(15) セルヒオの刑罰
ユーリンは遠目に関羽とキタンの様子を観察し、2人の対話に区切りがついていることを認めた。関羽は何やら照れくさそうに、キタンは落ち着いた顔で、ユーリンを迎える。
横たわるセルヒオの意識はまだ戻らない。ユーリンはセルヒオを一瞥してから、言った。
「おまた。『早速、延期する』だ。……何をて? エクロさんへの出頭だよ、これは出直しにする。いまは目下の即物的な課題に専念したい。慌てふためくのは趣味じゃないけど、迷子で迷子な餓狼ちゃんの先手を取れるくらいには急ぎたい。あらかじめ言うか、後から言うかで、だいぶ違うからね。インパクト! だいじ!」
関羽は怪訝そうである。
「何やら先を見越しておるのだな。 企み顔である」
「そそ、ここからが本番だよ。……キタンさん、まだ動けますよね。いささかの強行軍にお付き合い願わしゅう! お疲れとは思いますが、貴方の存在が必須なんで、村まで来てください!」
キタンも不思議そうに目をぱちくりとさせたが、砕氷が打ち合うようなからりとした声で、「キケッ」と応じた。その湿り気のない声にユーリンは微笑んだ。が、すぐに横たわるセルヒオに侮蔑まじりの目線をおろして、つぶやいた。
「さて、どすっかな。コイツ」
「連れて降りるのではないか? 儂が担ぐつもりであったが」
「うん、そうなんだけど……ねっ!」
言いながらユーリンは意識のないセルヒオを蹴った。怪我をさせるつもりはないが、怪我をしても構わない、という絶妙な蹴り具合である。
関羽は口をあんぐりと開けた。
一方のキタンは「キー……」と鳴いて、消極的な納得を表す。
「おきろ、セルヒオ。お前ホントは歩けるだろ。着いてこい」
当の蹴られたセルヒオは無反応で、ユーリンはすっきり顔で満足していた。ふむふむ、とわざとらしくセルヒオの血色を眺め、
「うーん。ホントにまだ歩けないみたいだね。そんじゃウンチョーよろしく。死なない程度に丁重にね」
「……そなた」
「許してよ。コイツ、ボクを殺そうとしたし」
「なぬ!? ……起きよ、セルヒオ……末期の言を遺すがよい」
関羽がセルヒオを素手で処刑する構えをとり、ユーリンはあまり真剣ではない程度に、それをなだめた。
「うんうん、でもさ。その件はもう終わったから! いまのおしおきでごちそうさまにしてね。これからは仲良しならなきゃいけない……別になりたくはないけどさ」
「ぬぅ。……確かに。幾度なりと戦場で矛を交わす間柄でも、時と場が移ろえば、友誼に至ることもある、か。……文ちゃんを思い出すのぉ、あれは実に気持ちの良い男だった。……よかろう。そなたが是とするなら、儂の出る幕ではないな」
セルヒオの背骨を握り潰す準備体操を中止した関羽は、穏やかな腕力でセルヒオの胴を片手で抱えて持ち上げた。こともなげに歩き始める。
ユーリンが血相を変えて関羽を追った。
「……え? 誰、それ……文ちゃん? え? 男? なにそれ、ハツミミ……誰? いつ? ……どこまでいったの? ねぇ、ウンチョー、答えてよ、気になるじゃん……ねぇてば、ソレ、どんなヤツ? てか気持ちの良い男て何? どういう関係ッ!?」
セルヒオが意識を回復しても、ユーリンはすぐには声をかけなかった。セルヒオが、そこが自分の実家の自室であることを認識するまで、数拍の呼吸を待つ。そして、セルヒオが自分の横たわる寝具の脇に関羽とユーリンが立っていることに驚き慌てているのを堪能してから、ユーリンは表面的にはにこやかに声をかけた。
「やあ。セルヒオ。ボクの顔を忘れたなんて、ツレないことは言わないよね」
「お、おまえ……ユ…… ユー……リン? だっけ、か……? ……そっちはウンチョウさん……ここは……俺の部屋……だよな……」
セルヒオは曖昧な記憶を辿るように、自信なさげに答える。
ユーリンは息を呑んだ。セルヒオをまじまじと睨み、不承ながらも何かに納得した様子である。
「……いいよ。マジでお前、合格かもしれない」
「あ? 何のことだ?」
「コッチの話。気にしないこと」
側に置いてある小机の上に並べたカップを手にとり、ユーリンは茶の香りを飲んだ。セルヒオの実家――フユッソ村の村長宅を勝手に物色して無断拝借した茶器で淹れた茶である。
「借りてるよ。お前も飲む?」
「いや。……そうか、俺、生きてる……のか」
ぼんやりとセルヒオはつぶやき、自分の体温を改めるように身体をさすった。
ユーリンはじっとそれを観察し、最果てを見透かすような光を空色の瞳に宿す。
「頭はともかく記憶は確かそうだね。でもさ、殺そうとしたヤツの顔と名前くらいはちゃんと覚えておくのが最低限のマナーじゃん? さみしいよ」
「……悪かった」
「それで済ます気?」
「……金か?」
「馬鹿? そんな生易しいわけない。終身刑だよ。お前、残る一生を、尽くし尽くせ」
ユーリンの怪しげな剣幕に、セルヒオは戸惑いを隠せない。瀕死の負傷から回復した直後なこともあり、気弱な態度である。
おずおずと観念するようにユーリンに尋ねる。
「……どういうことだよ 」
「山賊王の片棒担いで村を危機にさらしたでしょ。連中、フユッソ村を占拠する計画だったよ。霜妖魔の牧場にするつもりだったらしい。賭場の借金のツケで良いように利用されたんだね? 馬鹿が要らんことしてケツ毛がわりに情報抜き取られたんじゃん。ボクとウンチョーがいなかったら、償いどころじゃなかったよ。侵略者をアテンドすんな、馬鹿」
ユーリンの並べる情報に、セルヒオの顔色が蒼白になる。ユーリンを見て、次いで傍らの関羽をすがるように見て、ユーリンの言葉を否定する材料を探すようにうろたえた。
「そんな、まさか。信じられん。……そりゃ、俺がヴェスプに騙されてたのは……あるかもだけど……」
「……そういうだろうと思って、わざわざ持ってきた。……ほら」
ユーリンは足元のカバンを開き、中身を取り出し、小机の上にのせた。その重量に、カップが揺れる。
関羽が自身の額に手を当てて「よもや、本当に持ってくるとは……」と困惑をあらわにした。
「……っ!? ……ッ……――ゥグ!?」
セルヒオの下顎が外れるように開き、目に力をため、悲鳴をあげる寸前、ユーリンがセルヒオの口を塞ぐように、殴りつけた。
それはセルヒオもよく知る人物――ヴェスプの生首であった。痛みと屈辱に歪んだ形のまま、今にも叫び声を放ちそうな形相のまま、永久に物言えぬ存在に成り下がった、ただの肉塊であった。
ユーリンは至って平静にヴェスプの生首を眺め、その効能に満足そうに頷いた。
「特効薬だよ。馬鹿にはよく効くでしょ?」
「……ぁ、が……そ……んな……」
「目は覚めたようだし、いまからマジな話をしようか。……ああ、そういえば傷の具合はどうだい? 蹴ったり殴ったりしたかぎりじゃ、大丈夫そだけど」
「ヴェスプが、死んだ……!? 本当に、死んだのか……?」
「これで生きてたらロジャ・ヴァラス超えてるて、始祖直臣の吸血鬼だってこれなら死ぬよ。ほら、触っていいよ。別に汚しても。そろそろ捨てるつもりだし。……欲しい? なら、あげる」
「死んでる……間違いない……死んでる……」
「そうだ、死んだ。ヴェスプは死んだ。ゴマカシの通る状況じゃない、それが理解できたようだね。……じゃあ、話し合おう。テーマは『お前の知られたくないコト』と『お前のこれからの生き方』。聞きたくないこと聞かされる前に、まず話したくないこと話しちゃいな」
セルヒオの肩が下がり、顔から力が抜ける。憑き物が落ちように鎮静になった。そして、苦しみを吐き出すように、しゃべり始めた。
「……カルロさんには申し訳ないことをした。ヴェスプのヤツがいきなり……顔をみられたなんて理由で……止める間もなかった……俺はカルロさんのことは尊敬していた。本当に優しくて、物知りで……ロセさんの作る料理も好きだった……俺のせいで、俺が壊してしまった……ずっと後悔していた。だけど、いつの間にか後戻りできなくなって、ずるずると、そのまま……」
セルヒオは悔悟の涙を目尻を浮かべながら、閉ざされていた事情を明かした。
その独白に嘘は無い――他ならぬユーリンが見届人であった。
セルヒオは鼻のこもった声で言いよどみ、ユーリンと関羽に頭を下げた。
「……助かった、ありがとう。アンタら、強いんだな」
「ヴェスプをやったのは霜妖魔だよ。カルロさんの友達の。キタンさんていうの。堂々の一騎打ちでね」
「……霜妖魔!? ……そういえばカルロさんがそんなことを言っていたような……けれどあんなちっこい連中が? ……何かの間違いじゃ――」
「めんどくさ。ヴェスプとキスする?」
再度ヴェスプの生首をつかんでセルヒオの顔に近づけようとするユーリンの肩に、関羽が手をのせた。ユーリンの動きが止まり、関羽に空色の瞳を向ける。関羽はそこにユーリンの焦燥と苛立ちの曇りを感じた。
「そのくらいで留めるがよかろう」
「まだまだ足りない。認識、覚悟の欠如……尊厳を損なうことをまだ恐れていない……コイツはまだ生きていない……もうひと押しだから」
「そうではない。そなたが無理をするな。昨日から続けざまである故にな」
「……ボクも好きでしてるわけじゃないし、ここはキミの顔を立てるよ」
ユーリンはヴェスプの生首をカバンに戻して、片付けた。
「けどボクはこのくらいじゃ別に――」
「ここまではよかろうが、このあとは如何か? そなたは最期まで余力を保たねばならぬ。心の疲弊は自覚が乏しいものだ。……覚えておくがよい――他の全てのあらゆる万象に謗られようとも、己の十全なる意志において信ずる道を歩む、そのための気力を常に残し置く義務がある、儂が健在であるうちは儂を消費してよい、そなたは己を追い詰めてはならぬ、儂という余力を忘れるな……そなたはまだ何も追い詰められてはおらぬのだ、焦慮に駆られる必要など、今は何もない」
「……後でたっぷり褒めてよね」
ユーリンは少しむくれて口元をすぼめた。しかし態度はどうあれ、関羽の指導にユーリンが背いたことはない。たちまちにこやかな笑顔をつくり、天凛の声音をセルヒオに向けた。
「セルヒオさんの事情はわかりました。よく明かし辛いことを話してくださいましたね。決して本意な顛末ではなかったとこのと……きっとそうに違いないと予想していましたが、貴方から直にそれをお伺いできて、安心いたしました。ボクたちはきっと仲良くなれると改めて確信します!」
「……怖っ」
「あ!?」
ユーリンが何かをかなぐり捨ててすごんだが、セルヒオは物怖じしない。
「お前さ、ユーリンっていったっけ? なんか変だぞ、何もかも。何もかも嘘くさい……顔も声も、話し方も、言ってるコトも……」
「嘘の何が悪いんだよ、お前は全裸で生きてるのか!? 嘘なんて服を着るのと同じじゃないか。それで意を押し通せるならいくらでも着飾るさ。……てかボクの名前くらい心に刻めよアンポンタンめ」
精神年齢だけは老境の域にある関羽は若者2人の衝突を笑声を歯で噛み潰しながら楽しげに眺めていたが、やがて年長者としてその場の宥め役にまわった。
「ユーリンよ、セルヒオめに細工は無用だ。足りぬものが目につくが、長じる点も確かにある。そこは認めてやれ。良くも悪くも、此奴を相手にそなたが疲労する必要はない」
あからさまな不満を頬袋の怒張でアピールしながらも、ユーリンは話題を本筋に戻した。ぶっきらぼうの凡例のような口ぶりで、要点のみをセルヒオに言った。
「これからこの村を山賊の残党が襲いにくる。これからお前が霜妖魔とヒューマン族のつながりを護れ。……以上だ、質問があるなら聞いてやる」
「っ!? なんだって? 襲われる!? なんでそういうコトになるんだよ。あと、なんだ、霜妖魔……? ……なんで?」
「ふーん、あ、そ」
「お前なぁ」
「ボク、答えるとは言ってないじゃん。それに前半については、村長さんにも伝えてあるし。……立派なお父さんだね、ちゃんと現実に即して判断ができる人だ」
「……頼む、俺にも教えてくれ。どうして山賊が来るんだ? アイツら、どうなったんだ?」
「……予想ができる。さっき見せた通り、ヴェスプは死んだ、けど死んだのは1人だけだ。他の連中は元気に逃げていった、けど慎ましくこの地を離れるか? そろそろ徒党を組んでここいらの村で行きがけの駄賃を稼ぐことを思い立つ頃合いさ。……なによりボクにはわかる。そう感じたんだ。そういう流れが生じているて……別に信じなくてもいいけどさ」
「お前は胡散臭いヤツだが、それは本当らしいな」
「……うっわ、やっぱ、ボク、お前、嫌い」
「……何でだよ。本当にお前、意味わかんねぇな。……いや、すげぇヤツなのは、その、一目でわかるんだけど……わかってたんだけど……」
セルヒオの飾らぬ所感に、関羽が首を縦に振った。
「それは然り。もう少しこう……性根の捻くれを……こう……」
関羽の手が宙空でねじ曲がった何かを伸ばすような仕草を始めた途端、ユーリンが関羽の腰に回し蹴りを入れ、「いったぁ」と脚を抱えて恨み節をもらした。
セルヒオは冷めた目でそれを眺め、
「それで俺はどうすれば良い?」
「目下の山賊については何もしなくていい、というかするな。お前の様態を見た村長さんが、ボクの話を全面的に信じてくれたからね。……ああ、その点はお前のお手柄さ、ボクの言葉だけで徒手空拳で説得するにはたぶん時間が足りなかった。もう村の男たちを集めて慌ただしく備えているよ。だから何もするな、ここにいろ。……絶対に山賊連中と顔合わせるなよ、絶対にだ。理由はわかるよな」
村を襲う山賊の中にセルヒオを知る者があった場合、その反応次第では、村におけるセルヒオの立場は失墜する。負傷を理由として家に隠しておくのが最善であった。罪悪感に圧されるように、セルヒオもうなだれて理解を示す。構わずユーリンは続ける。
「お前の出る幕は、この件じゃない。……もっと先、このフユッソ村の安泰のためには、霜妖魔の国と厚誼を結べ。それがあるべき姿だ。霜妖魔とヒューマン族の間をお前が取り持て。両族の交流、共存共栄のために人生をかけろ。終身刑だよ、死ぬまで尽くし尽くせ」
「霜妖魔と、厚誼? 仲良くなれってことだよな、カルロさんのようにか。霜妖魔…… あんなやつらといったい、何のために……いやそもそも、できるのか?」
「この地を護るという一点において、できる。むしろ霜妖魔の側が望んでいる。ヒューマン族は最悪でも他に移民という選択肢があるけど、霜妖魔にはそれがない。だから、できる。カルロさんの拓いた道をお前が歩むんだよ、セルヒオ。……ボクはそのきっかけを広げるために、少し駒を並べ換えることはできる。だけど結び留めるにはこの村の人間じゃなきゃいけない。この村に生きる人間が土壌とならなくては、本物の大樹は芽吹かない。次期村長として責任を負え」
「カルロさんの……。いやそれにしたって、俺が親父の後をちゃんと継げるか。反対するヤツも多いだろうし」
「馬鹿か? そのくらい何とかしろ。なれ。村長に。お前は見込みがないわけじゃないんだ。馬鹿を反省して、ダメなところを改めて、村のために骨身を削って、何としても村長くらいには就任しろ。それも込みでお前の刑だ。……といっても、正直なところボクはお前を裁く立場じゃない。だからお前次第なんだよ。ボクの示した道を罰としてすんなり受け入れるか、それとも拒絶するか、あるいは――」
「やるよ。俺がカルロさんに償うとしたら、どうやらそれしかなさそうだ。……どうやってカルロさんに、ロセさんに詫びたらいいか、ずっと悩んでいた、誰にも、親父にも相談できない、どうしようもなかった、悩んでいるうちにとうとうこんなことに……だからお前に礼を言ってやってもいい、ユーリン」
「……むー、やばいな、コイツ、ホントに合格しそうだよ……」
「さっきから何なんだよ、それ」
「気にしなくていいよ。コッチの話だから」
「そうかよ。……けど、本当に霜妖魔と仲良くなんてなれるもんなのか? 俺はカルロさんから少し話を聞いていたけど、村の他の連中はきっとそこまでじゃ……昔、村にまぎれこんだヤツを駆除した話は聞いたことある。大変だったらしい……」
「さてね。舞台は整えた。役者もそろえた。あとは当人次第さ。ボクは当人にはなれないんだ、あくまでこの村においては外野の立場だからね、背負えないんだ。……無責任に応援するのが精いっぱいなんだ……と、外の音からして招かれざるお客人の到着かな。間に合ったね」
「お前はココにいろ」とセルヒオに言い残し、ユーリンは関羽を連れて部屋を出た。お客人とは山賊の残党のことであり、間に合ったとはフユッソ村側の防備についてである。
鋭く貫くような警笛の音。にわかに喧騒の声が起こった。怒号が反響し、悲鳴が混じる。村の西方である。村長宅の玄関先に立って西を睨む関羽が、不安を拭いきれぬようにユーリンに念押しした。
「本当に儂が征かずともよいのか?」
「これは不可欠なんだ。これからの霜妖魔と、フユッソ村のために。……どうあれ、どうであれ、氷という産物とこの村は縁がある。ならばボクたちがいまだけ助けるじゃダメなんだ。陽子ノートのカッサータがうまく覆い隠しているけど、氷はそれ自体が貴重なんだ。カッサータのためだけのものじゃない。……そもそも氷を得る術がないから、今のヒューマン族の生活には組み込まれていないけれども、本来、氷の用途には限りがないんだ。特に食料事情……生鮮食品の保存に革命をもたらす可能性を秘めている。他にも衛生医療や産業工学など、冷やす手段を確保することで得られる恩恵は多大なはず。もしも氷を自在にできれば、生活が激変するんだよ。ただその道程が途方もないから誰も手を出そうとしないだけなんだ。けどいずれは誰かの手でそれが変わる、その時に生じる不幸の軋轢を減らすためには、解ける誤解を溶かしておくのが最善……だとボクとしては思うんだけど……どう……かな……?」
「ふむ? そなたは、これが選ぶべき道であると確信しておるのであろ?」
関羽の問いに、ユーリンの空色の瞳に曇りがかかる。たちまちのうちに自信を崩し、先ほどまでのセルヒオに対する態度とは一変して弱々しく身体をしぼませた。
「確信なんてないよ。もしかしたら、逆に隠蔽に注力したほうがマシな未来になるかもしれない。わからない。だけどこのままこの関係を続けるのが最悪な気がする、んだけど……わかんない。どうすればいいかな、どうするのが最善かな」
「これがいずれに帰結するかは、儂にもわからぬ。だが、そも、物事の良し悪しは移ろうもの。禍福はあざなえる縄の如し――善であったものが時代を経て悪と謗られ、また変じて佳と評される。この捻転は永遠に続く。過去の価値を定めることは、過去を変えることと同様に不可能である。故にわからぬではなく、『決められぬ』と言うほうが正しいか。……だが儂はそなたに賛同する。後の時代の評価など知ったことではないわ。各々の時代で各々の立場から勝手に物を申せばよい。故に儂は勝手にそなたに賛同する。それが好きであるからな。そなたが己に従っておることを確信しているのならば、儂はそれでよいのだ」
「……そっか」
どうせ決められないから、どうせなら好きなものを選ぶ――関羽の見解の横着さに、ユーリンは始めに笑い、次に勇気づけられ、最期にはうららかな陽気に包まれた。
「ウンチョーてさ、いつもそうだよね。酒と飯とスイーツだけはワガママ通すくせに、大事なことは絶対ボクに譲るよね」
「不服か?」
「そうじゃないけど。キミはそれでいいの?」
「儂はもう歩みきった。満足にはほど遠いが、納得はしてしまったのだ。無念はあるが未練もない。故に道は示さぬ。ただ道楽としてそなたの旅路に従い、そなたにかかる厄災を退ける手を貸そう。だが決めるのはそなただ」
「いいよ、それでいい」
キミがついてきてくれるならさ――とは言わなかった。
フユッソ村の西方において、けたたましい笛の音が鳴った。危険を報せる警報としての、地を裂くような響きである。
フユッソ村唯一の宿屋兼酒場である『ルベル亭』の主人ルベルは、村長の招集の号令にいち早く参じた1人である。村の西方の警邏の任にあたるルベルが、山の木々の隙間に四足の獣ではない気配を認めたことから衝突がはじまった。
山から降りる山賊の人数が増えるにつれて、武装したフユッソ村の住民たちも次第に集合する。中心には、村長の姿があった。
「皆様の事情は分かりました。さぞお困りでしょうな」
不安と空腹に殺気立つ賊徒の群れを前にしても、村長はひるまない。山賊たちの言い分を一通り聞いた後、その横暴な要求をきっぱりと拒絶した。
「困った時は助け合うものです。私どもの村は豊かではありませんが、いくらかの備蓄はあります。皆様に最寄りの街までの旅程分の食料なら差し上げてもよろしゅうございます。また縁があれば、私どもが皆様に助けていただくこともいずれはごさいましょう」
まったくそんな機会が訪れることはないと確信を新たにするような口ぶりでこの場を取り持ち、無礼な侵入者たちの祝福を願うような口調で締めくくった。
「皆様の旅路の無事をお祈り致します。……皆の衆、彼らを南の出口までご案内するぞ」
「寝ぼけんなッ! こちとらこんなクソ田舎まで出張ってんだ。そんなつまらねぇ土産で帰れるか!」「埋め合わせをしてもらわなきゃあなぁー! 俺らの努力に報いてくれよぉ!」「とりあえず金だ。金目のモンぜんぶ持ってこい……あと酒と肉だ。しばらく楽しませてもらおうか」「……おう、ここの家がよさそうだな。ここ借りるぜ」
「お断りします。最低限の食料でしたらお譲りしますが、それ以外に何も渡すモノはありません。村長として、村からの即刻の退去を申しつけます」
村長として毅然たる態度を貫き、果敢に言い切った。その語調の堅牢さが、自信なさげに武装を固めた村人たちを勇気づける。
しかし当の村長としては内心の迷いを捨てきれない。ここまでは予定通りであるが、肝心なのはこの後である。殺しの決断を下さなければならない――相手が賊徒といえども、その一線は容易く越えられるものではない。芽生えつつある弱気の苗を、村長は忙しく刈り取った。
(ユーリンさん、信じますぞ)
まるで神託の預言者のようなあの美貌の少年――彼の言葉に耳を傾けるうち、心地よい陶酔に頭が痺れ、村長は確信をもってこの場に立つことができた。
少年の姿を思い浮かべると同時に、甘美の余韻が蘇る。
――だいじょうぶ、準備をすれば、勝てます。相手は腹ペコでヘロヘロ、オマケに負け癖がついた根性なしどもです。気圧されさえしなければ、犠牲なしで勝てますよ。……そうですね、美味しそうな食料を譲るフリだけをしましょう、実際に渡すのが良いですね、それを持って逃げれば生きられるという選択肢がみえると、まともに戦えなくなるヤツも多いハズ、足並みを乱してやりましょう。……任せて、ボクの目をよく見てください……どうかボクを信じて……そうです、最悪は食料を譲った後で見逃すことです、体力を回復した賊徒には勝てません、それが引き返せない一線です……村長さん、貴方が決断してください……ボクを信じて……
その言葉を崇拝する限りにおいて、何もかもが正しいように思える。しかし、最期の決断を、村長は未だ下せないでいた。本当に自分たちは、これら賊徒たちを殺すことができるのか。ひとり二人という規模でもない。今や賊徒たちは両手で余る人数である。これらを全て――。村長の精神は次の一歩を踏み出しあぐねていた。
一方の山賊たちも苦しい状況であった。昨夜の逃走からから空腹のままである。夜の山中においては一睡もできず、日が昇ってからは歩き詰めであった。疲労の極みにあり、また精神的な動揺も大きい。セルヒオから聞き出した情報に基づいてフユッソ村がほとんど無防備であることを予想していたが、それ反して、実際は破れかぶれの一所懸命の防御体制である。村人たちは、狩猟用の弓矢を万端整え、古びた剣を持ち出し、刃物を棒にくくりつけた即席の槍まで準備している。覚悟を決めて可能な限りの備えをしていることは明らかであり、少し脅した程度で揺らぐことはなさそうであった。
かといって、このまま暴力に身を任せるのはリスクが大きい。長時間の山歩きで、膝は笑い、腰には痛みもある。体力の消耗は甚だしい。まずは何か食べなくては……その誘惑は強烈であった。いったん村長の指図を受け入れ食料を奪う、体力を回復させてから、再度村を襲撃すればいい――その算段にたどり着くまでに要した時間が短かったのは、とにかく食欲を正当化する事情を後から探し求めたという思考順序の倒置のためである。ともあれ山賊たちは、村長の提案に合意しつつあった。
「まぁ、良いだろう。俺らも無理したいわけじゃねェしな……街までの飯をもらえるんなら、それで手じまいってコトで――」
「で、では……」
焦りが狼狽をうむ。決断しなければならない。この瞬間が極限である。食料を渡し、それに連中が喜び小躍りするところを、殺す――できるだろうか。やるしかない。しかし、しかし……
逡巡の渦中にある村長の思考を救ったのは、春の陽射しのように気風のよい声だった。
「ちょいと、アンタたち。話し合いのトコ邪魔するよ」
その場の誰もがその声の主を知っていたが、誰もその声の主がその場を訪れるとは予想していなかった。
一人の老婆が矍鑠たる足取りで、武装する村の男衆をかき分けるよう姿を現した。
フユッソ村唯一の宿屋兼酒場である『ルベル亭』の主人ルベルが、老婆ロセに駆け寄る。かつて老婆ロセはルベル亭の厨房を担っていた時期があり、2人は顔なじみであった。
「……ロセさん!? 何をしに……」
「喧嘩と聞いてね。見物にきたのさ。近ごろご無沙汰だったねぇ」
「御歳を考え――」
「アタシを年寄り扱いとは、ずいぶんと立派な亭主ぶりじゃないか。カボチとイーモのサラダは食えるようになったかい?」
「ロセさん、ここは本当に危ないのです。どうか離れて」
「だがお役目があってね。友達を紹介したいんだよ」
老婆ロセの左腕の先、握る拳の結び目から陽炎が立ち込める。輪郭が屈折してほどけるように曲がり、隠れていた姿を見せた。冬の雪雲のような体色のなかに、鈍い色の瞳が浮かんでいる。
かすかなざわめきが、村人たちの間に朝霜のように薄く広がった。
「――霜妖魔!?」
「アタシの友達で、アタシの夫の友達さ。他に知りたいことは? ああ、名前はキタンさんだよ。……それで、他に知りたいことは?」
ロセは淀みなくきっぱりと言い切った。
小ぶりな剣を、霜妖魔が誇らしげに構える。
村人の間に広まりつつあったざわめきは、地に舞い降りる粉雪のように、すぐに溶けて消えた。意外ではあるが、納得はできる――そんな村人たちの反応の余韻が残る。
「い、いや、そういうわけじゃな」「ロセさんの……ということでしたら、私は何も」「カルロさん友達か。カルロさんなら、そういうこともある……のか?」
長年にわたり村の食文化を支えた老婆ロセに対する不動の信頼が、故カルロ氏の人徳を偲ぶ想いと重なり、言葉も交わせぬ霜妖魔を受け入れる土壌となった。ヒューマン族の群れからすんなりと承認されたことに、霜妖魔の方が鈍い色の瞳を左右にして、困惑を示す。
「……キー?」
ルベルが幾人かの心情を代表するように、穏やかに言った。「それはカルロさんの剣ですね。覚えがありますよ」その言葉に励まされたように、霜妖魔は短い手足をひょこひょこと前後させ、山賊たちの正面まで歩く。村人の視線がその小さな背に注がれた。
霜妖魔の姿を見た山賊たちの顔色が、変わる。
「テメェ……まさか昨日……の?」
霜妖魔はそれには答えず、青白く発光するマナを体表にまとわせた。夏から遥けき冬の息吹が流れる。冬の訪れを告げる冷風が、山賊たちの火照る身体を涼しくした。
「な、なんだぁ?」「寒っ……」「うろたえるな! 凍るほどじゃねぇ、殺せ!」
霜妖魔の登場に戸惑った山賊たちであるが、すぐに感情を単純な殺意に切り替えた。村人を迂闊に手にかければ強硬な反発の引き金となりかねないが、霜妖魔ならばそこまでではあるまい――村人に対する適度な脅し材料としては、最適な贄ともいえた。
多少の氷魔法を扱おうとも、所詮は霜妖魔である――剣の一振りで容易く命を刈り取れる。そう目論んで霜妖魔の小さな身体を目掛けて振り下ろした剣が虚空を斬って地に着いたとき、山賊は目を見張った。霜妖魔の身体が、消失したのである。
風の中に、白い雪が混じり始めた。
「キッキ」
山賊の剣の空振りを見届けるように、霜妖魔が姿を現した。雪色の風の中に、鈍い色の瞳が輝く。
地は柔らかく肥えたままで、雪が積もる兆しはない。ただ雪混じりの突風が渦を巻くように、山賊たち冷たく包んでいる。
「キッキ」
霜妖魔が手振りした。山賊たちに対する挑発である。
頭に血を登らせた山賊が「このガキ……!」と吠えながら振りおろす剣に、夏の粉雪が模様を彩る。
繰り返される霜妖魔の挑発に山賊たちは目の色を変えた。霜妖魔に愚弄されたままでは、畏怖も威厳もない。何がなんでも霜妖魔を斬り刻もうと、躍起になって雪隠れの影を追った。
見ていた老婆ロセが合点して、周囲の村人に指示を出した。
「……そういうことかい。みんな、遠くに下がりな。根比べだよ。……それと、そこらの桶に水汲んできな、急ぐんだよ!」
やがて慌ただしく運ばれてきた水桶をみて、ロセは続けて指図する。
「よし、コレを一斉に、放り投げな。キタンさんめがけてね。キタンさんの風にのせて、派手にぶちまけるんだよ! 凍らなくったって、凍えるのさ。デッカイ刃物ぶんまわして打ち合うことはないんだよ」
集められた水が一斉に放たれた。霜妖魔の描く雪色の旋風をまるで温め溶かすかのように、水が注がれる。滴る水をすくい取るように風が息を巻き、揺り籠のように流水を汲みおくと、タイミングを図って山賊たちの頭上から雨のように散らした。たちまちのうちに、煌めく氷の粒となる。
山賊たちから悲痛な声があがる。濡れた皮膚が冷風に刻まれ血が滲み、変色する。凍傷の症状であった。
ロセが山賊連中に、投降を呼びかけた。
「そこの連中、つまんない刃っぱァ棄ててコッチに歩いてきな! 熱い茶を飲ませてやるよ。飯もつけようじゃないか」
涙目になりつつあった山賊たちが自暴自棄になって剣を振り回す。老婆ロセを狙って走り始めた。が、数歩も走らぬうちに滑って、転倒した。その足元では、薄い氷が地を覆っている。
「ケッ、キー!」
殺すつもりはないが、殺してもかまわない。
ただ時間が経過するだけで、勝敗は決する。
そのためには如何なる手段をも恥じることはない。
霜妖魔キタンは、誇りを胸に抱いて、この場に立っていた。課せられた使命を噛みしめる。
――キタンさんにお願いがあります。これから村を襲う山賊たちから村を護ってください。……カルロさんの、代わりに
汚泥の中に砂金つかんだように、少しだけ、自分の価値を実感できた。
霜妖魔の戦いぶりを、フユッソ村の人々は唖然として見守った。霜妖魔が氷魔法を扱えるのは周知の事実であるが、せいぜいが冬季においてその場で氷を増やす程度が関の山で、珍しい性質ではあっても、脅威ではないというのが一般的な認識であった。ところが、このカルロ夫妻の友人という霜妖魔は、多様な系統の魔法を駆使して多人数の賊徒を翻弄している――眼前の霜妖魔の予期せず巧みな戦いぶりを見て、怖気による寒気すら覚えた。これが群れを成して村の近隣に定住している――その周知の事実に対する印象が、がらりと変わった。
が、ともかく今は村に侵入した山賊たちへの対処である。衰弱させた賊徒たちを捕縛して監禁し、街の官憲に引き渡す――その道筋が見えてきた。賊徒たちが投降するまで遠巻きに包囲しつつ、凍える吹雪の中で膝を屈するのを待てばよい。フユッソ村の面々の間で、弛緩した空気が流れはじめた。
それを張り裂くような「キャーッ!」という娘の悲鳴が耳に届く。青ざめた緊張がひた走る。声の出どころは、村の北方であるらしい。一同の視線が北に向かい、やがて、よたよたと歩み寄る人影を認めた。1人の賊徒が、村娘を羽交い締めにして引きずり、首元に刃物をそえている。
「なんということだ……」
村長の眉間に厳しい皺が掘られた。
山賊たちが、勝ち誇る。
「……オラァッ! アレを見ろ!」「さっさと武器を捨てやがれ!」「よくもコケにしてくれたなぁ」
村娘の1人を人質として確保したことで、山賊たちは活気づいた。
「……キ、キタンさん……」
村長が霜妖魔キタンに呼びかける声は、惨めで弱々しいものであった。
「なあに、根こそぎってわけじゃねぇ。金目のものと、あとこの娘はしばらく借りるぜ。用が済んだら返してやるよ、売っても高値はつかねぇからな」
遠くに聞こえる山賊の不快な要求の言葉を、ユーリンは心を乱すことなく聞き流した。昨日から続けざまのことで、慣れていたためである。
「ありゃ。これは予定になかったな。せっかくいい感じで大団円目指せそうだったのに、惜しい。やっぱ村長さん、ためらっちゃったか」(根性値だけならセルヒオのがマシか。感情誘導だけじゃ限界あるね。じっくり焼くか、みっちり洗うか、どちらかは欲しかったな)
「賊徒ども、なんと卑劣な手管を……! ユーリンよ、儂に命を下せ。両断してくれようぞ」
ユーリンは、村中央の村長宅から少し歩いた地点から、事態の推移を見守っていた。庭木の陰にしゃがみ込み、右手で興奮する関羽の口を抑え、左手で関羽の首元を掴み、関羽をなだめる言葉を舌で編む。
「卑劣てのは、力に対抗するためのものだからね。力ある強者の代表たるキミが出ても始まらないよ」
「な、なにゆえ!? 儂では…… 儂では不足と申すか!?」
「うーん、卑劣の代表たるボクとしてはだね。怖いのは価値観の違う敵なんだ。弱みと見込んで手を出した挙げ句、それが空振りに終わると卑劣側としては救いがない。お手上げさ。大切なものを見極めるのが卑劣の王道だからね。対抗するには人質ごと山賊を斬りさける価値観の強者がいる。キミにそんな役を務めさせたくないし、必要もないよ」
「必要なし……ぬぅぬ、なんたる無様……天下万民に安寧をと志をたて旗をかかげ爾来、百余りの戦場を馳せたこの関雲長では、救うこと能わずと申すか……」
「そじゃなくて、役回りの都合だよ。さっきからずっとあそこに居る。ボクは何よりあの人がいちばん怖い。……そこがまた萌えポイントなんだけど。……つまりは! ボクの目論見からは外れ始めたわけだけど、まだまだイケる勢いなわけさ! 想定の範囲外で、運命の許容内てこと!」
ユーリンは自信満々に断言した。
ただしぼそりと「どうかこれでボクのことは忘れてください」と懇願した。