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花香と初音の物語  作者: 葉月麗雄
最終章

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20/22

花香 生涯の伴侶に出会い 無事に年季を終える 後編

遊郭では年季十年と言われ、これは禿時代は含まれず、客を取り始めた新造以上になってから数えて十年という事である。

十四歳で新造になっていた花香は九年で年季を迎えた。

玉屋はおろか吉原でも一番の売り上げを誇っていた花香は通例よりも一年早く年季を終える事が出来たのだ。


これはお里が欲張らなかった事もある。

普通の楼主であればそれだけの稼ぎ頭が居なくなっては痛手なので、最初にその遊女を買い付けた借金となる金額にさらに法外な利子を付ける。

これにより太夫に上り詰めた遊女ですら年季を終えてもなお借金が残り、結局遊女を続けるしかなくなってしまう例が多く見られた。


お里は商魂たくましいが自身が遊女だった事もありそういった事は一切しなかった。

玉屋には花香の後を継ぐ遊女がいた事も大きい。

朝霧と紅玉の禿かむりとして付いていた若紫わかむらさき〔おしの〕と紅梅こうばい〔おうめ〕の二人である。



五月になり、二十三歳で年季が明けた花香は十歳で吉原に売られて来てから十三年ぶりに本名である「八重」に戻った。


「花香、今までお疲れ様。あんたのおかげで玉屋の名前はまた一段と格が上がった。多大な売り上げにも貢献してくれて本当に助かったよ。これからは自分の幸せを手に入れるんだよ」


そこまで言うとお里は八重にそっと耳打ちする。


「この前の番頭のところに行くんだろ? もしダメだったらいつでも戻ってきてもいいよ」


「お里さん、お心遣いありがたく受け止めておきなんす。まあ、当たって砕けろでありんすよ。見事に砕けなんしたら、その時はまたよろしくお頼み申しなんす」


花香は定吉のところに押しかけて、ダメなら今後身請け話も一切断って玉屋で生涯遊女として働く覚悟を決めていた。

彼女には定吉以外の男性と結ばれるという考えはなかった。


お里に続き初音が挨拶する。


「花香姐さん、お世話になりました」


「わっちは初めて会った時、密かに初音がわっちの後を継いでくれるんじゃないかと思っておりなんした。でも、初音はやっぱり遊女より芸者の方が合っているでありんす。頑張るんでありんすよ」


「ありがとうございます」


その後も若紫、紅梅と別れの言葉を交わして、花香は最後に大門見上げた。

最初にここに来た時に女衒に言われた言葉が今になって蘇る。

ここを出られるのは年季が来た時か身請けされた時。あるいは死んでしまった時だけ。


自分は生きて年季を終えて無事にここを出られた。

あとはもう二度とここへは来ないか、またここに舞い戻る事になるのか。


〔十三年間。長いようであっという間でござりんした。幸いにも大きな病や折檻を受ける事なく無事に出られたのは運が良かったでありんすな〕


「では、みんな。おさらばえ」


花香は玉屋の面々に手を振って大門を出た。

十四年ぶりの吉原の外である。

雲ひとつない晴れた空の中、八重はどこにも立ち寄ることなく目的地をすでに決めていた。


「さて、日本橋に行きなんすかね」


果たして吉と出るか凶とでるか。

正直なところ起請文きしょうもんを書いたわけではない。

起請文とは「年季があけたら必ずあなたと添い遂げます」と書いて血判を押すという言わば決意の証明書のようなものである。


他にも遊女には爪を剥がして相手に送ったり指を切ったりする風習もあったが、八重はそのいずれも定吉とは行っていない。

一度会っただけの口約束。

そんな約束していないと言われればそれまでである。



そしてたどり着いた日本橋恵比寿屋。

八重は早る鼓動を胸を抑えて落ち着かせるように一度深呼吸し、店ののれんを潜る。


「ごめんくださいまし」


突然の女性の訪問に店の人たちは一様に驚きの表情を浮かべながら八重の顔を見る。


〔え? わっち何か失礼な事したでありんすか? 吉原から外に出たのは十三年ぶりで世間に疎いでありんすから。。〕


八重は自分が何か失礼な態度か言葉を言ってしまったのかと慌てていたが、実は町娘離れした八重の容姿にみんな驚いていたのだ。

どこぞの武家のお姫様かと思うほど容姿端麗で卸問屋に来る客とは思えない雰囲気であった。


「いらっしゃいませ、何か御用でございますか?」


「ご主人様か番頭の定吉さんはいらっしゃいますか?」


「はい、少しお待ち下さい」


対応してくれた店の女中が奥から定吉を連れてくると、定吉は驚きの声を上げる。


「は、花香太夫? どうしてここへ?」


「定吉さん、約束しなんしたね。わっちが年季を終えたら迎え入れようてくれなんすと。この通り、無事に年季を終えてここに来なんした」


「あれはお客への常套文句かと。。」


定吉の言葉と様子を伺い、八重はこれは砕け散ったなと内心思った。


「ダメでありんすか?」


「いえ、光栄ですし願ってもないのですが、事が事だけに私の一存では。。旦那様に相談申し上げてからでないと」


定吉は本当に八重が来た事に驚いただけで、まさか自分なんかと一緒になってくれるなどとは夢にも思ってていなかったため、すぐに言葉が出てこなかったのだ。


しばらくすると恵比寿屋の主人が出てきて、定吉同様に八重を見て驚いた。


「これは花香太夫。よもや定吉の元に本当に来て下さるとは」


「突然お邪魔しなんして、申し訳ござりんせん」


「いえいえ。大歓迎でございますよ。さ、ここでは何ですから、中はどうぞ」


主人に促されて八重と定吉は部屋に通されたが、部屋の中で二人はお互いにひと言も発する事なくうつむいていた。

どちらも何から話そうか迷っている様子に主人が助け舟をだす。


「花香太夫。よもや我が家であなたにお会い出来るとは光栄です。いつもなら二百両は払わないと会えない高嶺の花ですからな」


主人は場を和ませるために冗談を言ったつもりであったが、八重は恐縮してしまう。


「ご主人様にはいつもお世話になりんした。それからわっちの事は八重と呼んで頂いて良いでありんすよ。もう遊女ではありんせん、普通の町娘でありんすから」


場を和ませるのに失敗したかなと感じた主人は頭を掻く仕草をした後で、単刀直入に本題を切り出した。


「定吉、どうするんだ? 花香。。いや八重さんはお前の返事を待っているんだぞ。お前も男だろう。ここまで来てくれた八重さんを追い返す訳にはいくまいよ」


「では? 旦那様、よろしいのですか?」


「もちろんだ。こんなめでたい事はないだろう」


「ありがとうございます。八重さん、旦那様からお許しが出ました。あらためて申し上げます。私と一緒になって下さい」


定吉からの正式な求婚に八重はやっと安堵の表情を浮かべた。


「正直、ここに来なんすまで胸の鼓動がずっと鳴りっぱなしでござりんした。。今ようやくほっとしたでありんす。定吉さん、元遊女ではありんすが、どうぞよろしくお願い致しんす」


八重がそう言ってお辞儀をすると定吉も慌てて頭を下げた。


「花香太夫。いえ、八重さん。こちらこそ、よろしくお願い致します」


ようやく二人が打ち解けて、主人が拍手をして二人を祝福する。


「さあ、今夜は定吉と八重さんの結婚を祝って盛大に酒宴を開こうじゃないか」


こうして八重は晴れて定吉と結ばれる事となった。




「花香、見事射止めたんだね。良かったねえ」


妓夫からの報告を受けてお里もほっと胸を撫で下ろした。

正直また舞い戻って来た時には花香の待遇をどうしようか考えていただけに、無事に定吉との結婚を決められて良かったいうのが本音でもあった。


「もし、花香が戻って来た時には遣手婆として若紫と紅梅を始めとする後進の育成に当たってもらうつもりだったよ。花香は確かに孤高の存在ではあるけど、遊女よりも人を助ける仕事の方が似合ってると私は思っていたからね」


一七二九年の六月吉日。

定吉と八重の結婚式が行われ、定吉は恵比寿屋の正式な後継者として主人の養子となった。

八重は若女将として定吉を手伝い店を切り盛りする。

元吉原太夫の美人若女将誕生は江戸でも評判となり、恵比寿屋には連日八重を目当てに来る客が押し寄せた。


遊女以外の仕事を初めて行う八重であったが、持ち前の機転と頭の良さで苦労しながらもこなしていく。

遊女時代に培った客とのやり取りもさすがで、恵比寿屋は江戸でも評判の卸問屋となっていった。


そしてその話を江戸城で聞いた桜は「花香ちゃん、良かったね」とお祝いに恵比寿屋に五百両と着物を届けさせた。

桜も徳川の姫としてこれくらいは自分で動かせるようになったのだ。





「玉屋の花香太夫がいいお相手を見つけたとか」


月光院が桜にそう問いかけると桜も嬉しそうに答える。


「月光院様も知っておられましたか。あの花香ちゃんが身請けではなくて自分で相手を見つけるなんて意外でして、私も自分の事のように嬉しいです」


その言葉に月光院の目が光る。


「桜、その自分の事はどうするつもりじゃ?」


「へ?」


桜が珍しく間の抜けた声を出す。

月光院の様子が明らかに何かを企んでいる雰囲気で、桜は思わずのけぞった。


「お前も二十歳になるであろう。いつまでも一人と言うわけにはいくまい。徳川の姫としてそろそろ相手を見つけなくてはならぬ」


「月光院様、私はまだ。。」


「私がこれはという者を何人か見繕っておいた。これ、皆の者」


月光院の呼びかけに二十人の若い男たちが一斉に部屋に入って来る。


「あ、あの。。月光院。。様?」


たじろぐ桜に構わず月光院は熱弁を振るう。


「どうじゃ? この中から好きな男を選んでよいぞ。いなければもう二十人連れて来る。大丈夫じゃ。上様にはちゃんと許可を得ておる。それどころか大賛成してくださった」


「い、いや。お義父様がではなくて、私がまだ心の準備が。。」


「泉凪、逃すでないぞ」


「勅命、承りました!」


泉凪が意地の悪い笑いを浮かべながら桜を後ろから羽交い締めにする。


「ちょっと、泉凪まで何を。。」


「桜、観念しな。月光院様のお心遣いを無碍にするつもりか?」


「さあ、見合いの準備じゃ。見事に桜の心を射止めた者には褒美をつかわすぞ」


「助けて〜!」


この後、桜は五日間大奥に軟禁され、のべ五十人の殿方とお見合いさせられる事となった。

桜が無事に〔断り切れずに〕結婚するのはこの六年後の事である。



同じ頃、江戸城の庭園で加納久通、大岡越前とお茶を嗜む吉宗。


「桜の奴、今頃は月光院に捕まってお見合いをさせられている頃であろう。余に黙って抜け出した罰だ。せいぜい苦し。。いや楽しむがよいぞ」


その言葉に苦笑する久通と越前。


「まあ、たまにはいい薬でございましょう。のう、越前殿」


「桜もこれに懲りて少しは大人しくなれば良いのですが。しかし本当に結婚となったらどうなさるおつもりですか?」


「それならそれでよい。あのじゃじゃ馬が少しは大人しくなるのならば余は喜んで迎え入れよう」


三人の男たちの笑い声と一人の姫の悲鳴。

江戸には初夏を感じさせる心地よい日差しが差し込んでいた。

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