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スイーツ巡りのぶらり道中  作者: das
遥けき夏の霜妖魔 ~カシューナッツのカッサータ~
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(4) 老婆ロセと霜妖魔


翌朝、関羽とユーリンは簡単な食事をルベル亭で済ませ、ヨーコノートの履修者として名高い老婆ロセの家を訪問するべく、村を歩いた。ヨーコノートの先達である老婆ロセに表敬の挨拶をしたいという関羽の希望を叶えるためである。関羽の携えるカシューナッツが、幾分でも夫カルロを喪ったロセの励ましになれば幸いとの願いもある。


昨日、ユーリンの()()を享受した村娘たちが十分に喧伝したらしく、村の中で2人とすれ違う人々の反応は好意的であった。特に婦人たちの反応は顕著であり、ユーリンの姿を見かけるや、声を張り上げて周囲から人を集めて、勝手な鑑賞会をその場で催し始めた。


「あらまぁ、これはこれは。なんというか」「評判通り……かわいいわぁ」「オバサン、うっとりしちゃう」「ユーリンちゃん、いつまで村にいるの?」「あたしも今夜ルベルさんとこ行こうかしら」「何なら泊まっちゃう?」「そうしたいわぁ……でもうちは夫が口うるさいから」


ユーリンは表面的にはにこやかにそれら無遠慮な好奇の視線を受け止めつつ、非礼にならないギリギリの精妙な邪険さで暇な婦人たちを躱して、関羽の側を離れなかった。


「そうですね。()()()()()()()には時間ができると思いますので、よろしければ()()()()にご歓談の機会をいかがでしょうか。旅の土産話などでよろしければ、()()()にお愉しみいただけると思います。日中は慌ただしくしておりますので、また()()()にお会いしましょう。ボクも楽しみにお待ちしております」


とユーリンはまるで本当に楽しみにお待ちしているかのような口ぶりで、婦人たちを解散させた。

関羽はユーリンの「ホントに鬱陶しいなこの節操なしの(すす)けた魔羅穴(マ◯コ)どもが」という声なき悪態を聴いた気がした。


喧騒が去ったあと、ユーリンは関羽をからかった。いくら身体を鍛えても華奢で可憐な少女の如き印象を与える体躯を脱しえないユーリンの劣等感を隠す悔し紛れであることを、関羽は理解している。ユーリンは自身の美貌を躊躇なく利用はするが、まったく誇りには思っていないのである。


「熟女趣味のウンチョーおじさんの目に留まる人はいたかい?」


「一晩経って、まだ飽きぬか! そも皆家庭のあるご婦人方であろうが」


「それでも夜、迫られたら?」


「……ふむ? そうさな……その場合は……その場合ならば……場合によっては……」


「考えるなよ! キミにもここに正妻がいるだろ!」


「おらぬわッ!!」


天地をどよもし、大地の女神キルモフの眠りさえ妨げるような関羽の大声を、遠くからユーリンを見守るご婦人衆が心配そうに眺めた。




ロセの家は村の端、山に近いところに建っていた。庭には料理に用いるのであろう数々の香草が植えられており、中には関羽のよく知るものもあったが、合間には雑草が目立ち、手入れが行き届いていないことがうかがえた。


関羽はその様相を痛ましく感じ、老婆ロセの心境を(おもんばか)った。


ロセの家の玄関前に立って、2人は身だしなみを整えた。

そして関羽が謹厳な面持ちで、戸を叩く。


しばらく待っても、応えはない。


「……もしもロセさんがご不在だったら、どうする?」


「前世の゙実績がある。三度までの訪問なれば、非礼にはならぬ……はずだ」


「三度も訪ねられたら、ふつう怖いと感じるんじゃない?」


「……儂も正直、あの時ばかりはどうかと思った」


ここだけの話、という関羽の気まずそうな表情が場に沈黙をもたらす。


その時、ユーリンの聴覚が物音をとらえた。ロセの家の中で、鈍く、何かを叩きつけるような音である。


「っ!? 何かあったかも!」


どうやらロセは在宅であるらしい。けれども玄関を叩く音には応えて出てこない。それがロセの心痛によるものであるか、それとも玄関に出られない状況にあるのか―――? 老婆の一人暮らしである。不測の事態が生じている恐れは否定できない。


「ロセさん!? 失礼しますね!」と言いながら、ユーリンは躊躇わず玄関の戸を開けて、中を覗き込む。


たちまちユーリンは全身を硬直させた。


そして、余裕なく荒ぶる声音を努めて抑え込むように、低く這うような囁きを発した。


「……っと、……ウンチョー!」


声の色だけであらゆる感情を表せるのが、ユーリンの特異な技能のひとつである。


そのユーリンの天凜の声が告げていた。


―――異常事態、発生


関羽の行動は素早かった。


「……!? 入室、失礼仕る!」


ユーリンが警句を発して横に飛びのいて道を譲ったのと同時に足を逸らせて戸口をくぐり、ユーリンの盾となるように身体を滑り込ませて前に出る。


ユーリンの指が示す方向に視線を集中させて薄暗い室内の気配を探り、すぐに異変の在り処を突き止めた。


関羽の形相が、変わる。


「―――っ!? な、何を召されておられるか!?」


「修羅場だ、敏速行動! 『焦がれ狂うヘルメス』よりも(はや)く!」


部屋の奥で、一人の老婆が、地に這っていた。

右手で包丁を逆手に握りしめ、刃先を床に向けて震わせている。

老婆の残る左手は、床にうずくまる『ソレ』の首をつかんで、暴れる()()を押さえつけていた。

()()は短い手足を懸命にバタつかせ、鈍い色の瞳にあらん限りの悲痛な光を宿らせている。


老婆が渾身の力を込めて、今まさにソレに刃物を突き立てようとしていることは、明らかであった。


「前衛的なラブシーン、て可能性はなさそうだね!」


「斯様な(ねや)の技巧はついぞ聞き及ばぬ!」


「キミがお詳しいタチ(性質)なのは、ネコ(ボク)にとって喜ばしいよ!」


「笑えぬ」


自身の焦りを鎮静化するためにあえて下品で露悪的な言動を選ぶユーリンの()癖は、この鉄火場においても健在であった。

ユーリンは体内のマナを平静に練り上げ、精神魔法を紡ぎながら、室内の家具を避けて懸命に走った。


一方の関羽は、全身の豊かな筋肉をしならせて、虎のように跳躍した。

椅子や机、小さな棚などの行く手を遮る家具を踏み越えて、飛ぶ。

戸口から老婆の傍らまで大きな一歩で迫った関羽は、咄嗟に腕を差し出して、まさに振り降ろされた包丁の刃先を受け止めた。


墨子の守る城壁のごとき堅牢さの肉壁に行く手を阻まれた刃物は、鈍い衝撃を逆に老婆の腕に返して、痺れさせる。


「―――えッ!?」


「失礼、本意ではなかろうと存じます」


事態の急変に驚きうろたえる老婆に構わず、関羽は素早く老婆の手首を保護して刃先を横に逸らした。


関羽は、ちらり、と老婆の握る業物に目を落とす。水に溶けるような静かな輝きの、使い込まれた包丁であった。


「もったいないことをなさるのですな」


「な、なんだい! アンタたちは! 邪魔をしないでおくれよ!」


「儂の素性ですか。名乗りは後ほど、伏してご挨拶申しあげる所存。されど、その手の刃物、誠に美しゅう存じます。誇りを抱いて日々の美食を紡ぎ続けた、真なる慈愛の光が見えるようです」


関羽はあくまで丁重な態度のまま、老婆ロセの武装解除を試みた。

老婆の握力が関羽の指先の力に抗うことなど、不可能である。

関羽は老婆の握る包丁を、静かに、されど穏和に奪い取った。


そして、恭しく包丁を掲げ持ち、見惚れるように眺めた。


「貴女様の事情はわかりませぬが、然程に磨きあげた貴女の、生涯にわたるこれまでの集大成の如き包丁を、憎しみの血で染めて汚すことは……なんというか、痛ましく、もったいのうございます。これなる刃物は、食にもならぬつまらぬことに用いるような、下等な歴史(これまで)ではございますまい」


磨き抜かれ、輝くような出刃包丁を、関羽は手近な棚の上に乗せ、老婆の手元から遠ざけた。


「包丁には包丁の、鎌には鎌の、槍には槍の、つまりはそれぞれの用途があるはず。つまらぬことには、つまらぬものを……儂のようなつまらぬ者を用いましょうぞ」


床に横たわるソレを、関羽はジロリと睨んだ。


「そこなワッパ、霜妖魔めがなにか御身に不穏を企みましたかな」


関羽の足元の床には、霜妖魔が転がっていた。昨日、森の中で関羽と物々交換をした例の霜妖魔である。短い手足を弱々しく動かし、濁り雪のような肌を床板に擦っていた。右手は、布包みを握りしめている。


関羽はじろりと霜妖魔を観察する。霜妖魔が目に悲しげな光を宿していることが、関羽にはわかった。


(おぬし、泣いているのか? 何を訴えようというのだ?)


「……キー……ちー……キチぃぃ……カ……」


床に横たわった霜妖魔の口は、たどたどしく、もどかしそうに、何かの言葉を編もうとしているかのようであった。

やがて、霜妖魔の大きな目から、一筋の雫が垂れ、床に落ちた。


(己の不甲斐なさを嘆くか。(おとこ)の涙であるな)


事情もわからぬまま、関羽は霜妖魔の心情を(おとこ)の理論で汲み取った。


関羽に保護された老婆ロセは、その霜妖魔を憎しみのこもった目で見下ろしている。そして、アガレスの地獄のような色合いの、灼熱の怨嗟の声をロセは発した。


「企み……?……ソイツは、ソイツらは、アタシの夫を殺したんだ!」


老婆の悲痛な慟哭が、薄暗い家屋に殷々と響いた。


霜妖魔は、ひときわ大きく叫んだ。


「キー……き…………キッキッー!! チー!」


霜妖魔の言葉にはならぬ叫びの意図が、関羽には理解できた。


「ふむ。……コヤツ目は『それは違う』と言うております」


関羽がそう言うと、霜妖魔の叫びが収まった。かすかな希望の兆しをつかんだような目で、関羽を見ている。関羽が前世から幾度も向けられた、力なき者が救済を請願する、儚くも懸命な眼差しであった。


喫緊の事態が去ったことを理解したユーリンが静かにロセに歩み寄り、『精神魔法:鎮静』を発動させた。


「ロセさん、ボクたちとお話をしましょう」


ユーリンの空色の瞳に吸い寄せられるように、老婆ロセはそれを見つめる。やがて落ち着きを取り戻した様子のロセに、ユーリンは安堵する。ユーリンが身に宿すマナの総量は非常に乏しく、初級の精神魔法さえ自力では安定行使できないのである。(つたな)い『精神魔法:鎮静』が成功したことを、ユーリンは確認した。


ユーリンは、関羽に言った。


「ウンチョー、なんで霜妖魔なんかの言いたいことがわかるのさ」


「結局食べぬと決めはしたが、一度は食材とみなしたゆえに、なんとなくわかってしまうのだ。コヤツは……コヤツは、誤った嫌疑をうけた無念に満ちている……ような気がするのだ」


「キミというヤツは、ホント、ホントに腹で生きてるんだね。いいよ、それでも大好きさ。正妻の余裕ねコレ」


ユーリンの軽口を聴き流し、関羽は霜妖魔に言った。


「早い再会だな、ワッパ! あの林檎の氷菓子は見事であった! 魔法を使えぬこの身を残念に思ったのは初めてのことぞ、アレは儂の手では決して作れぬ。……して、これは果たして、どういう状況なのだ?」


「キー……キーっ、キーキー」


霜妖魔は立ち上がり、跳ねるように身体を上下させながら、関羽に訴えるように鳴いた。


関羽は困ったように首を傾げる。


「わからぬ。ユーリン、そなた、わかるか?」


「知るわけないから、知らないよ! これから聞こう! ……キミのスイーツ道楽のためにね」


ぼんやりとおぼろな目で霜妖魔を眺める老婆ロセを見て、ユーリンは言った。




ヨーコノートの履修者として評判の老婆ロセ宅の中で、霜妖魔を含めた会談の場が設けられた。関羽はロセに断って手近な机と椅子を借りて、霜妖魔をヒューマン族と同様に椅子に座らせる。霜妖魔は短い手足を器用に動かして、少し不思議そうな表情をしながら椅子の感触を確かめつつ、おとなしく席に着いた。


関羽は老婆ロセに自らの立場や来訪の目的をまず告げる。老婆ロセは神妙にそれを聞き、納得を示した。


「そうかい、スイーツ巡礼ね。うれしいねぇ。久しぶりのお客さんだ。歓迎したいところなんだけどね……」


「決してご無理にとは。ご事情は聞き及んでおります」


「……すまないね。どうしても、今は厨房に立つ気が起きなくてね……」


「ご心痛のほど、お見舞い申しあげます。……本日はご挨拶と、こちらの収穫のご報告に参った次第です」


関羽は腰に下げた巾着から、カシューナッツを取り出し、机に並べた。霜妖魔が「キーキー」とつぶやくのに構わず、老婆ロセは眼を開いてそれを凝視した。吸い寄せられるように、慎重にカシューナッツを指でつまみ、しげしげと眺め、大切に温めるかのように(たなごころ)で包んだ。


「こりゃあ驚いた……カシューナッツじゃないか……ウンチョウさん、どこでこれを」


「近くの森の中で、樹に実っているのを手にしました。希少なものと伺いました」


「そうかい。まだこの辺りにも、残ってたんだね。この頃すっかり数が減っちまってね。植樹もうまくいかなくて……芽吹かないんだ、きっと土と気候が変わっちまったんだろうって。新しい樹をあの人がさんざ探しても見つけられなくて、あの人は落ち込んでたんだ……良かったよ、ありがとう。アッチに逝ってから、あの人に良い報告ができるね」


「……樹の場所は村の者にしかとお伝しておく所存。またいずれロセ殿にご活用いただける日を迎えられれば、重畳に存じます」


「そうだね、いずれ、また、ね」


老婆ロセはカシューナッツを両手で握りしめ、目をつむり、祈るような姿勢になる。それが亡き夫君カルロ氏への声なき語りであることを、関羽は肌で感じとった。関羽は姿勢を変えず、けれども心中で老婆ロセに倣い、祈りをささげた。


霜妖魔は口を閉ざして老婆ロセを観察している。ヒューマン族の言語を発することはできないが、霜妖魔とヒューマン族は意思疎通ができる———関羽とユーリンは先日のこの霜妖魔との商談でそれを知っていた。ただしヒューマン族とは生来の習俗が相容れぬために、誤解や衝突が繰り返されるのであろう。それでもこの霜妖魔は老婆ロセの心境をおそらく正確に汲み取っていると、関羽は確信できた。けれども関羽にはどうすればよいかが、わからない。この場において霜妖魔に僅かばかりの手助けをしてやれれば、どれほどの成果が得られるであろう……それを戦機として本能で直感できても、どのように霜妖魔を助ければよいのかが、この世界に転生して歳月の浅い関羽にはわからないのである。


そんな関羽の様子を見ていたユーリンが、「仕方ない」という諦めたような表情で、隣の椅子に座る霜妖魔の肩を指先でつついて霜妖魔の視線を自らに誘導した。霜妖魔は促された通りにユーリンに目を向ける。ユーリンの空色の瞳と、霜妖魔の黄色く濁った瞳が、交錯する。視線を合わせるだけで相手の信頼を勝ち取るユーリンの天性の資質は、霜妖魔を相手にしても健在であった。霜妖魔はユーリンが何を伝えたいのか見極めるかのような、慎重な顔になる。それを確認した後、ユーリンは霜妖魔に手本を示した。瞑目して胸に手を添え、形式に沿った弔意を表す姿勢をとったのである。霜妖魔は小さく「キー」と鳴き、ユーリンに倣って、短い手を自らの胸に添えて、瞑目し、カルロ氏への弔意を捧げた。ユーリンは目の光だけで霜妖魔に「じょうでき」と伝えた。


関羽はユーリンに「感謝する」と心中で告げた。

ユーリンは関羽に「内助の功ね」と心中で応えた。

2人は無言でうなずきあった。


霜妖魔は一心にカルロ氏への祈りを捧げている。それが偽りのない真摯なものであることは、誰の目にも明らかであった。

老婆ロセにもそれは伝わったようで、ロセははじめ驚いたような顔をしてその霜妖魔の態度を疑う目つきであったが、次第に光が顔に差し込み、やがて温和な面持ちで霜妖魔の弔意を受け入れた。


「アンタ……アタシの夫のために、祈ってくれるのかい」


「キー! ……カクー、コー……カクコー……ココカ、ココカキー」


「……ああ。よくわかったさ。アタシの夫を殺したのは、アンタじゃあないんだね。……さっきはすまなかった。取り返しのつかないことになるところだったよ。……ウンチョウさん、ありがとうよ」


霜妖魔に詫び、関羽に感謝し、老婆ロセは憑き物の落ちたように平静な顔になった。一連のやり取りが、ユーリンの『精神魔法:鎮静』の効能を超えて、ロセの荒ぶる心中を落着させることに成功したのである。


関羽は朗らかにロセに応えた。


「事情も知らぬままに強引なことを致しました。悪い結果ではなかったようで、安堵しきりにございます」


関羽は頭を垂れて老婆ロセに敬意を表した。そんな関羽を見て、老婆ロセには閃くものがあった。


「……ウンチョウさん、あんたヨーコ様の選んだ履修資格者だね」


はじかれたように関羽は椅子から腰を上げて、起立する。


「……! おわかりになるのですか!?」


「そりゃあ、ね。なんていうか、雰囲気が違うのさ。ヨーコ様が選んだ人ってのは……アタシも大勢と会ってきたけど、みんなそういうもんなんだよ。……助けてもらっておいてアタシが言うのもおこがましいんだけど、アンタはいずれ飛び切り良い『紡ぎ手』になれるよ。精進しな、アタシの生きてるうちにね……アンタの作ったスイーツも、いつか食べてみたいね」


「うぉぉぉおおおおおおお……っ!」


熟練のヨーコノート有資格者である老婆ロセの賛辞を受けて、関羽は感極まって、外聞もなく落涙した。

老婆ロセと霜妖魔が、そろって呆然として口を開ける。

ユーリンがあわてて釈明の言を述べた。


「……すみません。コイツはこういうヤツでして。かの大海賊ファラマーにも劣らず勇敢で、『アガレスの魔獣』や『バジリスク』を相手取っても(つゆ)ほども怯むことはないんですが、ことスイーツに限っては、泣き上戸の笑い上戸の食いしん坊でして……ほら、ウンチョー、どうどう、飴ちゃん舐める? ……落ち着け、人里で咆哮すんな」


「まことに、まことに! 光栄の極み! この関雲長、身命を賭してスイーツ道に邁進する所存……っ!」


「わかったから、ウンチョー。まず座りな、腕立て伏せはしなくていいから、キミの胸板はすでに十分な厚みだろう、ていうかいまトレーニングしなくていいから。……ウンチョー、座れ。まず座れ。ここだよ? 椅子ってわかる? ……座れや、ゴルァ!」


ユーリンに叱られた関羽は筋肉トレーニングを中断して椅子に座り、あわてて老婆ロセに謝罪した。


「うおっほん。……失礼を致しました」「まったく致し尽くした感じだよ! つくづくキミ無敵だな?」


ユーリンが押し付けてくる飴を関羽は口を広げて受け入れる。取り澄ましたような表情には戻ったが、損なわれた威厳は戻らなかった。




気を取り直した関羽が、霜妖魔に尋ねた。その口調はわざとらしく重々しいものだった。


「して、霜妖魔よ。おぬしのことだ。ロセ殿に如何なる用向きであるか?」


「キケー……キケッ!」


霜妖魔は、机の上にカシューナッツの山を広げた。


「儂のカシューナッツではないか」


「ウンチョー、もうキミのじゃないよ? 納得して手放したでしょ?」


「ぬう。そうであった。……どうにも食材を一度手にすると、なんと申すか、未練や執着が……」


「キミというヤツは……」


呆れるユーリンから目を外し、関羽は霜妖魔に言った。


「察するに、おぬしはコレなるをロセ殿に届けに参ったのだな」


「キケ!」


「ふぅむ。その心がけは善きものとしてもだ、おぬしはロセ殿のことを知っておったのか?」


「キー……カクコ……キー……」


霜妖魔の態度は煮えきらない。それが、伝えるべき言葉を探すものであることが、関羽にはわかった。


「……アタシと面識はないよ。霜妖魔の知り合いなんて……」


「カクコ……ココカキ……キー……」


「……先刻も漏れ聞こえたことですが、カルロ殿は霜妖魔めに殺められたのですか?」


「キー! キーキーッ!!」


霜妖魔は荒々しく抗議した。老婆ロセの夫であるカルロの死について、断固たる身の潔白を主張する態度であった。


「そうか。違うか。……相わかった、ひとまずは信じよう。されど説明のつかぬことが多いのだ。おぬしの口から語ってもらえれば話は早いのだが……」


霜妖魔の知能は人間―――関羽たちヒューマン族と比較しても劣らない。関羽たちの会話に正確な反応を示すことからも、ヒューマン族の言葉を解するほどの知能を有していることは明らかである。しかし身体の構造が異なるため、ヒューマン族の言葉を音として発することはできない。


「なにゆえおぬしは、カシューナッツをロセ殿に届けようと考えるに至ったのだ? どうにかしてその経緯を知りたいのだが……」


「……キッ!」


意を決したように霜妖魔は立ち上がった。

そして、ちらり、とロセを見て頷き、関羽とユーリンに対して不安そうな目を向ける。


「ふむ?」「なんだろね」


霜妖魔は、両の手のひらを天井に向けて、神妙な面持ちになる。


その場で唯一魔法の心得のあるユーリンが、顔色を変えて警告した。


「魔法を使う気だ!」


「キケッ!」


ユーリンは椅子から立ち上がって、懐のエーテルナイフを握りしめる。しかし関羽は動かない。


たちまち、マナの奔流が起こった。魔法を扱えぬ関羽の目にもそれとわかるほどの、圧のある光が霜妖魔の身体を包んだのである。


「っ! ウンチョー!」


焦るユーリンと対照的に、関羽は泰然としている。霜妖魔の目が、関羽を真正面から見据え、言葉に頼らず雄弁に物語っていたためである。関羽には霜妖魔の伝えたいことがわかった。


「案ずるな」


「でも……」


「コヤツに敵意はない。……であるのに決死の覚悟だ。事情は知らぬが、使命のために命を賭しておる。汲んでやらねば男にあらず。共に見届けようぞ」


それでもユーリンは何かを言いたげだったが、関羽の雄大な気迫を前に力尽きたように諦めのため息をついた。


「……惚れた弱みね、コレ」


ユーリンは警戒心のぬぐえぬ眼差しのまま、椅子にどさりと腰をおろした。霜妖魔の発するマナが、ユーリンを遥かに凌駕する――― 一流の魔術師に比肩する質量であることが、乏しい才のなかで魔法の研鑽を積んだユーリンには恐ろしいほどに感じとれるのである。


「アレが攻撃魔法だったら心中だね。……ま、キミとなら悪くないか」


「……軍神を信じよ」


幻惑するかのような妖しい光が、薄暗い屋内に広まった。蜃気楼のように朧な風景が描かれる。魔法の織り成す光が多彩に変色し、その場にはないはずの光景を描いたのである。それは青々しい木々に囲まれた森の中の様子であった。


一人の年老いた男がいた。すっかり髪もヒゲも白くなり、顔には深い皺のある、柔和な眼差しの中に理知的な光を宿した老人である。


老婆ロセが、その幻影の中に生きる老人を見て、声を震わせた。


「カルロ……」


ユーリンは、全身を硬直させた。信じがたいものを目の当たりにしたためである。


「太陽魔法!? ウッソでしょ、まさかそんな……冬の眷属が―――雪と共に生きる霜妖魔族が―――太陽魔法を?」


霜妖魔の手が、震えている。額には汗が浮かび、口元は固く結ばれ、歯を食いしばっている。苦痛を堪えて太陽魔法を行使している様子である。


霜妖魔がとてつもない難事に挑んでいることが、魔法の素養のない関羽にも理解できた。


「だいぶ無理を利かせておるようだが」


「うん、霜妖魔と太陽魔法は相性が悪い……ていうか天敵に近い。マナの系統が根本からそうなってるんだ。太陽のマナを霜妖魔の体内で練るだけでも相当な苦痛を伴うはず。ボクらが真冬の厳冬に否応なく凍えさせられて苦しむようにね」


「映像は真実であるのか?」


「おそらく。太陽魔法はあの忌々しい光神ルグスの管轄だからね。ルグスはあのザマでも真実を司る神でもある。だから偽心で行使できる魔法じゃない……まして霜妖魔が苦手な太陽魔法で虚偽を編むなんてことは、まず不可能だろう。これは霜妖魔の心にある本物の記憶として、ぜんぶ信じて良いはずだ」


霜妖魔は太陽魔法の成す光を巧みに応用して、今は亡きカルロの姿を描き出したのである。


幻の中の、老人カルロが言った。心配そうに、覗き込むような顔が拡大される。音ではない声が、頭の中で響く


―――ふうむ……霜妖魔か。暑さにやられたんじゃな。……どれ、採ってきたばかりの氷じゃ。口に含んでみろ、楽になる。……うん、動けるか。これで一安心じゃな。ふふ、そう喜んでもらえると、苦労して採ってきた甲斐があるのぉ


安心した様子のカルロの姿がぼやけ、消える。


そして、新しく次の映像が投写された。またカルロの姿が映っているが、背景の木々の葉は落ちて枝ぶりがさみしくなっており、違う季節であることが伺える。


―――おお、久しぶりじゃな。壮健そうではないか。今日もオマエさんたちの氷を、氷洞でちょいとばかり分けてもらってきたところじゃよ。だいぶ腰にきたがな。ワシも歳だな、昔のようにはいかんな。……オマエさんは元気じゃなぁ。もう涼しくなってきたからな


―――そうか。気に入ってくれたか。うちのカミさんのカッサータは絶品じゃろ? オマエさんにもらった氷のおかげで、溶かさずに冷たいままここまで持ってこれた。気に入ってもらえて良かったよ。……この仕組みをもっとうまく使えれば良いんじゃがなぁ……だんだんとヨーコ様のお考えが、ワシにもわかるようになってきたよ、齢の功というやつかな


映像の中の季節が、また変わる。蒼い空には雲が深く、木々には葉が生い茂っていた。夏である。


―――あはは。オマエさんたち霜妖魔にとっちゃ、今日みたいな暑い日は辛抱が効かんじゃろ。無理をせんで良い、またオマエさん、行き倒れになってしまうぞ。カシューの樹はそうそう簡単に見つかるもんじゃない。……ワシの足腰が動くうちに、新しい樹が見つかればいいんじゃがなぁ。……お前さんは本当に『カシューナッツのカッサータ』が好きなんじゃな。ワシも鼻が高い。……もしもワシが死んだ後にカシューナッツを見つけたら、うちカミさんに届けてやってくれんか? ……すまぬ、すまぬ、当面は健在じゃよ


―――うーん、牛に興味があるか。たぶんじゃが、オマエさんは近寄らんほうがよいな。牛は体温が高いんじゃよ、手で触れればきっとヤケドする。うまい牛乳ならワシに任せておけ。ワシとオマエさんの役割分担じゃな。オマエさんたちの氷には随分と助けられておる、気兼ねなぞせんでいい、交換じゃよ、交換。ワシも歳でな、昔のように氷洞に潜るのは辛いんじゃ、オマエさんに助けてもらわねばとても氷を採ってこれん。……いつもありがとう


幻影の中の老人カルロは、優しそうに、けれども誇らしげに、微笑みを霜妖魔に向けた。


そして光が霧散する。室内はまた薄暗くなった。霜妖魔の疲労が極に達し、太陽魔法を維持できなくなったのである。


沈黙が訪れた。老婆ロセは、涙ぐんで口を手で覆っている。


霜妖魔は床に座り込んだ。ユーリンが駆け寄り、床に膝をついて霜妖魔と目を合わせて、言った。


「アナタはカルロさんと……友達だったんだね?」


我が意を得たり、と霜妖魔がにやりと笑い、拙くとも誠実にヒューマン族の言葉を編んだ。


「……キ……キケ! カルコ(カルロ)コモガチ(トモダチ)!」


霜妖魔の()()()言葉を耳にして、関羽は唸った。


「……恐れ入った」


霜妖魔が、ヒューマン族の言葉をたしかに発声した―――その光景を目の当たりにしたその場の全員が、驚愕を受け止めている。


突如としてユーリンが感極まって、叫んだ。


「ボクはユーリン! ユーリン・クゲビト。賢明にして異才を持つ霜妖魔殿、貴方の゙知遇を得ることを、どうかお許しいただきたい! ここに祭壇を設けて今日という日を歴史の中に刻み残し、以て交誼の証としたい!」


断りもなく自宅を祭壇にする提案をされた老婆ロセが、もちろん困惑しきった顔になる。霜妖魔もユーリンに対して、突然何を言い出したんだ? と正当かつ遠慮のない疑問をぶつけるような顔であった。


興奮して周りの見えなくなっているユーリンに代わって、関羽が釈明した。


「すまぬな。この者は稀代の人気(じんき)の器量を備え、頭脳も明晰で時流を読む勘も鋭敏なのであるが、人に惚れ込むとたちまち周りが見えなくなるという習癖がある。ユーリン、そなた、落ち着け、方向性はともかくとして、質と量が一般的な常識から逸れておる」


「貴方という人を知った今日という日をボクは永遠に記憶しましょう! 苔むす(いわお)が砂に還るその刻まで、不朽の゙尊敬と親愛を貴方の御手に捧げたい。どうかボクの想いを受け止めてはいただけませんか?」


「まてまて、そこな霜妖魔に友誼を申し入れるにも順序と段取りがあろう。……まずは自身の想いの募りを明文化した(ふみ)をしたためてだな、吉日を選んで使者に届けさせるのが常道よ。……うっ……前世で曹公から頂戴した(ふみ)のことを思い出してしまったわい……あれには参った……ともかくユーリン、そなた、落ち着け……ダメか……ロセ殿、不躾ながら厨房をお借りしたい、茶を淹れて参ります……ええい、そなた椅子に座れ、いま茶を用意するゆえ!」


ユーリンをその場に残す不安を抱えながら、関羽は茶を淹れるために席をたった。




結局、家主であるロセが茶を淹れた。関羽とユーリンには湯気のぼる佳い香りの茶を渡し、霜妖魔には冷えた果汁の水割りが出された。


恐縮しきりのユーリンは「恐縮です」と確認のようなことを、消え入りそうな声でつぶやく。


関羽は茶をすすり、ロセに礼を述べてから、ユーリンをたしなめた。


「そなたも、たいがいぞ?」


「……厳粛、なう」


そんな関羽とユーリンのやりとりを眺めていた老婆ロセは、冗談めかして、言った。


「アンタたち、似たもの夫婦だね」


「違います」「そうです」


2人の返事を聞いて、ロセは笑った。


そして、慈しむような懐かしさの混じった声で、ロセは霜妖魔に質問した。


「ねぇ、霜妖魔さんや。アンタの名前、教えてもらえないかね。あの人の友達のことを、知りたいんだよ」


「キケッ! キー、キカッ……キカ……キキー……」


霜妖魔は、ヒューマン族の声の音を作ろうと何度か試みたが、自身の発声に満足せず、往生して断念した。すると、霜妖魔はテーブルに積まれたカシューナッツをつまんで動かし、並べて、テーブルの上に描いた。


『キタン』


と読める。

霜妖魔キタンは、ヒューマン族の字を書いて、自身の名前を示したのである。


ユーリンの中で恋い焦がれるような激情が再燃したのを察知した関羽は、咄嗟にユーリンに「そなた、浮気か? ……別に一向に構わんが」とささやいて、ユーリンを強引に落ち着かせた。


ロセも霜妖魔キタンに感心しきりである。


「キタン、それがアンタの名前かい」


「キケッ!」


「キタンさんや、ありがとう。改めて礼を言うよ。あの人と仲良くしてくれたんだね。うれしいよ……」


しみじみとした口調で、ロセは霜妖魔キタンに心からの礼を言った。


そして、意を決して、訥々と語り始めた。まるで懺悔をするかのような表情である、


「……あの人の身体にはね、氷がついていたんだ」


『身体』というのが、亡き夫カルロの『遺体』を意味することは、ロセの苦しげな話しぶりから伝わってくる。


「胸にぽっかりと穴が空いていてね、背中から刺されたらしい。……そして背中にはびっちりと氷で覆われていた。……あの人がいつも氷を採っていた氷洞のあたりだったそうさ。……だから氷洞の奥にきっと霜妖魔の巣穴があるんじゃないか、それで殺されたんだろう、とね」


老婆ロセが、自宅を訪れた霜妖魔キタンに刃を向けた動機が、明かされた。弁明し、許しを乞うかのような口調である。関羽とユーリンは一言も発することがない。


霜妖魔キタンが、口を開いた。


「キー……キケッ」


ロセに出された果汁の水割りを飲んで気力を回復させたキタンが、再び太陽魔法の行使を試みる。ユーリンはキタンの身を案じて不安に狼狽した。


「そんな、キタンさん、御身体に障ります」


「ユーリン、男のすることだ、擦り切れるまで、手出し無用である。もしも倒れたらば、その時に介抱すればよい」


霜妖魔は、信頼に満ちた眼差しで関羽を見つめ、感謝を表した。

しかし、何かに躊躇するような迷いがある。その光景をここで映してもよいのか、判断にあぐねている様子であった。


関羽は、洞察した。


「そういうことか。ロセ殿、次はお辛いものを目の当たりにすることになりましょうぞ」


老婆ロセの覚悟を問うた。

この関羽の助言で、ロセも理解した。これから映し出されるものを察したのである。


「……そういうことかい。キタンさん、見せとくれ。知りたいんだ」


「よいのですか」


「ウンチョウさん、アンタ、アタシが何年生きてると思ってるんだい? これはアタシのケジメだよ」


きっぱりと、ロセは腹をくくり、手近な椅子に深く腰を下ろした。どのような光景を目の当たりにしようとも、決してそれから逃れないという意志である。


そんなロセの勇ましい姿を見たユーリンは、感じ入って目元に尊敬の色を滲ませたが、すぐに自嘲的な苦悩に口元を歪ませた。こっそりと、ロセには聞こえぬように、関羽に耳打ちする。


(……ウンチョー、やっぱりボクは性格が良い)


(突然どうした? 茶に素性の悪い酒でも混じっておったか? 錯乱にしても、そこまで信憑性の欠如する妄言を口にするとは……)


(ごめんね、後で話すよ)


ユーリンは表面的にはにこやかに、まるで当然の段取りを確認するかのような口調で、霜妖魔キタンにいったあ。


「……じゃあ、次だね。ロセさんも望んでいることだし、()()()()カルロさんに()()()()を見せてもらいたいんだ。……お願いね」


ユーリンの要請に、霜妖魔は不思議そうな顔をする。含みのある言い回しの、意味はわかるが意図がわからなかったのである。

霜妖魔の目が迷い泳ぎ、ユーリンの空色の瞳にたどり着く。そこには、雲ひとつない真冬の寒空のように澄明な蒼があった。種族の壁を越えて信頼を勝ち得る、万物にとって仰ぎ見るべき、天空の色である。


霜妖魔はユーリンの言を受け入れた。マナが躍動し、薄暗い屋内を、陰惨な光で満たした。


―――地に伏して横たわるカルロがいた。血が、地面に広がっている。カルロの背中には、深々と大きな裂け目がある。剣で刺し貫かれた傷であった。


霜妖魔が走る。地に池をなす血溜まりを、それがまるでカルロの命のそのものであるかのように丁重に避けて脚を運び、カルロの側に座り込んだ。


一心不乱に、霜妖魔は氷を成した。カルロの背から流れ出る血の勢いを減じるため、涙に滲む視界のまま、とめどなく溢れる朱色と格闘する。


やがて哀切な祈りが通じたのか、カルロの背中を透明な氷が覆った。少なくとも、血は流れなくなった。しかし傷がすでに奥深くまで達していることは、朧な映像越しにも明らかである。


霜妖魔はカルロの耳元に口を寄せる。泣きむせびながらカルロの蘇生を願っていることは、痛ましいほどによくわかった。


霜妖魔の視界が突如として後方に切り替わった。遠目に、人影が見える。剣を掲げて、大慌ての足取りで、駆け迫ってきた。霜妖魔は未練がましくカルロに目を落とした後、藪の中に飛び込んで逃げ去るしかなかった。


映像は、そこで途切れた。


「……キー……」


消沈する霜妖魔キタンのか細い声が、まるで贖罪の祈りのように響く。その哀切な面持ちを前にして、関羽は言葉もなく立ち尽くし、老婆ロセは涙を誘われて顔を伏せた。


ユーリンが霜妖魔キタンに果汁の水割りを手渡した。キタンがそれを受け取るために伸ばした腕の指先は、太陽魔法の無理な行使の反動で痙攣している。ユーリンはキタンを労うように、果汁の水割りを飲ませるために介助の手を差し伸べた。


「そうか。アナタはカルロさんの手当て―――止血をするために、氷魔法を使った。……それが誤解を産んだんですね」


霜妖魔キタンは、うなだれたままさらに頭を下げて、崩れたように首肯の意を示した。


「これで、カルロさんのご遺体に()()()()()()()()()がわかりました。ご尽力に感謝と敬意を捧げます。でも、太陽魔法の行使は、今日は()()()()()くださいね」


沈黙する場を引き取って、ユーリンが結論としてまとめた。


関羽は、ユーリンの強固な()()の意志を認め、何も口を挟まなかった。映像で示されたカルロ氏の顛末については、()()のところが隠されているのである。


しかし、老婆ロセは、亡き夫カルロの゙最後の姿を目の当たりにした衝撃で、そこまで注意が向かない様子である。顔を伏したままの姿勢で、けれども崩れ落ちることもなく、膝に力をためて、微動だにしない。

薄暗い家屋の景色にすら重みを感じるほどの沈黙の後、ロセはキタンの前まで歩み寄り、膝をついた。そして、キタンの小さな手を慈しむように両手で包み、深々と頭を下げる。


「本当に、すまなかった。誤解と偏見で刃を向けたこと、どうか許して欲しい。ウンチョウさんたちが来なけりゃ、取り返しのつかない結果になるところだった」


ロセの顔の皺が深くなり、清澄な涙を伝えた。


「アンタがその気になりゃ、アタシなんか消し炭になってたはずだね。でもアンタはそうしなかった。どんな想いでアタシに押さえつけられてたか、想像するだに恐ろしいよ。……アタシは自分が呪わしいよ」


「……! キケッ、キー!」


キタンは、細い首が千切れそうなほどに勢いよく首を横に振って、否定の意志を示した。


「キー! キー、キッキー!」


キタンの悲しげな声が響いた。鈍い瞳が明滅する。


関羽とキタンの視線が交錯した。関羽が合点する。


「ふむ。そういうことか。されどキタン殿、武人として言上申し上げるが、それは心得違いというものである」


「そういう無言会話はボクとだけの特権だろ!? そんなイケないウンチョーくんに質問です。どゆこと?」


ロセの代弁も兼ねて、ユーリンが聞いた。

関羽は、ロセに対して返答する。


「キタン殿は、ロセ殿の手にかかることを止むなしと思っておられるカシューの樹の場所を伝えることを最後の役目とみなしておられるのであろう。儂らが来たときに抵抗しておられたのは、どうにかして樹の場所を伝えるまでは死にきれぬという想いであろう。それが済みさえすれば、と」


「―――なっ!? そんな! もったいないっ」


ユーリンの悲鳴があがる。


「ダメですよ、キタンさんにはまだまだできることがたくさんあるじゃないですか」


「左様、ユーリンの言うとおり。カルロ氏の゙救命を叶えられなかったことを自責するのは良しとしても、その償いは罰によって埋めるものではない。敗北や失態は、勝利や成功によって回復するより他にないのだ。その過程は苦しく孤独なものとなるが、キタン殿()()まだそれを成し得る道が残されておられるはず。それを踏破せずして安易な罰を求めるのは、逃避である。失地を取り戻す過程の労苦こそを、課せられた天命として受け入れるのである」


青年相当の肉体年齢の関羽であるが、その気迫は歴戦の古強者のものである。生前の数多の戦場において、敵味方のおびただしい血涙を浴び、それらすべてを飲み干して勝利と敗北を重ね、やがて神話にさえなった男の貫禄があった。


霜妖魔キタンと老婆ロセは、予想だにしなかった関羽の迫力を目の当たりにして、唖然として言葉もない。畏怖による萎縮さえ芽生えていた。

2人のその態度を見ても、関羽に動じる様子はない。混沌たる人民の感情の奔流を真正面から受け止めてこその英雄である。


ただ、ユーリンだけが、寂し気に関羽の悲しみに、心だけで寄り添った。関羽の毅然とした態度の裏には、関羽自身は失地を回復する機会を永久に失した寂しさが隠れていることを、ユーリンだけが知っているのである。


老婆ロセが、恥じ入るようなか細い声を出した。


「ウンチョウさん、耳が痛いよ」


「む?」


「アタシも失態の償いに、安易な罰を求めるところだった。恥ずかしいね。アンタみたいな若い者がわきまえていることを、いい歳こいて見失っていたよ」


自らを戒めるように口を結び、ロセは苦悩に眉を歪ませた。


(そういうつもりではなかったのだが)(……これは大丈夫。結果、オーライ。みてて。あとでヨシヨシしてあげるからさ)


やがて、老婆ロセは面をあげて、関羽と視線を交わした。

その眼差しの熱量の前に、関羽が身を緊張させる。

老婆ロセは、震える膝を押さえつけるように、腰をあげて身体を立たせた。


「ウンチョウさん、ひとつお遣いを頼まれてくれるかい?」


「無論。儂がお役に立てることでしたら」


「……氷をね、採ってきてもらいたいんだ。抱えられるだけ持ってきておくれ。採掘用の道具はあの人が使ってたヤツがあるからさ……」


「……! それは、まさか……」


「ああ。アンタたちに御礼がしたいんだ。アタシに作らせてくれないかい。『カシューナッツのカッサータ』だ。あの人と一緒に紡いできたアタシの誇りなんだ。アンタたちに、受け継いでもらいたい」


ロセは、関羽と霜妖魔キタンを交互に見た。


関羽は感銘の受け、直立して老婆ロセの立ち姿に見惚れた。それは、人生の苦難を踏破した人間のみが成し得る―――衣のように苦痛を纏い、熾火のように闘志で輝き、すがるように信念で四肢を支える、人間の美しく荘厳なカタチであった。


感動で沈黙する関羽を、老婆ロセは不敵な笑みで挑発する。


「……迷惑かい?」


「滅相もござらぬ!! ……しかし、儂は氷洞の勝手を知りませぬが」


「だろうね。……キタンさん、頼むよ、案内を任せてもいいかい?」


名を呼ばれた霜妖魔キタンは、一瞬で驚きを抑え込んで、それが当然のような表情をした。


「キー……キケッ!」


霜妖魔キタンは、背筋を伸ばして、鳴いた。それが力強い応諾の証であることを疑う者は、この場には居なかった。


「ありがとうよ。西の山の氷洞……アンタたちの街まで、ウンチョウさんたちを案内してくれるかい?」


ヨーコノートの履修者として長年スイーツを紡ぎ続けた練達の調理人としての、その威を回復したロセの姿が、そこにあった。




老婆ロセ宅の庭において、関羽とユーリンは2人きりになった。ロセは氷採掘の道具を用意するために納戸に向かい、霜妖魔キタンは疲労回復のために室内で安静にしている。

手に持った果汁の水割りとちびちびと仰ぎながら息を整えているキタンを背に、関羽が無言で席を立ち、ユーリンは気配を消してそれ続き、いま、2人は青空の下に佇んでいるのであった。


空は澄み切り、陽光は燦々と煌めき、大地を暑く照らしている。ロセ宅の庭に植えられた雑草交じりの香草たちが、萌黄色の輝きを発していた。


関羽はユーリンを泰然たる態度で、見下ろす。

ユーリンは空色の゙瞳で、関羽を見上げる。


しばしの沈黙の一時に満足したユーリンは、いたずらな微笑みを関羽に向けた。


「……さてウンチョー。お待ちかねの質疑応答タイムだ。いまのうちに手早く逢瀬を済ませよう。なるべくなるたけ、かぐわしく、華やかにね」


「かぐわしさや華やかさを儂に期待されても困るのだが、手早くというのはもっともだな」


関羽は言葉を探しながら、ユーリンに尋ねた。


「……本題の前に今よりの行動の前提についてだが……キタン殿に氷を成してもらえば、話が簡単なのではないか? わざわざ氷を求めて山に登り、ロセ殿を待たせる必要もないと思うが」


ユーリンは残念そうに首を横にふる。


「暑い日にポンポン氷を出せるんなら、そもそもカルロさんとキタンさんは出会ってないんじゃない? 行き倒れとかしなかったでしょ」


「そういえば、そうであるな。……となると、キタン殿は氷を出せぬのか?」


「うん。出せないことはないだろうけど、こんな暑い日、霜妖魔は活動するだけでもけっこう辛いんじゃない? キタンさんは今日はすでに疲労しているし、それに万全であったとしても、抱えられるほどの氷を、この季節に成すことは難しいはず。 あの映像にあったカルロさんの止血の氷も、死に物狂いでようやく辛うじて精製してたようだし……ボクの見た限りでは、昨日やったような、手のひらサイズの林檎を凍らせるだけでも相当な消耗であったように見えたよ。ロセさんの口ぶりからして、カッサータはけっこうな量の氷を必要とするはず。キタンさんの身体が心配だけど、あの調子じゃ無理を超えて無謀なハッスルを試みかねない。話題にするのも禁句ね」


「ううむ、道理であるな。魔法というのも、万能ではないのだな」


「所詮は世界の摂理をマナで強引に借りてるだけだからね。いうなれば、川の水を桶で汲んで脇に流すみたいな? 自然法則にはだいぶ引きずられるもんさ。だから、夏に氷は難しい。というか、霜妖魔なのにこんな暑い日に太陽の゙下で活動してるキタンさんがすごいだけさ。……さて他には? 肝心の『肝心なトコ』を避けた理由とか?」


「そうだ。何故、あえてカルロ氏の死の要因について、あの場で解明を遠ざけたのだ?」


「そりゃあ、こんな田舎村だもん。山の中なんて、どこぞの悪漢にとっても無闇矢鱈とぶらつくトコロじゃないじゃん? あの場はキタンさんとロセさんが和解できれば十分と思ったんだ。真実が仮に()()のものであったら……ロセさんを巻き込みたくない」


要領を得ないユーリンの回答を聞いて、関羽は考え込み、眉の間に皺を寄せて、精悍な顔立ちに弱々しく困惑を浮かべた。

その様子を間近で眺めて堪能したユーリンは、補足の言葉つなげる。


「……もしもロセさんの知っている人……村の誰かの姿がそこにあったら、真実に直面したロセさんの心労はどうなるのさ」


「……まさか。そんかことが……」


関羽の顔に沼地の汚泥のような色合いが染みる。前世で戦乱期を生きた関羽の精神は、人の生き死にについては達観の境地に至っているが、根本的に人間の善性を期待して疑わない傾向にある。それが関羽生来の天分であった。


そんな関羽の在り様を慈しむような表情で、ユーリンは自説として見解を述べた。


「さあ? 真実は折をみてキタンさんに聞いてみよう。……だけど、あの場は咄嗟の流れだったからね、たぶんロセさんもそこまでの展開は覚悟してなかった。けれども可能性はある、というか、高い。初対面の誰かと偶然ばったり出会う場所じゃないだろうからね。そこが氷洞であると知ってる誰かでないと、そもそもカルロさんとは遭遇しないだろう、たぶん西の山には知られた観光名所なんて無いだろうしね。となると、村の縁者くらいしか下手人の候補がない。そして映像にそれが映されたとき、それが実際にそう(村の人)であるか否かは、部外者のボクたちにはわからない。けれどロセさんにはわかってしまう。……その情報の非対称性が、幸せな結末を育むとは考え辛い。……ま、ロセさんの表情から読み取れる自信はあるんだけどね、どうもヨーコノートの履修者は特異な精神を持っていることが多いみたいだから、ボクの神通力がヘナチョコる恐れは否めない。しなくていいバクチと踏んだんだ」


霜妖魔キタンを捕らえて、刃をつきたてようとすら試みた老婆ロセである。関羽とユーリンが村を去った後に、単身で剣呑な行動に出る可能性は十分にある。

関羽は頷いて、理解を示した。


「そういうわけか。合点がいったわい。そなたの判断が正しいと儂も思う」


「そりゃどうも。キミの賛同はボクの安寧だ。……咄嗟のなかの咄嗟のコトだったけど、最悪の最悪は避けられたつもりだ」


「真実が常に万人に益するとは限らないというわけだな」


「そそ。……ったく、本当に光神ルグスは気に食わない。まるで、真実こそが善良そのものであるかのような態度で、光輝たる太陽で地上を照らそうとしている。あたかも、闇を駆逐さえすれば、地上生命に万全の幸福が訪れるかのような押し付けがましさだ。とことんボクとはソリが合わない。虚偽の闇に沈む浅ましさこそがヒューマン族の真実だよ。光なんて、見栄えのいいとろだけ選んで当てればいいのさ。不幸になるだけの真実なんて、ボクは認めない」


ヒューマン族文明の常識において、まごうことなく善神の一角として認知される光神ルグスに対する悪罵を、ユーリンは僅かすら、はばからなかった。


光、太陽、真実、正義……主神の一柱であるルグスの司る領域は、ヒューマン族にとっての善性の象徴である。それを嫌う悪性の者たちでさえ、それ自体の価値が善良であることには異を唱えることはしないだろう。しかしユーリンは、とにかく光神ルグスを嫌っていた。

ユーリンの怨敵との因縁がその感情を醸成したことを関羽は知っている。その解消にはまだ時間がかかることを理解していた。関羽はユーリンの見解を肯定も否定もせず、ただ受け止め、天下の器として見込んだユーリンの心の奥底に沈んだ汚泥が乾いて拭い去られる日まで、この未完の大器を支える決意を再確認したのみである。


ユーリンは、何も言わない関羽を見上げて、不安そうに空色の瞳に暗雲を陰らせた。


「……なにさ。いまさらボクを嫌いになった? 離婚する?」


「いや、そなたが人の幸福の在り方を真剣に考えていることに、感じ入っておった。そなたの成長をうれしく思う」


「ぶー……あんま、コッチ、見ないで。なんか急に恥ずかしくなった。……ぜんぶウンチョーのせい、……バーカ、バーカ、バーカ、バーカ……」


「……すまぬ」


「なんでキミが謝るのさ!」


「そなたの不平の理由はわからぬのだが、きっと儂が悪い。いや、どうせ儂が悪い、たぶん、そうなのだ……だから……アイツら、儂を見捨てて……一戦もせずに降伏なぞ……糜芳(びほう)め……」


関羽は地にしゃがみこみ、いじいじとした様子で地面にミミズの絵を描き始めた。生前の末期の記憶がよみがえったのである。雄大なミミズがとぐろを巻いてアリを飲み込もうとしていた。


ユーリンは関羽の肩をポンポンとたたきながら、話題を探した。


「まったく、キミというヤツは……あー、ところでキミ、さっき刺されたところは? 手当て、いる?」


「刺され……? ……? ……お、おお、刃を受け止めた腕なれば、無論、無傷であるが」


「ごめん、ボク、その『無論』の使い方、知らない」


「……いかに優れた刃物を手にしようとも、老婆の膂力を以てこの関雲長の肌に傷を為し得るはずがなかろう?」


「へ、あっ、ハイ。ソウダネ」


「ふふふ。……とはいえ、もしも食材として斬られていれば、おそらく骨ごと両断されていたであろうがな」


「なんでさ? そういうもんなの?」


「うむ。……故に、良い。同じ刃物を振るうにしても、つまらぬ血生臭ごとと、誰かのための料理は、やはりまったく違うのだ。剣や槍として刃物を扱えば、儂は如何なる勇者にも劣後することはないと自負しているが、料理のためとなると、まるで事情が違ってくる。ロセ殿の愛用のあの包丁を見たか!? 心底から震えたわい。ただの刃物があれほど美しい佇まいになれるのだな。茶も素晴らしかった。平凡な葉だが、蒸らしの見通しが完璧なのだ。渋みがなく、香りだけが済み切って気高い。……儂もいつかあのような域に達してみたいものよ」


関羽は力強く立ち上がって、拳を空に向けて掲げた。軍神とたたえられた関雲長らしい勇ましさに満ちた立ち姿であるが、その実は、心行くまで甘味を極める野心を滾らせているのである。


ユーリンは興味なさそうに適当な返事をする。


「……ふーん」


「やっぱ暴力はいかん。いかんぞ。あんなつまらんものは、ほかにない。儂、暴力は、せん。そういうのは前世でうんざりした。今生においては、スイーツ道に邁進するのみである」


「へ、あっ、ハイ。ソウダネ」


関羽が神妙そうな顔で宣言した非暴力主義を、ユーリンは肯定も否定もせず、ただ受け止め……内心ではまったく信じていなかった。

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