桜 花香の依頼を受け 無断で城を抜け出す
江戸城にいる徳川桜に玉屋からの知らせが来たのはその日の夕刻であった。
御庭番である那月からの報告を受けて桜は考えていた。
「お里さんと花香ちゃんが怪しいと睨んでいるかずさ屋というのはどんな見世なの?」
桜の問いに那月が答える。
「吉原では小見世の部類に入る小さな見世です。最近まで千早という人気の太夫が居ましたが、瘡毒〔梅毒〕にかかって年季明け扱いで吉原から出されています。評判は悪くはないのですが、玉屋さんからの情報にもあったようにこの二年で禿が十人以上折檻で殺されています」
「禿だけと言うのが気になるわね。遊女の足抜けならまだわかるけど、お客を取らない禿の足抜けってそんなに頻繁に起こるものなのかしら? 確かにお里さんたちが怪しむのがわかるね」
「桜さん、どうします?」
「私に助けを求めているんだから当然行くに決まってるわ」
「上様をどう説得するのですか?」
「それが頭の痛いところなんだよね」
桜は薩摩山くぐりとの戦いを最後に戦いの場には赴かないと吉宗に誓っている。
あれから半年足らずでまた戦いの場になんて言った日には牢獄監禁生活が目に浮かぶ。
桜は首を横に振ってその考えを断ち切る。
「いやいや。今回はお里さんと花香ちゃんを助けるだけ。私が戦いをする訳じゃないから約束を破ったことにはならないよね」
那月にそう同意を求めるが、那月は首を傾げて返答に窮していた。
「戦わなくて済むのであれば、そうでしょうけど。まだ真相が見えて来ません。もし戦いとなれば私たち御庭番がやりますので、桜さんは手出ししないという事ではどうでしょう?」
再び桜が腕を組んで考えた。
「うーん。。要は戦わなければいいんだよね。局地的な戦闘が起こってしまったらやむを得ないけど、原則は戦わない。そして動くのは那月たち御庭番にやってもらうという事なら大丈夫か。よし、それでいこう」
「かしこまりました。では早速上様にご報告を」
そう言って立ち上がった那月を桜は手で制した。
「待って! お義父様に言ってもし牢にでも入れられたらお里さんと花香ちゃんとの約束が果たせなくなる。ここは泉凪の道場に行くフリをして無断で行っちゃおう」
「え? いいんですか?」
「姉さん。私の刀、準備してもらえるかな」
桜が姉さんと呼んだのは元御庭番で今は桜付きの女中となっているみやであった。
御庭番時代には父の後を世襲したため、女であるが十文字左近という男性名で活動していたが、今はみやという本名で女中を務めている。
「上様のお許しも得ないで勝手しちゃって良いのかな。まあ、他ならぬお里さんと花香ちゃんの頼みじゃ断れないし。私たちも玉屋さんにはお世話になっているからね。その代わり危ない戦いはしない事。刀はあくまでも万一の時に備えてだよ」
「わかっているって。那月、いいね。私は泉凪の道場に行く事にしておくんだよ」
「はあ。。バレても知りませんよ」
那月の心配をよそに、こうして桜は義理の父である吉宗に無断で吉原に出向く事となった。
「桜花姐さん」
「花香ちゃん、呼んでくれてありがとう」
花香と桜は薩摩山くぐり衆との戦い以来半年ぶりの再会であった。
桜花は桜がかつて御庭番として吉原に潜入調査した時の芸者としての名前である。
当時、花香はまだ新造で白菊という名前で見世のお職であった朝霧〔あやめ〕の下についていた。
桜の方が年上なのもあり、花香は桜を今でも姐さんと呼んでいる。
「桜花姐さん、本当に大丈夫でありんすか? 公方様〔吉宗〕に知られなんしたらどんなお咎めを受けるかわかりんせんよ」
「バレたら大変だからお義父様には内緒だよ。ほら、ちゃんと刀もこの通り」
桜はそう言って腰の刀を花香に見せる。
「困った時の姉さん頼み。私にもみや姉さんがいるからね。万一バレても花香ちゃんたちには迷惑かけないから」
「お手数お掛けしなんす」
「この戦いが終わったらもう戦いの場には赴きません。徳川の姫としての役目を全う致します」
そう義理の父である吉宗の前で約束してから僅か半年たらず。
これがバレた時の吉宗の怒りの顔を思い浮かべると背筋に冷たいものが滴り落ちる桜であったが、他ならぬ花香の頼みも断れない。
「今回はそこまでの戦いが起こるとは思えないけど、刀は念の為。基本的には那月に動いてもらうから」
桜がそう言うと那月が花香の前に姿を現して「花香姐さん、お久しぶりです」と挨拶する。
那月も潜入調査で玉屋の芸者をしていた事があるのでお互い顔見知りであった。
「那月も久しぶりでありんすな。ありがたいでござりんす」
こうして、桜と那月は花香たち玉屋と協力してかずさ屋の悪事を暴くべく動き出した。
桜と那月が玉屋の面々と合流し、玉屋の妓夫たちから襷を受け取る形で御庭番である那月がかずさ屋を調べていった。
何しろ今回は桜が吉宗に無断で抜け出しているため、如月と凛音まで動かすのはまずい。
御庭番と言っても動くのは那月だけ。
証拠を掴んで大岡越前に報告する時にバレるだろうが、その時にはもう一件は収束して怒られるにしても少しだけだろう。
「って桜さんは言ってたけど、上様は桜さんに甘いとは言え、そんなに上手くいくのかな」
それに凛音はそろそろやや子(子供)が出来る頃かも知れない。
身重の身体で任務に就かせるつもりは那月にはないし、如月にも悪い。
如月はみんなで寄ってたかって無理矢理に凛音とくっつけられた風に言ってはいるが、何だかんだで幼馴染の凛音とは合っている。
今ではどこに行くにも二人で一緒の如月と凛音を見て、那月は私たちいい事したなと思うのであった。
そんな感じなので、この一件は那月が一人で動き、桜は証拠が揃ったところで出向く手筈となっている。
「結局は私が一人で動くしかないって事か」
数日後、かずさ屋から籠が二台出ていくのを確認した那月はその後を追う。
二台の籠にはかずさ屋の妓夫たちが五人付いている。
「楼主がどこかに出かけるのか? あのもう一つの籠には誰が乗っているんだろう」
見世の横に付けられたために籠になっているのが誰かまでは確認出来なかった。
籠は吉原から出て、深川の大名屋敷の前で止まった。
中から出てきたのは楼主兵衛門と禿らしき女の子であった。
「もしかして、あれが桜さんと花香太夫の言っていた初音ちゃん?」
那月は初音の顔を知らないために、まだ確信がなかった。
それと、門の名札を見て驚いた。
「ここはご老中である松平忠輝様のお屋敷。まさかご老中が絡んでいるのか?」
那月は唖然とした。
「さらに詳しく調べるか」
その時である。那月の前に左近が現れた。
「那月、一人で大変だろ? 私も手伝うよ」
「左近さん」
桜付きの女中であるみやも半年ぶりに御庭番十文字左近として動いたのだ。
「助かります。実は。。」
那月はここまでの情報と初音と思われる禿が屋敷の中に入っていった事を伝えた
「私は屋敷内に潜入して詳しく調べようと思います」
「じゃあ私は桜にこの事を伝えてくる。どの道連れて来られた禿が初音ちゃんであるにしろないにしろ、人身売買ならば助けなければならない。問題はここがご老中のお屋敷という事ね。大岡様たち奉行所が動くにはよほど歴然とした証拠がなければ。。」
左近と那月は考えた。
ます現場を抑える事。
それから連れて来られた禿の女の子を証人として白洲の場に出てもらう事。
最低でもこれが揃ってなければ確保するのは難しい。
「那月、禿の女の子は大事な証人となる。必ず助けないと」
「もし、連れて来られた禿が危ないと判断したら助けに入ります」
「わかった。じゃあ頼んだよ」
「左近さんもよろしくお願いします」
こうして左近は急ぎ吉原にいる桜の元へ向かい、那月は連れてこられた女の子と何の用でこの屋敷に入ったのかを調べるために屋敷に潜入した。