(12) ウルリカの決断
果実の街アーウィンの郊外に広がる果樹園の夜。遠くに獣の嘶きが響き、夜風が木の葉を揺らしている。
敷地の片隅に植えられた1本の果樹を見上げながら、ウルリカは言葉を漏らした。
「戯言だと思っていたが……」
見上げる果樹の枝の先には、たわわな実が下がっている。大地の滋養を吸い上げ、照らされる日差しの暖かさに実を育んだ、収穫間近のオレンジの果実であった。ウルリカは翼の先で果実を撫でて、その確かな重みを実感する。夜の闇に浮かぶ鮮やかな橙色であった。
「まさか本当に実をつけるとはな」
「お前の貢献が大であることを認める。もとより確証はあった。が、実現は困難であると覚悟していた。この日までこの樹をこの地に根差すことができたのは、お前の功績に他ならない」
「……別におまえに誇るためではない。あたいが望んでやったことだ」
ウルリカは吐き捨てるように、果樹園の主サガモアに言った。
異種族にもそれとわかる悪態であったが、当のサガモアは気を悪くする様子も見せない。
「私がお前の忠誠を求めたように聞こえたのか? だとすれば種族間の文化的齟齬が原因だろう。私はお前の貢献を認め、それを対価として滞在を許しているに過ぎない。……公正にいって、私の利得が大であることは認めるがね」
「地に埋まっている木と、実をつけたのは、樹木としては違う種族なのだろう? 形を……子を成すことが本当にできるのか!? ……いや、できている。……それが信じられない」
「こと果実について、私が偽りを述べることはない。それに、違うといっても、いずれも神の子だ。そもお前が毎晩見守っていたではないか。……まぁ、よい。ハーピィ族に私の研究を理解させる労を払う義務は私にない。お前がどう受け取ろうとも、これが私の研究の成果だ。……『接ぎ木』と私は呼んでいる。窮余の一手としてではなく、これを恒常的に運用するのが私の目標だ。……もっとも、この樹を『台木』とする理由はお前が作ったのだが……成り行きの結果としては上首尾と評価してよい」
淡々と、しかし内に光る誇りを示すようにサガモアは言った。アーウィンの街において累代果樹園を営むサガモアの長年の研究の成果が、字句どおりに実ったのである。努力の結実に対する喜びがハーピィ族に対する警戒心を上回ったらしい。今夜のウルリカへの接し方は、協力者への感謝の念が込められたものであった。
ウルリカはサガモアの果樹園に身を寄せる生活を長く続けている。暗夜に果実を狙うゴブリンやリザードマンを駆除して果樹園を守護し、日中は身を潜めて姿を隠す――自由を貴ぶウルリカがそんな窮屈な生活を自己に強いたのは、ひとえにこの『継ぎ木』された果樹が実をつける日を見届けたいという願いからであった。
「……実るんだな」
「お前が見ている通りだ。……私の見る限り、お前にとっての最良の収穫は2日後だろう……私とお前の味覚の差異に責任は持てんが、お前のこだわる『納得』とやらは得られたかね? たしかにこの樹は、一度、折れられた。無残な姿だった。しかし今こうして大地の恵みを、誇るように実らせている。……接ぎ木によって、だ」
「信じられない。あたいが、たしかに、ヘシ折ったのに……」
「その件についてはすでに償却済みだ。そも私は咎めてはおらんがね。……あの夜のゴブリン共の群れ……お前の貢献なくば、はるかに甚大な被害のあったことは予想に難くない。わずかな被害で済んだのは僥倖であった。……この『接ぎ木』の技術をお前に見せたのは、私からの謝礼であると知れ」
「貢献と呼ぶな。あたいはあたいの獲物を狩っただけ……おまえの樹を巻き込んだのは、あたいの落ち度だ」
「お前の教育を私が担う気はない。……認識の統一に情熱を傾けるなど、同種族内においてさえ徒労に終わるものだ」
サガモアの口振りに哀調が混じったことにウルリカは気づいたが、詮索する必要もない。
ウルリカはサガモアの果樹園の夜警を担い、サガモアはウルリカに安全な寝床を提供する――それだけの関係であった。
「この果実……もらっても、いいか?」
「私には不要だ。……売り物にするには遅すぎる。落ちて地で腐らせるか、お前の糞になるか、だ。だが譲渡契約の書類を私に求めるな? これ以上、余計な手間をかけたくない」
ウルリカは両の羽で包むように、ひとつのオレンジの実を枝からもいだ。濃厚な橙色の皮ごと、それをかじる。
「……甘い」
「当然だ。私の果樹だぞ。この果樹園で実るあらゆる全てが、この地上における最上の質であるとわきまえろ」
「採れたのがおまえの縄張りというのが癪だ」
「それについては諦めろ……そも私が望んで得たものでもない。ただこの家に生まれたときから、そうであると定められていただけだ」
「……これで『納得』したよ」
「では去るのかね。だとしたら朗報だが」
「わからない」
「目的は達しただろう。何か留まる理由があるのか?」
ウルリカの胸中の空洞を、1人の少年の姿が疾風のように駆け抜ける。空の果てで浴びる陽光のように、澄み渡るな暖かさが冷たい爪先を包むような心持ちだった。
(……エリアン)
ウルリカはその名を喉の奥で反芻する。空と雲を諸共に抱きしめるような屈強な身を、わずかに縮ませて、震わせる。
(あなたのために、生きたい。あなたのためだけに、この身を焦がしたい。あなた以外の遍く尽くに、意味を見出だせない……あなたと、あなたの遺すモノだけが、欲しい……だから、だからあたいは、それだけは望んじゃいけないっ……!)
ようやく絞り出したのは、精神的な自死の、いわば遺言である。
「……去るべきだと、あたいも、思っている。……残る用が済んだら、そうする」
「歓迎しよう! ……誤解はないと思うが、お前が去ることを私は初めから喜んでいる。私の望みは、お前たちハーピィ族が、永久に我々ヒューマン族に関わらないことだ。あらゆる意味において、だ」
「……焦るな。じきにそうなる。おまえが望もうと、望むまいと、必ず」
「ほう? それは興味深い……それが実現されることを願っているよ。が、私がするべき思案の種子ではないな。しかしそれはそれとして、事実に基づく成果……お前の実績を評価はしておかねばならない。……お前への感謝を改めて表明する! ……お前の警備は実に有効だった。私が研究に専念できた理由としては、お前の武力による貢献が大きいことはどうあっても否定できない」
ウルリカはサガモアによる公正な評価を興味もなく聞き流す。
サガモアもその言葉がウルリカに感銘を与えるとは期待していない。淡々と別れを告げた。
「さらばだ、忌まわしき種族よ。ヒューマン族の根源的な敵対者よ。……二度と縁を結ばぬことを願っている。お前が去る警備の穴を埋める手だてを考えねばならんが……それは私の役目だ。お前は可能な限り早期に消えろ」
サガモアが去りゆくことに、ごくわずかな寂しさすら抱かず、ウルリカはただひとりの少年の姿を空想した。
「……エリアン」
その名を呼ぶ舌の震えすらもが、尊いもののように想われた。
長らく寝床としていたサガモアの邸宅を去り、夜の空を飛んで、目的の高木までたどり着いた。周囲の地形は熟知している。ウルリカは枝木の節根に腰を下ろした。梢は抜きん出て高く、生い茂る葉が陽光を遮り、枝木は太く安定して横に伸びている。新しい寝床に最適な木であった。
ユーリンの指図を受け入れてから、幾日かが経過している。ウルリカはエリアンの警護を続けていた。
アーウィンの地を去ることもできる。しかし今はまだできない。ヒューマン族社会におけるエリアンの安全を確保するという使命が残っている。それはウルリカにとって、何よりも大切なことであった。
それを新たな口実として、ウルリカはアーウィンに留まることを決意していた。
「仕方がない。エリアンのためだもの。まだ、あたいが、側にいないと。……だから仕方がない」
ウルリカは太い枝木に横たわって、誰かに言い聞かせるようにつぶやいた。
月明かりに照らされたアーウィンの街を眺めるうちに、ウルリカは自身の体調に目を向けた。食を摂ってもよいころだと気づく。
狩りに往く。狩り場は知っている。たまに巣穴を移動させるが、空から見下ろして目を凝らせば、すぐにわかる。もっと遠くに逃げればよいものを、と思うこともあるが、連中にも都合があるのだろう。
「辛そうにするな。あたいも辛いんだ、とうに食べ飽きている」
足の鉤爪で貫いたリザードマンの末期の苦鳴を聞き捨てる。感慨はない。ウルリカにとってそれは、肉であり、食材であった。
己の都合のみに基づいて、他の命を奪う。皮を裂き、骨を砕き、肉を齧る。美味ではない。肉には苦みがあり、血は泥臭い。滋養としては特筆すべき点もなく、好んで選ぶ獲物ではない。
しかし他の選択肢は限られている。二足歩行の肉。つまり人型の生物。ゴブリンやリザードマン、エルフ、ドワーフ、ホビット……そしてヒューマン。ハーピィ族の主食はいずれも知能が高く、食の確保に苦労は多い。しかしそれは並のハーピィの事情である。天空を住処とするハーピィ族における卓抜した戦士たるウルリカにとっては、ただの自生する肉塊でしかない。
安易に得られる肉を齧り血を啜り、己が命をつなぎ生き続けるための、滋養のためだけの、義務としての食。
食の意図は明らかだ。
では生の意図は……?
何のために生き続けるのか。
子孫を遺さないことを選んだ、この身の上で。
胃は満ちても心は空疎だ。
この虚しさにも、ウルリカは飽きていた。
義務としての食を終え、空を舞い、帰路につく。
途中、森の中のあの場所の上空を通りかかった。ヒューマン族たちが、『聖域』と呼ぶ場所だ。この領域のどこから聖なる要素を感じ取れるのか、ウルリカにはまるでわからないが、ヒューマン族と感性の違いがあることを惜しむ気にはならない。
例の果実が実っている。不思議な場所なのは確かだ。季節を問わず、常に果樹が実をつける。充溢する自然魔力の影響なのだろう。
ウルリカは聖域に降り立った。足元には古い木片が落ちている。『マンゴー』と書かれている。この果実の名前であるらしい。誰が書いたのか、なぜここにマンゴーが植えられているのか、どうして常に実るのか? ウルリカの関心は、そこにはない。ただ、このマンゴーを収穫して持ち帰ることが、エリアンの生活に資するとわかっている。エリアンの役に立てる。エリアンがありがとうと言ってくれる。ウルリカにとってはそれだけで十分であり、それだけが全てであった。
マンゴーに翼を伸ばし、躊躇し、たたんだ。血がついていた。獲物にしたリザードマンの血だ。エリアンに贈るマンゴーを、こんなもので汚したくない。
(こんなところをめぐって、何を騒いでいるのやら。ヒューマン族どもの事情はよくわからん)
不思議な場所ではある。しかし『聖域』とは大仰ではないか。ただ自然魔力の結晶ががあるだけではないか。
ウルリカはソレを一瞥した。
(これを巡る争いにエリアンが巻き込まれている……こんなモノ、どうだっていいじゃないか。……くだらない。……さっさと終わらせてしまえ)
空色の瞳を思い出し、不快感を覚える。ユーリンというヒューマン族のことは気に入らないが、この騒動を解決する才があることは期待できる。それに協力することがエリアンの安全につながるのであれば、ウルリカに是非はない。
『聖域』にアーウィンの行政の手が入れば、マンゴーのことも明らかにされるだろう。今はエリアンが独占しているが、それも続かなくなる。マンゴーをこれまで通りには自由に利用できなくなるだろう。エリアンの生計が不利になる。聡い子だ。エリアンはそれを理解しているはずだ。
そして、
「あたいの役目も、いよいよ終わりか……」
アーウィンを去る日が近いことを、ウルリカは悟っていた。
新しい寝床に選んだ樹木の近くまで戻ってきた。日が昇るまではまだ猶予がある。ユーリンとウンチョウが夜間はエリアンの家に寝泊まりしている。ユーリンはともかくとして、ウンチョウの武力はウルリカを遥かに凌駕している。エリアンの身の安全は担保されている。翼と身体を休めるために、ウルリカは目を閉じた。
夜の静寂が耳を満たす。異変を聴いた。
「ッ!? この羽音は、まさか!?」
猛禽類の険しい眦を夜空に向ける。間違いない。近づいてくる。鳥ではない。そんな弱々しい羽ばたきではない。大地を穿つような力強い翼を持った、きわめて大型の生物——ハーピィ族の翼である。複数いる。
ウルリカは飛翔し、それらの訪れを敢然と迎えた。
「……姉さん、たち。どうして」
「世話のかかる妹を探しに来たに決まってるだろう」「家出娘はおわりだ」「母様を困らせるな」「母様、ずっと、泣いてる」
ウルリカの血族――同じ母と同じ子種から産まれ出でた、姉たちであった。
「帰ってください」
「帰るのはあんただ、ウルリカ」
「あたいは群れには戻りません。母様にもそう伝えました」
ウルリカはきっぱりと宣言した。しかし姉たちはそれを聞き流す。まるでそよ風を浴びたかのように泰然としている。
「あんたがいなくちゃ始まらない」「ちゃんと世継ぎを残してもらわないと」「わがままな妹だねぇ。どうしてあんたなんかに」「あんただけが」
「……ピュイアがいるでしょう? あと何年かすれば、あのコが、きっと、あたいの代わりに」
「死んじまったよ」「かわいそうなコだ」「最後の妹! 」「母様もかわいそうだ」
「死んだ? ……ピュイアが」
ウルリカの母の、最期の娘……ウルリカの末妹であり、生殖能力を宿したたった2人のハーピィの1人である。
「ヒューマン族に殺されたんだ」「きっとあんたに似たんだ」「だからこれもあんたのせいだ」「ピュイアは死んだ。あんたが戻るしかない」
「……そう。悲しいわね」
ウルリカの姉たちに生殖能力はない。ウルリカは自身が創造界において生殖能力を有する唯一のハーピィとなったことを理解した。
(殺す手間が省けた。これで残ったのは、本当にあたいだけ。あたいさえ死ねばハーピィ族は終わる。終わりにできる)
ハーピィを族滅させる計画が現実ものとなる。ウルリカは安堵した。もうハーピィ族にエリアンが奪われる恐れはない。エリアンはいずれまっとうに番となるヒューマン族の伴侶を得て、子孫を遺せるだろう。エリアンの子孫を、ハーピィ族ではないカタチで遺すことができるだろう。その可能性が高くなったことを、ウルリカは喜んだ。
「あたいは姉さんたちとは違う空を飛びます。つながってはいても、交わることはない空を。……お引き取りを。母様にお伝えください」
「しつこいコだねぇ」「あんまり母様を困らせるもんじゃないよ」「いっぱい、さらった」「よりどりみどり」
「……なに? いま、なんと?」
「準備万端ってわけさ」「あんたの好み、知らない」「ウルリカ、ずっと隠してた」「だからたくさん獲ってきた」
ウルリカは愕然とした。ウルリカに子孫を作らせるために、適齢期のヒューマン族の少年たちをさらってきたらしい。ハーピィの巣穴に横たえられて眠りこける大勢の少年たちの姿を想像し、ウルリカは嘔吐感を覚えた。
「なんという、ことを」
「あんたが要らないなら、あたしらが食っちまうよ」「帰ってきな。こないならあたしらのもの」「ウルリカが選ぶ、残ったものはあたしらのもの」「ぜんぶ、良い子だ」
「……なにとぞ、今夜のところは、お引き取りを……あたいにも、事情があります……拐かした少年たちは、いったん、解放してください」
一戦を交えることも辞さずというウルリカの気迫が、姉たちはウルリカの嘆願を形式的に受け入れさせた。
「いいさ。いったん、帰るよ」「いったんだ。また来るよ、必ず」「姉さま、あの黒髪の子、あたしがもらってもいい?」「ずるい、あたしも。あの背の高い子、ほしかった」
姉たちは子孫を成せないが、生殖の欲だけは健在である。腐った種子を砂漠に撒くような無意味な行為で、欲望を解消する悪癖があった。
機能はないが、本能だけは旺盛にある――そのおぞましい構造を、ウルリカはずっと嫌悪していた。
太陽を浴びて風を切るうちに、ウルリカは彼を見つけた。晴天をくすぐるような薄雲を背にして空を舞いながらも、遥か遠くに見下ろす街中の彼を見つけられる。
(いた。エリアン。あたいの、愛しい人)
眼下に広がる平原の中に、ヒューマン族の街がある。エリアンはヒーマン族の群れの中にいる。白くふくらんだ、まるで卵のような菓子を売り歩いている。それがエリアンの家系の稼業であると聞かされていた。エリアンの足取りは壮健である。それだけで、ウルリカの中で喜びが積雲のような質感をともなってふくらみ、暖まる。
(好きよ、エリアン。あなたの全てが大切。あたいよりも、あたいの全てよりも、あなたのひとかけらだけが、大切)
街の周囲には栽培された樹木が色とりどりの実りをつけている。しかしウルリカの視線は鮮やかに点在する果実を追わない。ただひとりの少年だけを追う。エリアンは、ひときわヒューマン族の密集する街路をぬけて、申し訳程度に拓けた広場にしつらえられた腰かけで足を休めている。汗もかいているらしい。陽光の熱気の中で石造りの道を歩むエリアンの労苦は、全身で涼やかな風を浴びるウルリカにはわからない。わからないが、代わってあげたいも想う気持ちがあることを自覚した。
(エリアンの苦しみがほしい……あたいにわけてほしい……代わりにあたいを、エリアンにわけてあげるから……)
狂おしいほどのエリアンへの情愛に身を焦がすウルリカが、今、最も切実に求めるもの――それは己を戒める縛鎖の枷である。
罪人を吊るす灼熱の柱に己の翼を打ち付けることが許されるのなら、ウルリカは風神タリへの感謝とともに身を捧げるつもりである。
朽ちるべきだ。己の身が、そうあるべきと願っている。
愛しい人の臓腑を喰らい尽くしたいという衝動もろとも、己の身を風塵に還してしまいたい。
……エリアンの血で己の口を濡らし、生きたまま臓腑を貪られる苦痛にあえぐエリアンを、さも愛し気に抱きしめながらその子種と生命を奪い、エリアンの死後、エリアンの子孫を、あなただけを愛していると言いながら営々と育む――そのおぞましい未来の成就を己の本能が求めている。
ウルリカは地上のエリアンから目を逸らし、頭上を見上げた。太陽がある。翼の赴くまま天を目指して飛び続け、灼熱の太陽に身を沈めてしまいたい。むなしい妄想と承知していながら、救いを求めるようにウルリカは太陽を見つめる。
見つめるうち、予期せぬ感情が不意を突くように胸を突き抜けた。
(……助けて)
己の救済を縋ること――それはウルリカが忘れつつある童心の忌み子であった。こみ上げた益体もない弱気を黙殺し、ウルリカは地上に目を戻す。
エリアンの姿が見えない。街中を移動したらしい。視線を素早く動かして、エリアンを探す。数えきれないほどのヒューマン族が街中を蠢いている。ヒューマン族など、虫と同じである。
しかし、どうしても目を惹かれてしまう。ヒューマン族の街中のそこかしこにいる、適齢期の少年たち。――名前も知らない彼らの存在が、ウルリカの本能をくすぐる。あそこには大勢の少年たちがいる――完熟した、いままさに食べごろの、最良の子種をたっぷりとたくわえた少年たち。その存在を意識してしまう。
しかし肉感的な情欲は抱かない。ウルリカの心はすでに定まっている。心の神殿に奉ずると定めた少年があり、その子種を奪わないことを決意している。エリアンの死をともなう己の子孫など、忌まわしいだけである。
エリアンの姿を見つけた。適齢期の少年たちの群れの中にいるらしい。親し気に談笑しているような雰囲気が、はるか上空を舞うウルリカにも伝わる。雲を背にするウルリカにとって、地上を這うヒューマン族は小石ほどの大きさにしか見えない。それでも決して、エリアンを見間違うことはない。
(あなたはヒューマン族。だからヒューマン族の中で友を得て、番を成す……それがあなたにとっての、ただひとつの幸せ)
エリアンが、己ではない何者かといずれ子孫を遺す――その光景を想像した。嫌悪感が怒りとなって、叫び声が上がりそうになる。脚の鉤爪を打ち鳴らし、狂ったように翼で空を叩く。翼が折れて地に堕ちることを願った。身をよじり、ねじ切れて、雲に混じって血の雨になって、降り注ぐ悲しみで大地を呪いたいと願った。
不意に地上のエリアンが、空を見上げた。ウルリカはエリアンと目が合った――ような気がした。しかしエリアンからウルリカが見えるはずはない。ウルリカはヒューマン族の視力の及ばぬはるか上空を飛んでいる。
それでもウルリカは嬉しかった。多幸感が身を満たす。たとえ気のせいだとしても、エリアンがヒューマン族の群れの中から自分だけを見てくれた——その可能性だけでウルリカは幸せだった。
(エリアン……許されるのなら、あなたをずっと見守りたい。あなたと、あなたの子孫の幸せを、この身が朽ちるまで祈り続けたい……あたいは、それだけでいい。それだけを許してほしい)
誰に許しを請うというのか。
誰が許しを出すというのか。
ウルリカはむなしい妄想を嘲るように風に流した。
夕刻になって、エリアンが郊外の森を訪れた。慌てたウルリカが血相を変えて地上に舞い降りる。飛び散る樹々の葉が収まるのも待たずウルリカはエリアンの身体を急いで検め、負傷のないことを確認して、安堵した。
「エリアンっ! 何があった!? 約束の日でも時間でもないだろう!?」
「ウルリカこそ、どうしたの? さっき、様子が変だったよね」
「……地上から、あたいが見えたのか?」
見られた。みっともない姿を――ウルリカは赤面する。
あなたを遠くから眺め、愛しさに身悶えしていた――エリアンを抱きしめてその想いを伝えたい。でも知られたくはない。錯綜する感情がウルリカを狼狽させるよりも早く、エリアンが笑って答えた。
「見えないけど、ウルリカなら、わかるよ。……街の上、すごい高く飛んでた。おれ、はじめて気づいたんだけど、いつもあんなに高いの?」
エリアンの瞳が、まっすぐに、己に向けられている。
エリアンが間違いなく己を見ている。
ただそれだけの単純な事実が、甘い薫風のようにウルリカには感じられた。陶酔の訪れの予感が、ウルリカをしびれさせる。
「……街の、他のヒューマン族の目に触れるのを避けるため……驚かせるだろうから……それだけ、よ……」
「そっか。びっくりした。森でないとこにウルリカがいるの、はじめてだったから。……本当に、どうしたの?」
覗き込むようにエリアンはウルリカに身を寄せる。その無防備な仕草が、ウルリカの喉を膨らませた。
間近に迫るエリアンから濃厚な色香を嗅ぎ取り、ウルリカは反射的に身を引いた。エリアンから逃げるように後ずさる。たちまち後悔した。エリアンの端正な顔が、雨に打たれた砂地のように崩れたのである。
「……ごめん」
そんな顔をさせるつもりは当然なかった。
そんな顔をさせた自分が許せなくなった。
「あたいが悪い。少し、驚いただけなのに、猫におびえる小鳥のようにおおげさだった」
「そっか。……女の子だもんね」
「ふふっ、あたいはエリアンより強いよ。だから、あたいの間違いさ」
「でも、おれは、男だから。そういうの気をつけなくちゃいけないんだ」
「いい心がけね。頼りになって、気遣いを忘れない雄は、必ず雌に好かれる」
「……ウルリカもそういうのが、いいの? ……だったら、おれ、そうなるよ?」
野性の勘が違和感をとらえた。純朴なエリアンの背後に、疎ましい影がちらつく。
「………………待て。誰に学んだ?」
「えっ!? ……えっ、と……」
「わかってるけど、教えて。……あいつね?」
「う、うん。……ユーリンさん、から。問い詰められたら話しても良いって、言ってた。『忠勤への差し入れ』だって。よくわかんないけど」
「エリアンは気にしなくていい。あいつと決着をつけるのは、あたいだから」
「もしかして、いやだった?」
「ううん。うれしい。エリアンが成長するまで側にいられて、本当に、よかった」
「!? いるよね! まだ、いてくれるよね! お別れじゃないよね!」
エリアンに飛びつかれ、抱きしめられた。胸元にエリアンの髪がある。乾く汗に混じるエリアンの体臭が、ウルリカの理性を揺さぶった。
「……もちろん。エリアンの幸せが、あたいの幸せ。……だから心配だった、のよ。それで……この頃はときどき昼間も空からエリアンを見てるの。……聖域のゴタゴタが片づくまでは、そうさせてほしい、の……」
己の奥底で抑えつけている情欲が暴れまわるのを、ウルリカは別の願望で押しつぶした――ずっと、このままで、いたい――その痛切な想いがウルリカの本能の猛りを鎮める。
「結局、あいつの指図のままなのは気にくわない。けどエリアンの味方ではあるから、あたいも許す」
「聖域のこと……ユーリンさん、市長さんと話しにいって、なんども会ってるみたい……だけど、おれは、関わっちゃいけないって言われてて……だからユーリンさんにぜんぶ任せちゃった」
「押しつければいいさ。あいつが望んでやってることだ。もちろん、あたいも、ね。……癪だがあいつの思惑に合わせとくのがいいだろうさ。ヒューマン族の事情はあたいにはわからない。あいつなら、どんな風でも自在に乗りこなす。……癪だが、あいつを頼るのがエリアンにとっては最良だ。……癪だが」
「ユーリンさんは頼りになるよ。ウンチョウオジサンも。……それで、ウルリカ、今夜、時間、ある?」
「夜の露があたいの翼を湿らせたことはない」
「……? 時間、あるんだよね? ……だったら、……その、おれんち……来れる?」
予想だにしないエリアンの提案に、ウルリカは混乱する。
「エリアンの……ち? ……まさか、巣……?」
「どうしても会ってもらいたいから」
「……何? ……会う?」
「おれの、母さんと」
「ダメだッ!」
ウルリカは、木枯らしのような己の悲鳴に驚いた。そんな声を出せることすら知らなかった。
びくり、とエリアンも緊張を示す。しかし不安や不快は表さない。感情の後退を許さず、矜持にかけて踏みとどまる。
「会ってよ。母さん、遠くまで歩くのは、難しいから。……母さんに紹介したいんだ。おれの、ともだちだって」
友だち――エリアンの純朴な懇願がウルリカの秘めたる懊悩を刺激する。
「でも、母さん、なんだか……ウルリカのこと、誤解してるみたいなんだ」
誤解ではない――罪悪感を気付け薬のように飲み干して、ウルリカは毅然とした態度を作る。
「親族に従え。尊重に値する母親と見受けられる。それを拒絶することは、エリアンに……良くない」
「『会うな』って言うんだ。もう絶対って」
「親が定めた掟だ。従うのがいい」
「いやだよ。……もし、このままなら、おれ、母さんのこと、許さない」
「親に叛くのは不幸の始まりだ。あたいはエリアンの不幸だけは、許せない」
「ウルリカは、ずっと、友だちだよ。おれがもっと大人になっても、いつまでも」
子孫を成すことが愛であるならば、ウルリカの愛は、エリアンを成人させることがない。
エリアンを喰い殺し、腸に隠れた愛しい子種を丸呑みして、子を宿す。エリアンの子を宿し、ウルリカの残る生涯を費やしてエリアンの子を産み続ける――その甘美な未来像をウルリカは拒絶する。
「あたいは……」
エリアンに抱きしめられたときに、感じた。
本能がそれを嗅ぎ取った。
――欲しい。エリアンとの子孫を、遺したい。
エリアンの身体の内で、ウルリカが求めるモノが完熟しつつある。
「あたいは、ハーピィ族なんだ」
「……? 知ってるよ?」
生命が自己の複製としての子を成す手順について、エリアンはまだ知識がない。ヒューマン族同士の手順についてすら意識したことがないのだろう。
ハーピィ族の習癖についても、その生態についても、認識の埒外であるに相違ない。
ウルリカは、 エリアンに脅威から身を守ることを指導しなければならない。ウルリカ自身が脅威そのものであることを、隠しながら。
「理由があるんだ……エリアンが知らない、まだ知らないだけの、ちゃんとした理由が」
「……だったら教えてよ。ウルリカ、知ってるんでしょ」
「知ってる! ……だから、わきまえてる……あたいはあたいの生まれだけは否定できない! ……逃げられないんだ」
ウルリカは翼を広げた。地が風を生み、羽を揺らす。
どうすればよいかは、生まれ持った本能が知っている。
これが何のために与えられたものなのか、やり方も、使い時も、知っている。
「……聴いて。エリアン」
ウルリカの喉が開き、空を黄金に浸すような調べが響いた。夕暮れ刻の紅染めを伴奏にした、嵐のような情念のこもった歌声であった。
その歌に詩はない。
詩は言葉であり、言葉にできることしか、詩にはならない。
ウルリカの歌は違う。
言葉にできないから、ハーピィは歌うのである。
ほとばしる想いを美しい声音に変えて、それが愛する人のより深くまで届くように、韻律に乗せて、歌のように叫ぶのである。
立ち尽くすエリアンは眼の焦点を失い、力なく手足を折る。
まるで眠るように、悲しみも苦しみもないかのように、あたかも幸福に包まれた花嫁が口づけを待つように、エリアンの意識は消失して地に横たわった。
ウルリカの歌声は、続く。
心に届く風を、人は歌という。
求愛――ハーピィ族の乙女が、ただひとり愛すると決めた少年に、その愛の許しを請うための、身勝手な儀式。
本能のままに、あなたを愛する、あなたの子を産む、そのためにあなたの命を奪う――それをどうか許してほしいと伝えるために与えられた機能。
生殖には必要のない不毛な行いであり、いわば、罪の意識をまぎらわすための自慰行為であった。
どれほど心を通わせたとしても、喰い殺されるのを許容する愛など、ない。
愛する少年の断末魔を耳にしないための、末期の少年の抵抗を削ぐための、催眠である。
万感の想いを込めて、ウルリカは歌い終えた。
「あたいはもう歌わない。あたいの生涯で、最初で最後の歌。悠久の風がエルヴェの塔を削りきるまで時が流れたって……エリアンだけよ、あたいが歌を聴かせるのは」
眠るエリアンの両頬を、まるで大切な果実を持つように翼で包み、やさしく撫でた。
「聴いてほしかったのは、あたいのわがままなの。……聴いてくれて、ありがとう。……日が沈む前には動けるようになるわ。ちゃんと帰るのよ? あなたを見守っているわ」
ウルリカは空に戻った。眠り落ちるエリアンの姿が、眼下に見えた。
ウルリカの心は、晴れやかだった。
初めてエリアンを抱き上げたときのように、翼の先まで、鉤爪の端まで、温かい幸福感が満たした。
エリアンに歌を聴かせた。
エリアンに歌を聴いてもらえた。
いつか出会う大切な人に贈るために、今日まで護りつづけた貞操である。
それをエリアンに捧げた。
もう怖いものなど、何もない。
「滅びろ……こんな血筋、あたいと諸共に、風塵となって、滅びてしまえ」




