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花香と初音の物語  作者: 葉月麗雄
波乱編
8/22

初音 新造に昇格し初めての水揚げに緊張する

初音は玉屋に来てすぐに禿から引込新造に格上げされた。

新造になると新造出しというお披露目をおこなう。

特に見世の将来有望株である引込新造のお披露目は盛大で、お役となる姐女郎が後ろについて大見世であれば三百両〔約三千万円〕以上の大金をかけて太夫道中のように仲の町を歩くのである。


酒樽や赤飯が振舞われて、初音の名前の入った手拭いや扇子が行き交う人たちに惜しげもなく配られ、二階の格子窓からは餅や菓子がばら撒かれて人々が喝采を送る。

無論、そのお金もすべて姐となる花香の負担であった。


新調した着物を着て花香に連れられて仲の町を歩き、顔見世をしながら各所にあいさつ回りをおこなう初音。

何しろ吉原一の太夫が連れている期待の新人である。

さぞ有望株なのだろうと、初音は注目を一身に受けた。


初音はこれまで経験したことのない事ばかりで緊張の連続であった。

自分のお祝いのために花香が三百両出したと聞いた時は気が遠くなりそうになった。


「こんな盛大な祝い、わっちには身分不相応です。。」


初音はポツリと口に出すとお里に肩をパンと叩かれた。


「何言っているんだい。仮にも玉屋の有望株だよ。これくらい盛大にやらなきゃ箔がつかないだろう」


「は、箔ですか。わっちに箔は必要ない気が。。」


「あんたがよくても玉屋みせは困るんだよ」


「あ、左様でございますね。。」


初音は花香をチラリと見たが、目と目が合ってこっちを見てにこりと微笑んでいるのを見ると、三百両分も払わせてしまったという申し訳なさからまともに顔を見る事が出来なかった。


一方の花香は三百両の出費に関してはそれほど気にはしていなかった。

もとより自分の借金として加算される事は承知の上であったからだ。

それよりも初音の今後である。


花香自身、引込新造から太夫に出世しているので、特別扱いされるというのは裏を返せばそれだけ厳しいという事をよく知っている。

花香や朝霧あやめのように期待に添えられればいいが、期待外れの結果しか出せなかった時にはそれ相当の懲罰が待っているのだ。


引込新造になると生活が一変する。

それまで茶碗半分ほどのご飯と漬物だけの食事からだし巻き卵焼きや焼き魚など座敷でお客に出すような料理になる。

禿の時には朝餉が済めば掃除や姐女郎の世話が主な仕事であったが、新造になればすぐに稽古ごとである。

三味線、習字に琴、俳句、和歌、生花、茶道に将棋、囲碁まで一日中休む暇すらないほどであった。


習字は草書、行書、楷書の三つは必須で必ず覚えなければならないと言われて初音は思わず「うわあ。。」と声を上げてしまう。

覚悟はしていたつもりであったが、ここまで覚えなくてはならない事がたくさんあったとは。


初音が最も得意としたのは三味線で、その上達は目を見張るものがあった。

玉屋に来てわずか半年ほどで夜見世の始まりを告げる清掻すががきを務めるほどにまでなったのだ。


だが、問題はそこからであった。

間もなく十四歳になる初音を何より不安にさせたのは水揚げである。

水揚げとは初体験の事で、この儀式終えると一人前の遊女としてデビュー期間となる「突出し」になり、初めて客を取る十年の年季の始まりである。


水揚げは見世に馴染みの深い四十代くらいの年配客に頼むことが多かった。

いきなり手荒に扱われて男性不信にならないように見世も慎重になったのだ。


お里は初音の水揚げ相手選びに難航した。

最初の相手があまり顔がいいと次回以降が厳しくなる。

むしろブ男の方がいいとすら言われている。


「花香、初音の水揚げの相手なんだけど、誰かいい人はいないかい?」


お里に問いかけられて、花香もしばらく考えた。

穏やかで乱暴な事をしない四十代くらいの男性となると花香の馴染みの中でも限られてくる。

そんな中、一人の人物が花香の頭に浮かび上がる。


「わっちのお馴染みさんの中でありんすなら、笹垣屋の番頭さんではどうでありんしょう」


花香の人選にお里もポンっと手を叩く。


「おお、笹垣屋さんなら悪くないね。うちの上客の一人だし、禿や新造たちにも評判がいい」


お里はさっそく見世の妓夫を使いに出して笹屋にこの事を伝えた。

笹垣屋は話を聞いて困惑の表情を浮かべた。

男の側からしても四十代で十四歳の少女を相手にするのである。

躊躇してしまうのが当然であった。

たが、日頃からの付き合いであるお里と花香の頼みとあっては断れずに引き受ける事となった。


水揚げの際には空き部屋が一つ割り当てられる事になり、以降その部屋が初音の部屋となる。

お客を取り、独り立ちする部屋持ちに出世するからだ。


こうして部屋に用意されたのは金糸で鶴と亀の刺繍がされ、最高級の綿が詰められた掛け布団で、これだけでも二十両〔約二百万円〕は下らない値段であった。

三段重ねにした敷布団や寝巻きも含めれば五十両〔五百万円〕近くにはなるだろう。

これは水揚げをする笹垣屋の番頭が全て寝具一式を揃えて負担する。

頼まれた事とは言え、かなりの出費である。


水揚げ当日、笹垣屋が来るのを待つ初音は緊張で気分が悪くなってきた。


「お清さん、緊張で気分が悪くなってきました。ちょっと厠に。。」


「さっきから何回厠に行っているんだい。しっかりおし。落ち着きな」


「は、はい」


遣手婆のお清に声を掛けられても空返事をするだけで、心ここにあらずであった。

笹垣屋の番頭が見世に来て部屋に通されると、しばらくは料理を食べながらの談笑が続いたが、初音は緊張のあまり食事がほとんど喉を通らなかった。


そして拍子木ひょうしぎの音と共に引け四つ〔夜の十二時〕となり、床入りの時間となった。

「さて、初音が無事に水揚げを終わらせてくれるといいけどね」

お清がそう言い終わるか終わらないかの時に部屋から「ぐわあ」という男の悲鳴声が聞こえた。


「何の声? まさか。。」


驚いたお清がすぐに初音たちの部屋に向かうと初音が申し訳なさげな顔で布団の上で正座をし、笹垣屋の番頭が鼻血を出して倒れていた。

まさか初音が何かやらかしたのでは? というお清の嫌な予感は見事に的中した。


「初音、何やらかしたんだい?」


「いえ。。その。。いきなり顔が目の前にあったので反射的に頭を上げたら。。その。。」


「つまり頭突きを喰らわしたというわけね」


お清がそう言うと、番頭はよろよろと立ち上がって文句をつける。


「おい、この始末どうしてくれるんだ」


「申し訳ない事をしました。この状況なので水揚げは無理でございます。今夜はおやすみになられて構いませんので、明日の朝お引き取り下さいまし」


「こっちはお前さんたちに頼まれて揚代含めて五十両近く払ってるんだぞ」


「それは重々承知しておりますが、何があろうとも揚代はお支払い頂くのがこの吉原の掟でございます」


初音は松平屋敷での出来事がフラッシュバックしてその恐怖から「いやあ!」と番頭に頭突きを喰らわせてしまったのだ。

結局、怒った笹垣屋の番頭にお里とお清に花香も加わって謝罪し、何とか収まったものの、初音はとんでもない事をしたと後悔の念にかられた。


こちらから頭を下げて頼んで、五十両もの大金を払わせておいて頭突きだけ喰らってのお帰りである。

笹屋の番頭がこの見世に来ることはもうないであろう。

玉屋は大口の顧客を一人失う事となってしまった。


「せっかく花香姐さんがここで働かせてくれたのに、わっちは下女に逆戻りでありんすね」


だが、この件で初音が叱られる事はなかった。

逆に花香から謝罪されたのだ。


「無理もありんせん。初音はつい先日恐ろしい目に遭ったばかりで男はんが怖いんでありんしょう。わっちらが気が付かんですまない事をしたでありんす」


「花香姐さん。。すみません、悪いのはわっちの方なのに」


初音はお里とお清にも散々頭を下げて謝ったが、二人とも苦笑いを浮かべるだけで気にするなと言ってくれた。

かずさ屋なら折檻が二、三日。いや、もっと続くかも知れないほどの事をしでかしたのに。


見世の人たちの心遣いに初音は申し訳ない事をしたと思うのだが、やはり恐怖はすぐに拭い去れず初音の水揚げは当面棚上げとなった。

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