(1) 霜妖魔と氷魔法
「何やら美味そうな匂いがする。……そなたはしばしココで待て。きっと馳走にありつけようぞ」
と鼻をひくつかせた関羽が勇ましい足取りで森の奥に分け入ってから、しばらく経った。
関羽の帰還を待つユーリンが退屈しのぎに河原で熾した焚き火も勢いをすでに緩やかにして、退屈そうに河原の石を焦がしている。
「ま、心配はしないけどね。自慢の鼻で帰ってくるでしょ、目印も焚いてるし」
山地の麓を覆う広大な森のただ中で、ユーリンは一人でぼんやりと小川の水流を眺めながら、連れ合いの青年の帰還を待っていた。
足元の焚き火に掛けられた湯器からは茶のかぐわしい香りが立ち昇っており、それが飲み頃であることを告げている。
暑い日差しの中、ユーリンの喉が鳴った。
ユーリンは空色の瞳を周囲に向けて、あたりを見渡した。月灯りを溶かしたような流麗な銀髪が揺れる。
いまだ関羽の気配が付近に感じられないことを確かめると、湯器から半分だけ手元のカップに茶を注ぎ入れ、堪能するように静かに口をつけた。
ユーリンの端正な顔が痛みにゆがみ、形の良い眉を不満げに寄せた。
「あっつぅ……こりゃ失敗だったかな」
痩せた土地柄である。
森の木々の茂りは弱々しく、緑葉は貧相で、日陰も少ない。
降り注ぐ日光の熱が河原の石にたまり、ユーリンの足元を執拗に温めていた。
「バーカ、ウンチョーのバーカ」
茶の湯の適温を誤った失態と足元にこもる暑気のすべての責任を関羽に帰して、ユーリンは安直な悪罵をこぼした。
理不尽な責任転嫁の筋が悪いことはユーリン自身も認めるところであるが、そもそもの責任の大部分は間違いなく関羽にあるとユーリンは確信していたため、反省の兆しはない。
ことの発端はつい先刻。
目的地であるフユッソ村まであとわずかという距離まで旅路を進めたところで、関羽がまたいつものように「ちょっと気になるものをみつけた」と失踪したのである。
関羽とユーリンが、スイーツ収集の2人旅を始めて以降、飽きるほど繰り返した展開である。関羽には、美食の兆しをかぎ取るとたちまち周囲が見えなくなるという悪癖があった。
しかし安全な街中であればまだしも、大自然たっぷりの道中において予定にないことを今のように思い付きで実行されると、保護者役のユーリンとしては甚だ困るのである。
「ぐぬぬ。いつもいつも勝手なことを。都合をあわせるボクの身にもなれってんだ、まったくもう。……まぁよいさ、許してやるよ。『惚れた弱みは強さの秘訣』ってね、帰りを待つのも正妻の務めさ、茶くらいは淹れておいてやるよ。……少し冷ましたほうがウンチョー好みかな、あのガタイで猫舌なトコあるし」
茶がきっちり半分残された湯器を足元の焚火から外して風に当てて冷ましながら、空を眺めて関羽の帰還を待った。
ユーリンの瞳と同じ色の無窮の蒼が、天を澄明に染めている。
自称『正妻』たるユーリンは、関羽と並んでこういう空を見上げるのが好きであるが、いまは独りであった。
河原の奥の木立が揺れ、小枝の踏み折られる音がした。
葉を散らしながら茂みをかき分けて、関羽が姿を現した。
肉体年齢は20代中盤――筋骨隆々たる精悍な益荒男である。
髭の育毛は「機会があればいずれ必ず」と野心を残しているが、あいにくと今生においては未着手のままである。
この世界に転生後、かつてはユーリンを仮初の主として従者らしく振舞っていたが、今はただのスイーツ巡りの旅仲間であった。
「おかえり、ウンチョー。成果はどうだい? ハクい女でも捕まえた? そりゃさぞかしお楽しみだろうね」
ボクを差し置いて? とは言わなかったが、ユーリンは拗ねた態度で示した。
そして湯器に靴先を向け、あたかも素っ気なさそうに言う。
「お茶でも飲むかい? たまたまだけど、ちょうど飲み頃さ。キミに分けてあげないでもないけど、どうする?」
「うーむ、このようなものを捕らえたのだが。ユーリン、そなた、わかるか? 妙にひんやりしておるのだが」
「知らないものに触っちゃダメだって前にも言ったで――って、ソレ、まさか……」
森の奥から帰ってきた関羽は、片手でつまみ上げるようにソレを持っていた。
ソレは小柄なサルのような外見の生き物である。
手足は短く、頭部は大きい。胴体は丸みを帯びている。
異様なのは、色合いである。全身を、まるで冬の曇り空のような青味の混じった灰色が覆っていた。
関羽の手から逃れようと、短い手足をアチコチに振り回して「キーキー」と鳴きながら暴れている。
その口元からは、暑い日差しには不似合いな霜のような白い息が吐き出されていた。
関羽のつまみ上げるソレをみたユーリンはしばし氷のように硬直していたが、春の陽気のような明るい笑顔を顔面に張りつけて、朗らかに言った。
「……よし、すぐに殺そう。まずそこの小川に沈めて窒息させる。動かなくなったらここの火で焼いて、最後に刻んでから地面に埋めようね」
「そなた、いきなり何を申しておる?」
「だってそれ以上は責任もてないって」
「いきなり物騒なことを申すな。というか、そもそもこれは何なのだ。とつぜん背中にしがみつかれたので、とりあずつかみ上げてみたのだが、よくわからぬゆえにつれてきたのだ。肉にうまみはなさそうだが、食べてみないことにはわからんな」
まるで食材を表するような顔で、関羽はソレを高く掲げて、しげしげと眺めた。
ユーリンの精いっぱいの笑顔に苦味が混じり、やがて決壊したように顔中に広がって、叫び声となった。
「キミのクソ度胸には毎度驚かされるね! それは霜妖魔。ボクらの敵だ! すぐに殺して、火で清めよう」
「……剣呑であるな。これ、食えんのか?」
「食うって、なら結局キミも殺すつもりなんじゃん? たぶんキミなら食べても死なないだろうけど、ヒューマン族とはマナ体系が違うからね、何か異変がおきるかもよ。吐息に雪が混じったりとか、寝汗で霜ができたりとか、ケツの穴から雹がでたりとか。知らないけど」
「それは食うには殺さねばならぬが、風情というものがあろう。というかこれ害獣か? どんくさくて、ひ弱そうに見えるが」
「純粋に敵だよ、人類の。……霜妖魔は冬神ムルカルンを信奉している。コイツらはこの世界が永劫の冬で覆いつくされることを切望していて、雪と氷だけが全ての世界を――ボクたち人類にとっては死の世界の招来を本気で画策している。そのための大規模な儀式魔法まで研究しているらしい。生命として根本的に相容れないんだよ、種としての存続闘争さ。見つけたら始末するのが人類の義務みたいなもんだよ。面倒くさいけど、さっさと殺そう」
ユーリンが、冷酷な措置を淡々と提案した。
一切の妥協を拒絶する口調であった。
ユーリンの言を聴いた関羽は考え込むような表情を浮かべた。
手に持った霜妖魔の、怯えたような眼を睨みつけ、全身を観察する。
そして結論を出した。口元には不敵な闘志がみなぎっている。
「断る」
「どうしてさ!?」
「軟弱だ」
「……はーあ?」
「予防のための殺しなどという軟弱行為は、この関雲長の趣味にはあらず。そも命ある個ならば、畢竟、すべての他は敵であろう。いちいち根切りにしては飯のタネが育たぬ。コヤツ自身が儂を滅ぼすために何かを今しているなれば戦うが、その兆しは今はなさそうだ。コヤツが闘争を挑みにくるのならば、受けてたとう、その折は正面から打ち倒すのみよ」
関羽は勇ましく、きっぱりと断言した。大豪傑らしい貫禄のある風体である。
「食うのも取りやめだ。あまり肉がついておらぬし、……痔が怖い。ケツから雹だと? とんでもないわ」
わなわなと腕を震えさせ、額に脂汗をかきながら関羽は恐れをあらわにした。
「痔は恐ろしいぞ。益徳めが患っておったが、曰く『曹兵3000の槍衾に追われるよりもよほど辛い』と、厠にいくたびに目に涙を浮かべておったわ。ああはなりたくない。尊厳にかかわる。あの様子を見た折は、儂も酒を控えようかと思ったほどよ。……結局、やめられはせなんだが」
「あー……ケツから雹はモノの喩えのつもりだったんだけど、無いとは言えないし、それに近い異変は十分あり得るし、食べるのは基本NGだよ。……キミなら平気かもだけど、ほかの人には食べさせられないから、キミの美食道にはあんま参考にならないだろうしね」
「うむ。旨いなら食うつもりであったが、そも食材には適さぬようだな。……では決まりだな。よいか?」
ユーリンは困り顔を、諦め混じりの嘆息が崩した。
「ボクがキミのワガママを棄却したことがあるかい? でもあとで叱るよ、オシオキを覚悟してね」
「すまぬ、どうしても譲れなんだ。戮のための殺はこの関雲長の主義に反する。コヤツが害をなしうるというならば、害をなしたときに始末をつければよい。……先を案じて命を刈ることは、もうしたくないのだ」
関羽は、捕獲していた霜妖魔を地面に降ろした。
自由を許された霜妖魔は目をぱちくりとさせ、不信な眼差しを関羽に送った。
関羽は挑戦を受けるようにその眼差しを受け止め、鷹揚に頷く。
「さらばだ、霜妖魔とやらよ。儂も冬は好きではない。春のような蜜もとれぬし、夏のような菜もなく、秋のような果実も成さぬゆえにな、恵みなき季節よ。だが今日はこれにて解散と致そう。いずれ冬がくるように、いずれまた見えようぞ。そのときは敵かもしれぬな」
霜妖魔は周囲を見回し、恐る恐るといった様子で慎重に手足を動かしていたが、やがて本当に自由を得たことを確信すると、俄然勢いを増して走りはじめ、途中、関羽をちらりと見て何かを訴えるような目をしたが、すぐに森の奥に去っていった。
その青みがかかった灰色の後ろ姿をみながら、ユーリンは関羽に訊ねた。
「キミ、まさか霜妖魔を『美味そうな匂い』と感じてわざわざ捕獲しに行ったのかい? さすがにちょっとそれは……将来を再考するよ」
「否、否。あれなるは闖入者よ。儂の狙いはコレであった」
関羽は腰に下げている巾着袋の口を開いた。
ユーリンは中を覗き込む。
そこには、小銭くらいの大きさの、婉曲した物体が大量に入っていた。クリーム色で、表面には皺があるが、身は固そうな印象である。
「なんだい? それは」
「わからぬ」
「キミというヤツは、ほんとほんと……」
「だがこれは食材に相違あるまい。この芳醇な香りを聴くがよい、たまらず口元がほころぶわい」
関羽が巾着袋を膨らませて呼吸をさせると、ユーリンの鼻腔を濃厚な香りがくすぐった。
「ふぅん。へぇ。……いいね、たしかに美味しそうだ。何かの種子かな。豆?」
「おそらくな。樹木に垂れ下がった果実があって、そこからはみ出すように垂れておった。果肉の方はあまり惹かれなんだので、この粒のみ集めてきたのだ。……その折に先刻の霜妖魔に飛びつかれたのだ」
「そういう事情か、なら納得だ。……ま、茶でも飲みなよ、一服したら出発しよう。目的地のフユッソ村で聞いたら、その粒の正体もわかるかもしれないし、お目当てのスイーツのことも早く知りたいし」
「うむ。フユッソ村のスイーツ『カッサータ』なるものは、陽子Noteの中でも、特に貴重であるそうな。ふっふっふ、腕がなる……ぜったいに見逃せぬわい」
「フユッソ村だけで『カッサータ』を作れるように聖女ヨーコの『法魔法』が制限をかけてるらしいし、とっても貴重なスイーツなのは間違いないね。ボクも正直、すごく楽しみだ」
古の異界の賢人である聖女陽子が伝えた甘味菓子は、通称『スイーツ』と呼ばれており、時代を経て多くの人々を魅了している。
これらスイーツのレシピは陽子Noteとしてまとめられているが、その修得と作成には、聖女陽子によるさまざまな制限魔法がかけられていた。
資格なき者は陽子Noteを理解することすらできず、聖女陽子が認める有資格者が、聖女陽子の定めた条件を満たし場合に限り、スイーツのレシピを認識して実際にスイーツの調理が許されるのである。
フユッソ村のカッサータは、その村のみで作成が可能という地域制限が設けられているという評判であった。
「早く食して、儂の手でも作ってみたいものよ」
「キミのせいで到着が遅れてるんだけどね! ……ほんと、キミ、なんで有資格者なのさ。ボクのほうがふさわしい気がするんだけどなぁ。なんで聖女ヨーコはキミを選んだんだろ。視力があまりおよろしくなかったのかな」
「まったくであるな。……って、よもや儂の顔が女子にウケないという話をしておるのか?」
「だいじょうぶ、キミの魅力はボクが知ってる」
「女にモテねば意味がないんじゃが」
「まずは人の心を学ぶところからだよ。レッスンそのいち、『みだりに正妻のボクの前でモテたいとか言わない』こと。いいね? 『みだらな』ではなく『みだりに』だよ? ソコの違い、重要!」
「……だいぶ人心をそなたから学んできたつもりじゃが、先は長いのぉ。なればこそ歩み甲斐もあるか」
「キミ、いまでもちょくちょく軽率に死亡フラグをたててるよ。ボクが毎度へし折ってるのさ」
「すまぬ、苦労をかける」
関羽は目元に寂し気な光を宿して、ユーリンに頭を下げた。
過失を詫びる謝罪の容ではあるが、感謝と信頼の意図であることは明白であった。
たちまちユーリンは上機嫌になり、相好を崩して照れた。
「ほんとにもう、キミというヤツは、ほんとほんと。もう、しょうがないなぁ。……あ、いまお茶を汲むね。冷めすぎちゃったから、少し温めるよ。座って待ってて」
オシオキは何にしよっかな、と楽しそうにつぶやきながらユーリンは関羽の茶を整えた。
フユッソ村への道中、森の中。
青年関雲長の『老後の趣味』として始めた陽子Noteのスイーツ巡りのぶらり道中の旅路において、関羽とユーリンは呑気に茶をすすっていた。
河原の石に腰を降ろし、2人並んで蒼空を眺めている。
日に1度は2人きりの無為の時間を設けること――ユーリンが関羽の旅路への同道を承諾した際の約束の1つであった。
静かな時間を堪能したユーリンは、沈黙を破った。
「ところでウンチョー、茶の湯の一服も一段落ついたところで、キミの見解を仰ぎたい。ボクの目をどう思う?」
「……透き通るような蒼であるな。天空の美しさのみをすくい取ったような色だ。大方の宝玉よりも勝ると判じえようぞ。……それが、どうした?」
「うふふっふーん! ありがとう、キミの称賛が欲しい気分だった、そのために誤解させる言い方をした! ……実用的に聞きたかったのは、ボクの視力のことでね……ボクの見間違いでなければ、あそこの木陰にいるのは、さっきの霜妖魔じゃないかな」
「儂の記憶違いでなければ、確かに先刻のワッパであるな」
ユーリンが指し示す先には、先刻、関羽が解放したはずの霜妖魔が佇んでいた。
木陰に半分だけ身を隠してこちらを伺うような姿勢である。
関羽の手から逃れるや一目散に森の奥に逃げ去ったはずであるが、どういう理由か、再び関羽とユーリンの前に戻ってきたらしい。
「……何か心当たりはある?」
「な、ないつもりだが?」
「ふぅん?」
そうじゃないよね? と聞こえるように、ユーリンは「ふぅん」と言った。
空色の瞳にイタズラな光が宿っている。
「ないんだ? ……ないの? どれくらい無いの?」
「ない、ないはずだ」
「ふぅん? ……ウンチョーてさ、ウソつくときにいつもカワイイ顔してるんだけど、自覚ある?」
「然様な手立てには乗らぬ」
「それ自白だって。まったくキミというヤツは、ホントほんと」
「……いやその、まぁ、ないこともないというか、ある分にはあるというか。……実は、あの霜妖魔も、くだんの種子を狙っておったらしい。奪い合いの様相といえなくもない取り組みがなかったとは断言しかねる」
関羽が「美味そうな匂い」と認めて進路を脱してまで収集してきた種子である。
森に住まう生物たちも、この森の幸を求めていたとしても不思議な話ではない。
その場合、貴重な森の恵みを突如として関羽が強奪したという格好である。
「まさかキミ、ぜんぶ取り尽くしたのかい?」
「否、そんなことはない! 儂が採ったのは、食べごろのモノだけよ。他の多くは手つかずのまま樹木に残してあるし、それらはおそらく数日後には最盛を迎えようぞ、儂が手にしたのは今日こそ最良の物のみだ」
「……キミ、それの植生も食性も知らないくせに、なんで収穫のベストシーズンがわかるのさ?」
「なぜわからぬのだ? 食べ物であるぞ? 腹に聞けば自ずと答えが得られよう?」
「まったくキミというヤツは、ホントほんと。さてさて、欠食児童なウンチョー君は、ここからどうするんだい? ボクの見立てでは、あのコはとっても切なそうにキミを見ているよ。もしもキミがあの哀れな瞳を無下にソデしても、ボクはキミを嫌いにならない自信はあるけど」
「ぬぅ。わかっておるわ。儂が話す」
関羽は立ち上がり、木々を揺るがすような大声を発した。
「そこな童よ! 物申したき議があるのであろう! 会談に応じよう。……その方の言い分を述べるがよい!」
この言葉が通じたらしく、霜妖魔は短い手足をひょこひょこと動かして関羽とユーリンが佇む河原に近寄ってきた。
その手には、先刻は持っていなかった布包みを下げている。
そして霜妖魔は堂々と関羽の正面に立った。
「ふむ?」「なんだろね」
関羽とユーリンは、この霜妖魔の挙動を警戒を怠らずに油断なく観察する。
霜妖魔の背丈は関羽の膝をやや超える程度で、腰ほどの高さもない。
2本足で歩行する小柄なサルような構造であるが、手足は短く、動作は鈍い。
青みがかかった灰色の雪空のような景色の体毛であるが、霜のような艶が表面に浮いており、テカテカと全身を煌めかせている。
鼻は小さく、唇は薄く、目は大きいが瞳はぼやけた鈍い色合いであった。
大方の文明において、優雅さに欠けるという評価が下されるであろう容姿である。
――身体能力は未知数、だけど目方が知れてるから敵じゃない。牙や爪、毒の有無は不明だけどウンチョーなら心配無用。……それでもマナだけは一流の魔術師並か
ユーリンは関羽に囁いた。
(ウンチョー、念のために気をつけてね。ボクはキミのタフネスを信奉しているけど、霜妖魔の魔法体系は、わかってないことも多いんだ。もしもの時はためらっちゃダメだよ)
(承知した。だがこれに戦意はなさそうだ)
霜妖魔は、様子を伺うように関羽の顔を睨んでいたが、ふいに手に下げた布包みを地に降ろした。
関羽とユーリンが見守る下で霜妖魔は淡々と布包みをほどき、中から果実を取り出した。
赤く熟れた見事な林檎である。
霜妖魔の小さな手のひらよりもはるかに大きい林檎が、陽光を浴びて艶めかしい光沢を放った。
そして、霜妖魔は林檎を関羽が十分に鑑賞できるように掲げ持ち、空いた手で関羽の腰の巾着袋を指した。
「……ほう」
「へーえ」
関羽は感心して唸り、ユーリンは興味深げに驚嘆した。
霜妖魔は、関羽が収集した種子と交換するために、上等な林檎をどこからか収穫して持参してきたのである。
関羽はユーリンに訊ねた。
(よもや、霜妖魔とやらは知能があるのか?)
(そりゃそうだよ。天候を降雪に変える大魔法を行使したり、冬神ムルカルンを降臨させる儀式とか研究したりしてるくらいだしね。身体のカタチが違っててボクたちとは言葉が交わせないだけで、知能は高い。人類……ヒューマン族やエルフ族、ドワーフ族とも遜色ないはずだ)
(ふぅむ。それであるのにまるで害獣のごとき扱いか。……ちと『怠惰』が過ぎんか?)
(怠惰?)
(うむ。……と、ワッパめ、急かしよるな)
霜妖魔が小柄な身体を上下に跳ねさせ、関羽の返答を催促した。
関羽も腰の巾着袋を開き、交換の意思があることを明らかにする。
「よかろう、儂の持つ種子の1割ほどでよければ、そこな林檎と交換してもよい。妥当と思うが、いかがか」
霜妖魔はキーキーとわめきながら跳ねた。
関羽の提示した交換条件に満足せず、抗議している様子である。
「不服か。しかし、ただの林檎なれば市中にて買い求められる故にな。この珍しき種子との交換なれば、一握り程度の分量が妥当であろ」
関羽の言を聴いて、霜妖魔は跳ねるのをやめた。
そして、不敵な光を大きな瞳に宿した。
太陽を指さし、にやり、と笑う。
太陽の熱気は、燦々とあたり一面に降り注いでいる。
「ふむ?」
「キーっ! キッ!」
関羽の疑問に答えるかのように、霜妖魔の掌で、蒼白い光が起こった。
「……っ!? マナだ! 気をつけて!」
咄嗟にユーリンが叫び、霜妖魔の至近距離にいる関羽の身を案じた。
ユーリンは懐のエーテルナイフを握り、すでに臨戦態勢である。
しかし関羽は悠然として、足元の霜妖魔の掌が発する輝きを、興味深げに眺めていた。腰に下げた護身用の剣に手を伸ばす兆しもない。
「案ずるな。これに敵意はない。備えも不要だ」
「でも!」
「無用である。儂を信じろ。これでも前世基準ではいちおう? 軍神? らしいぞ? ……であればもうちとモテてもいいと思うんじゃがなぁ」
霜妖魔の掌の光が輝きを増し、収束し、変性した。
蒼い輝きが砕けるように散らばり、粒子状に漂い、きらめく。
次の瞬間、まるで光の結晶が膨らむかのようなまばゆさが起こり、白い煙のような燐光に変わった。
関羽の首筋を寒気が走る。
真冬のごとき冷気が、足元の霜妖魔から立ち昇ってきた。
霜妖魔の小さな手のひらの上で、大きな林檎が、凍り付いていた。
林檎の真っ赤な皮の上には、冬の息吹を浴びたかのような白い霜が降りている。
『丸ごと林檎のシャーベットアイス』のできあがりであった。
「キーッキッキッキ! キケ!?」
まるで観客の喝采を浴びた手品師のように、霜妖魔は恭しく一礼する。
霜妖魔の調理に対して、関羽とユーリンは率直な驚きと感動を示した。
「なんと!?」
「これは『氷魔法』!? すっごい、はじめて見た! ていうか現存したのか。聖帝に撲滅されたと思ってたよ」
「うーむ、この暑い日において、果実の氷菓子か。たまらぬな。コヤツめ、交渉の場で物の価を跳ね上げおった。見事な手際だ」
関羽は霜妖魔が『なるべくなるだけ、誇らしげに高らかに』掲げ持つ『丸ごと林檎のシャーベットアイス』をしげしげと鑑賞し、感嘆した。
関羽の喉が、ごくり、と鳴った。
森の陽気を一身に浴びて、身体はすっかり火照っている。
キンキンに冷えた林檎を『丸ごと林檎のシャーベットアイス』をザクザクと丸かじりすれば、どれほどの悦楽を得られようか――その想像が関羽に白旗を掲げさせた。
「まいった、おぬしの勝ちだ。それなれば価がまるで違ってくるな」
関羽は腰の巾着を大きく開いて地において、種子の山をならしてから真ん中の当たりで等分した。
「半量くらいが妥当であろう。儂の収穫した種子のうち、半量まで譲ろう。それでいかがか」
関羽の言葉を聞いた霜妖魔は、口の端をわずかに上げて、関羽の後ろを指さした。
そこには、幻ともいえる貴重な氷魔法を目の当たりにした感激に震えるユーリンが立っているばかりである。
「む?」
「キケケ……」
霜妖魔は、手元の布包みから、もったいぶるようにゆっくりと、もうひとつの林檎を取り出した。
先のそれと比べて遜色ない、見事な色艶の林檎である。
霜妖魔は、右手に『丸ごと林檎のシャーベットアイス』を、左手に生の林檎を持った。
そして、生の林檎を持つ左腕の先には、ユーリンがいる。
関羽は瞬時に霜妖魔の意図を理解した。
「そういうことか。コヤツめ、なかなかのやりてよのう」
関羽は後ろに控えるユーリンをちらりとみて、思案げに顎を指でなでた。
転生後の関羽の顔にヒゲはないが、生前の癖で青年関羽はときおり仮想髭を指で弄ぶのである。
関羽とユーリンは、2人で顔を見合わせた。
「うーむ」
「どしたの?」
「なに、儂の負けと思ったまでよ」
負けたと自称する関羽は楽しそうで、ユーリンは不思議そうである。
心の整理をつけた関羽はひとつうなずいて霜妖魔と向き合い、交渉の結論を出した。
「……相分かった、全部やる。それで凍った林檎2つと交換だ。それでよいな?」
霜妖魔は勝ち誇って、満足そうにうなずいた。
浮き足立つ霜妖魔が、関羽の腰巾着から種子をつかみ取って布包みに移し始める。
関羽はすっかり納得した様子で、その手続きを見守っている。
どこか清々しそうですらあった。
関羽にとっては物珍しさによる好奇心から収穫しただけのこれらの種子であるが、この森に生息する生物にとっては重要で特別なものであるのかもしれない――関羽はうすうすそれを察しており、違和なく譲渡できる口実があれば、返却に応じる心づもりを立てていたのである。
ユーリンだけは状況を飲み込めず、形の良い眉根を曲げて不満顔をしていた。
「まさか全部譲っちゃうだなんて、意外だったよ。……言っておくけど、キミが女にモテない理由は体型じゃないからね。その点でダイエットは必要ないと思う」
「違うわい! ……コヤツの交渉がうまかった。完敗だ。まったく……儂は樊城以後はずっと負けてばかりだな」
「ふぅん。ま、いいけどね。キミが拾ったタネとキミが捨てた霜妖魔だ。キミが納得してるんならボクは何も言うまい。多少、あのタネの正体は気になったけどね。味とか、名前とか、薬効とか」
「……っ!? あいやー、これは迂闊! そうであった……!」
ユーリンの言葉で、関羽は己の失態を悟った。
みっともなく慌てふためき、喜悦満々の霜妖魔の足元に這いつくばって、すがりつくように懇願した。
「ま、まて童よ。いや、待ってください。霜妖魔殿。頼みたきことが。その、儂もソレの味見がしたい故、いくつかは手元に残しておきたいのだ。すまぬすまぬ、そんなに多くとは取らぬゆえ。……ええい、そうわめくな、少しだけだ……」
「ウンチョー、キミというヤツは、ホントホント、まったくまったく。霜妖魔に膝をついて嘆願した人類は、神代から数えたって、たぶんキミだけじゃないかな」
「……どうだ? 儂の持つ種子ほとんど全部と林檎2つ。これでよかろう? いえ、これで、どうか……霜殿、伏してお願いいたす所存……なにとぞ……」
「……キ、キケー?」
霜妖魔の大きな目に、呆れと憐れみと混濁した鈍い光が宿った。
霜妖魔は2度目の氷魔法を行使して、2つめの『丸ごと林檎のシャーベットアイス』を創造した。
霜妖魔は、ユーリンが『ねぇねぇ、さっきの氷魔法、近くで観ててもいい? もうちょっとゆっくり発動してもらえると、なおのことうれしいんだけど』とヒューマン族の女性相手には常勝不敗を誇る天恵の笑顔で迫るのを胡乱げにかわしながら、それでも魔法を隠匿するようなこともせず、堂々と、どこか誇らしげに『氷魔法』を要望どおりにゆっくりと発動させ、炎天の陽光の下、輝ける冬の恵みをもたらしたのである。
「交渉完了であるな」
「キケ!」
「では今度こそ、さらばた。奇縁あらば三度見えることもあるか。達者でな」
「ケケケ!」
関羽が収穫した良い薫りのする種子のほとんどを手にし、霜妖魔は上機嫌で去っていった。
言葉を交わせない生物との商談は、生前から数えても、関羽にとって初めての経験であった。
短期間ではあるが、僅かなりとも他者と通じ合えた充実感が、関羽の心を軽やかにした。
関羽は両手にもった2つの『丸ごと林檎のシャーベットアイス』を眺めおろしながら、傍らのユーリンに満足顔で言う。
「まったく。そなたと居ると、退屈が訪れんな」
「ねぇねぇ、退屈じゃない要素の大部分を招来せしめているのは、実はウンチョーなんじゃない? 少なくとも今回は、ぜんぶキミが文字通りに『収穫』してきた『タネ』が種だよ?」
「かもしれんが、儂ひとりでは、こうも楽しめん。それは確かだ。これもその成果よ。……ほれ」
関羽は右手の゙林檎を自分の口元に寄せながら、残る左手にもつ林檎をユーリンに向けてつきだした。
ユーリンは関羽の仕草の意図を計りかねて、身動きができない。
「……? 何をしている? 食わんか。……うおお、うまいぞ、絶妙な歯ごたえ、シャキシャキしておる。あの霜妖魔め、実によくできておるな、単なる氷漬けではなく、もっとも果汁を楽しめるように冷やしを留めておる。簡潔ではあるが、陳腐ではない、精妙な業前ぞ」
「……え? それ、ボクの分?」
「無論だ。暑い中、待ちぼうけを食わせて、誠にすまなんだ。喉を冷やせ。溶けぬうちに食そうぞ」
「……そのためにあのタネ、ぜんぶ渡しちゃったの?」
「ふふふ。全部ではない。儂の巧みな交渉術により、一握りばかり手元に残してある。フユッソ村で正体を尋ねてみて、それが済んだら、味わってみようぞ。無論、うち1粒はそなたの分だ」
若干の歴史改竄を混じえつつも、関羽は破顔して成果を誇る。
そして、朗々と言葉を続けた。
「ユーリン、儂とこの世界は考えの合わぬところもままあるが、これだけは軍神として断言しよう。『果実は1人1つずつ、皆で並んで丸かじり』だ。この見解については異論を認めん、たとえこの世界を敵にしようともな」
「……うう、……ウンチョー……き、……き」
関羽の言葉を聞いたユーリンは涙ぐみ、何事かの単語を零しながら、身体の震えを堪えてうつむいている。
異変を察した関羽が声をかけると、堰を切ったようにわめき声をもらした。
「うー……」
「うん? そなた、いったい、どうしたのだ?」
「えーん、ウンチョー、好き。ねぇこの際、挙式とかしてみない?」
「そなた、また突拍子もない滑稽噺を――」
感極まったユーリンによる貞操を穿つかのような鋭い抱きつきをひらりとかわし、関羽は困惑顔を浮かべた。
かわされたユーリンは憮然として非礼な謝罪を述べる。
「ごめんよ、一瞬、ウンチョーのこと、霜妖魔に釣られる無計画でマヌケな救いのないトンマかと思っちゃった。てっきり、1つで半分だから2つでぜんぶ、て何も考えずに差し出したものと……」
「……そなた……まったく儂を……なんだと……」
「ごめんて。責任とってウンチョーを娶るから、それでチャラで」
「ええい、儂は女にモテたいのだと言うておろうが。そも、そなたの貌で迫られては冗談にならんのだ。なにより何故そなたの世界観ではいつも儂が嫁ぐ側なのじゃ? 笑句はほどほどで控えぬか」
「キミというヤツは、まったくまったく。……ま、いいけどね。気長にやるさ。正妻の余裕、てやつねこれ。……あ、おいしいコレ。新食感、開拓しちゃった。果肉の氷柱が頭に刺さりそう、歯ごたえが溶けて無くなる、シャキシャキが気持ちいいねコレ」
すっかり関羽に興味をなくしたユーリンは、『丸ごと林檎のシャーベットアイス』を夢中になって堪能した。
関羽としても、ユーリンの評には同意するばかりである。
「うむ。見事な仕上がりだ。……氷魔法とやらに頼らずとも、再現する術はないものかのぉ」
調理方法の模倣に思索を広げる関羽をよそに、ユーリンも一人で神妙に考え込んでいた。
先刻の霜妖魔とのやりとり、手元にある見事な氷菓子、これらを目の当たりにして、ユーリンのなかの固定観念が揺らいでいるのである。
「霜妖魔て、もしかして意外と話せるヤツらのかな」