマン族の個体が例外であっただけダ。我も女王陛下よりそれを伺いまで、知らなかっタ


「女王陛下から……王族の伝承ってヤツですかね」


―――否。陛下とその個体の個人的な友誼であル


「へぇ……ん? ……もしかして、()女王陛下が神代(パトリア)の頃にヒューマン族と交流した、と仰せです? ……よね?」


———然リ


エクロの返答を受けて、ユーリンの時間感覚が揺らぎをきたした。遠い遥かな過去にヒューマン族と交流した霜妖魔の女王が、現在も霜妖魔の国に君臨しているという驚愕の事実を明かされたためである。足元の雪が急に深くなったような錯覚をこらえながら、ユーリンはおずおずと、恐れ入りながら疑問を口にした。


「 ……あの、陛下て、おいくつなんですか?」


―――くれぐれも他言無用であル。2度は言わぬ


「あ、はい。承知しました」


エクロのかたくなな態度を前に、ユーリンは引き下がるしかない。

雪を踏む静けさを耳にしながら、ユーリンは思考した。


(本当に神代からご存命だとすると、とんでもない長命だな。いや……まさか、寿命がないのか? 被造物の『複製品』には必ずあるはずの寿命がない……とすると、霜妖魔の女王は、冬神の直系創造……天使と同格なのかも。それが地上界に残って、霜妖魔という種族の始祖になったのかな。ヒューマン族におけるネヴェズやオズ・ガベラみたいなもんか。……こりゃもしかして、途方もないところに来ちゃったのかな)


霜妖魔の女王が比類ない上位存在である可能性に行き当たり、いまさらながらに、ユーリンは緊張に身が震える思いだった。


そんなユーリンの心境をあざ笑うかのように、眼前には()()とわかる建造物が見えた。


巨大な氷であった。雪の結晶をそのまま拡大したかのような精緻な細工が散りばめられ、白濁した分厚い氷が壁を成してそびえたっている。地中から伸ばした氷柱のような尖塔が四方に配置され、頂上部から青白く光る氷のマナが噴き出ていた。意匠の系統はヒューマン族のソレとはまったく異なるが、見まがうはずはない。訪れる者に、主の権威を如実に知らしめるための、圧倒的な華やかさに満ちていた。


エクロの言を聴くまでもなく、ユーリンは即座に理解した。


———ユーリンよ、女王陛下の御前であル


()()は、氷の宮殿であった。




氷の宮殿に足を踏み入れる。しかし、何の気配もなかった。衛兵らしい霜妖魔の姿も見えない。

宮殿の入り口をくぐり、雪と氷の通路を歩きながら、ユーリンはエクロに囁いた。


「あれ? 見張りというか、護衛みたいな方はいらっしゃらないんです? 入城の手続きみたいな身元検めなんかは———」


———無い。不要であル


「不要て……」


エクロの言葉が意味することを、ユーリンはすぐに思い知った。


通路の終着、宮殿の広間にたどり着いたその瞬間、ユーリンは身体の痛覚を失った。神経すらも凍り付かせる冷気が、足元から吹きあがったのである。


「……っ!」


ユーリンが叫び声をあげながったのは、喉が動かなかったためである。充溢するマナの質量が、未熟なりに魔術の心得のあるユーリンの脳を麻痺させていた。


氷がひび割れるような、痛ましい音が鳴り渡った。しかしそれは、氷が精製される音であった。


「キ……ケ……」


エクロのうめき声が漏れると同時に、瞬く間にエクロの全身を氷が覆った。足元から押し上げるように氷が(かさ)を増し、柱のように形を作る。エクロは氷に埋め込まれたまま、天井近くまでつるし上げられた。


大魔道である霜妖魔エクロは、氷漬けにされた。氷の柱に閉じ込められたエクロは、身動きひとつできない。


事態の急変に、ユーリンは焦燥のまま、それを見上げる。


「!? ……エ、エクロ……さ、んっ!?」


エクロは応えない。

代わりに、深淵の窓辺に飾られた鈴のような音色が響いた。


——— 来い


ヒューマン族の言葉である。ユーリンに対する明確な指示———命令であった。


ユーリンの精神が沸騰し、反射的に、その場で最適な行動を選ばせた。


「……承知しました」


ユーリンは声のする方———宮殿の奥の方に深く頭を下げて礼をした後、命令に従って歩いた。背後には、氷柱に埋め込まれたエクロをそのまま残したまま———。


(ダメだ……振り返るな……)


ユーリンの運命観が、警報を告げていた。


(いま、エクロさんを振り返れば、ボクもエクロさんも、2人とも、即座に死ぬ)


エクロを救出するためには、ユーリンは前に進むしかない。エクロの生命の危機を背筋に感じ取りながら、ユーリンは振り返らずに、宮殿の主———霜妖魔の女王の元に進んだ。




進んだ先には、謁見の間があった。

謁見の間には、氷の玉座があった。


玉座には、王がいた。霜妖魔の女王である。


(始祖……!)


ユーリンは一目で理解させられた。


霜妖魔の女王は、雪そのもののような肌色であるが、ヒューマン族と同じ構造の四肢と顔をもっていた。一般的な霜妖魔とは、明らかに姿かたちが異なる。


現在の地上にはびこる生命体は概して神々の創造物の複製品であるが、その原型となったのは、神々が自身の権能を分け与えて創造した存在である。その原型(オリジナル)を起点とした複製(生殖)を繰り返すうちに、多種多様な種族の差異が生じた。そして、複製(生殖)という自己増殖の権能を得る代償として、寿命という枷を与えられたのである。


ヒューマン族はその原型……天使の姿かたちをもっともよく保持しているとされる。となれば各種族の原型はいずれも同様に天使の姿に似せられているはずであり———順序は逆であるが、一般的なヒューマン族の姿かたちと似通うはずである。


霜妖魔の女王がその原型に極めて近い存在であることは、疑いなかった。


(てか、すっご美人。ウンチョーが好きそう……いや違うか……いや違わないか……アイツ、年増に節操なしだからな……)


白い肌に筋の通った鼻。調和のとれた形の唇は冬の雪雲ような色である。均衡の手本のような造形の顔立ちであった。瞳の鈍い色は一般的な霜妖魔にも受け継がれている特徴であるが、女王のそれは、勁烈な意思と明敏な頭脳を示すように鋭く輝いている。神代をも視た両眼が、値踏みするようにユーリンを見下ろしていた。


ユーリンは果敢にも、女王の眼差しと向き合って、言辞を述べた。


「お初に御意を得ます。突然の訪問のご無礼を何卒……」


女王は指を振った。絶対零度の吹雪がユーリンの頬を撫でる。

もう一度、指を振った。床の氷がなまめかしくうごめき、粘土細工のように折り曲げられて、形を作った。短い四肢で地を這う雪蜥蜴の形をしている。氷の雪蜥蜴は、まるで生命そのものであるかのように流暢な動作で、ユーリンに牙を剥いて、唸った。膨大なマナの波濤(はとう)は収まることなく渦を巻き、氷の雪蜥蜴が数を増して謁見の間を覆い尽くした。


女王のユーリンを値踏みするような眼差しに変化はない。

冷気ではない極寒が、ユーリンの背筋を貫く。


このままでは、すぐに処刑される———ユーリンはそう確信し、自身の命を賭場に乗せた。


「どうかボクの話を聴いてください。ボクに敵意はありません」


ユーリンは懐のエーテルナイフを取り出し、鞘から抜き放ったのである。


夜の闇を溶かして煮詰めたような暗緑色の刀身が、氷に覆われた謁見の間を妖しく明るくする。神代到達者である当代の大魔道コウン・ハクソクの『超魔法(メタ・マジック) :解呪』と、大地の女神キルモフの直系創造バジリスクの毒牙の魔力を吸収した、神器の域にも達した神秘殺しの逸品である。その刃先を突き立てられれば、如何なる強固な魔力で身を護ろうとも、確実に創造界から葬られ、絶命を余儀なくされる―――その確実な未来を予感させるものであった。


にわかに周囲の氷の雪蜥蜴たちがその身体を震わせ、恐慌するように怯えた鳴き声をあげる。まるで命を惜しむかのような様子である。


ユーリンは右手に握るエーテルナイフを高らかに掲げた。氷の雪蜥蜴の目線は否応なく、その刃先に集まる。


ユーリンは自身の唯一の武具であるそのエーテルナイフを雪に覆われた足元に置いて、横たえた。そして自身の右足でそれを踏み、両手を挙げて静止する。武装を解除し、決定的な隙を見せ、敵意の無いことを身体で示したのである。


「貴女と話がしたい。どうかボクに一度きりの機会を恵んでください」


女王の口元が揺らぎ、興味をあらわにした。


―――それなるを鞘に収めよ


「……承知しました」


―――妾が預かる。異は赦さぬ


「御意」


氷の雪蜥蜴の一匹が怯えた態度を隠さぬままユーリンに近寄り、鞘に収められたエーテルナイフを受け取って、咥えた。

あわせてユーリンは腰に下げた剣も外す。


「……腰の物も」


———それは要らぬ。飾りであろ


「……ご慧眼で」


氷の雪蜥蜴が一目散に走り、女王の膝元に座って、エーテルナイフを女王の手に渡した。

女王は表情を変えぬままそれをしばし眺め、珍しいものを見せた褒章てどもいう態度でユーリンに言葉をかけた。


―――さて、お前ごときの敵意の有無など問題にもならぬが、王として相手をしてやろう。ヒューマン族が如何なる用向きで妾の王国に脚を踏み入れたか? 心して答えよ


「友好のために。平たく言えば、貴女にお会いしたかった」


―――殺せ。貴様らヒューマン族どもが(わらわ)の同胞を幾度手にかけた? 忘れたとは言わさんぞ


氷の雪蜥蜴がざわめき、後ろ足に力を込めて牙を大きくした。けれどもユーリンのすでに凍てついた心は動揺しない。


「ボクは殺しません! キタンさんと約束しました! そして忘れません! これをボクと貴女との約束にしたい。……ボクは約束を守ります」


―――キタン? あの徘徊者とお前が交わした戯言が何の意味を持つか。……妾の国はヒューマン族の立ち入りを禁じておる。お前はその律束を破った。死で贖え。お前の氷漬けの彫像をヒューマン族どもの忌々しい家畜置き場の肥溜めに据えてやろう


ユーリンは、青白く変色した顔のなかでなおも可憐な紅色を保つ唇を、上げた。硬直する表情筋を情熱で溶かし、笑顔をつくった。


「そのお言葉を伺って安心しました。ルールがあるのならボクとアナタがたとは、友好を結べる」


霜妖魔の女王の顔は変わらない。まるで感情を凍結させているかのように揺らぎがない。しかし言葉は激烈に、毅然たる語調でユーリンに応える。


―――友好だと? 我ら冬を尊ぶ生命と、お前たちのような冬を生きられぬ脆弱な生命が、友好だと? ……成り立つと思うか? 我らは永遠に、永劫の冬を望み続けるぞ


まるでユーリンを試すような問いであった。


(やはり……!)


ユーリンは確信した。女王はヒューマン族を敵視している。遊興のためにヒューマン族と会話をするような嗜好も、当然、無い。それが意味することは、霜妖魔の女王にはヒューマン族との交流を永劫に拒み続ける意志はないいうことである。

表面的な態度のとおりの断固たる拒絶が本心であるならば、このような言葉の応酬は無意味であり、女王の許すところではないだろう。

ただ永劫の生命という寄る辺に従って、妥協なくその機会を伺っているのである。


(ひとまず第一関門『問答無用で処刑サヨナラ』路線は回避! やったね! ……引き続き『コケたら即の即死な楽しい舞踏会』だな)


ユーリンは言葉をつむぐ。ただしその精神の立ち位置が先刻までとは異なる。


「望めば良い。理想とする世界の有り様が種族によって異なるのは、この世界の摂理です。アナタがたは永劫の冬を望む。けれどもボクは望まない。けれどもボクはアナタがたを殺さない。手を取り合いながら、異なる道を歩めばよい。望む世界が異なることのみを理由として互いを排除するのは、怠惰であるとボクは考えます」


女王に()()()ためではなく、女王にユーリンの見解を()()()ためのものであった。ユーリンはこの機会を得られた幸運を握りしめる想いで、その内奥の本領をのぞかせた。


そんなユーリンの微妙な変化を、女王は見逃さない。はしたない乙女の粗相を見とがめる淑女のような語調である。


―――解せぬな。……見ればヒューマン族にしては、たいそうな器ではないか。蒙昧というわけでもない。されど何故そのような愚かなことを企てる?


「創りたいものがあるのです」


語ることを、一時、許す―――と神代の眼が続く言葉を促した。


「ボクは国を創ります。その折にはアナタがたと友好の条約を結びたい。今日はその事前交渉として、表敬のご挨拶に参りました」


―――気狂いか。深海の眠りに誘われた屍どものような妄言よ。ヒューマン族どもの跋扈する地上のいずこに左様な夢想を叶える余地がある? 地上のあまねく果てに至るまで、忌々しきヒューマン族どもが満ちている。その隙間を縫うように他の種族が拠り所を維持しているようなものではないか。この現状においてお前の妄言を叶える余地があると申すか


「ヒューマン族の情勢にお詳しくあらせられる。たしかに、ヒューマン族の生活に適した立地にのみ目を向ければ、新興の国を建てる余地はもはやありません。しかしご存知のように、神々が創造したこの地上の生命はヒューマン族に限りません。さまざまな性質の生命が種族の特性を活かして、(きら)びやかに文化を育んでいます。そこにボクが理想を成す余地が眠っています。種族の壁を越えた緩やかな共同体連邦……それがボクの目指す道です」


―――有象の糾合か。……そんな戯言を吐いた小娘が、昔もいたな。……だがその祈りは結局は霧散した。アレもたいそうな器であったが、あの小娘をしても、ついぞ種族の壁を越えられなんだ、地上を彩る骨肉を合い食む様相が答えだ。……お前がいかなる神を信奉しようとも、神々の定めた摂理は覆らぬ。我らを創造した神々が互いの対立を続ける限り、お前の祈りは届かぬよ


不毛な対話の終演を宣告するように、女王の解答がユーリンに与えられた。

そして、ここが本幕であると、ユーリンは直観した。


ここまでは、種族間の対立がもたらした成果である。

ここからは、ユーリン個人の筋書きよる物語である。


(……さぁ、いよいよだ! はたしてボクは死ぬかな!? ……ここで死ぬ程度なら、さっさと死ぬが世のためさ……別にこんな世のために貢献なんてしたくないけどさ! 賭場に立つなら、これくらいは入場料だろさ)


ユーリンは、自身の残る全生涯という掛け金(チップ)を、ためらいなく女王の卓に積んだ。

朗々たる態度で、余すところなく、胸襟を開く。


「願いはする。されども決して祈りはしない。この神々が造った創造界において、生きているのはボクたちです。神の役割はすでに終わった。『ほんとお疲れさん、もう手を出すな』て気持ちで胸が膨らみます。ボクたち被造物(生命)は自らの足で歩むべきだ」


―――我らの冬神ムルカルンを愚弄するか?


謁見の間を覆いつくす女王のマナが、さらに色濃く殺意を帯びた。燃え盛る炎の広がりに限りがないように、冬の冷たさにも()()がないことを、ユーリンは学んだ。

しかし、対話の時は残されていた。ならば、ユーリンに迷いは生じない。ただ切々と不遜を述べる。


「ボクは冬神ムルカルンを信奉しません。けれどあなたがたは信奉する。……ボクはそれで良いと思っています。それを理由に対話を怠るのは、もったいない。ボクたちには言葉があります。それを用いて対話を続け、その一方で互いの生命の血脈をつないでいきたい。壁を越えるということは、壁を崩すことを意味しません。ボクたちは異なるままに、『壁と共に、共に生きれば』よいのです」


ユーリンの身の程をわきまえない荒唐無稽な放言が、謁見の間を静寂に変えた。

女王は沈黙している。その様子を見る周囲の氷の雪蜥蜴たちが、足をすくませて互いに身を寄せ合った。


ユーリンは震えない。

覚悟はあるが、恐怖はない。

未練はあるが、後悔はない。

大望のためには、いずれ幾度も乗り越えねばならない鉄火場である。

その端緒として堂々たる機会を手にした喜びさえあった。


(いかがです? 神に創造された尊き御方よ、この地上における数少ない真の生命よ。この矮小な複製品の僭越を、どうするのです?)


ユーリンは空色の瞳で女王に訴えた。返答を促したのである。


さしもの女王も、表情を変えた。卑笑と苦慮の混じった鷹揚な形に口元を整えたのである。


―――呆れた大言だ。身の程もわきまえず、そのような妄想に何故至ったか


「ボクを信じて導いてくれる人がいます。ボクはその人の期待に応えたい。ボクを天下の器と見込んで支えてくれる人がいるのです。そのことを想っているうちに、自然と芽生えた考えです。ボクが望む天下のカタチ、ボクにとっての理想郷。それを成すことが、今のボクの悲願です」


いよいよ女王の感情が(あらわ)になった。ため息をついたのである。ヒューマン族と同じ造形の両肩を、明らかにそれとわかるように下げて、呆れた声を出した。


―――臆面もないか。身の程知らずもそこまで突き抜けると一興よ。……されどそのための(ちから)はどうする? 非力の身で何が成せる? よしんば(ちから)を得たとして、事は成るのか? ……忌々しい光神ルグスの寵人(ちょうじん)でさえ、先日、堕ちたと伝え聞く。如何なる力を神から与えられようとも、成せることには限りがある証左よ


「あ」


場の緊張を無視したユーリンの間抜けな素の声が漏れた。


「それ、ボクです。……もっぱら個人的な事情で、ソイツを()りました。なんていうか、()ると決め果てた怨敵だったので。……ルグスは後から邪魔してきただけなんですが、結果として光神(ヤツ)の寵人を屠る結果となりました」


ユーリンは、今は女王の手元にあるエーテルナイフを示した。


霜妖魔の女王は、一瞬、ユーリンの言葉の意味を測りかねたように戸惑ったが、自らの手元のエーテルナイフが話題の渦中にあると理解し、改めてそれをまじまじと視た。雪そのものの色合いの手指でエーテルナイフを鞘から抜き、その小さな暗緑色の刃先を検める。爪先を刃の背にあて瞑目すると、やがて満面の喜悦を顔に浮かべた。


―――確かに光神の残滓がある……違えようもない……くくっ……あはははは! 太陽に陰りをもたらしたか! 愉快だ! ……よかろう、その『功績』を称えて、今日この場で殺すのは控えてやる! 愉快な小僧だ、お前の評価は保留にしてやろう


霜妖魔の女王は、ユーリンを激賞した。太陽を司る光神ルグスは、冬の眷族である霜妖魔とは根源的な敵対関係にある。その光神ルグスの勢が()がれたことは、ヒューマン族にとっては悲報であるが、霜妖魔にとっては吉報であった。


豊穣なる成果を喜ぶ女王とは裏腹に、一方のユーリンの表情は、決して明るくない。意外なところから女王の覚えが好転した困惑をこらえきれぬ心理が、本来は形の良い眉根を複雑にねじ曲げていた。


「ありがたく存じます。ですが、功績というのは、ちょっと……」


不承を匂わせたユーリンの言葉を、女王を即座に却下した。


―――間違えるな、小僧。功績を認めるのは、妾だ。断じてお前ではない。功なきものが声高に主張しようとも、妾が認めねば功績とはならぬ。同じくして、妾が功を認めたのであれば、お前が何を思おうともそれは功績なのだ。これが王権というものだ、これを侵すものは罪となる。小僧よ、身を謹むことを怠るな? ……如何に功績があろうとも、罪には罰を与えることになるぞ


「……お叱りのほど、しかと承りました。女王陛下より賛辞の御言葉を賜りましたこと、ボクの胸に秘してしかと刻み、矜持と致します」


形式的には礼節に則ったユーリンの言葉に、女王は怒りを示す。


―――あくまで妾にたてつくか


「まさか、そんな」


霜妖魔の女王の威厳は、その場すべての存在を威圧した。周囲の氷の雪蜥蜴たちが、わずかに後ずさる。ユーリンは動かない。堂々と女王の叱責を受け止めた。


―――とぼけるな。もっともらしく言葉をつないでいるが、偽りを申さずに己の意を貫かんと虚言を弄していることは明白よ。『胸に秘す』とは、妾の認めた功績をあくまで誇らぬ意図であろう。


「ご賢察、恐れ入ります」


———やはり殺すか


「言葉の不足を補うために、釈明の猶予を賜りたく存じます」


ユーリンの激情家としての性質が、光神ルグスの寵人となった怨敵に対する感情の残り火を、煽った。燃え立つ火柱のような怒りが、ユーリンを奮い立たせている。


(……そんな……ルグス絡みの汚らわしい功績なんて……持ち帰るものか……)


怒り狂うほどに冷静さを増すユーリンは、数瞬の間のうちに、自身の言の辻褄を合わせる算段をつけた。功績を拒絶する理由として何をどう釈明するかは、その実、考えていなかったのである。


しかしそれをおくびにもせず、まるであたかもかねてからそれが念願であったかのような調子で、女王に釈明した。


「胸に秘すと申したのは、それをこの場で相殺……消費する嘆願があるためです。……ボクがこの拝謁の機会を賜るに至るまでの過程について、なにとぞボク()()のすべての非礼をお許しいただきたいのです」


ヒューマン族を王国内に招き入れたことを咎められ、氷漬けにされた霜妖魔エクロの赦免を、ユーリンは望んだ。


———ほう……王国随一の大魔道の救命を、()()()()()()のように願うのだな


「ボクがソイツ(光神の寵人)を殺したのは、ボク個人の因縁のためです。ソイツが光神の寵人であったのは、ボクにとっては()()()()()()でしかなかったのです。ついでの功績はついでで使ってしまうのが気持ちよい……とボクとしては思うのです」


実際のところは、『もののついで』どころではない。光神の加護を突破する糸口を得るために、ユーリンは身を刻み魂を濁らせ、すり減らし、大切と認める人たちさえ巻き添えにせざるを得なかった。光神による創造界(エレバス)への手出しによって、ユーリンは多くのものを失ったのである。ユーリンの光神ルグスへの恨みは、いまだ晴れる兆しがない。


しかしその結果を『太陽を司る光神ルグスに対して痛撃を与えた功績』として評価されるのは、ユーリンにとっては晴天の雹霰(はくさん)でしかなかった。意図せずして得た好評、望外の栄誉……いわば霜妖魔の女王による賛辞こそ『もののついで』なのである。


この一線の在り処は、ユーリンのこれまでの生涯をかけた信念に賭けて、譲れないところであった。


女王のユーリンを値踏みするかのような眼差しが、冷たさを増した。

ユーリンは死を覚悟した。


(ボクは死ねない、こんなボクを信じて待ってくれているバカがいるからね。……けれどココだけは譲れない。……死んだら、ごめんだ、ウンチョー、許して……けれどボクは譲らない……)


大魔道という尺度は不便すぎる。謁見の間を覆うマナ密度は、ヒューマン族の尺度における最高位の魔術師の領分をはるかに凌駕している。


眼前の霜妖魔の女王―――始祖―――が放つマナの密度は、神代(パトリア)の顕現といっても過言ではない。

史書に名を遺す聖帝カイロリンの直弟子……バルバトス、ソーマ・ケル、パーペンタク、ヴェルギュール、レウケティオスといった早々たる面々にも、字義通りに比肩するのであろう。神代(パトリア)から、あるいはその以前から長らえるこの霜妖魔の女王は、被造物の複製たる生命が認識できる尺度を超えた存在である。

ユーリン一個人がこうして相対していることが、奇跡に等しい。


静かな闇をユーリンは背中に感じた。


その時、後方から足音が聴こえた。わずかな間とはいえ、共に歩んだその足音を、ユーリンは聴き違えない。


「……エクロさん!?」


氷から解き放たれた霜妖魔エクロが、謁見の間に駆け入ってきた。


霜妖魔エクロは、ユーリンをちらりと見て安堵したことを悟られぬように、素早く身をかがめて、霜妖魔の女王の眼下に、伏した。


女王が、ユーリンにはわからない霜妖魔の言葉で、エクロに何事かを告げる。エクロの身体の硬さが、緩んだ。


ユーリンはその様子をみて、霜妖魔エクロの゙赦免が女王の裁可によって受け入れられたことを、理解した。


女王の値踏みするような眼差しが、次はユーリンに注がれた。


―――さて。次は小僧だ。死を望むか?


「望みません。ボクには、やりたいことがあります。この創造界に、ボクの国を創りたいんです」


―――笑えぬ小僧だ。さては己を測るために妾を用いたな


「それは、その……お許しください……」


―――二度はないと思え。……差し当たり、今は殺さずに帰らせてやろう。貴様を屠るのは容易いが、万一にも貴様がヒューマン族の中で相応の()を得たのならば、妾にも益が生じる。ゆめ忘れるな……貴様の今後の生は、妾が下賜したものに過ぎぬことを


女王の言葉が途切れると、周囲の氷の雪蜥蜴がその姿を消した。ユーリンの首を押さえつけるかのような女王のマナが薄れ去る。


「永遠に忘れません。貴女にお会いできたこの日のことを、ボクは生涯における誇りとして、なるべくなるたけおおっぴらにして生きていきます」


それは、ユーリンの紛れもない本心であった。今、ユーリンの胸中には、霜妖魔の女王との対面を叶えた達成感が満ち溢れ、これを自身の揺るぎない矜持の支柱とする決意が生まれていた。


颯爽と、辞去の挨拶を述べる。


「では、ボクはこれで御前から失礼を」


———食えぬ小僧だ。之を妾に押しつける気か


そのまま立ち去ろうとする抜け目のないユーリンを、女王がしっかりと、咎めた。

女王は手元のエーテルナイフを、ユーリンの傍らのエクロに向けて放り投げた。


———この忌々しき物をしかと持ち帰れ。ただし妾の王国内ではエクロが預かる。そして、山の麓に降りるまで、懐に手を入れるな。山中において、お前が之を鞘から抜くことを禁ずる


「承知しました。ご命令を遵守すること、しかと約定致します」


ユーリンは逍遥として受け入れる。澄み切った冬空のように心地よい敗北感を味わいながら。


(アチャー、しくじったか。完敗だね。遥かな高みだ、とても手が届かない……こんなに誰かを見上げる想いになったのは、いつぶりだったか)


ユーリンは、関羽と出会った日の夜を思い出し、空色の瞳に感懐の光を灯した。


はじめて、女王の目に、興味のような好奇の色が浮いた。改めて、ユーリンを値踏みしている。


ユーリンの情動が熱く滾った。


(いまさら何を恐れるというのか。すでに何度死んだものか)


己を死の淵にさらしてでも、やりたいと思ったなら、やるのがユーリンである。


「……陛下、最後にひとつ不躾な懇願をお許しいただきたく」


内容次第では殺す、と冷気が語っている。


「陛下の御名前をお伺いし、後日その名を思い返す栄誉をボクにお許しいただきたいのです」


———……。……ネージュ


「ネージュ。ネージュ女王陛下ですね。ありがたく請け賜わります。……ボクはユーリンと申します」


———お前の名など要らぬ。去れ


「かしこまりました」


―――くれぐれも生き方を(たが)えるなよ? その折は、お前が冬神ムルカルンの元にその命を捧げることになる。……貧相な身体だが、見た目は悪くない。上質な(にえ)になる故、安堵して従容たる死を受贈せよ


「……精進します」


貧相な身体という評価を受けたユーリンは自身の手足が細く華奢である事実を不承不承に認め、心中で「肉、食う……肉」とつぶやき、むつけき豪傑ボディ獲得への悲願を未練がましく再燃させて、なんだかとってもムラムラした。




霜妖魔の王国を、来た道を辿って帰路につく。霜妖魔の女王が発した殺意のマナは、氷の宮殿の外にまで達していたらしい。ヒューマン族であるユーリンの生還を、すれ違う霜妖魔たちは驚愕と尊敬を込めて迎えた。往路と同じくユーリンを先導して歩くエクロに対して、事情を尋ねるらしい声がかけられたが、エクロは短くそれらに応えて、足取りを止めることはなかった。


「それしても、エクロさんがご無事でよかった。もしもボクのせいで、もしも、となったら、詫びのしようもない」


―――あくまで我がユーリンを見込んだだけダ。それが我が身の末路となるなら、受け入れのミ


「……っ! ……ご期待に応えることを、お約束しますよ」


ユーリンがエクロに飛びついて抱きしめるのを奇跡的に控えられたのは、行き交う霜妖魔たちの視線が一向に途切れなかったためである。


王国の出口付近まできたとき、霜妖魔の子供たちにユーリンは囲まれた。雪原でユーリンが霜妖魔の言葉で挨拶を交わした子供たちである。


「キッキー?」「キカキ、きー?」「キかー、キッキ?」


ユーリンは霜妖魔の言葉を、今はまだ解さない。しかし、子供たちが何を言っているか、わかるような気がした。


「キッキー。キケケキカ」


「キかー!」「きかキカー」「きカー!」


エクロが手振りも交えて子供たちにさがるように示したが、子供たちが立ち去る兆しはない。ユーリンとの別れを、かたくなに惜しんでいた。


ユーリンは、ふと思いつくことがあった。懐に手を入れて小袋を取り出し、中の粒を手のひらに広げる。ユーリンの手に転がった輝く粒を、霜妖魔たちは興味深げにのぞき込んだ。


「お別れの贈り物てことで。これはみんなで食べてね。おくちに合うとうれしいのですが」


関羽の暴走を抑え込む鎮静剤として常備しているアピの実を煮込んだ飴である。ユーリンは小袋ごとそれを子供たちに渡した。子供たちの興味はすっかり小袋の飴に移った。瞬く間に捨て置かれたユーリンは苦笑しつつ、エクロを伴って王国の出口をくぐった。


またエクロの精製した氷の階段を下りながら、ユーリンはしみじみと語った。


「……案外、言葉だけなんじゃないですかね。ヒューマン族の子供たちと、まるっきり同じ反応ですよ」


―――甘味には心をほだす()がある。あの子らがヒューマン族に不用心になっては困ル


「これは思慮が足りませんでした。では、なナルハヤで両族の交流の場を設けないとですね。もっと互いを知ることが、不幸な事故を減らすのに効果的ですからね」


――― 難題だナ


「反対はなさらないのですね」


――― 我は女王陛下のご裁可に従うのみ


「ボクはフユッソ村からはすぐに旅立ってしまいますが、それまでに先鞭をつけますよ。それに、ボクもいつかまたここに来ます。あ、あと、エクロさん、スイーツお好きでしょ? ボクの友達がヨーコノートの修行中なんです。ぜひ引き合わせたい。……スイーツ道楽の武人同士、絶対エクロさんと気があうはずなんですよ」


―――今まで、ヒューマン族と親しくしたことはナイ


相変わらずのエクロの迂遠な言い回しに、ユーリンはくすくすと笑った。


「つまりこれからは、アリってことですね。あとやっぱりスイーツ道楽ですね。……なんとなく、わかります」


エクロは応えなかった。


地表を目指して、雪と氷に覆われた道を踏みしめながら、氷洞を歩いた。陽射しの届かない冷えた道程であったが、大気魔法の作る柔らかい風が吹き付ける冷気を遮っていたことに、ユーリンは気がつかないフリをした。

やがて、霜妖魔の王国の国境である広間まで辿り着いた。みすぼらしい柵を丁重に乗り越えて、ユーリンは深々と頭を下げてエクロに礼を言った。


「お付き添い、ありがとうございました。じゃあ、エクロさんもお元気で。またお会いしましょう。あ、ボクの名前はユーリンです」


―――ヒューマン族と再会したことも、名を覚えたこともナイ


「なら、あなたの()()()は、ボクがもらいますね。必ずまたお会いしましょう。そのときにボクの名前を憶えていてくれるとうれしいです」


エクロが預かっているエーテルナイフのことを、ユーリンはすっかり失念していたような素振りであったが、エクロはその演技には付き合わず、鞘に収められた暗緑色のそれをユーリンの胸ぐらに押し込んで、物質制御の『呪符魔法』をかけて厳重に返却した。


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