(5) 関羽、逮捕される
エリアンに案内されてアーウィンの街を歩いた。エリアンと出会った活気ある市場を通り過ぎると、家屋の建ち並ぶ住宅地が広がった。外壁に傷や汚れはなく、庭先には季節の花が咲いている。
「あらま。庶民の宅地でコレかい? ずいぶんと余裕のありそうなコトで」
「街並みには民の生活が表れる。殖産の興業が知れるな」
果実の産地として知られるアーウィンであるが、穀物や畜産の収穫も良好である。古の聖女陽子の祝福の恩恵が地域のあまねく産物に豊穣をもたらしているのである。各地を旅してきた関羽とユーリンは、このアーウィンの生活水準の高さに驚かされた。
しかし、案内するエリアンの顔には曇りが広がる。
「……おれんちは、もっと先なんだ。ここらへんはキレイなんだけど、さ」
端正な住宅街をしばらく進み、街外れに迫る。次第に、家屋の様相が貧しいものに変わっていった。薄板の外壁に朽ち欠けた汚損が目立ち、みすぼらしい印象になる。街路を彩る草木もない。侘しい風景が続く。
やがて足を止めたエリアンの誇らしげで朗らかな表情に、ユーリンは救われる想いだった。
「ここだよ。おかあさんとも、あってよね」
ユーリンはエリアン宅の外観を眺めた。古びた家屋であるが、荒れた印象はない。裕福ではないにしても、生活の荒みはなさそうである。庭――というより周囲の空き地は土壌がやせているらしく、雑草も生えていない。しかし庭先には何かの若い苗木がぽつんと植えられており、初々しい小さな葉をつけていた。ユーリンはさして興味もないその苗木を見つめた。
「エリアンくんは、いつごろからココに住んでるの?」
「おれが産まれてしばらくしてから、引っ越してきたんだって。……その木はおれがうえたんだ、かわいいでしょ。……まってて。おかあさん、よんでくるから」
エリアンはひとり古びた家屋に入り、関羽とユーリンは庭先で待ち、顔を見合わせる。エリアンの住居が粗末であることに戸惑いを隠せない。
「お母様、ヨーコノートの有資格者、だよ、ね……?」
「間違いない。『大福』は聖女殿が遺されたものだ。優劣でなく、街の甘味とはまるで文化が異なる。この関雲長の名にかけて断言しよう」
「キミの名前てスイーツ方面で権威あるの? ま、キミが言うならそうだとして、いったいこれはどうだとすればいいんだろうね」
「わからぬ。富貴を目的とする者を聖女殿が認めぬのは常なれど、もうちと生計にゆとりを得ても良さそうなものであるが」
エリアンが家から出てきた。妙齢の女性を連れている。女性は穏やかな表情であるが、慎重に、まるで足場を確かめるようにそろりと歩いている。年端も行かぬ子が素性の知れぬ客人を自宅に連れてきたとあって、当然の警戒心がその足取りからうかがえた。
しかし、エリアンの母が静かに歩み寄るその姿をみて、ユーリンは気づいた。関羽のど真ん中である、と。
「あ! ダメだ、コレ! マズイ」
ユーリンはあわてて関羽の足を踏んづけてグリグリとしたが、すでに手遅れであった。
関羽は、エリアンの母に見惚れていた。ユーリンの峻烈にすぎる女性審美眼をもって評価しても、エリアンの母はまごうことなき美人といえる。関羽は硬直して動かない。
「おーい、ウンチョー? 聞こえてる? もしもーし。おーい、相手はエリアンくんのお母様てわかってる? 踏んづけるモノ、変えるよ? ……こンの節操なしがァ!」
ユーリンは激しい地団駄を、関羽の足の上で踏む。
「キミがメンクイなのは責めないけどさ、だったら優先度おかしいでしょ! いつもボクの顔、見てないの!? カラダ目当ての付き合い!? ……ダメだこりゃ。蹴りつぶして使えなくするとボクが困るし、ここに植えておくしかないね」
ユーリンは靴先で土を蹴って関羽の足をその場に植えようと試みたが、エリアンの何とも言えぬ微妙な視線が注がれていることに気づき、咳払いをして取り澄まし、エリアンの母に挨拶する。
「突然の訪問にも関わらず、お出迎えのご足労をいただき恐縮です。ボクはユーリン、横の不躾なのはウンチョー。エリアンくんの友達です」
「この縁を結べたこと、聖女ヨーコ様に感謝いたします。たいしたもてなしはできかねますが、お二人を歓迎させていただきます」
エリアンの母は口元をほころばせた。関羽でなくとも大方の男性を惹きつけるであろう、萌木のようなやわらかい彩りがある。それはユーリンに割り切った諦めを抱かせるほどであった。
「あらかたのお話はお聞き及びかもしれませぬが、ボクたちはスイーツ巡礼の旅のものです。先日、エリアンくんから大福を購入して、その素晴らしさに打ちのめされました。エリアンくんと出会えたことが、この街を訪れた最大の収穫です」
「……旅の方でしたのね」
「……はい。素性の定かならぬ立場です。ご不安はご尤もかと存じますが――」
「息子の良きご友人であってくださいね。いつかの別れのさみしさが、この子の支えになるくらいに」
「聖女ヨーコに誓ってお約束いたします」
得とみればためらわず練達の俳優になりきるユーリンである。聖女陽子を崇拝していなくとも、崇拝していることにした。空色の瞳をみせつけるように、エリアンの母を見つめる。視線の交錯――そこにユーリンは違和感を覚えた。
「……お母様、もしかして、目が……?」
「驚きました。こんなに早くお気づきになるなんて。けれどあまりお気遣いいただかぬように。これでもひと通りの生活には不自由していませんの。……ソーニアと申します」
エリアンの母ソーニアは、眼の患いで視力を失しているとのことであった。ユーリンは腰を折って礼節の意思を示し、関羽は無言で拱手した。エリアンは何も言わなかった。
エリアン宅の居間に案内されて、イスに腰をおろした。ようやく関羽の緊張がほどけてきた。
「儂は……雲長と申します」
「よしよし。ちゃんと自己紹介できたね。次からはお宅にあがる前にご挨拶するんだよ? ひとりでできる?」
ソーニアは口元を指でおおい、頬を上げて笑った。そして、茶の用意のために居間を出た。
エリアンは不思議そうにしている。尊大で、けれども誠実な、男子の道の先達として仰ぎみている関羽の情けない様子に戸惑いを禁じ得ない。
「おじさん、どうしたんだ? なんか変」
「んっとね、誰にでも苦手なことはあるんだ。ウンチョーは緊張しいなところがあってね。いちぶのカテゴリに属する人の前では身体がカチコチになるんだ」
「身体がかたいって、大変だな。 治る?」
「うーん。……ボクには節操があるかね。この話題はエリアンくんがもう少し大きくなってからにしよう、続きのできる日を楽しみにしているよ。ボクも本気を出すからね。硬くなったトコを収めて柔らかくする方法とか」
ユーリンは関羽のためでなく、エリアンのために関羽を弁護した。弁護された関羽は「そなた、節操の意味……」とモゴモゴしたが、エリアンの興味津々な眼差しに気づき、すぐに口を閉ざした。
エリアンの母ソーニアが、暖かい茶を運んできた。視力を失しているとのことであるが、その所作に迷いはなく、優雅な気品すらただよっている。
ユーリンは、再び硬直し始めた関羽の分も含めて丁重に礼を述べて、茶に口をつける。茶の渋みを甘やかすような柑橘の香りが広がり、のどの奥に華を咲かせた。
「わ、美味しい……です。オレンジの果汁です……よね」
「果汁ではなく、皮なんですよ。少し日に当てて干した皮を、沸かした湯のなかに沈めるんです。お気に召して何よりです。……御二人はうちの息子とは、どういうご縁で?」
「……えーっとですね」
ユーリンはエリアンとの馴れ初めをかいつまんでソーニアに説明した。途中、エリアンの表情をうかがいつつ、秘すべき点は隠しながら語る。エリアン少年がハーピィ族と懇意にしている現状についてエリアンの保護者に警告を与えるのが訪問の主目的であるが、そのためにはまず筆頭保護者である母ソーニアとの最低限の信頼関係を確立しなければならない。衝撃的な情報を地ならしなしに放出するような怠惰はしない。話の流れがマンゴーに近づくにつれて、その出処をどのくらい曖昧にとどめておくのが無難であるか、ユーリンは素早く思考したが、答えを考案するよりも早く、ソーニアがエリアンに聞いた。
「またサガモアさんにいただいたの?」
「……うん」
エリアンは母の問いにうなずきつつ、関羽とユーリンをみた。迫るかのような表情で――。すぐに意図を理解した関羽とユーリンは無言で了承を合図し、話をあわせる密約に同意した。
この沈黙のうちに交わされた偽証の談合について、視力に難を抱えるソーニアは気がつかない。息子エリアンの――おそらくこれまで積み重ねてきた嘘を信じ、悩むような表情をする。
「そう……やっぱりいちど私からサガモアさんにお礼に伺わないと……」
「だ、ダメだよ! だって、サガモアさん、お礼はいらない、って言ってた」
「それでも、です。サガモアさんは商いで果樹園を経営しておられます。その商品を無償でいただいて――」
「ナイショでわけてくれてるんだ。みんなにはヒミツにしなきゃいけないんだって。おかあさんか会いに行ったら、サガモアさんが困っちゃうよ。おれがありがとうってこっそりたくさん言ってるから、おかあさんは言わないで」
「わかりました。貴方の判断を信じます。……そして、御二人とも、息子がお世話になりました。お聞きの通り、その果物については私はすべてエリアンに任せています」
ソーニアは関羽とユーリンに例の果実の試食について承諾を示し、息子エリアンにも言った。
「貴方はもう自分で考えて振る舞える年齢です。お好きになさい。……けれど、必ず連絡はしてね……どんなことでも」
「……うん……わかってる。……それじゃ、食べごろのヤツを持ってくるね。どうしても生地が足りなくて余らせちゃったんだ」
居間を去るエリアンが暗い表情をしていたことに気づけるのは、関羽とユーリンだけであった。
「ついでにお湯を沸かしてお茶を淹れなおしてきてね。お客様に粗相がないように、新しい葉を出して。湿気ないように瓶に詰めなおすのも忘れないように、ちゃんとドライアッシュの木炭も入れるのよ」
ソーニアがエリアンに用事をこまごまと言いつける。エリアンが素直に応諾して去り、室内には静けさがこもる。
机の上には収穫してきたばかりのマンゴーが籠の中で眠っている。楕円型の球体の、陽射しを溶かしたような色合いが、薄暗い居間の卓上で存在感を放っていた。
ソーニアがエリアンをあえて遠ざけたことを察して、ユーリンは会話の切り出し方を考えていた。そこへ関羽が考えなしにつぶやく。
「……誠に不思議な果実ですな。こうして籠に盛られているところを眺めるだけでも、その色鮮やさに打ちのめされる。この艶の内にはさらに玄妙な味わいがひそんでいるとは……」
ユーリンは微妙な顔をして、関羽を肘で小突いた。小突かれた関羽は、理由がわからない。ユーリンは頭を抱えたくなったが、当ソーニアは気にする様子もみせずに関羽の言葉を引き取った。
「そうなのですね。私にコレの色はわかりません。ですが、手触りはわかりますし、形もしれます」
ソーニアは毅然としていた。そこに卑屈な兆しはまったくなかった。
「私の目には見えずとも、コレが常ならぬ恵みであると理解できます。……まるで大きな鳥の卵のよう。雲を裂くような翼を持った、大きな鳥の……」
しみじみとつぶやき、ソーニアは想像の翼を広げる。眼病で視力を損ねたソーニアには、生命の躍動をそのまま閉じ込めたかのようなマンゴーの鮮やかな朱色を見ることはできない。けれど形を知ることはできる。手探りで卓上の籠に指を伸ばし、収穫されたばかりのマンゴーを両手で包み、あたかも懐かしむかのようにその形をたしかめた。
「あと6日で完熟しますね」
「わかるのですか?」
「何となく……としか言いようのないことなのですけれども。弾力や香りからでも、わかることは多いです。……ウンチョウさんはヨーコ様から認められた御方とのことですが、どのようなレシピを?」
古の聖女陽子が遺したレシピ集は、適性を認められた人物のみがごく一部のみの解読を許される。ヨーコノートの有資格者は稀であり、大抵は地域に根差した生活を営み、周囲の尊敬を集めた立場にとどまるのが常である。関羽のような流浪の徒は珍しいはずである。
これは素性検めの一環である――と関羽は悟り、とつとつと答えた。
「どの、ということもなく、いずれにおいても。……未熟の身ですが、聖女殿から拒まれた品はこれまでにひとつもありませぬ」
にわかには信じがたく、当然の不信を招く内容である。ソーニアは眉をひそめて口元を引き締めた。関羽は審判を待つ被告のような面持ちである。
ユーリンはいよいよ頭を抱えた。(とりあえずカッサータと言っておけばいいものを。無難なウソは、世間体の化粧水じゃん)とあきれて、ひたすら愚直な関羽の返答へのフォローを考え始めた。
ソーニアは関羽の言葉を吟味するように沈黙し、結論を出してうなずいた。
「不思議な御方ですね。けれども本当のことなんでしょうね」
「え。信じちゃっていただけるんです?」ユーリンが思わず脇から口をはさむ。「こんなうさん臭いヤツらの言うことを!?」
「私を騙すつもりであればもっと知恵のある嘘をつくでしょうし、害意があればこんな会話に応じる必要もないはずです。ウンチョウさんがヨーコ様から認められた御方なのは、何となく、わかります。私も同じですから。……手を触らせてくださる?」
ソーニアは手をかざして、関羽のほうに伸ばした。さまよう腕を関羽の両手が迎える。ソーニアは関羽の手の爪先や皺をなぞった。ユーリンは機嫌が悪くなった。関羽は厳めしい顔つきで診断を待つ。ソーニアはくすりと笑った。
「間違いありませんね。……けれど未熟というのも謙遜ではなさそうですね」
ソーニアの指が関羽に触れるのをにらんでいたユーリンが、吹き出して笑った。
「ソーニアさん、鋭いっ! ……エリアンくんの、お母さまだっ……! ……ボク、ソーニアさん、好きです」
「あらあら。ユーリンさんはウンチョウさんがお好きなのね。……それで、お二人は何をご存知なのですか?」
「……どうしてそうお思いになるのです?」
「好きな人をいじめたくなる心理でしょう? その人が周りから嫌われれば、自分だけのものにできる、と」
「っ! そっちでは、なく」
「……息子がお二人を連れてきましたから」
「? ……あらー? ……もしかしてエリアンくんの『初めて』、もらっちゃいました?」
ユーリンはアチャーとうなだれ、関羽は理解できずに目をパチクりさせる。
ソーニアが言葉を足した。
「うちの子は人を家に呼ぶようなことは致しません。お二人をお招きするに至った、私に明かしていない何かの経緯がおありですね? お二人がうちの息子に関心を持つとしたらこの果物でしょうから、もしかしてこの果物の本当の収穫地ですか? 息子が秘密にしている何かを知って、いてもたってもいられず……かしら? ただ知っただけなら秘密にしておいた方が簡単ですものね。お二人の手に余る何かの事態でしょうか」
「エリアンくんのお父さまは?」
「私の手に余る、ということですか?」
「……はい」
「お気遣いは不要と申し上げたはずです」
「ボクたちの立場では判断しかねます」
「あの子の父は、いません。息子が産まれる前に亡くなりました」
『夫』という表現をこの場で用いない意味を間違えるソーニアではないと、これまでの会話でユーリンは理解している。エリアンの生い立ちが順風満帆ではなく、ソーニアの生涯にも数多の苦難があったことを悟り、荒涼たるゆらめきが心をおおった。しかし不幸の多寡で判断をゆがめることは精神の堕落であるとユーリンは信じている。譲れない一線を張った。
「できる範囲でボクも責任を持ちます。だからソーニアさんにはお伝えしないことを、お許しください」
「私は母です」
「幸いこのアーウィンの街は社会機構がしっかりしている印象です。ボクたちはエリアンくんの味方ですが、ボクたちの及ばぬ領域ではその力を借ります。義務や責任は、部分的な移譲が許されているはずです」
「義務でも責任でもありません。譲れない感情です。知らないほうが良いとしても、それはきっと私にとってのことでしょう? お気遣いは不要です。エリアンは私の宝です」
まぶしい、とユーリンは思った。息子エリアンを案じ、そのためには自身を度外視する純然たる母の愛を認めた。胸の奥にさみしさがこみ上げる。
ユーリンの母も、ユーリンを愛していた。しかしその愛の態様はユーリンの望むものではなかった。微睡みの夢の世界に己を据えて、水神ダナリンの創るうたかたの幻に身を沈め、その偶像たる巫女を愛した。ユーリンに向ける愛情の正体は、その現身への崇拝であった。
不意に覚えた羨望と憧憬が、ユーリンの空色の瞳に波を作った。乱れかかる心をあわてて縛り上げる。ユーリンはソーニアに言った。
「エリアンくんが悩んでいるのは事実です。ですが悩みの種はソーニアさんに心配をかけたくないという想いです。その理由の一端を知った以上、ボクも考えを改めました」
ソーニアはユーリンの頑なな意思をいったん受けるように表情をやわらげたが、断固として譲らぬことを言葉で示した。
「この果実はこの街のものではありません。ですが遠方からきたにしては鮮度が良すぎるのです。街の近郊で採れたもののはずですが、私の知る限りのあらゆるほかの果実とは系統が違いすぎます。いま街を飾る大地の恵みの中から産まれたものではありえません。聖女様の恩寵が薄れつつあるなかで、未発見の種? 完成度が高すぎます。これは……これは、どこの、なんという果実なのですか? なぜこれが息子の手にあるのですか? 息子は……いったいどこに立ち入って、これを採っているのですか?」
「エリアンくんは、そこには立ち入っていませんよ。ご安心いただけましたか?」
会話の主導権を取り戻すために、ユーリンは先手をとった。
ソーニアは慎重そうに、ごく単純な言葉を返した。
「……そこ、とは?」
「質問をさせてください。どこでなければよい、という願いでおられますか?」
「それは……」
ソーニアの迷いの正体は明らかであった。答えはあっても、果たしてそれをどこまで話しても良いものか、推し量っている。
ユーリンは悠然と待つ。考える時間が欲しいのはユーリンの方である。
エリアンの母ソーニアが現実に即した判断のできる賢明な女性であることは疑いない。そのソーニアが、エリアンとハーピィ族の接近を許すことはないだろう。ハーピィ族の種としての生態を考えれば、ハーピィ族のウルリカを討伐するために手を尽くすはずである。それはヒューマン族社会の構成員として、またエリアンの母として、至極妥当な判断である。
それも仕方なし、というつもりでユーリンは事の次第をエリアンの保護者に伝えるつもりでいた。ウルリカとの悲劇的な離別を迎えることになっても、いずれ心の痛みは薄れるだろう、と。
しかし、エリアンの境涯を知り、その考えは揺らいだ。エリアンがなぜ異種族のウルリカに親愛を抱くに至ったか――歳にあわぬ社会性を身に備えるに至った経緯は何か――その技能はソーニアから授かり継いだものでなく務めてそう演じているだけなのではないか。
ウルリカの前で晒していた幼く甘えるような態度にこそ、エリアンの真実があるのではないか?
もしもウルリカを失ったとき、エリアンの精神は正しくヒューマン族の社会に着地して正しく生きていくことはできるのか? ウルリカを討伐する判断を下した大人たちに囲まれて育つことは、エリアンの善性の心の土壌に拭えない汚染をもたらし、治癒できない精神の荒廃を招く――その確信がユーリンには芽生えた。
ウルリカが本能に抗い続けることを期待して、このまま沈黙を守るほうがマシなのではないか――しかしそれでもエリアンの母ソーニアには事態を把握する権利があるようにも思える。
ユーリンは柑橘の香り漂う茶をすすった。指先に震えを自覚する。この瞬間、ユーリンは運命の分岐点に立っていた。自身のではなく、エリアンの。たまさか旅先で出会っただけの間柄の少年の将来を左右する決断を下す義務を担っていた。
エリアンがソーニアの言いつけ通りに手を動かす物音が聞こえた。沈黙が部屋を暗くする。
「 ……?」
初めに異変に気づいたのは、ユーリンであった。居間の壁をにらみ、耳をそばだてる。
「外。5人以上? へい、グンシン、キミの見立ては?」
「……8人。これは兵卒としての鍛錬を積んでおるな。なかなかの練度だ」
同じく関羽が耳を傾け、断定した。街の中心地からは外れた立地であり、人の行き来は多くない。訪問者の気配である。
「引っ越しのご挨拶とかだといいね。粗品を配る習慣とか、あるかな?」
「……武装している理由にならぬ。甲冑の擦れる音がやかましいわい」
「ソーニアさん、こちらの邸宅に来客のご予定は?」
来客そのものたるユーリンが、家主たるソーニアに尋ねた。
「もちろん、ありませんでしたよ。巡回の衛兵隊の方かしら。ときおり気にかけていただいておりますので」
「ではボクたちはこれにて失礼を――」
「息子が例の果実を、完熟したものの用意をしておりますので、しばらくお待ちいただけますよね。私が出てまいります」
ユーリンの返答を待たず、ソーニアは席を立って玄関に向かった。まだエリアンが戻る気配はない。ソーニアに言いつけられたこまごまとした指示に忠実にあたっているらしい。
言葉の接ぎ穂を折られたユーリンは、関羽と顔を見合わせる。
「……まいったね。ウルリカさんのこと、ソーニアさんに明かしてよいと思うかい?」
「誠に聡明な御母堂とお見受けする」
「つまりボクに決めろ、て? 分岐点な予感がビンビンだよ。ボク次第でエリアンくんの人生が大きく変わる……。気が重いよ」
「生きている以上、人と関われば否応なしに変えることになる。良き方向であれ、悪しき方向であれ、その織り成しと向き合わねばならぬ。そなたは如何にありたいと感じるか、それに従うに如くはなし」
「とても完熟マンゴーを堪能できる心境じゃないな」
その時、玄関先からソーニアの声が響き、居間に届いた。
「……ウンチョウさん、こちらにお越し願えますか?」
「ふむ。何事かな」
呼ばれた関羽が玄関に向かおうとするのを、ユーリンが腕を引いて、止めた。関羽と目が合う。
「何事か?」
「……あっ、えっと……マズイかもしれない」
ユーリンの脳裏を、最悪の予想がよぎった。こめかみが脈打ち、息を飲んで瞳を硬直させる。逃走という強攻策は時期尚早であるが、最良のようにも思われた。関羽の武力をもってすれば容易であることは間違いない。しかしその代償としてお尋ね者として手配されることは、関羽の道楽であるスイーツ巡礼にとって大きな支障となる。
(……どっちだ? どっちがマシだ?)
危難に際して平静を増すユーリンの性質が、思考力を支えた。そして関羽に耳打ちする。
「おとなしく。それ以外はいつものままで。想定外が増えると困る」
わからぬが、往くしかない――関羽は疑問を振り払い、ソーニアに呼びれた玄関先に行った。ユーリンも後ろから付き従う。
街の警備を担うとひと目でわかる甲冑姿の男たちが陣をなしていた。ユーリンは、最悪の予想が的中したことを悟る。
「呼ばれましたかな」
関羽が姿を現すと、たちまちのうちに物々しい様相でとり囲まれた。盲目のソーニアも、雰囲気を察して不安げである。隊長と思しき精悍な若者に鋭い声を発した。
「マークさんっ!? たしかにウンチョウさんを客人として当家にお招きしましたが、これはいったいどういう事情ですか!?」
「ソーニアさん、離れて! ……この男を拘束しろ」
マークと呼ばれた男がソーニアを保護するように前に立ち、周囲の衛士たちに指示を出した。男2人が関羽の腕をつかみ、後ろ手にひねり上げようとした。しかし膂力の差がある。関羽は微動だにしない。
関羽からすれば簡単に振りほどけるが、ユーリンから指示を受けている。この場の指揮をとるマークに、平静に事情を尋ねた。
「理由をお聞かせ願いたい。街の役人に反抗するつもりはないが、説明もなしにしてよい仕打ちではなかろう」
「……失礼しました。本官はアーウィン治安局市民街衛士隊のマークです。先刻、街近郊の果樹園において障害事件が発生しました。守衛1名が負傷しています。下手人は極めて大柄な、旅人風の男である、と。……お心あたりはありますか?」
「障害事件? 身に覚えはあれど些か大仰にすぎる解釈である。儂は相手の男を負傷をさせてはおらぬ」
「果樹園の荘主より、正式な被害届が提出されております。守衛の者は、職務の遂行に支障をきたす重傷を負ったとのことです」
「それは虚偽である。匹夫めが己の身にふりかかった仕打ちを殊更に脚色したものと見受ける」
「……本官は訴えがあった以上は捜査にあたらねばならぬ立場です。公正であることを個人としてお約束するのが、本官のできる全てです。ご協力をいただきたい」
衛士隊長のマークという若者が、苦し気に目を伏せながら言った。その態度は誠実なものであると、関羽の目には映った。
「相分かった。告発に異議はあれど、身に覚え無しとは言えぬ。御身の言に従おう」
「感謝します。……それと、その、ソーニアさん……」
マークは、不安げに事態を聞いていたソーニアに向き直る。そして、己の唇をかみ切るような声で、言った。
「少年が傍らにいたとの報告があります。……エリアンくんにも事情を伺わねばなりません」
その一言が関羽とユーリンの激発を招いた。関羽は両脇の衛士2人に腕をつかまれたままマークに突進し、その胸ぐらをつかみ上げて宙吊りにした。
「何を馬鹿なこと申すな!? エリアン坊は全くの関係であるッ!」
マークは、息苦しげな中にも威厳をたもった表情で、関羽の怒鳴り声を受け止めた。巻き添えで引きずられた衛士2人は足を浮かせてバタつかせている。
「このボクが目に入らない!? 不埒な妄想でカップリング変えないでよッ!」
ユーリンも猛然たる抗議の姿勢であるが、一同の視線は関羽とマークに注がれている。残りの衛士たちが関羽に剣を向けなかったのは、その迫力に恐れをなしたわけではなく、関羽の言と内心を同じくしていたためであろう。
吊るしあげられた隊長のマークも、関羽を憎むでもなく、それが目一杯であるという声で繰り返した。
「そう、被害届がっ……出されておりますので……」
「根拠なき偽報である。筋が通らぬ」
そのまま衛士隊長のマークを地面にたたきつけて圧死させかねない関羽をなだめるため、ユーリンが叫んだ。
「ウンチョー、いったん降ろしてあげて! つかんだままでもいいから! ……コトの元凶はマークさんじゃない。ボクたちまで人違いに励む必要はない」
関羽は両手で高く吊るしていたマークを地に降ろしたが、胸ぐらをつかむ手は離さなかった。緊迫した空気に、若干の余裕ができた。
ユーリンがマークに歩み寄り、凛とした態度で告げる。
「この場でできる主張はしておきますね……それは許されるのでしょうか」
「もちろんです。しかと調書にとどめておきます」
「大変結構。……連れて行くならボクです。エリアンくんを関係者とみなすのは明確な人違いですよ、マーク隊長。ボクとエリアンくんの共通点といえば、顔が良いところと、ギリ少年の区分内なとこだけでしょう、年齢的にはボクが上限でエリアンくんが下限として。その場にいた少年てのは、ボクなんです。被害者を自称する守衛のオジサンと面通しの場をいただければ、はっきりします。ボク、ツラ忘れられることて、基本、無いんで」
ユーリンはあたかも美しげな笑みを周囲の衛士たちに振りまいた。関羽の秘めたる暴力の片鱗を目の当たりにしてさえ動じなかった衛士たちが、半歩、後ずさる。激情を内に押しとどめた怜悧な光を放つ空色の瞳の迫力に、たじろいだのである。
「暴行は……ないにしても、ヤンチャの疑いある行動したのは、ボクとウンチョーです。……件の果樹園の主て、サガモアさんですよね。サガモアさんの前で証言してもよい」
サガモアの名がソーニアの身を震わせたことを、ユーリンは見逃さなかった。しかしこれを詮索する猶予は、今はない。
渦中のエリアン当人が、玄関先に姿を現した。
「あのさ、俺の名前、聞こえた気がするんだけど、どうしたの? ……って、マークさん!?」
「……や、やぁ、久しぶり、かな? 新しい大福、評判いいんだってね。日中はなかなか買いに行ける時間がなくて残念だよ」
関羽の巨体の横から顔をのぞかせてマークが朗らかにエリアンに挨拶をしたが、関羽に胸ぐらをつかまれた格好ではあまり爽やかな印象は出せなかった。関羽はエリアンのためにようやくマークから手を離した。
隊長のマークはエリアンに事情を説明し始めた。可能な限りの配慮を加え、エリアンの動揺を抑えるような口調であった。
エリアンは顔色を蒼白にしてうろたえ、ときおり母ソーニアに助けを求めるような目線を送り、けれども声はもらさず、必死にマークの説明を受け止めていた。
関羽は一応静観の構えであるが、ユーリンから「ボクたちは逃げるだけだ。けれどそれはボクたちだけだ」と説かれるまでは、エリアンの反応次第でここで修羅場を成すことも覚悟していた。
そう関羽に忠言したユーリン自身も、感情はすでに煮沸しきっている。平静な言動の裏に燃え滾る怒りを抱えていた。エリアンとソーニアを直視できない。明々白々な誤認とはいえ、まったく無関係のエリアンを幼稚な騒動に巻き込んでしまった。後ろ暗い想いの重さに、圧し潰されそうになる。
顔を伏せて沈むユーリンの側に、ソーニアが静々とやってきて声をかけた。
「ユーリンさん、あまり気に病まれませぬよう」
「ここで刺されたって訴えませんよ。それよりエリアンくんの側に――」
「マークさんは昔から私たち家族のことを気にかけてくださっていました。悪いようにはなりません。それに……もしかすると事情が逆かもしれませんので」
ユーリンは顔をあげてソーニアを見る。
「それはどういう――」
そこへマークの声が固く響いた。
「ソーニアさん! エリアンくんをほんの少しの間、お預かりします。聴取へのご協力に賛同いただけました……ほんの少しの間だけです。ウンチョウさんにもご協力いただきたく存じます」
「儂に否応はない。そも、儂だけでよかろうに」
「残念ながら本官の役目なので」
「役目……役目か。よかろう、この場は貴官の顔を立てる。だがエリアン坊に対して非道な措置あらば、儂はその方らに一切の容赦をせぬ」
「無用の懸念です。エリアンくんのことは幼い頃から知っております。このお約束については、職分を越える覚悟です」
関羽は目をつむり、マークのその言葉を信じた。
マークは次いでソーニアに挨拶する。
「ソーニアさん、その、ご協力いただけて大変ありがたい限りです」
「市民の義務です。息子も理解していますから」
「それで、その、どうしてもエリアンくんの身柄をしばらく……いや、話を聞いて、関係のないことを確かめて書類にするだけなので、すぐに終わると思いますが……」
「そう願っております」
「しばらく身の回りのことについて、『蜜果の会』の支援を受けては? 本官としてはすぐにエリアンくんを解放できるように努力しますが、もしもということも。私から『蜜果の会』に連絡をとってもよろしいでしょうか」
「必要ありません」
「しかし」
「私は御覧のとおり、自分の手で生計を営んでおります。互助の福祉はそれが必要な人のために用いられるべきです」
「お言葉ながら、ソーニアさんは多少なりとも支援を受けてもよろしいかと……」
「私はこの街の善意を消費したくないのです。善意は繰り返し実る恵みではなく、街を育む土壌そのもの。いまある果実を手に取ることは簡単ですが、それに甘えるのは実りを支える根を蝕むことにもつながります。私は聖女様からのお導きを授かった身。……救われる側ではなく、救う側の立場なのです」
「……承知しました。ですがもしもお困りの際には、巡回の警邏の者に遠慮なくお声がけください」
「お心遣い感謝します。息子をよろしくね、マークさん……息子と話をしてもよいかしら」
ソーニアは、エリアンと向き合った。目は見えておらずとも、心で息子を捉えていることがその佇まいに現れていた。
「……エリアン、聞かれたことには正直に答えるのよ。約束を守ること、常に街のみんなのことを考えること、それが何よりも大切なのよ」
「わかってるよ、母さん。おれを信じて。……俺、何も悪いこと……して、ない……から」
「もちろんです。みんなわかっています。法という、頼もしくもわずらわしい取り決めに、みんな従っているだけです。けれどそういう約束事をみんなで守ることが私たちの生活を支えているんです。あまり悪く考えないでね」
エリアンはソーニアから逃げるように顔を背けた。そして、あたりを見回してユーリンの姿を認め、走り寄った。
「あのさ、ユーリン、おにいちゃん……」
「『おにいちゃん』か。こんな状況でなければ堪能したい言葉だね。ごめんね、巻き込んでしまって。エリアンくんはすぐに帰れるよ。みんな人違いだと、わかってるからね」
「うん、それで……おかあさんのこと、まかせていいか?」
「任されるよ。任せて」
「それと……」
「うん?」
「……あと、その……えっと、いや……なんでもない……」
「 そう?」
「……たのんだ。お願いします」
歯切れの悪い言葉を切って、エリアンは懇願した。ユーリンの空色の瞳がエリアンを映す。ユーリンの鋭すぎる観察眼が、エリアンが内心に隠す焦りの熱を感じ取った。
(エリアンくん!? 何を言いかけ…… いや、違う。何を聞かれてはマズイと思った!?)
ユーリンの表情の変化を認めたエリアンは、ふと庭の苗木を……ユーリンにだけわかるように、微かに目線を動かして指し示した。雑草すら乏しい一帯の痩せた土地において、初々しい緑葉をしげらせる、細い苗木を。
意思はわからずとも、意図は正しく伝達された。
「……されましょう。明日からボクもソーニアさんを手伝うよ、宿からここに通ってね」
ユーリンの言葉に嘘が含まれていることを、関羽はその微妙な口調の変化から、エリアンはユーリンの目配せから、察知した。それは3人だけの秘密だった。




