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花香と初音の物語  作者: 葉月麗雄
最終章
21/22

初音 玉屋に残るか自分の力でやってみるか 決断を迫られる

一七三四年〔享保十九年〕。


花香が年季を終えて吉原を去ってから五年の年月が過ぎていった。

若紫と紅梅の二人がその後継者として太夫となり、見世の一、二を常に張り合いながら盛り立てていく。

二十歳になった初音は二人の登場まで三味線を弾き、歌を披露して客を楽しませる。

見世での地位は格子まで上り詰めていた。


芸者としての最高位である太夫にはまだ早いと初音自身がお里に頼んでこの地位に留まったのだ。

理由は吉原から外に出ていないため、他の芸者の中に入った時、自分の実力がどの程度かわからなかったからである。


玉屋は開業以来一番の繁盛期を迎えていた。

そんな中、初音がお里に呼び出されて楼主部屋に座っていた。


「初音、お前もそろそろ年季を迎える時期だろ。これから先どうするんだい? 芸者を続けるならうちにいても構わないし、外に出て自分の力でやってみたいというのならそれでもいい。お前が自分で決めておくれ」


「お里さん。。」


初音は正直決めかねていた。

大恩ある玉屋に残ってここで恩返しをしたい気持ちもあるし、もちろん外に出て自分の力を試したい気持ちもある。


「しばらく考えさせて下さい。二、三日中にはお返事致します」


初音はそうは言ったものの、考えがまとまらず苦悩する。

恩を取るか、自身の可能性を取るか。

初音は玉屋に来て六年になる。

先代太夫の花香に見出され、かずさ屋ではあわや殺されかけたところから今に至っているのが遠い昔のようであった。


遊女から芸者になった方がいいと勧めてくれたのも花香だ。

そのおかげで大好きな三味線をやりながら毎日充実した日々を過ごせている。

それだけ大恩ある見世から出ていってしまっていいものなのだろうか。

初音は今が充実して幸福感を感じるほど、それを考えてしまうのだ。

そんな時、意外な訪問客が初音を尋ねて来た。


「よ、久しぶり」


「ひな鶴?」


ひな鶴は恥ずかしそうに頬をポリポリと指で掻いた。

初音がひな鶴と会うのは深川から吉原に戻ってきて以来五年ぶりであった。

ひな鶴も初音と同じく二十歳となり、背も伸びて見違えるように大人の雰囲気が漂う色気のある女性となっていて初音はその姿に驚く。


「随分と見違えるように大人っぽくなったな」


「お前好みの女になっただろ?」


「いや、ひな鶴だけはあり得ない」


「そう言うなって。初音も随分見違えるようになってるよ」


久しぶりに再会した二人はお互いに大人になって少し色気が出てきて一人前の芸者としてやっている事を褒め称えあった。


「それより、どうしてここに?」


「私が連れて来たのよ」


「紗雪姐さん」


「まったくこの子は素直じゃないからね。初音がいなくなってすっと寂しがっていたんだよ。今日は『あいつがそろそろ年季を迎えるなら言いたい事がある』って言うから、私が声をかけてここに連れて来たんだよ」


紗雪にそう言われてひな鶴はまた恥ずかしそうに頭を掻く仕草をしながら初音に話しかける。


「初音、私はずっと初音と一緒に組んで芸者をやりたかったんだ。五年前に二人で一緒に初披露目をやっただろ。あれが今だに忘れられなくてね」


もちろん初音もあの時の事は鮮明に覚えている。

あれほど会心の演奏と観客の拍手の心地よさを感じた事はなかった。


「もうじき年季を迎えるって聞いたけど、どうするつもりなんだ?」


「お里さんにも言われて迷っている。大恩あるこの見世を去るのも気が引けるし、一人でやってみたい気持ちもある。決められない状況だよ」


それを聞いてひな鶴は心に決めていた事を初音に伝える。


「初音、私と深川で一緒にやらないか」


「ひな鶴。。」


「私はもう半玉から一人前の芸者として活動している。けれどまだ半玉の時の名前を使っているのは初音と一緒に仕事をするまで芸名を付けないって決めていたから」


ひな鶴の決意を聞いて初音は驚いたし、心も揺れ動くが、玉屋への恩もそれと同じかそれ以上に感じていた。


「でも。。私は花香姐さんに出会ってこの玉屋に来て一生かかっても返し切れないほどの大恩を受けている。それなのに年季が来たからと簡単に出てしまっていいものなのか。どうしても決断出来ないんだ」


「初音。。」


そう言われてしまうとひな鶴もそれ以上言葉が出てこなかった。

ひな鶴にも深川芸者の置屋に育ててもらった恩があるからその気持ちがよくわかった。

そんな初音に今度は紗雪が話しかける。


「初音は歌と三味線は一流芸者並みだけど、あなたがこれから先もっと成長するには立方たちかた地方ちかたで組んで魅せた方がいいと私は思っている。同じ事がひな鶴にも言えるわ。


ひな鶴も踊り手としては一流だけど、初音と組めばその魅力はさらに増すと思う。でも、ひな鶴は深川芸者だから玉屋に在籍するのは無理。やっぱり初音がこっちに来てくれればと私たちは思っているんだけど」


紗雪の言葉をひな鶴も相槌を打ちながら聞いている。


「玉屋に恩義を感じているのはわかる。けれど、年季というのはあなたがこれまで頑張って来て手に入れた権利なの。あなたなら吉原を出て一人でやれる実力は十分にあるわ。玉屋には指名があればいつでも来られる。だから遠慮する事なく自分のやりたいようにやりなさい」


「紗雪姐さん。。」


「初音、私はお前以外と組むつもりはない。私の相方はお前だけなんだ」


「ひな鶴。。」


初音は悩んだ。どうしようと考えたが、最後のひな鶴の言葉、「私の相方はお前だけ」というひと言が心に強く残った。

もしここで玉屋に残る決意をすれば恩は返せると思う。

だけど芸者としてやっていくための相方を失う事になってしまうだろう。


紗雪の言う通り、たとえ吉原を出たとしても芸者として呼ばれれば玉屋で仕事をする事は出来る。

そうなると外に出て自分の力を試してみたいという気持ちがだんだんと大きくなってきたのを感じた。


何よりまたひな鶴と一緒に組んで演奏をしてみたい。

ひな鶴が私の相方は初音だけと言ってくれたように、初音もまた私の相方はひな鶴だけだと思ったのだ。

初音はようやく決心がついた。


「紗雪姐さん、ひな鶴。。わかった。私はここを出て外の世界で自分の力を試してみるよ」



夜見世が始まる前の準備時間、他の見世の者たちが忙しく動き回る中、初音はお里の部屋に座っていた。


「お里さん、ようやく決心がつきました。私はここを出て自分の力でやってみたいです。今までお世話になっておきながらわがまま言って申し訳ございません」


初音がお辞儀をして年季が来たら玉屋から出る事を伝えるとお里はにこりと微笑んで了承する。


「何もわがままじゃないさ。あんたがそう決めたならそうすればいい。年季を終えた人間がここを出て自由に生きていこうというのを止める権利なんて誰にもないさ」


「ありがとうございます。受けたご恩は一生忘れません」


「お礼なら花香に言っておやり。あの子があんたを見込んでここに連れてくるように言って来たんだから」


「はい。いつか花香姐さんにお会いした時、今よりももっと成長した姿を見せたいです」


こうして初音は六年間務めた玉屋を出て、深川で新たに活動する事となった。




「お里さん、初音もやっと決断しました。あの子も内心は外で自分の力を試してみたかったんだと思いますよ。ただ、ここへの恩義の気持ちも相当あったのでしょう。私は少しだけ背中を押してあげたにすぎません」


「すまないね。紗雪とひな鶴にまでひと役買ってもらって。初音のうちに恩を返したいという気持ちはありがたいけど、もう十分に売り上げで貢献してもらった。これからはあいつが一人でやっていくのを私も楽しみにしているんだ。いつまでも吉原という籠の中にいちゃダメなんだよ」


お里は決断がつかない初音に決意をさせるために密かに紗雪とひな鶴に声をかけて見世に呼んでいたのだ。

お里自身、初音の可能性を見てみたいと思っていたのもあるが、自分の吉原での最後の仕事として、初音を気持ちよく送り出したかったのだ。


「紗雪。まだお清にしか伝えていないんだけど、私はこの春で暇を頂く事に決めたよ。そろそろ後進に譲ってもいい頃だと思っていたんだ。初音を送り出すのが私の楼主としての最後の務めになると思う」


お里の引退を聞いて紗雪も驚いた。

まだ玉屋には彼女の力が必要だと思っていたからだ。

しかしお里はもう決めたというすっきりした表情だったので紗雪もそれ以上は何も言わずに今までお疲れ様でしたと労いの言葉をかけた。


玉屋にも新しい時代が来ようとしていた。

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