(9) 勇
エロヒムの守護の教会跡地の建物内を、ユーリンは音もなく歩いた。
耳を澄ませれば、微かな風のそよぎが木々の葉を躍らせる音の遠くに、意気盛んに走り回る足音が聞こえる。
ユーリンは、未だ山賊の拠点内に潜んでいた。対人関係において無類の優位を誇るユーリンであっても、言葉の通じぬ山の獣にはその神通力が及ばない。危険の度合いを考えれば、山賊たちと同じ建物内で夜を共にするほうがはるかに安全であると判断したのである。
(てか逃げるわけないじゃん、キタンさん残して? ボクがこの地上のシミみたいな下衆どもから? ナメんなよ能無しどもが……ったくドコ探してんだか、ご苦労なこった)
ユーリンが山に逃げたと思い込んだヴェスプは、配下大多数を四方に散らせて行方を追わせている。そのため、山賊たちが拠点としている建物―――エロヒムの守護の教会跡地には、ほとんど人が残っていない。ユーリンは悠々と散策を続けた。
途中、雑多な小物の山の中に捨てられていた剣を拾ったのは、ユーリンの矜持に基づいたものである。優れたる武勇にはついぞ至らずとも、武芸の鍛錬を怠ったことはない。乏しい体躯の身上でも、凡庸な使い手に劣ることはないつもりであるとユーリンは自身の技量を自負していた。
(飾りみたいなモンですけどね? やるときゃやりますよ、ボクだって)
灯りのついた一室が、暗い廊下の先に見えた。ユーリンの直感は、そこが目的の場所であることを知らせる。
(みっけ。あの煤けた蜥蜴の干物よりも陰気な魔術師は、あそこか)
海原に降り注ぐ雨のしずくがその姿かたちをたちどころに失うように、ユーリンは暗夜の静寂に身を溶かして気配を消した。部屋の入り口に身を寄せて、中の様子を伺う。
そこには『混沌魔法』の魔術師の男がいた。部屋の中央にかがみこみ、床に散らした紙に何かを忙しく書きつけている。その目線の先には、いまだ拘束の解かれていない霜妖魔キタンの衰弱した姿があった。魔術師の指先がキタンの身体に触れる。微弱な氷のマナが散る。キタンの苦痛が掠れた呻き声となって、静寂の罅となる。
(……キタンさんっ!)
ユーリンの怒りが、ユーリンの焦燥を鎮める。激情にかられるほどに冷静さを増すユーリンの特性が、腰に下げた剣を抜こうとする腕を押しとどめた。魔術師との戦闘で優位をとれるなどと自惚れたことはない。ユーリンの汚れ切った過去は、手管の清廉さに価値を見出さない。完全な不意打ちの機会を探る。
魔術師の男は、喜悦に目を輝かせている。キタンの身体から霧散する氷のマナの残滓を、それがまるでかぐわしい極上の美酒の香りであるかのように、堪能する。やがて興奮をこらえきれなくなった様子で、口元を弛ませた。
「明日まで待つか? いや必要あるまい、どうせ山賊連中など何の役にも立たん……早い方がいい、焦がれ狂うヘルメスのごとく……早いことは優れている。今夜から少しずつ『変異』をかけて様子を観察しよう。……私ならば可能だ。そうだ、できる……混沌の淵から変異の方向性を誘い、導く……可能だ、可能なんだ……っ! 混沌魔法は決して制御不能な禁術などではないっ! それを私が証明してみせる……そして、そして……あの老害どもにつきつけてやろう……誰が正しかったのかを……」
魔術師の男は、脳裡を源泉とする憤怒を踏み台として、決心に至った。膨大なマナの余波が、身体から溢れる。高等魔術を行使する前触れであった。
「……なに、成果が芳しくなければ、氷のマナだけ搾り取ればいい。生きてさえいれば使い途はある。……もっとも、死んだところで代わりは得られるが……私に失敗などありえないが……」
溢れるマナが色彩を徐々に変える。混沌魔法の兆しである。有り余るほどのマナの奔流が部屋を満たす。
部屋の外から観察していたユーリンは、その有様に嫌悪感を覚えた。
(うっわ、下品なヤツ。早漏すぎだろ、マナこぼれてんじゃん、ヘタクソかよ、挿れる前に出すなよ、独りヨガリにもほどがある。……取柄はマナの量だけか。……スケベ童貞の巨チンよりも宝の持ち腐れ、ひっでぇ有様、ヒスババアの生理よりも無価値……下品すぎ。……しかしそれでもアレは確かに混沌魔法っぽい。だいぶマズイね……しかしホントに下品なヤツだな、アイツ)
ユーリンは声もなく魔術師を罵倒しつつ、局面の打開策を思案する。
(ええと、この瞬間においてキタンさんの貞操を護りつつ、先々において山賊王のいきり勃つポコチンを萎えさせるには……)
キタンの救出は当然の前提であるが、あくまでユーリンの展望はフユッソ村の保護に向いている。山賊王ニーチェが霜妖魔に伸ばしている食指の根本を断ち切ることこそが、ユーリンのこの夜の勝利条件であった。
(……やっぱ採算ラインを動かすしかないね。そのためには、まずはご退室願おう。……あわよくばここで仕留める……あわよくば)
ユーリンは懐に手を入れた。
しかし指先はむなしく空を掴む。
(ちっ、あの役立たず。肝心な時に手元にないなんて。ドコほっつき歩いてんだ)
ユーリンの愛刀であるエーテルナイフは、狂乱状態に陥って走り去ったジーノが握りしめていた。現在の武装は、道すがら拾って飾りとして腰に下げた凡庸な剣のみである。
(あるよね、アレ。ただの刃物で貫通できるかな。……もっと肉、食っときゃよかった。肉欲に乏しいのがボクの欠点だな……よし、無いことに賭ける! ……しかない! ボクの腕力的に言って!)
決断したユーリンは、足元に転がっていた何かの陶器の破片をつかむ。姿勢を整え、抜剣して足に力をためつつ、部屋の入り口から陶器の破片を緩やかに放り投げた。
放物線を描いて飛んだ陶器の破片は、魔術師とキタンの頭を越えて、部屋の壁に当たって音を立てた。
「……ん?」
魔術師の男が音に気づき、顔を横に向けて視線を彷徨わせる。視角が逸れ、身体の背筋に捻りが生じた。手足の俊敏な動作を僅かに妨げる体勢である。
その瞬間を逃さない。
(……ッ!)
ユーリンは一気呵成に地を蹴って部屋に飛び入り、勢いのまま剣を振り下ろして突撃した。ユーリンの全体重を乗せた上段からの振り下ろしである。
鋭い剣筋が魔術師の首を捉える。寸前で魔術師がユーリンに気がつき、目を見開いた。かまわずユーリンは剣を振り抜く。
大岩を叩いたかのような硬質の衝撃がユーリンの細い腕に返り、痺れさせる。手組に刺すような痛みが広がった。
(……ダメか!)
『大地魔法:石の皮膚』―――大地のマナで術者の皮膚を瞬時に硬質化する使い捨ての護身魔法。
炎・水・大気・大地の四大元素の初等魔術。
生来のマナに乏しいユーリンにはできないことだが、標準的な水準に達した術者であれば、常時発動させることも可能である。
(惜しいっ……けどぜんぜん惜しくないな。そりゃソレできるよね、魔法使いの基礎のたしなみだし)
ユーリンの構想した『あわよくばプラン』は水泡に帰した。
床に転がる霜妖魔キタンの鈍い色の瞳に、事態への驚きと、危機への焦りが、差す。
魔術師の男がゆっくりと体勢を整えて、ユーリンと向き合う。その表情に焦りはない。剣を振りかざす非力な少年相手では、負傷することすらないという確信が伺える。
魔術師の男から、大地マナの澱が漂う。役目を終えた『大地魔法:石の皮膚』の術式がほぐれて、基幹となるマナが霧散した。
魔術師の男が、ユーリンに尋ねた。
「なんだ……お前は……」
「おひさ。まさかボクの顔、忘れちゃった? ソイツぁ、あまり無い体験だな」
「霜妖魔と一緒に捕らえられた小僧……だったか……?」
男は記憶を辿るようにして、言った。余裕を隠そうともしない。
その態度を見て、ユーリンは内心で安堵した。
(よしよし、問答無用で精霊級の魔法を使われたらヤバかったけど、これならヘーキだ。……けどそれだけじゃ、困る)「氷マナの研究にお熱だね。そりゃあそうか、激レアだもんね。栄達の道てヤツ? みんなに褒められたい系の動機?」
「魔道の探求に私心を混じえたことは無い、才ある者の義務である……去れ。連中は何やら騒がしいようだが、私はお前には関心がない。経緯も聞かん。どこに行こうとも好きにしろ、見逃してやる。邪魔はするな」
(ふん、嘘は、なし……か。偽るつもりはないんだね。視野狭窄で認知が歪んでるタイプだな……典型的な落伍者……煽れば、転ぶね)「ぷははははハはは。ナニソレ、カッコイイ。……自分では一線守ってるつもり? 賊の仲間になった覚えはないてこと? どうつくろっても山賊王の手下だろ? 」
男は僅かに顔を歪ませる。が、すぐにそれを打ち消すような嘲りを浮かべた。
「私の立場など、いずれ来る偉大な成果の前では些細な話だ。聖帝と冬神の戦い以降この創造界から失われていた氷マナを蘇らせるのだッ……この私の手で! その恩恵がどれほどになるか、想像できるか? その崇高な目的のためには、私個人の一時的な汚名など論ずるところではない」
(大言壮語を塗ったくって無能から目を背ける、か。……つまらない男だ)「思い上がりも甚だしいね。氷マナが失われたことなんて、ないさ。霜妖魔たちが連綿と受け継いできた……生命の営みの、あるがままのカタチでね。……オマエのソレは周回遅れのただのマスベだよ、新たな何物も産み出さない不毛な悦楽さ。そこのクズ箱でも孕ませてろ」
ユーリンの言葉に、男は閉口した。沈黙の裏に、狼狽が隠れている。
天恵の託宣を述べるかのような堂々たるユーリンの声が、朗々と音色を響かせる。
「ボクたちが氷マナを失ったと思っているのは、ボクたちのこれまでの怠惰の帰結だ。その埋め合わせの道程は、ボクが受け継いだんだ。キタンさんは返してもらう……にしても、さっきのありゃあ……ありゃあ、なんだい? マナの浪費、ひどくない? ボクのキタンさんを見習いなよ。……ヘタクソ。才能、ないよ。魔導書院の恥さらし」
ユーリンは私心に基づく欲望を混じえてキタンの所有権を主張しつつ、男の魔法の技量を罵倒する。実際のところは才能ではなく練度の問題であるが、ユーリンは男の自尊心の急所をなぶるために、あえて才能の問題にすり替えた。
魔術師の男が口元をあからさまに歪めて、眉根を吊り上げる様子を、ユーリンはいとも冷淡に眺めた。
(生まれ持ったものをあたらムダにする罪人め)
焦がれ求めながらにして、己の手を伸ばさぬ者
輝きに憧れながらにして、磨くことに励まぬ者
憎しみ嘆きながらにして、戦うことを選ばぬ者
産まれ落ち、生きながらにして、死と変わらぬ停滞に微睡む怠惰
怠惰から目を逸らすために、自己憐憫の麻酔を絶やさぬ中毒患者
才に恵まれながら、それを活かさぬことにだけ怠りのない勤勉者
―――それは、ユーリンが最も嫌悪することであった。
何故、それほどの力の源泉を天与として授かりながら、背骨を残して灰になるほどの情熱で研鑽に臨まなかったのか―――ユーリンが長年かけて磨き上げた、高純度の宝玉のごとき輝ける嫉妬が、率直で奇譚のない悪罵となったのである。
男の沈黙の色が変わった。
殺意が眼光から滲み出る。
(おっけー。……そんじゃあ『合意アリ』で、やろうか)
ユーリンは、体内の乏しいマナを、枯れ草を絞るようにかき集める。それこそ、ただのひとしずくたりとも、こぼれ落とさぬように。
微量にすぎるユーリンのマナの流動を、制御の未熟でマナを浪費しても高等魔術を行使できるほどの才に恵まれた魔術師の男は、検知できない。ただ屈辱をかみしめながら、眼前の少年をなぶる残虐な未来像を夢想するばかりである。やがて処刑方式の構想が定まり、男は宣言した。
「……殺してやろう」
「……ねぇ、本当に適性ないんじゃない? 悪しざまに罵られた程度で人を殺すなんて、学究の徒にあるまじき浅慮だよ。もっと短絡的な職業のが向いてるんじゃない?……山賊とかオススメ」
魔術師の男が、体内マナを動かし始めた。水のマナの気配である。
(……遅いっ!)
ユーリンがすかさず隠し蓄えていたマナを組み上げて、魔法を発動する。手のひらから炎が沸き上がり、よどみなく形を成して、球体となった。『炎魔法:火球』。ユーリンが行使可能な魔法の中では、最速にして、唯一の攻撃手段である。
「なっ!?」
男の驚愕と同時に、ユーリンから火球が射出される。
予期せぬ展開に、男の腰が引けた。膝から崩れ落ちる体勢の中で、男は『水魔法:水の精霊』を発動した。宙空に水の渦が起こり、粘性の質量を伴って床に降り注いで、ゆったりと石碑のように隆起し始めた。水の精霊の顕現であった。
先制の奇襲同然に放たれたユーリンの火球は、不意を突かれたはずの男が後から発動した魔法によってかき消された。マナ総量の歴然たる差がこの結果をもたらしたのである。
(はっやー! でも本命はコッチ!)
火球を放つと同時に、ユーリンは次のアクションに取り掛かっていた。横に飛びのいて部屋の入り口に向けて走りつつ、振り向きざま腰をひねって勢いをつけ、手に握っていた剣を投げつける。明確な殺傷能力を帯びた投擲攻撃であった。
武芸にも、魔法にも、血の滲むような研鑽を捧げながら、ついぞ生まれ定められた才の壁を越えられなかったユーリンであるが、たとえ壁を越えられずとも、それを踏破しようと幾度なりとも挑み続けた強靭な精神の卓抜が、鉄火場における思考の瞬発力を支えている。
武芸にも、魔法にも、秀でることが無かったからこそ、
武芸にも、魔法にも、依存することは決して無く、
どちらにも等しく価値が無いのであるから、
未練なく、躊躇いなく、いささかの虚栄心もなく、高潔とほど遠い恥ずべき手段を選択できる。
魔術師の男は腰を床に打ちつけながら、泡を食って次の魔法を発動させる。床に降り注がれた水から次第に大きく形を成しつつある水の精霊の脇をすり抜けて、横向きに回転しつつ剣が飛来した。男の身体が硬質化して、剣の刃先を弾く。『大地魔法:石の皮膚』である。
貧弱が爪に火を灯して積み上げた財貨よりも富豪が放り捨てる着飽きた衣服の方が高価であるように、ユーリンの渾身の攻撃は魔術師の無造作な魔法によって容易く防御された。
部屋から走り逃げ去る際、目の端でそれを見たユーリンは、しかし―――ほくそ笑んだ。
(やっぱ馬鹿の手癖でソレ出したね。『石の皮膚』はあくまで不意打ちへの備えだろ。事前に仕込んで思わぬ即死を避けるためのものだ。戦闘の真っ只中での防御手段じゃない。挿れる段になって慌てて潤滑油を買いに走るようなモンだ)「キタンさん! すぐ助けに戻ります。……コイツを殺して」
臆面もなく部屋から逃げ去ろうとするユーリンを追うべく、魔術師の男は上体を起こそうと試みた。たが、手足の動作は緩慢であった。『石の皮膚』によって硬質化した全身を覆う大地マナの鎧が、手足の関節の稼働を著しく妨げているのである。古びて錆びた甲冑を着込んだ兵士のように、もがくようにして手足をばたつかせ、ようやく起きあがった男が部屋の入り口から薄暗い廊下に顔を出したとき、そこには夜の静寂だけが残っていた。
魔術師の男は、思案した。
このまま少年を追って闇夜の廃墟を走ることもできる。しかし、耳を澄ましてもすでに音はなく、遠くで山賊連中が何やら騒いでいるのが聞こえるばかりで、目を凝らしても、夜の闇が茫漠と広がっていた。何のアテもなく少年を捜すことに労力と時間を費やしたくない。
「……あの愚か者どもが……小僧一匹を捕らえておくことすら、できんのか……」
少年の脱走を許したヴェスプたち山賊連中の不手際に臓腑の煮えくり返る苛立ちを覚え、男は床を踏み鳴らす。
「ヴェスプはどこだ!? お前が連れ込んだ猫だろう! 最後まで責任を持て」
怒りのままに歩き出そうとしたとき、振り返って部屋の中を見た。先ほど召喚した『水の精霊』が図体を確立し、水としての質量を保ったまま、石碑のように隆起している。部屋の中央には、物理的な拘禁に加えて魔術的な束縛をかけた霜妖魔が横たわっていた。あの蒙昧な少年の狙いがこの霜妖魔の奪還であることは明白である。あの少年を相手に戦闘で後れを取ることはないが、このまま部屋を留守にした隙に霜妖魔を奪い去られては目も当てられない。
「……ここに残し置くわけにはいかないな」
魔術師の男は貴重な実験体である霜妖魔を大切そうに抱え込む。そして、用心のために『水の精霊』を伴って、ヴェスプたちの居る広間に向かった。
ユーリンは薄暗い闇夜に満ちた廊下から、魔術師の男の部屋に入室した。気配を消して闇に身を潜め、魔術師の男が部屋を立ち去ったのを見届けた後、悠々と戻ってきたのである。
「応用が効かないヤツだね。キタンさんなら『太陽魔法』でたやすくボクを検知できただろうに。穴の開いた避妊具みたいなポンコツっぷりだな……けど、やっぱ、あっぶなー……スレスレだったな、魔術師と正面からケンカするもんじゃない。ちゃんと卑怯で卑劣で卑猥なテを使って暗殺しないとね」
いまは無人の部屋を、ユーリンは見渡した。最小限の生活用品のほかに、何かの研究資料の紙が乱雑に広げられている。資質の有無は別として、魔術師の男が魔道の探求に真摯に取り組んでいる痕跡がうかがえた。侮蔑をこめた目でそれを見下ろし、嘆息する。
「やっぱキタンさんは連れていかれちゃったか。さすがに底まで底抜けのヌケサクというわけでもないね。……でも残念、オマエたちの急所はソコじゃない。喪ったモノは戻らない。大切なモノから護るのが鉄則だぞ?」
(……生命か、時間か、時間の産物か、だ。そもそも霜妖魔をたくさん捕まえる計画なんだろ? じゃあ替えの利くモノを抱え込むなよ)
ユーリンは部屋の中を捜索して周った。まさに今、使用中の散らかった用紙を除けば室内は整頓されている。すぐに目的の物を見つけた。
(魔導書院の連中の習性だな。自分の研究資料だけは、絶対に肌身放さず、成果が確立されるまで秘匿する。……こんな山奥まで持ち込むとはね)
それは、魔術師のこれまでの研究資料であった。屍霊術系統『混沌魔法』について綴った文書である。禁術として『混沌魔法』の研究を制限する文明も多くあり、それは大っぴらに公開されることのない貴重な情報の宝庫であった。
(あった、あった、どれどれ……? うーん、……うー、興味深い。コレ、惜しいナ、欲しいナ、勿体ないナ。けども、確実さを優先しよう。……ほんと、セルヒオの、馬鹿)
魔術に適性はないが根っからの魔術好きらしいユーリンの嗜好が枷となって、決断を押し留めようとした。
しかし、大局の帰趨を決する運命点におけるユーリンの判断力は、その吝嗇の蠢動を黙殺する。
ユーリンはその一切合切を、近くの松明の火を借りて、燃やした。魔術師の半生が、灰となって姿を消す。
そして、焼失した資料の代わりに、ユーリンは手近な用紙に一文を書きつけて、そこに遺した。『お前の研究資料は預かった、取引に応じろ。裏で待つ』―――と。
(ま、保険としてね。どう転んでもボクに損はないし)
強者を相手とする詐術の行使に、ユーリンはわずかな罪悪感すら覚えない。胸中に曳く呵責の尾は、貴重な研究資料を灰燼にした惜しさのみである。
(混沌魔法の術者なんて、そうやすやすと街に落ちてるもんじゃない。再雇用のための材料も、今、消えた。前任者の仕事がすっかりまっさらなザマで山賊の仲間入りする後任はいないよ。後は当人だけだね。……計画の急所のくせに自覚ないね、アイツ。……こりゃいけるな。キンタマ晒したままケンカすんなよ、山賊王……てかそもそもココでケンカになるとは思ってなかったんだな。それとも舐めてるか、あるいは本気でやる気があるわけではないのか……)
一連の霜妖魔家畜化計画の要諦にして急所である『混沌魔法』―――その希少な術者である魔術師の男にその自覚が薄いらしいことを、ユーリンは感じ取っていた。
魔術師はあくまで自身の魔術的な栄達のために山賊と一時的に手を組んでいるにすぎない。利潤を目的とした自発的な結託ですらなく、研究のための資材調達のための妥協として、山賊王の下に身を寄せている様子であった。
種族の品種改変などという迂遠にして壮大な計画に対して、それに投入する人材の質の粗が目立つ。風聞に香る山賊王らしからぬ中途半端な所業であるとユーリンは感じた。
(ま、知らないし、関係ないけどね。連中にはソレをやる力があるんだから、モチベーションの高低なんて関係ないよ。強姦魔の中折れを期待する乙女がいるか!? ……ブサイクでも空回りでもいい……ボクは、勝つ)
ユーリンの思考の向け先を変えたのは、遠くに聞こえる物音であった。変事の発生を鋭敏な聴覚でとらえる。
(……やれやれ、ボクはキミに待たされてばかりだな。ま、正妻の余裕で? いちいち怒りませんけど? でもこれなら燃やすこと無かったカナ……ええい、もう仕方ない! さぁさ、ようやく遅刻魔のご登場だ! 歓迎はキスで我慢しろよ? ボクの舌、噛むなよ? )
ヴェスプは、今やすっかり閑散とした広間にいた。陽気な酒盛りの痕跡である酒器や炙り肉の皿が、むなしくあちこちに転がっている。
「クソッ……なんてザマだ……」
部下のほとんどは山狩に繰り出し、ここに残るのは、ヴェスプの他には4人のみである。その残った4人も気まずそうな面持ちでヴェスプから視線をそらしている。ヴェスプの足元で息も絶え絶えに吐血するジーノの惨状が、そうさせたのである。
ヴェスプはときおり思いついたようにジーノの腹部を蹴りつけて憂さ晴らしをしつつ、忙しくタバコに火をつけて沈み込む。
ヴェスプの頭の中で、山賊王の声が響いた。この霜妖魔家畜化計画の詳細を明かされ、その全権の差配を任じられた時の記憶である。背筋を冷たい汗が走った。
―――ヴェスプ、お前を仮の頭目として認める。あの田舎者の話を我々の収益に変えてみせよ。絵図は俺が描いてやる
『オレが……オレが、頭目に……!?』
―――そうだ。この事業の間のみの、一時的な物だがな。それを成し遂げた暁には、無論、それ相応に遇する。お前が拾い集めた破片を組み立てたものだ、皆も異存あるまい
『……っ! あ、ありがてぇ! きっと、やってみせますよ!』
―――ヴェスプよ、俺の聞き違いか? きっとなどと決意とも言えぬ曖昧な願望を口走ったように思えたが
『あ、いや……その、言葉のアヤでして、あの……必ずやり遂げてみせます!』
―――それでよい。俺を失望させるなよ。現在の仕事では役不足であると不満を唱えたのはお前だ。金の取り立て如きの役目では己の力を発揮できぬとな
『オレは期待には応えますよ。簡単な仕事です。田舎村を利用して、霜妖魔を魔術師センセの自由にさせりゃいい! ……しかし、その、霜妖魔の巣穴なんて、ほんとにあるんですかね? 群れてるなんて聞いたこと無いんですが』
―――さあな。だが丁度、駒も手元にある。遊ばせておくこともなかろう。……それに、俺の見立てでは恐らくセルヒオとやら言に偽りはない。何となくだが、俺にはそういうことがわかるのだ。……何より、仕損じても俺の損失はたかが知れている。都落ちした零落魔術師と、貸した金の取り立てに加減すらできぬ……簡単な仕事を任せるには不向きな者……そのくらいだ
『……その……この間の失敗は、本当に、申し訳ないことで……』
―――上の立場を望んだのはお前だ、ヴェスプ。俺は部下の野心を歓迎する。己の能力への自負が境遇と釣り合わず役柄の乏しさを嘆くというなら、それも良い。俺は機会を与える。遂行と統率の才を示せ、必要な物……資金と手勢は与えてやる。……お前にはまだ見込みがあると認めたのだ、俺はまだお前を見捨ててはいない。……俺はお前の成功を……祈りはしないが、真実として願ってはいるのだ。俺は嘆くのも怒るのも、あまり好きではないからな。……よいか? ……俺は法螺吹きは歓迎しない。……そして俺は法螺を吹いたことがない
ヴェスプの頭の中で、山賊王ニーチェの姿が克明に思い返された。冷笑的で酷薄な笑みを浮かべ、全てを見通すかのような妖しい夕焼け色の眼差しを向ける、あの恐ろしい男のことを―――。
ようやくヴェスプは気がついた。自分たちの本来の目的は、霜妖魔である。
となると、目下の些事に時間を割いている場合ではない。部下たちが、夜の山を熱狂のままに散策するのは、いたずらに消耗するだけだ。何を愚かなことをしているのか。興奮のままに四方を走りまわる部下たちに、ヴェスプは腹を立てた。
急ぎ部下たちを呼び戻そうか―――そう考えたヴェスプの思考がまた捻転する。
―――逃げた小僧が万一にもフユッソ村までたどり着いた場合は事情が違う。
警戒を強化されると厄介である。しかし、ヴェスプたちの真の狙い―――フユッソ村の占拠の計画は知らないはずである―――部下にもまだ明かしていないことだ、ただ霜妖魔を金に換える家畜化計画の大筋を明かしただけである。とすると、心配のし過ぎかもしれない。
―――ただ運が悪く山賊に捕らえられたけど、運が良くて逃げ出せました。
小僧が村に伝える内容は、これだけで済むだろうか。……いやダメだ。すでにセルヒオを殺している。山賊が村長の息子を手にかけたとあっては、否応なしに村の警戒態勢を招くだろう。油断している村を襲うのと、準備を尽くして死に物狂いで抵抗する村を襲うことでは、まるで難易度が違う。
しかし、ひょっとすると、そうとも限らないかもしれない。山賊王の異名は鳴り響いている。フユッソ村の住民たちが恐れるあまり村を放棄して逃げ出すかもしれない。その場合、霜妖魔の家畜化のための格好の実験場を難なく確保できることになる。もしかすると、事態は悪くないのかもしれない。
希望的観測の器にヴェスプ自身の祈るような願望を詰め込んだような状況分析を遮ったのは、その場に突如現れた魔術師の男―――ガスパロの無遠慮な声であった。腕には昼間に捕らえた霜妖魔を抱え、後背には得体のしれない粘性の物体がもぞもぞと蠢いていた。
「ヴェスプ、霜妖魔と一緒に捕らえた小僧が、どうやら逃げたようだぞ、一体どうなっている? 」
「ちっ、いまそれどころじゃねェ! ……いまそれをやってんだよ!」
「……何やら理解しかねる言葉だが、察するに、事態の認識はしているようだな。結構なことだ。……私の助力は必要かね?」
この陰気な魔術師ガスパロのことを、ヴェスプは一度も好ましく思ったことはない。言動、態度のあらゆる点に、ヴェスプたちを見下す高慢な本心が露骨である。ガスパロと行動を共にして以来、ヴェスプは幾度もガスパロを殴りつけたい衝動に駆られたものだが、この混沌魔法の魔術師無くして山賊王から授けられた計画の遂行は不可能である。ヴェスプの苛立ちは部下たちに向けられてきた。
「ガスパロさんよぉ、ここはアンタの出る幕じゃない。俺たちに任せときな。……それより、霜妖魔だ。うまくいきそうか?」
「君たちの短絡さには困ったものだな。魔道の探究には時間がかかる。……差し当たりこの賑やかな騒ぎを早く鎮めてもらいものだ。研究に専念し難い」
ヴェスプは足元に転がるジーノの腕を踏みつけて、砕いた。苦痛のあまり、ジーノの身体が力なく動き、暗緑色の小ぶりな短刀が露わになる。
にわかに魔術師ガスパロの顔色が変わる。
「……待て!」
「あア!?」
「それを見せろ」
飽き足らずジーノを踏みつける足をとめ、ヴェスプがガスパロを睨みつけた。殴りかからなかったのは、ガスパロの後ろに控えている不気味な水の怪異が目に入ったためである。
魔術師ガスパロは抱えていた霜妖魔を放り捨て、ヴェスプを押しのけ、ジーノの側にしゃがむ。ジーノの安否を気遣うためではない。その身体の下から出てきた暗緑色の物体に熱い視線を注いだ。
「……なんだコレは。このマナ……? いや材質も、まさか……? いや、それよりもマナだ、いったい何が混じっている!? 」
ガスパロの陰気な顔を好奇心の輝きが明るく照らした。うやうやしく、慎重に、震える指先をそれに伸ばす―――。
「……超魔法……? あり得ない……神代の奇跡がこんなトコロにあるはずが……それに……この異様な気配……まるで神の遺物の燐光のような……」
「儂は詳しくはわからぬが、触れぬほうがよかろう。なんというか、皆、概ね不幸な目に遭う……ようだ。術理は知らぬ、持ち主に聞くがよい。曰く『ロクデナシのゲリのチャンポンじゅーすゲロふうみ』らしいが」
魔術師ガスパロがその声に目を向けると、若い男がそこにいた。酒宴の残骸が散らばる広間の入り口に立って、腕を組んで睥睨するようにこちらを見ている。爛々と輝く太陽のような眼差しを精悍な濃い眉が和らげており、あふれんばかりの筋骨をその長身に押し込むようにまとう偉丈夫であった。
魔術師ガスパロとヴェスプが同時に言った。
「お前は之を知っているのか?」「誰だテメェは!?」
ガスパロが怪訝そうにヴェスプに尋ねる。
「あの男はお前の手下ではないのか? どうみても賊徒の風貌だが」
「……儂、山賊経験だけはないんじゃがなぁ。……ないはず、たぶんじゃが」
若い男が露骨に気落ちしながら、ぼやいた。ぼやく声にも、物怖じしない勇ましさがあった。芯の太い、よく通る声であった。
ヴェスプは油断なく辺りを見回しながら、現れた男に対して言う。
「……テメェ、あのガキをどこにやった?」
「ほう。その言を手繰るに、やはり……勝手にやっておるようだな。外の騒がしい奴等からも概ね事情を聞いていたが……やはりのう。愚かなことを。悪いことは言わぬ。手を引け。アレはおぬしらの手には余る。ヤケドでは済まぬ。儂はおぬしらに関心はない。当地より疾く立ち去られよ」
その若い男の言葉をヴェスプは測りかねた。魔術師ガスパロも黙って事態の推移を見ている。
ヴェスプが考え込むような間をとったのち、脅すように顔を歪めて言い放つ。
「……俺の聞き違いか? 俺はどっかのカビ臭いインテリと違っておアタマは良くねぇが、これでも耳は悪くねぇつもりなんだ……お前、なんつった?」「……ヴェスプ、これは黴ではなく墨汁の匂いだ。智を綴る人の営みの残り香……尤も君に馴染みが薄いのも無理はないが」「テメェは下がってろ、テメェの荷運びもできねぇ穀潰しが」「人足たちの働きには感謝している。鼠の監視は不得手なようだが……誰にも適性というものがある」
「見逃す、と申しておる。おぬしらは荷をまとめてこの地より去られよ。経緯も目的も、聞かぬ。どこに行こうとも好きにするがよい、このまま見逃してやると申しておるのだ」
若い男は苛立つ様子も表さず、丁寧な態度を崩さない。あたかも人生経験の豊富な年長者が幼い童子の粗相をたしなめるかのような、おだやかで根気強い調子であった。
「儂ももう若くない……そうは見えぬであろうが。……昔のような切ったハッタは御免である……なんというか、若い衆を相手にシャカリキにはりきっちゃってもいい歳ではないのだ。……内心、ちと恥ずいのだ。やはり暴力は良くない」
若い男は恐れる兆しもなく、肩で風を切るように広間を横断し、散らかった酒器を踏み砕きながら行進する。みすぼらしい山歩きの装束とは相反する、威風堂々たる風貌であった。
「……む? むむむ」
男が足を止めた。その眦の先には、打ち捨てられた霜妖魔が転がっている。男の眼光に気合が満ち、空気に亀裂が入る。男が獣のように、吠える。
「キタン殿ッ! ご無事か!?」
ヴェスプの背後に控えていた山賊たちが、その圧に小さく悲鳴を漏らした。ヴェスプは変わらず視線を男に釘付けにしたまま、瞬きもしない。魔術師ガスパロは手元の暗緑色のナイフから未練がましそうに目線を外し、猛る男を睨んだ。
荒ぶる雄牛の如くに猛進する若い男の足を止めたのは、魔術師ガスパロの使役する『水の精霊』である。粘性の図体をゆったりと、けれども確かな質量を見せつけるかのように動かし、若い男の行く手を壁のように遮った。
魔術師ガスパロが、傍らのヴェスプに興味なさげに尋ねた。
「……ヴェスプ、私の黴臭い助力は要るかね? 鼻つまみ者にも、鼻をつまむ権利くらいはある」
「寝ぼけんな……カビ臭いアタマでっかちの出ドコがココだ。飯代くらいは仕事をしやがれ」