憧れの花香(ひと)と出会い 一筋の光を見る 前編
揚屋町。吉原内にある商店街。
吉原から外に出られない遊女たちが買い物をするために作られた町で、江戸で手に入る物はほぼなんでも揃っていた。
初音は見世の使いで千早太夫の使うお線香を買うために揚屋町に来ていた。
遊郭ではお勘定を「お線香代」とも呼ぶ。
お客の遊んだ時間を焚いたお線香の数で数えていたからである。
遊郭ではふんだんに沈香を原材料として使ったお線香が焚かれていた。
だが、そこは小見世である。
なるべく与えられた銭の範囲内で安い沈香のお線香を選んで買ってこなくてはならない。
無駄に使ったらまた折檻が待っている。
初音は何とか持たされた銭でお線香を買って見世に戻ろうとした時であった。
目の前から綺麗な女性がこちらに向かって歩いて来たのが目に入る。
「花香太夫?」
一瞬我が目を疑った。
だが、目の前を歩いている女性は間違いなく昨夜見たあの花香であった。
薄化粧でも美人とわかる顔立ちに初音は胸が高鳴るのを感じていた。
〔花香太夫。。ひと言でいいから、挨拶だけでもいいから話してみたい〕
初音は胸の鼓動がさらに速くなるのを感じながら恐る恐る花香に近づいて話しかけた。
「あ、あの。。」
おそらく無視される。それならそれで仕方ない。わっちの身分で吉原一の太夫に話してもらえるはずなどないから。
そう思ってダメ元で話しかけた初音であったが、その予想は嬉しい形で裏切られた。
「わっちに何か用でありんすか?」
〔え? 話しかけてくれた〕
あまりの事に初音は驚いたが、何とか勇気を振り絞って自己紹介をする。
「突然話しかけてすみません。わっちはかずさ屋の千早大夫の禿で初音と言います」
「おや、千早さんの禿でありんしたか」
かずさ屋のお職である千早太夫は花香も知っていた。
しかし小見世の太夫など、大見世の良くて散茶程度で、花香ほどの遊女に名前を知ってもらえているだけでも名誉というほど見世のランクが違った。
散茶とは格子の一つ下のランクで、湯女が発展したものと言われている。
湯女風呂は江戸版のファッションヘルスのようなものであり、幕府によって吉原に移され、多少広い部屋で営業出来るようになったことから誕生した役である。
吉原育ちというプライドのない散茶は物腰柔らかな対応で人気があり、急須を振らなくても湯を注ぐだけでお茶になるように「お客さんを振らない」という意味から散茶と呼ばれた。
「実は昨夜の太夫道中を見世の窓から見ていました。あまりにお綺麗でしたので、ついお声掛けしてしまってすみません。江戸の楊貴妃と言われてるだけあって本当に綺麗です。憧れてしまいました」
「そう言って頂けるのは嬉しいでごさりんすが、わっちは楊貴妃にお会いした事がありんせんので比較されてもわかりんせん」
そう言ってにこりと笑う花香であったが、初音は何かまずい事を言ってしまったのでは? とますます気が重くなってしまった。
「そうですよね。。お買い物中にお邪魔して申し訳ございませんでした。ひと言お話し出来ただけでも嬉しいです」
そう言って慌ててその場を立ち去ろうとすると、花香がそれを手で制した。
「お待ちなんし。そんなに慌てなくてもようざんす。何やら色々と悩みを抱えているようでありんすな。わっちで良ければ話し相手くらいにはなりんすよ」
〔優しい。。〕
うちの見世では仮にも太夫を務めるような人が禿ふぜいにこんなに優しくしてくれない。
千早姐さんは優しいけど、小町みたいな性格も意地も悪いのがそのまま上がるのが高級遊女だと思っていた。
「とりあえず、ここではなんでありんしょうからうちの見世においでなんし」
初音は花香に誘われるままに玉屋へお邪魔する事となった。
初音が花香に連れられて来たのは吉原一の大見世玉屋。
見世に入った瞬間からかずさ屋とは全然違う雰囲気に初音は驚きの連続であった。
禿たちはみんな明るく、太夫や格子の遊女たちは面倒見も良く優しい。
妓夫と呼ばれる男の使用人たちも遊女たちを道具扱いせず、和気あいあいとした空気が見世の中に溢れている。
「これが大見世。。」
妓夫が威張りくさり、姐さん遊女は自分付きの禿に当たり散らすために常に怯える毎日を過ごしている初音にはここは別世界のようであった。
「そんなガリガリの身体では身が持たんでありんしょう。まずはこれを食べなんし」
玉屋に着くと、花香は初音のために食事を用意させた。
お膳にはご飯に味噌汁に焼き魚と卵焼きまである豪勢なものであった。
普段、茶碗半分ほどの芋めししか食べてない初音には見た事もないご馳走だった。
「いえ、こんなご馳走を頂くわけには。。」
そう断ったものの、身体は正直でお腹がぐうと音を鳴らした。
このお見世ではいつもこんな豪華な食事なんだろうか?
そんな初音の疑問を見透かしたかのように花香が話しかける。
「断っておきなんすが、うちの禿たちも普段はご飯に沢庵だけしかありんせん。あんたはその身体ではろくに働けないでありんしょうから栄養を付けるために特別でありんすよ。さあ、遠慮なく食べなんし」
「小見世と大見世ってこんなにも違うんだ。。」
玉屋では見世自体が月に三日の休みを設けている。
また抜け人や見世の規律に背いた事をしない限り折檻はしない。
瘡毒〔梅毒〕に感染した時にも最後まで面倒見てくれる。
瘡毒に掛かった遊女はたとえ太夫であろうとも、他の見世なら建前の二朱の祝儀を手渡して年季がきた事にして一本締めで大門から追い出され、その後はどうなろうと知った事じゃないっていうのが通例であった。
初音自身、かずさ屋に来て二年になるが、その間に瘡毒に掛かって見世から追い出された先輩遊女を二人ほど見ている。
彼女たちがその後どうなったか知るよしもなかった。
「すべての大見世がこうじゃないでありんすよ。ここはお里さんが楼主になってから飛躍的に改善されなんした。おかげさまで今はいい環境で仕事が出来るでござりんすよ」
「確かに。。」
かずさ屋とはえらい違いだ。
同じ吉原の見世でも所変わればこうも違うものなのか。
初音はそう思った。
お里が楼主になってから玉屋は吉原でも優良な見世となって足抜けする遊女もほとんどいなくなった。
吉原の遊女たちは元旦と七月十三日(江戸時代のお盆は七月十五日で、その二日前を振替休日としてお盆休みにしていた)の二日間を除き一年中ほぼ休みなく働かされる。
遊女が体調を崩して休んだ時は、休んだ分の売り上げも自分で賄わなくてはならない。
お里は自身が遊女だった時の経験から思い切って月に三日間、見世を休みにして遊女たちに完全休養日を設けたのだ。
曜日という概念がなかったこの時代なので、何か特別な事がない限り定休日を三日、十八日、二十八日で定めた。
これにはお里なりの理由があって、商人の多くが毎月一日、十五日、二十五日が休みだったためだ。
この三日は吉原にくる商人が沢山いて見世の稼ぎどきでもあった。
その繁忙を過ぎた後を見世の休みとしたのだ。
吉原の見世でこれは前代未聞の事であった。
始めは散々に批判されていたが、これによって体調を崩す遊女が激減し、結果的に以前よりも売り上げを伸ばした。
「あたしゃね、この吉原に革命を起こしたいのさ。遊女は家畜じゃない、人間なんだよ。そりゃ見世の商品って言われりゃその通りだけどさ、商品だからこそ売り物は大事に扱わなきゃならないんだ。今の吉原は遊女をあまりにも酷使し過ぎる。あたしゃそれを少しでも改善していきたいと思っているのさ」
お里自身が元遊女であったので、遊女の苦しみや酷使のされ方はよくわかっていた。
前楼主、霧右衛門の起こした阿片事件で危うくお取り潰しになりかけたところを今は徳川の姫となった桜や大岡越前に救ってもらい、こうして営業を続けられる事になったからには見世のあり方を一から見直そうとお里は考え、それを実行に移していったのだ。
食事を食べ終わった初音に花香が本題を切り出す。
「さて、そろそろあんたが何を悩んでいなすのか話を聞かせてもらいんしょう」
「は、はい」
初音は貧しい農家の出身で、親に売られてこの吉原に来た事を話した。
「最初に女衒がわっちは上品で少なくとも七、八十両で売れるだろうと言っていました。ところが、かずさ屋の楼主の品定めでわっちは下品にされてしまいました。女衒も納得のいかない様子でしたが、楼主には逆らえずその金額でわっちを売ったんです」
花香は時折り相槌を打ちながら黙って初音の話を聞いている。
「わっちは楼主にも妓夫たちにも奴隷のように言われて扱われてます。先輩も性格も意地も悪くて、毎日が辛くて。。上に行けばそんな事もなくなるとお客さんには言われていますが、楼主は今以上わっちを上げるつもりが無いようにしか思えません。わっちは遊女としての容姿も才能もないんです」
それまで黙って初音の話を聞いていた花香がここでようやく口を開いた。