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スイーツ巡りのぶらり道中  作者: das
遥けき夏の霜妖魔 ~カシューナッツのカッサータ~
18/32

(17) いつかの再会を、楽しみに

目を覚ましたユーリンは、そこがフユッソ村唯一の宿場施設であるルベル亭の一室であることをすぐに理解した。愛用の旅道具を詰めた背負い袋が部屋の隅に転がっている他は、何の変哲もない清潔な個室である。


「……あれ? ウンチョー?」


呼びかけても返事はない。窓の外の明かりから今が白昼であるとわかる。


「てことは、ひとりで行ったのか」


起きあがって身体の状態を確認する。負傷なし。疲労あり。影響なし。健康である。精神状態も概ね良好といって良い。重圧の反動が過ぎ去った浮遊感の中に、得も言えぬ充実した英気がある。ユーリンは軽やかな足取りでルベル亭を発ち、村を駆けた。遠くに見える巨大な氷碑は、当然、健在であった。


途中ですれ違う村人たちから込み入った話を振られそうになるのを言葉巧みに回避しつつ、ユーリンは村の西にあるロセ宅を訪れた。庭先に植えられた香草はやはり雑草に荒らされたままであり、土の柔らかいところには氷の巨木の崩落による穴が残っていたが、そこに沈痛の(しるし)はもはや感じなかった。


「ロセさん。ボクのウンチョーが来てませんか?」


玄関扉を叩いて呼びかけると、中からすぐに野太い応えがあった。


「……儂、そなたの所有か?」


「虫除けのマーキングみたいなもんさ。首にキスマークを許してくれるなら控えても良いよ?」


関羽が扉を開け、中から顔を出した。


「やほ。やっぱココだね」


「よくわかったな」


「ボクに行き先を告げずにフケたなら、ロセさんちしかないじゃん。キミがひとりで村の他のお宅に出入りできる?」


「……ぬぅ。如何にもその通りであるが。そなた、体調はもう良いのか?」


「ふふん。今夜、確かめてみたいってコト? いいよ、今日こそ髪を洗ってこなくちゃね」


「その様子では万全であるな。昨日の騒動の片付けに人手を要するかと此方(こちら)に参じたわけであるが、思いのほか損傷はない様子。結局、新作スイーツの試みにロセ殿の知見をお借りする運びと相なった」


「新作ていうと、氷かな。試食会はあるんだろうね」


関羽の不敵な笑みをユーリンは疑わしげに受け流し、ロセ宅に入った。


老婆ロセはユーリンの訪問を歓迎した。破顔して口元に笑みを浮かべている。つい昨日村に騒乱があったことを思わせない明るい表情であった。


「襲いくる山賊どもからセルヒオを守り抜いて連れ帰ったんだって? よくもまぁ無茶なことを。無事でよかったよ」


若干の虚偽を含むユーリンの事情説明は、村長を通して意図したとおりに広まっていた。謙譲を美徳とは考えないが、美徳と見做されている振る舞いにはためらいのないユーリンである。当たり障りなく応えた。


「あはははは。何よりセルヒオさん自身の敢闘によるものですよ。あと、霜妖魔たちに助けてもらいまして、辛うじて全うできました。ロセさんはお加減いかがです?」


「アタシはいいんだ、見てるだけだったからね」


ロセの目元に悲しさが浮かぶ。


「……それよか、キタンさんが心配だよ。山賊連中相手の大立ち回りに……あの樹みたいなのを凍らせてくれたのは、キタンさんだろう? 無理を務めさせちまった。もともとキタンさんの役目ってわけでもなかっただろうに……。いつの間にかどこかに行っちまったし……」


「キタンさんも疲れておられるだけですよ。信頼できる方にお任せしていますので、ご心配には及びません」


務める必要があった役目だったんです――とユーリンは言わなかった。霜妖魔キタンの誇りと悔恨の在り処、ロセの夫であるカルロ氏の死の真相、山賊王の企て……これらの事情をロセが知る必要はないと考えたためである。もしかしたら全てを明かしたほうが良いのかもしれない。しかし、ユーリンは知らせないことを選んだ。この選択が善き未来につながる保証はないが、今を生きるユーリンは、今できる判断として、知らせないことを今は選んだのである。関羽が少し満足気な顔をしたのは、ユーリンの気のせいかもしれない。


しかしロセに漂う寂しさは、いまだ確かに残っていた。少しばかりの罪滅ぼしと今後のための布石を兼ねて、ユーリンは提案した。


「ですがお見舞いの(つか)いを出しますので、後で土産物のご相談をさせてください。ウンチョーに作らせると、見栄えが、ちょっと」


流れ矢のようなユーリンの唐突な酷評に対して、関羽は余裕をみせた。


「ふふふ。味は及第ということか」


「……美味しかったよ。カッサータ、作れたんだね。……ひんやり冷たい心地よさが、ほてった身体に染み込んだ。……また作ってよね」


「うむ。また機をみて当地を訪れようぞ」


スイーツ文化の創始者である古の聖女陽子の『法魔法:使途塞縛(しとそくばく)』により、陽子(ヨーコ)Note(ノート)のレシピの利活用には時代を超越した制限がかけられている。フユッソ村のみで作れる――それがカッサータに設けられた制限であった。

聖女陽子がどのような理由で大魔法を行使してまでこの奇妙な制限をかけたのか、伝説の大賢者の意図は伝えられていない。しかし連綿と受け継がれたカッサータのレシピは、当地を訪れるスイーツ巡礼者に極上の悦楽を提供し続けている。それはこれからも、いつまでも、変わらないのだろう。


ロセ宅の台所に案内されたユーリンは、卓上に並べられた氷塊と対面した。氷塊の合間に器具と調味料も散らかっている。


「無遠慮なヤツ。……て、この氷はどうしたのさ。氷洞で採ってきたの?」


「何を申すか。まるで色が違うであろ。これは其処(ソコ)のヤツである」


「ああ、昨日のキタンさんの……食べれるの?」


「近場に在るものは積極的に用いねばな。せっかくの食材がただ溶けて消えゆくを傍観するなど、戦場であたら勝機を見送る愚将の如き耄碌(もうろく)よ。天が与え給うた『ちゃんす』は活かさねば。ちと味見したところ、質は中の上といったところ。及第である」


「氷てそんなに味、違うかな。ま、いいさ、キミが意外と敏感なのは知ってるし」


関羽に促されて、ユーリンは食卓に着席する。小さな椀に盛られた氷の破片のようなものが目の前に置かれた。匙も差し出される。性格はともかく、明晰さにおいては大方の難題と対峙しても不足することのないユーリンであるが、差し出された椀に対しては困惑を隠せなかった。


「えーと、これは……氷の残骸? 前衛芸術かな。現代社会の不安をカタチにしてみた? だとしたら横のスプーンは蛇足じゃないかな」


「儂の新作スイーツである」


氷の破片を匙ですくって口に含ませながら、ユーリンは評する。


「題して『無惨』。ちくちくと口を刺す氷の痛ましさが人間社会の息苦しさ、感情のむなしい軋轢を表しています。胃腸の弱い方は暖かいお湯を注いでからお召し上がりください。ボリボリと奥歯で噛みしめて顎の鍛錬にも便利です」


ユーリンの言葉は、関羽の急所にあたった。

効果は抜群だった。

関羽は目の前が真っ暗になった。


うなだれる関羽に、ユーリンは謝罪する。


「ごめんて」


「……ぬぅ。やはり、左様である、か」


ユーリンの見解は関羽としても認めるところであったらしい。すぐに気を取り直して新しい氷塊を布地で覆って片手で持ち上げ、包丁を走らせて氷を削り始めた。関羽の手元の皿の上で、ゴツゴツゴロンガコッという調理シーンでは非常に希少な効果音が鳴る。切削された氷の廃棄物が皿に積みあがり、徐々に溶けて水に還る。


題して『不毛』――とユーリンは言わなかった。ユーリンは関羽を見るのが好きであったが、何かに夢中になっている関羽を眺めるのはもっと好きであった。


しかしついに関羽も事態の様相を悟り、


「不毛であるな」


とつぶやいた。作者と鑑賞者の感受が一致するのは、優れた芸術作品の証左である。

偉大な芸術家たる関羽は手を止めて、考え込む。


「どうにも刃の当たりが儂の意図とは違う様子。つるつると滑る氷を巧みに削るのは実に難儀である。あえて刃の荒い包丁を試してみるべきか。いやむしろ鋭さを増す方向で試みてみるか、いやあるいは……」


手元の包丁を睨み、角度を変えて氷に当てつつ、押したり引いたりしながら、工夫を思案する。やがて閃くところがあったのか、氷と包丁を卓の上に戻して、両手をわきわきとさせてユーリンに迫った。


「かくなる上は止むを得ぬ。……ユーリンよ、出すぞ!」


「はーあ!? 赤竜偃月刀セキリュウエンゲツトウを!?」


「うむ。やはり愛用の得物でなくてはな」


「……ぐんしん。自分の(がら)に少しは執着ないのか?」


「今生は美食の探求こそ最優先よ。どうせ斬るなら美味いものが良いんじゃい」


「正しい用法じゃないよ、ゼッタイ。アレは戦場で敵を吹っ飛ばすためのものじゃん」


「何が悲しくて刃で刃を打ちつけ合い、斬られたくないと願う者を斬らねばならんのじゃ? 戦いなぞ無益の極みである。切るために腕を振るうなら、食材を切るべきであろ」


「ムード、だいじ! ひとり(ザカ)りは、離婚事由!」


まったく乗り気でないユーリンを手籠めにしようと襲いかかる関羽に、堪りかねたロセが口を挟んだ。


「ウンチョウさんのやりたいことは理解できたよ。面白い(ため)しじゃないか。けど、なってないね。……見ててご覧」


ロセが卓上の氷塊と包丁を持ち、関羽と同じように氷の表面に刃先を滑らせる。ふわり、と花びらが舞った。薄く削られた氷の膜が、軽やかに散る。心地よい擦過音が奏でられ、手元の皿には雪のように静かな氷が次々と盛られていく。紙のように薄く削られた氷は、次第に自重に耐えかねるようにたたまれて、慎ましく山なりになった。


関羽とユーリンは唖然として見入る。固く冷たく滑る氷が、このように儚い姿になろうとは、まったく想像もしていなかった。陽子(ヨーコ)Note(ノート)履修者としての老婆ロセの圧巻の調理技術がそこにあった。


しかしやがて腕に疲れたがきたらしく、ロセが氷と包丁を卓上に戻して区切りをつけた。


「こうやんのさ。角度と加減の問題だよ。けどアタシじゃ体がもたない。ウンチョウさんが極めておくれ。すぐできるようになるさ」


「同じ刃で、かくなる差異が。素晴らしい……やはりスイーツ道こそ我が生涯を捧げるにふさわしい……」


感動に震えて男泣きしている関羽には目もくれず、ユーリンがロセ謹製の薄氷盛りを匙ですくって試食する。笑みを満面に弾けさせた。


「うっわ、美味しい、コレ。ふわふわの氷だ。クチの中でふしぎが消える。新食感! 雪でも氷でもない新しい冷たさ! ……口に入れるのが、楽しい」


「蜜よりも、きっとコッチだね。リコッタチーズに砂糖を加えたものだよ」


ロセが小鉢に練って出したそれをユーリンは手元の氷にかけ、疑うことなく、けれども神妙な手つきで口に運んだ。

こみ上げる甘さと冷たさが喜悦となって、形だけは非の打ちどころがないユーリンの顔の造作をみだらなものに変える。白濁したとろみをのせた舌をさらして感激に震えた。


「……濃……厚……とした冷たい刺激がたまらない……溶ける……溶けて消えて、余韻がキンキンくる……」


「他にも試せそうなものは……乾燥モージアの粉末も合いそうだね。納戸から持ってくるよ」


ロセが台所を後にする。ユーリンの手元の椀が空になる。ロセの残した皿の氷の残量が頼りなく感じられた。ユーリンは関羽に空色の瞳を潤ませておねだりする。


「ウンチョー、おかわり。……すぐできるようになってね」


「無論、必ず会得してみせよう。先刻のロセ殿の手さばき、我が両の(まなこ)にしかと焼き付けてある! うおぉぉぉぉおお!」


猛然と氷塊を削る関羽の背に、ユーリンが要らないことを言う。ただの趣味である。


「ごめん。(うしろ)からだと、ウンチョーがすごい勢いでマスカキしてるように見える。……マスカキ氷……いや、縮めて『かき氷』だね! 良い名前でしょ?」


関羽の手元の氷塊が、ぽっきりと中折れした。




ロセ宅での不毛な一幕を経た後、ユーリンは関羽を伴って村長宅を訪れた。山賊による騒乱の後始末のため、村長は留守であった。しかし一向にそれには構わず、むしろ好都合と言わんばかりに押し入って、安静に在宅している人物の部屋に足を進める。


「見舞いにきたのか?」


とぶっきらぼうに、ベッドの上で体を起こしてセルヒオは訪問者に尋ねる。そうであるとは思っていないが他に言うこともないので口を動かしたといった表情であった。


セルヒオから声がかけられたことを入室の許可と曲解してユーリンは無遠慮に室内の椅子に腰を降ろし、玉座から臣下に指図する王侯のような気色で答えた。


「いや、見舞いに行かせる話。キタンさんにカッサータを届けてほしい。霜妖魔の王国の入り口で門番のエクロさんに渡せばいい。……もしも運悪く殺されたら……なんていうか……自分でなんとかしろ」


「俺はケガ人だぞ。……ってか、なんて物騒な話だよ」


「蹴られても殴られても平気な程度に回復してることは知ってるよ。死のリスクは結構あるけれども、命の恩人に殺されるならお前の天命がそれまでてことだ。けどたぶん受けとってくれるよ。多めにロセさんに作ってもらうからさ」


「カッサータの量が多いと殺されないのか? 変な話だな」


「聖女ヨーコ曰く『スイーツはみんなで分けて、分け隔てなく、和気あいあいと楽しむこと!』だからね。ちゃんと聖女ヨーコに祈っとけよ」


「聖女様曰く『あたしの個人崇拝は絶対厳禁! 羞恥心は乙女の尊厳!』だろ。用が済んだら帰れよ、それはやっとくからさ」


「明日、行けよ。ロセさんにはもう頼んである」


「……わかったよ」


セルヒオは観念したように身をベッドに沈めた。呻くような声を喉から漏らしているが、責務を放棄する兆しはない――とユーリンは看取した。そして、ユーリンが話題を転じる。


「それはそうと、話をしようか」


「もう十分堪能したけどな。……言えよ」


「ボクはいずれ国を創る。その時に、お前にできることをして、協力してもらいたい」


「……正気か?」


ことさらに倦怠を訴える面持ちであったセルヒオの表情が変わり、純粋にユーリンの大言壮語ぶりを心配するような顔になる。


ユーリンの眼差しは揺るがない。空色の瞳をセルヒオに直裁に向けて、語り続ける。


「もちろん狂ってる。けど狂ってるから間違ってるとは限らない」


「ぶっ飛んだヤツだとは思ってたけど、そこまでとは。とりあえずお前の名前は忘れられそうにねぇよ」


「誰にどう思われてもいいけどさ、とりあえずお前はどう思う?」


「どう、って」


セルヒオは返答に窮した。予期していたように、ユーリンは話を整理する。


「問1、ボクの望みは間違ってると思うか? 問2、協力したいと思うか? ……答えなくてもいいし、断ってもいい。笑ってもいいし、馬鹿にしてもいい。正解のない、狂った話題の中の無意味な問いだよ」


ユーリンはやや自嘲気味に言葉を締めたが、空色の瞳の中の光は真夏の陽光のように真っ直ぐであった。

セルヒオは少し考えてから、答えた。


「間違っては、いない。だが、協力したいかどうかは、わからない」


「中途半端だね」


「だって、お前がどんな国を創りたいのか、わからないじゃないか。それに何のために? お前がどんな人間なのかも、まだよく知らない。答えようがないんだよ、そんなの。……だけど、半端な気持ちでそんなこと考えないだろ? きっとそう願うだけの理由があるんだろうから、間違ってるとは思えない。だけどその理由に俺が賛同できるかどうかは、わからない」


セルヒオの言葉に、ユーリンが息を呑んだ。


「……完璧」


「はぁ? 何がだよ」


「お前の回答。業腹(ごうはら)だけどさ、ボクの理想なんだ。……ボクは、ボクの外見に惹かれるヤツに興味はない。ボクを盲信するヤツにも関心はない。ボクにまったく(ほだ)されることなく、それでもボクを認めてくれる人にこそ協力して欲しいんだ。そういう人こそ頼りになる。だからお前は完璧に合格なんだよ」


「なんだソレ。何の地位も権力もないただの旅人が、世迷言を語る相手を選り好みしてんのかよ。生意気っていうか、身の程知らずっていうか」


「ボクもそう思う。けどきっとそれが1番マシなんだ。クソの中では最上級のクソな道だよ。木っ端カスどもにチヤホヤされてもボクに益はない。利用はしてやるが、信頼には値しない。ボクにはお前のようなヤツが必要で、ひとりでも多く会いたいんだ」


悲痛ささえ漂わせるユーリンの真剣な想いが、室内に沈黙の幕を下ろした。ユーリンはセルヒオから視線を外さない。情熱が圧力となって、尋常ならざる気迫を生んた。


セルヒオは逃げなかった。狂人の荒れ狂う意志の力を真正面から浴びつつも、それを現実のものとして受け止める。そして、それを消化するための酵素を求めた。


「……それで、答えはなんなんだよ。俺の質問にも答えろよ。お前はどんな国を創りたいんだ?」


(みずか)らを(よし)とできる国。生きるために相応の義務を背負ってブーブー不平を垂らしながらも、各々(おのおの)の心だけはありのままであれる。出生出自、種族や神の都合によってではなく、自らの意思で生き方を選ぶことが許される。……それを望む数多の生命のための居場所を創るのがボクの大望だ。……別に国でなくてもいいんだけどさ、カタチとして残すなら国にするしかないじゃん?」


「……そんなことが……できるのか? ……聞いたこともないが……」


「無いから創るんだよ。そういう場所があるんならボクはそこに住みたい。だけど無さそうだ。だから自分で創る。そういう国を創ってくれる人がいるなら、ボクはその人の靴磨きの従者でもいい。だけど居なさそうだ。……だから先頭に立つ。自分(ボク)の居場所を得るために。そのためには何だってやるさ」


ユーリンは椅子から立ち上がった。そして、謹厳に口元を結ぶ。


「お前に頼んでやるよ。頭も下げていい」


まるで志尊の座を頭上に頂いているかのような威厳を捨て去る。満月の輝きのように豊かな銀髪が垂れる。ユーリンは腰を折って、頭をセルヒオに向けて下げた。


「お願いします。ボクは貴方に何をどうこうあーせいこうせいと命じる立場ではない。けれど、もしもその時が来たら、その時に貴方にできる範囲で、貴方のベストを尽くしてボクに協力して欲しいんです。見返りも約束できないですし、そもそもその時をボクがつかめる保証もない。それでも、ボクはボクのベストを尽くします。だからその時に、どうかこの話を思い出してほしいんです。そして行動をしてほしい。ただベストを尽くし合う仲間であることを、許してほしい」


色褪せたヴェールに包まれた真実の箱を、ユーリンはセルシオの前で紐解いた。それがこのフユッソ村を訪れて以来初めて(あらわ)にした、ユーリンの本来の姿であった。


セルヒオは言葉を失った。頭を下げる妖しい美貌の少年をこの世ならざるモノのように恐れ見る。無謀な企ての賛同者を探す求道の旅路――報いなき苦難を拾い集める徒労の積み重ね――人間(じんかん)の世における至宝ともいえる天賦の才を備えながらも安楽な生涯を選ばず餓鬼道に足を進めた異常者――あえて苦海に難破することを望む盲目の船乗り――およそまともな人間とは思われない。しかし、それを嘲笑うことは決してできない。もしもどこかに()()()()誰かがいるとしたら、()()の他には創造界(エレバス)のどこにもいない――その運命的な確信を、少年に抱かせられたのである。この場、この時、今をあだおろそかにしてはならないという啓示を受けた気がした。湧きあがる衝動を心に馴染ませるようにくゆらせながら、セルヒオは自分の想いを言葉にした。


「ユーリン……お前さぁ……あんま希望を持たすなよ? ……この話、覚えておいてやる。期待はしないがな」


少年は顔を上げた。空色の瞳が降り注がれ、セルヒオはそれを一身に浴びていることを実感した。少年の不安げな眼差しが伝い、セルヒオの内にさざめきを作る。今、手を差し伸べるのは自分の側である――それを栄誉であると秘かに認めた。


「……言っておくけどな……義理じゃねぇよ。お前が何かをちょこっとでも良い方向にしてくれるんなら、それを期待するくらいはいいだろ!? ……俺はあんまり、そういうの考えるのに向いてないし、お前が考えて良かれと思ってやるってんなら、それに乗っかってもいい。俺の都合でな。……それでもいいか?」


セルヒオの言葉がてきめんに作用した。少年の顔に創造の春の光が満ちる――が、すぐに少年はそれをかき消した。外見的な印象は、すべて少年自身の意思によって制御されたものである。それがわかった。しかし、たった今、自分に見せた顔こそが、この少年の紛れもない真実である。それがわかったから、セルヒオは少年の悲しい虚実の演劇をありのまま受け入れることができる。


少年——ユーリンは再び虚構の玉座に腰を降ろしたらしい。あたかも王侯のような気風を、いつの間にか身にまとっている。


「完璧。すごいぞセルヒオ。冥府でラロスにしごかれたのか? いっぺん死にかけて、生まれかわったみたいじゃないか」


「やたら頭が高いな、お前。さっきの姿勢もういっかいやってみろよ。いつかの時にちゃんと思い出せるように」


「あいたたたた、ヴェスプに殴られた傷がジクジクと痛む……あー、後遺症あるな、コレ。ボク、キズモノにされた? ……ウンチョー、こんなボクでもお嫁にきてくれる? ああ、イタイ痛い……どうしてボクはヴェスプなんかに殴られることになったんだろう……」


「……くっ。お前、卑怯だぞ……」


「知ってるよ。よく知ってるじゃないか。頭いいなお前」


「よくねぇよ! ……あれ?」


「馬鹿」


ユーリンとセルヒオの感情的な掛け合いがしばらく続いたが、若者2人の雪解けを見守っていた関羽が精神的な年長者として仲裁に割り込んだ。


「もうそこらでとめておけ。友との語らいが盛り上がるのは道理なれど、重要な話を終えた後に脱線をしすぎだ。ここで区切とするがよかろう」


「ちょっと、ウンチョー? ボクの友達は、キミだけでいいんだけど?」


「友を新たに増やしたとで、旧来の縁の何が薄れるでもない。猛る松明の炎を新たなそれにわけ与えたところで元の松明の輝きが薄れることのないように、人の(えにし)の織り成す灯火は、分け広げ伝え合うほどに強く(さか)るのだ! ……それで失うものは何もない。一時の寂しさを乗り越えられれば、な」


「むー、でも、ウンチョーが……」


暗にセルヒオを友と認めるユーリンの失言には触れず、関羽は諭すように言った。


「女々しいことを申すな。……儂も立場を異にする者たちの中に身を置いたことがある。予期せず多くの(えにし)に恵まれたが、それで元の縁が揺らぐことは些かたりともなかった。それが人の世の面白さである。……しかし、つくづく曹公もよくあの様なへんじ……もとい異能のクセ者どもを束ねたものよな。頭のおかし……もとい個性的な連中を如何に統帥したのやら……ふむ、今になって懐かしさがこみあげてくるとは。(ぶん)ちゃんとか尚書令殿には無理を通してでも会っておけばよかったのぉ。悔やまれる。ま、もう叶わぬ話だ。故に今ある縁は大切にせよ」


「ぶん、ちゃん!? またその名前っ!? ねぇ、それ、誰? 誰なのさ!?」


血相を変えてわめきくユーリンをいなしつつ、関羽はセルヒオに告げた。


「して、セルヒオよ。儂からも提案がある。少しばかり耳を傾けてくれぬだろうか」「ちょっとぉ! ボクの大事な話まだ終わってないよ! ここはぶんちゃんについて問いただす場でしょ!?」


関羽に呼びかけられて、セルヒオは寝台の上で背筋を伸ばして姿勢を正した。努めてそう振舞ったわけではないが、それが自然なことであると身体が反応したためである。セルヒオは神妙に、応える。


「聞きま……聞かせてください」


「……おぬし、見聞を広めるために商いに取り組んでみる気はないか?」


関羽の提案がまったく予想外であったため、セルヒオは戸惑いを隠せない。


商人(しょうにん)……ですか……? たまに村にも来ますがあまり良い印象は……」


「然り。阿漕(あこぎ)商人(あきんど)蔓延(はびこ)るが世の実情……故におぬしが真っ当な商道(あきないみち)を拓くが良い」


セルヒオは(つつし)みそのもののような表情で、関羽の告げる言葉を託宣のように請け賜わる。しかし顔色はやはり冴えない。物品を運搬し、売買による利ザヤを収益とする活動に対して、どうしても良い印象を思い起こせないためであった。


そんなセルヒオの迷いを見越しているように、関羽は朗々と言葉をつづけた。


「この村の産物を街に売り出しに往くがよい。如何なるものが喜ばれるか、村の生産を把握し、街の人々の需要を学び、おぬし自身に組み込んで考え抜くのだ。そしてここからが肝要である。……商いとは、自らの益のみの増大を企図するに非ず。必ず街からの帰りを考慮せよ。空の荷車を遊ばせておくこともあるまい? おぬしは近隣の村々の生活をもその身に修めて自らのものとせよ。そして、村の人々が必要とするものを街で仕入れて、売るのだ。この界隈は街への交通の便がよくない。商いの往来も乏しかろう。それがために、たまにこの村を訪れる商人は益を得るために暴利を求めねば立ち行かぬ。だがそれはこの村の産物を活かせぬ故にそうせざるを得ないためだ。おぬしは事情が異なる。故に、おぬしの取り組みには益が生じる。おぬし個人の益にとどまらず、多くの人々の、な」


セルヒオは黙って、関羽の言葉に聞き入る。迷いの霧が次第に薄らいでいくのが、関羽にはわかった。関羽は最後の一押しを加える。


「おぬしの想い描ける人々の生活の規模と質こそが、やがておぬしの(ちから)となる。それを続けよ。地道な道のりであるが、それが故に他の誰もやらんのだ。だがそれ故に、誰かがやれば多くの人々の生活の資となる。……ふっふっふ。此れなるが商いの常道よ。まず皆の生活を豊かにする。結果は後でわかる」


「……気の長い話ですね」


「うむ。だから、誰にでもできて、なお誰もやらぬことにこそ意義がある。おぬしの天命と思え。此れなるを『呪い』ととらえることもできようが、やらされる口実は、欲しかろう?」


まるで祝福を受けたかのように、セルヒオは厳かに関羽の言を受け止める。そして、断言した。


「やります。俺の償いです。……カルロ爺ちゃんも、ロセ婆ちゃんも、俺は本当に好きだったんだ。俺が馬鹿だから、俺が……」


「然り。だが『名誉』はすでに然るべき筋道によって回復されておる。そしておぬしは男であろう。なれば呑み込め。……苦しみを抱えて、皆のために尽くすのだ。己が苦悩と引き換えに大切な者が栄えるなれば、それが本懐である。続けるうちに、自ずと償いの答えを得られよう。……否、答えを与えられる……天より、な」


神仏のような威厳を以て、関羽は言葉を締めくくる。


「……どうせこの世界の神とやらは、そーいうのやらんのであろう? だったら儂が代理を務めて進ぜよう。……関雲長が保証する、この道を往け」


セルヒオの眼にたまる涙を貫くように憧憬の光がはしった。


関羽はそれを、鷹揚に受け止める。

数多の男の想いを背負い、また時に真正面から受け止め、全てを飲み込んで天下と対峙してきた男の極道を体現した関羽の生涯が、未熟な若者の心の檻を握りつぶしたのである。


「なんだか、ウンチョウさんにそうに言われると、信じられる気になりますね」


セルヒオが尊敬に声を震わせた。

これ以上の言は不要である――関羽は頷き、後の道は、この未熟な若者に信じ託すことを態度で示した。


関羽とセルヒオが言葉もなく見つめ合う時間は、後ろで見物していたユーリンが掠れるような声を出すまで続いた。


「……まさか、セルヒオ……おまえ……」


驚き、よろめきながら、息も絶え絶えに、ユーリンは悲鳴を漏らす。


「……おまえが……ボクに……全くほだされなかったのは、まさか……そういう、ことか……?」


慌ててユーリンが関羽の片腕を抱え込み、身を寄せ、所有権を天下に示すように周囲を睨みつけた。エサを奪われかかった野良猫がそうするように、あらん限りの剥き出しの敵意で、ふしゃー、とセルヒオに(うな)る。


関羽とセルヒオは、同時に片手で目を覆って天を仰いだ。


「ウンチョウさん、ソイツ……とても俺が言える立場じゃないけどさ……ソイツ、頼むよ? 野放しにしたら、たぶん……ヤバい」


「難題であるな」


「……フシャー、ガルルルル……てさか、(ぶん)ちゃんて、誰? 気持ちの良い男て、なに!?」




関羽とユーリンは、それからも数日、フユッソ村に滞在した。

カッサータの他にもこの村に伝えられている陽子Noteのスイーツがある。断固としてそれを堪能する――というのが関羽の意向であり、ユーリンが反対する理由は全くなかったためである。

加えて、空いた時間で関羽はロセの元で修行に励んだ。特に包丁の扱いについては、天下無双の体力を誇る関羽が連日疲労の色を示して熟睡する程度の、多少厳しめの指導を受けた。その成果として、『かき氷((いみな)マスカキ氷)』に必要な氷のふんわり切削技術を関羽は会得した。「非常に筋が良い、とお褒めの言葉を頂戴したぞ。感無量である」と顔をほころばせて報告する関羽に対して、ユーリンが「よっしゃ。次は見栄えを整えるほうだね」と言うと、関羽は黙ってしまった。

ユーリンは趣味として関羽をときどきおちょくりながら、フユッソ村の農耕牧畜の工夫について取材をして周り、空いた時間は、村の人々の接待に励んだ。関羽とユーリンの宿泊するルベル亭は、連夜、異様な賑わいであった。「ユーリンさぁん、あたし、こわかったのぉ」と山賊騒動の折に人質にされた村娘が元気そうに被害を訴えながら不必要にユーリンの身体に接触しようとするのを、ユーリンは氷の笑顔のまま、氷のように固く拒絶し、氷のように身を滑らせて(かわ)した。その日の就寝前、「害を被ることを特権の獲得だと勘違いしてるほうの性別というのは、どうしてこう」とユーリンは関羽に被害を訴え、「ウンチョー、ボク、こわかったぁ」と関羽に身を寄せてセクハラを試みたが、関羽は日中のスイーツ修行の疲労のためにすでに眠りこけており、ユーリンの不満はその翌日の『ウンチョー遊び』で発散された。


なお、セルヒオは氷洞から生還できた。ユーリンの指図したキタンへの見舞の遣いを無事に務めたのである。ただしフユッソ村に残る巨大な氷碑が視界に入るたびに「ひいっ……ご容赦をぉ……」と悲鳴を漏らす奇妙な習慣を獲得していた。ユーリンは「気持ちはわかる」とその点に限って心底から同情を示した。夏の陽射しは強い。いずれはそびえ立つこの氷碑も溶けて消えるはずであった。




明日、出立する――とユーリンはフユッソ村の人々に告げて、別れの夜を過ごした。

婦人衆はよよと涙を流し、村娘たちはさめざめと泣きはらした。村の男衆は自分たちの母や女房や娘や祖母や孫娘たちの様相に呆れていたが、それでもユーリンとの別れを惜しむことには余念がなかった。

謹直な面持ちで山賊騒動の顛末と息子セルヒオの救命についての改まった礼を述べにきた村長をいつの間にか設立された秘密結社『ユーリン様をいつまでもずうーっと見守る会』の長を自称するどこぞのご婦人が押しのけてユーリンに情熱的な抱擁を試みる様子を遠くに眺める関羽が「……儂の『ばきもて』ライフの実現はなんとも遥けき道程になりそうだのぉ」とルベル亭の食堂の隅っこでぼやくのを、同席するセルヒオは残念そうな顔をして都合よく聞き流した。




ルベル亭で朝食を済ませ、ロセ宅を訪れて別れを告げる。老婆ロセのさみしげな表情が、ユーリンの胸をついた。


「これを任せてもいいかい」


とロセは布地の小袋を手渡した。手のひらの感触で、ユーリンは託されたものを悟った。


「お預かりします。そして、いつかご報告に参ります」


「報告は要らないよ、先に進みな。結果を出さすのはアタシたちじゃないからね。でも引き受けてくれてよかったよ。あの人に胸を張って伝えられる」


ユーリンが頭を下げて「道中にて、地に問います」と応えると、ロセは満足そうに微笑んだ。





人目を避けて村を出ようと昼日中(ひるひなか)の隠密行動に励むユーリンに、それに付き合わされる関羽が尋ねた。


「そなたの見送りを企画する声が聞こえておるが、告げずに出るのか?」


「だからだよ。ナントカ会のめっぽう加齢な(メス)が手勢を率いて襲撃に来る気配だ。そんなんの相手をしてらんないよ。帰る。そのために昨晩あいさつしたんだし、義理は通したよ。……ボク、がまんしたよね?」


「上首尾だ、なにせ此度は村の男衆が参加しておらぬからな。……そなたのおかげで、心ゆくまでロセ殿のご指導をいただけた。かたじけない」


不満に鼻息を荒げるユーリンをなだめて、関羽は理解と感謝を示した。


娯楽の乏しい田舎の村落である。ふらりと村に訪れた旅人を(さかな)として無聊を慰めるのは自然な成り行きといえた。ましてその旅人の容姿が麗しく、山賊の襲撃において村人の1人を保護する英雄的な成果をあげ、連夜、天禀の声音で旅の逸話や各地の伝承を言葉巧みに語るのである――ユーリンを囲む村人たちの歓迎が次第に熱狂に変わりつつあるのを、ユーリンは辛うじて押し留め、村人たちのハメとタガが外れないように抑制して、関羽のスイーツ修行の時間を稼いだ。スイーツ道楽を円満に愉しむためにも、村人たちによる好意的な感情を維持する必要があったのである。


「毎度恒例の間男嫌疑イベント回避! 6回連続乱闘脱出エンド達成ならず。めでたしといっていいんじゃん? ……だけどもう疲れたんだよ。いい村だけどね。また来たいな」


振り返って、見上げた。巨大な氷碑がそこにある。霜妖魔という種の威厳を護るために村に及ぼす害に構わずエクロが精製した氷の巨木を、キタンがさらに巨大な氷で密封した冬の象徴が、夏の陽射しを浴びて輝いていた。


「アレが溶けて消えてからが、正念場だね」


「霜妖魔を伝える(いしぶみ)としては申し分ない。……互いを侮らず、かつ恐れず、正しく理解し、交流の扉を開く――その道を拓き、歩む、か。難事なれど、この村にしかできぬことである。セルヒオめの敢闘と期待するとしよう」


「もう一人の(いしぶみ)がお元気なうちは心配ないよ。カッサータがエクロさんにぶっ刺さったこと間違いなし……たぶん。そんでその次は……ま、なんとかしろ……」


「儂が思うに……氷とは、夏においてこそが最も美しく、かつ旨い。故に事はいずれ成就しようぞ。美しきものには、焦がれるものである。……冬の氷のなんと寒々しいことか……夏の氷のなんと麗らかなことか」


民家の壁に身を寄せて、何かを探すように走りまわる何人かのご婦人たちをやり過ごし、ユーリンが言った。


「ロセさんにはお礼できたし、セルヒオは最後に締めておいたし、あと会いたい人は……まだお会いできなさそうだし、もうここらでよかろうだよ」


昨日、ユーリンと関羽は氷洞を訪ねて出立の予定をエクロに告げて別れの挨拶を交わしていたが、まだ身体の自由が利かないという理由でキタンとの面会は叶わなかった。それだけが最後の心残りであった。


首尾よく村の南の出口までたどり着いた。


辺りに人の気配はない。森の中に続く道が、どこまでも延びている。遠く村の中から「ユーリンさまー!? どこー!?」と叫ぶ声が背中に届いたが、ユーリンは「はした()()ご婦人になりなよ。ロセさんのような」とつまらなさそうに言った。


関羽はしみじみと決意を新たにする。


「次こそは儂の『ばきもてらいふ』であるな。差し当たっては『ちーと』なる物を買い求めたいのであるが、何処(いずこ)が産地であろうか? 『異世界はーれむ』という遊戯(ゆうぎ)が興味深い」


「正妻として忠告するけど、キミはそういうの向いてないよ。とっ散らかって収拾つかなくなるのがオチさ。……ボクだけでも持て余してるのに」


その時、影マナのざわめきが森の木の葉を揺らした。


関羽が咄嗟に腰から剣を抜き放ち、ユーリンを護るように身を乗り出す。が、すぐに剣を鞘に戻した。関羽の背からユーリンが顔を乗り出す。


「 ……て、キタンさん!? 動けるようになったんですね!」


「キッ、キッ、キッー」


霜妖魔キタンの小さな姿が、そこにあった。『影魔法:影渡り』によって、姿形を隠して潜んでいたのである。姿を(あらわ)す直前まで関羽の警戒を掻い潜るほどに気配を滅していたのは、ただの悪ふざけであろう――鈍い色の瞳に悪戯(いたずら)な熱がこもっていた。


関羽は悔しそうにぼやく。ユーリンは総身を躍動させて再会を喜ぶ。


「ぬぅ、不覚。此度(こたび)は全く気配を感ぜられなんだ」「お会いできてよかった! 貴方と出会えたことを、ボクは……神ではなく、聖女ヨーコに感謝します」


「キッキ……」


まだ早い――と聴こえるように、キタンが指先を得意げに振り、注目を促す。


「……ふむ?」「なんだろね」


関羽とユーリンは、雪中(せっちゅう)に芽吹く春告(はるつげ)(つぼみ)のように静かな面持ちで、信頼と期待に満ちた眼差しでキタンを見守る。


霜妖魔キタンの右腕が高らかに掲げられ、青白く燐光する。氷マナの気配であった。


まるで掘り当てた山中の井戸から湧き水がこぼれるように、キタンの掌から冷気があふれる。それを誘うように、あるいはそれに促されるように、氷マナのざわめきが強くなる。瞬間的な発光——目もくらむ冬の色。夏の象徴たる蒼穹に雪の白さを混ぜたかのような青白い輝きが目をくらませる。


「キケ、コッコー」


霜妖魔キタンは、誇らしげにそれを構えた。


林檎大の、純粋な氷であった。


透き通る氷体から陽光を覗かせ、天空の空の蒼を増幅させるかのように輝き、けれど瑞々しい艶を失うことのない、真夏の陽の下には遥けき冬の結晶であった。林檎氷の内側には空洞があり、花びらのような風車様の弁がある。吹き抜けるそよ風にもそよぐように、林檎氷の内側でそよぎ揺れて踊っている。


ユーリンが予感を抱くと同時に、霜妖魔キタンの身体から大気のマナが発された。それは吹き抜ける風となって、冬に起こり、春を渡り、夏につないだ。


――冬神ムルカルンのご温情でしょう。昨夜エクロ師よりお二方の旅立ちを告げられて以降急速に身体が回復致しました。出立のご挨拶に間に合わせることができて本当によかった


霜妖魔キタンの笛声であった。燦々と照り付ける日差しの下、氷の笛によって奏でられるヒューマン族の言葉——冬と夏の二重奏が、そこにあった。


ユーリンが驚きのあまりそれに聞き入って沈黙するのに対し、関羽はそれを当然のように聞き入れて、応えた。


「ご快復を信じておりましたぞ。奇縁の巡り合わせにてキタン殿と知己を持てたこと、誠にありがたく感謝しきりである」


――ウンチョウさん。度重なるご指導のほど、骨身に染みて我が血肉とさせていただきました。短い間の交流となりましたが、私にとっての第二の師を得た想いです。冬神ムルカルンの再訪を迎えても、私がこの御恩を忘れることはありません。良き恵みと調和をもたらす氷と雪のきらめきが、この出会いの鮮やかさを永く保ち続けることでしょう


流麗にして淀みのないヒューマン族の言葉での語り口調――生来は相容れぬヒューマン族の言葉を巧みに操る霜妖魔キタンの器量が十全に表れていた。


キタンは次いでユーリンに微笑んだ。


――ユーリンさん。あなたに導かれることは楽しかった。あなたの歩む道を、一刻でも共にできたことは幸せだった。あなたのようなヒューマン族が居ることを、知れてよかった。ここに旅路の無事をお祈りすることができたことを、私は冬神ムルカルンに誇ります。春に残る氷が冬の寒さを記憶するように、私はあなたのことを故国の皆に残しましょう。そして私の心の凍土に刻み付ける。……次に会えたのが、あなたたちで、本当に良かった


キタンの言葉が途切れ、場は沈黙を迎えた。夏の太陽が、キタンの手の林檎様の氷を麗らかに照らす。氷とは、夏こそが最も美しく輝くのである。


たまらずユーリンは驚きの声を漏らした。


「キタンさんッ!? ……そんな! 口調! なの!?」


関羽が意外そうに首をかしげる。


「む? 初めからずっとこうであったではないか?」


「はーあ? だったら通訳してよさ!」


「……必要か?」


「……そか。要らないね」


ユーリンと関羽の会話を見て、キタンは「キッキッキッー」と悪戯に笑った。そんなキタンをユーリンは思いっきり抱きしめ、「えーん、好き」と迷惑な情念をあたりかまわず垂れ流し、目の端からも涙を垂れた。


小さな身体。ユーリンが膝をついてキタンの背に手を伸ばし、それでもなおキタンの頭はユーリンの顎の下にある。そんなキタンにユーリンは鼻を寄せて、その霜のような色ぶりの身体を惜しむように、抱き寄せた。ユーリンが次の言葉を澱まず発したのは、精いっぱいの男としての矜持であった。


「……ぐずっ……うっ……っ……――『キケッキーキカッ』」


霜妖魔キタンの鈍い色の瞳が、夏の蒼穹に染められた。ユーリンに応えて、氷笛が奏でられる。


――『寒さに満ちた天の差配に感謝』を。そして私は、あなたから頂いた祝福を大切にすることを誓います


泣きじゃくるユーリンを慰めるように、キタンは暖かい言葉を続ける。


――私はカルロの代わりに、フユッソ村を守り続けます。果たしてそれが許されるのか、いつまでそれが許され続けるのか、わからずとも私は私の最善を尽くしましょう。この身を正しく惜しみながら、カルロのことを、少しでも長く皆の中に残せるように


山賊の残党によるフユッソ村襲撃への備えとして、関羽とユーリンにとってのみ都合が良い結末を誘うべく、ユーリンが霜妖魔キタンにかけた呪いの言葉――『……村を護ってください。……カルロさんの、代わりに』――この防御不能の精神汚染を、誇り高き霜妖魔キタンは、祝福として受け取った。


その気高い精神性に、ユーリンの内心はたじろぐ。己の卑しさに嫌悪感がこみ上げる。けれども、たとえ未完成であっても、ユーリンは男である。惚れた相手の前で、無様はさらさない。それは、矜持の無いことが矜持であるユーリンにとっての、数少ない矜持であった。


ユーリンは涙をとめて、自信に満ちた表情でキタンに告げる。


「……村に一匹、ボクの遣いを残しておきました。探せば見どころが無いでもないので、うまく使ってやってください。最低限の保証ですが……恩を忘れるほどの馬鹿ではありません。馬鹿ではありますが」


――セルヒオさんですね。エクロ師がいたく気に入ったようで、熱烈な歓迎ぶりだったそうです。曰く『ヒューマン族の生命力の限界を測る良き機会であル。いずれ来たる戦いの日に備えて敵の理解を深めル』とのこと。……私が近くにいるときはもちろんお留めいたしますが、私も常に師の側にいるわけでもありませんので、その、冬神ムルカルンの御加護を祈るより他なく……


ユーリンは「おぅ」と言った。

関羽は「ううぅむ」と言った。

キタンは「キケケ」と言った。


3人は笑った。

冬のように湿り気なく乾いた、夏のようにまぶしい笑い声であった。


ともあれユーリンは安堵した。キタンの証言を聞く限り、セルヒオが問答無用でエクロに処刑される心配はない。話を聞いてもらう――その対話の扉を開く始まりの一線は、これからも保たれるだろう。


「匙加減を間違えるお方ではありませんしね。ボクは身を以て知っています」


「然り。凍結したそなたを焦がさぬように炙って解凍したところ、(おもて)を覆う氷の鎧が溶けたところでピタリとそなたが蘇生したのだ。直前まで息が止まっておったのになぁ。……あれ、熊の冬眠と同じではないか? 絶妙な加減であった」


「ひいっ……ご容赦をぉ……」


ユーリンはがくがくと膝を震わせて、頭を抱えて地にうずくまった。関羽が「あれは、そなたの落ち度が多分にあったこと、否み難い」と取りなした。


「……ところでなんですけど」


ユーリンがそれとなく一方向に顔を向けて、関羽とキタンの意識を向けさせた。生い茂る森の木々が夏の陽射しを浴びて、鮮やかな明緑色である。そして、キタンに尋ねた。


「……エクロさん、アレで隠れてるおつもりなんです?」


――エクロ師は往々にしてご自身について盲目になります。悪癖とは露ほども思いませんが、たまに応対に難儀するのは確かですね


「そこが! 良いんです!」


なぜかユーリンは力強く主張した。


森の樹木の陰に隠れるような姿勢でこちらを伺う霜妖魔エクロが不思議そうに首をかしげる様子が、関羽の目にも見えた。




関羽とユーリンは森の中を歩く。しばらく進むと三叉路があり、そこで新たな旅路を選ぶ予定であった。しかしその足取りは重く、2人の間には陰鬱な雰囲気が漂っていた。それを払うように関羽がユーリンを慰めている。幼子に言い聞かせるように説いているのは、ユーリンが幼子のような態度を崩さないためであった。


「別離は喪失ではない。再会の楽しみを得たと思うのだ」


「……そんなの、わかってるもん。ぶー」


「そろそろ機嫌を整えるべきであろうに」


ユーリンのご機嫌が水天直下にナナメったのは、キタンとの別れ際の悶着が原因であった。


ユーリンはキタンとの別れを惜しむ余り、キタンを抱擁したまま、さりげなく誘拐しようと試みたのである。駄々をこねてキタンを困らせるユーリンに関羽は呆れ、半ば強引にユーリンの腕をほどいでキタンを解放した。その関羽の手つきが多少乱暴であった。それがユーリンの機嫌をいたく損ねた。


「むっすー」


「すまぬ、力加減を誤ったのは儂の落ち度に相違ない。怪我はないか?」


「指、痛い。切ったかも。ウンチョー、ペロペロして」


「……舐めれば機嫌を改めるか?」


「えっ!? ……え、え……? いいの? ……ちょっと、……待って、ボク、シャワー浴びてくる! 今日は遅いし、ここで野営の用意をしよう。寝具、だそう」


「まだ陽は頂上であろうに。……その様子では怪我はなさそうだな」


「据え膳はかっ込むように食うべし! とはいえ、ムード、だいじ! ……次の宿での楽しみにするよ。それまで日に3回はリマインドするからね」


もともとユーリンはキッカケを求めていただけである。

関羽はそれがわかっていたから、ユーリンが機嫌を改める機会を与えた。

いつもの2人の、道中の他愛のないやり取りであった。


そして関羽は、話題を転じてユーリンに尋ねた。


「……ロセ殿から何か受け取っていたようだが?」


「ああ、アレね。キミが考える最良のモノで間違いないよ。重責だけど、ボクは結果には干渉できない。だけどベストは尽くす」


「最良のものというと……カシューの種子であるか?」


「正解。土壌が変われば、あるいは、ね」


関羽はユーリンの見解にうなずいた。


関羽と霜妖魔キタン、そしてユーリンの(えにし)を結んだカシューの樹木は、この近辺では稀なものとなりつつある。故カルロ氏が生前に植樹を試行したが、芳しい成果は実らなかった。理由はわからない。しかし、ロセの推測によると、原因は気候の変化とのことである。「近頃は、暑すぎる。果実の味も変わってきた。昔はここら辺はもっと涼しい土地柄だったんだけどね。なんだかおかしなことだね。まるで太陽が強くなったみたいだ」とは、関羽のスイーツ修行の手ほどき中にロセが語ったことである。


「恐らく少し寒いところがよかろう。あの地にカシューの樹が根付いた頃は、当今(とうこん)よりも気候が涼しかったのではないか」


「きっと、ね。だから託されたんだよ。もしかしたらボクらの旅路のどこかで、カシューに適した風土があるかもしれない、てね。ないかもしれないし、巡りあうかもしれない」


「祈るよりほかない、か」


「……祈るて、神に?」


「否。天と地に、である」


「そっか。それなら祈ってやってもいいかな」


天は太陽を司る光神ルグスの、地は大地の女神キルモフの所轄であり、ユーリンの嫌悪する神による被造物である。

しかし関羽のいう天と地がそういう意味でないことは明らかであった。天とは予期できぬ巡り合わせの寓意であり、地とは生きる命の営みの暗喩である。どちらも、誰にも、制御のできない領分であった。それが故に、祈るしかない。カシューの芽吹きに適した土壌にたどり着けると願って足を進め、あとは芽吹きを祈るしかないのである。それがユーリンと関羽にできる精一杯のことであった。


「ま、フユッソ村には必ずまた来るよ。ボクが国主として、霜妖魔と友好条約を結びにね。ロセさんにも良い報告がしたい」


「然り。儂も修行の成果を披露したい。……あと修行の成果も見てやらねばな」


「……キミのカウンセリングを受けたわけだし、セルヒオには期待していい……いや、あんまり期待せずに待っててやるよ」


「友なれば馬を合わせねばらなぬという法もなければ、相手を好く必要もない。だが、そなたとセルヒオは、存外に良き組み合わせであるぞ?」


ユーリンは空色の瞳を険しくして、じろり、と関羽を睨む。


「キミ、ところで、『ぶんちゃん』について情報はまだかい?」


「……文遠(ぶんえん)殿、儂の友である。立場を異にしたが、歩む道は同じであった」


「立場を異にした、て……つまり敵国の人だったの?」


「儂と同じ主を戴くことは一度もなかった。しかし天下国家を共に論じ、あるべき武人の姿について熱く語らうことができた。誠に信用のおける人物である。……あぁぁぁ、ぶんちゃんが儂の同幕にいてくれればなぁ……いてくれればなぁ……」


生前の顛末を思い出した関羽が、いじけて足元の土で遊び始めた。小さな棒切れをつまんで石ころをツンツンし、(あり)の行進を先導する(わだち)を掘って整地している。蟻たちが「余計なお世話だ」と言わなかったのは、ヒューマン族とは異なる言語体系であるためだろう。


関羽が立ち上がった。蟻からの抗議申し入れのためではなく、気持ちに区切りをつけたのである。


「ま、嘆いても詮なし。儂は、今の儂が成せることに励むのみである。誰もがスイーツを楽しめる世の到来を待つのではない。今ある生のなかで、自らの手でスイーツを楽しむ余裕を成すのだ。悦楽のための情熱こそ、世を変える原動力。甘味はそのうちの最たるもののひとつであろう。老婆でも、童子でも、武人でも婦人でも平等に楽しめる! 王君も乞食もないのだ。国境も種族もない。人間……ヒューマン族でもドワーフ族でも、霜妖魔でも、甘味にはほだされる。故に儂は志す。スイーツのためにという熱情をもって、このなにかと業腹な世において、天下に安寧の輪を広げるのだ!」


「キミさぁ、天下国家を論じるのは引退したんじゃないの?」


ユーリンは呆れたような口振りで関羽を冷やかしたが、その表情は、遥けき夏の空のように澄み切っている。

空を自由に泳ぐのびやかな雲のように、2人の道はどこまでも続いていた。


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