花香 生涯の伴侶に出会い 無事に年季を終える 前編
江戸に春の季節がやって来た。
吉原でも遊女たちとお花見を行う見世は多々ある。
無論、吉原の外には出られないので敷地内で出来る範囲でだが。
吉原の桜は春の季節にだけ植えられる。
毎年三月初旬にメインストリートである仲の町通りに桜の木が植えられたのだ。
植える日はその年の寒暖を見て決めていたという。
百五十両〔約千五百万円〕もの大金をかけて、開花時期にあわせて山から根の付いたまま運び、散ると抜いてしまうという贅沢なもので、費用は、妓楼と引手茶屋が分担して負担していた。
一番華やかだったのが夜桜で、桜の木の下に山吹を植えて周りを青竹の垣根で囲い、夜は雪洞に灯をともして夜桜を楽しむという幻想的な世界観を演出する。
また、この期間だけ普段は吉原遊郭に立ち入ることができない一般の女性にも開放されていた。
玉屋では毎年四月初旬の晴れた日を選んで見世を一日休業して遊女や見世の人たちは料理やお酒を楽しむ。
玉屋の二階は眺めが良く、晴れた日には浅草寺まで一望出来る。
二階の客室を開放して眼下に桜を見ながら太夫から禿まで一同に揃うのは一年を通してお正月とこのお花見だけである。
初音にとって吉原に来て初めてのお花見であった。
かずさ屋の時はお花見は遊女だけで楽しむもので、禿たちは同席する事が許されなかった。
初音をはじめとする禿たちはお腹を減らしている中で、美味しそうなご馳走を目の前で食べている姐の遊女たちを羨ましく、時には恨めしく見ているだけであった。
玉屋はそういった分け隔てなく、見世のすべての人たちで楽しんでいる。
ここに来てよかった。つくづく思う。
思えばあの日、角町で偶然花香と出会わなければ、今頃は老中屋敷で乱暴された挙句に投げ込み寺行きであっただろう。
自らの命を絶った千早姐さん、切見世の下級遊女に成り下がった小町。
それ以外のかずさ屋にいた姐さんたちもどうなったか知る良しもない。
華やかに咲く桜を見ながら初音は花香との出会いで全てが変わったのを不思議な気持ちで思い返していた。
普段は寡黙な花香も、今日は無礼講と禿や新造たちに気軽に話しかける。
「花香姐さん」
「何でありんすか?」
「いや、何でもないです。姐さんと出会えて良かったなと思ったんです」
「初音がわっちとの出会いで何か変われたのなら嬉しいでありんすね」
「前から不思議に思っていたんですけど、姐さんはどうして私にこんなに良くしてくれるんですか?」
「そうでありんすな。わっちもここに来た時に朝霧姐さんに良くしてもらいなんしてな。姐に受けた恩恵は妹たちに繋いでいくものと思ったから。でありんすかね。これも朝霧姐さんの受け売りでありんすけどな」
これが玉屋に続く伝統でありんすよと言って花香は笑う。
いつか私が姐となって妹分が出来た時に、この恩を妹たちに繋げていこう。
初音はそう思うのだった。
⭐︎⭐︎⭐︎
そんな桜の季節のこと。
玉屋の常連客の一人である日本橋の卸問屋恵比寿屋の主人が番頭と二人で来店した。
普段は一人で来る主人が店の人間を連れてくるのは初めてであった。
恵比寿屋は玉屋の大口客の一人で、朝霧の時代からの馴染みで金払いもいい客であった。
その主人からこの番頭の事を聞かされ、もう次は来られないであろう事から主人に一目花香太夫に会わせてやって欲しいと頼まれたお里と花香はあくまでも主賓は主人の方で、番頭はお付きという事で特別に初会で話をする事を許可したのだ。
「お初にお目にかかります。恵比寿屋の番頭をしております定吉と申します」
形式的な挨拶から会話は始まった。
恵比寿屋の主人の話では、定吉は死ぬまでに花香にひと目会ってみたいと三年かけて必死で貯めた三十両〔約三百万円〕をはたいて来たという。
吉原一の太夫である花香に会うには指名料だけでなく、見世の者や茶屋に渡す総花〔チップ〕を含めたら少なくとも二百両〔約二千万円〕はかかる。
だが、一介の番頭にそんなお金はとても用意が出来ない。
なので今回はそれを聞いた主人が助け舟を出す形でお里に頼み込み、特別に三十両で花香を指名し、なおかつ初会、裏、馴染みという遊郭のしきたり〔最低三回登楼しなければ馴染みになれない〕を免除してもらい初回から話が出来るように許可を得たのだ。
花香はその話を聞いて驚いた。
金持ちの商人や大名たちならたくさん見て来たが、三年も貯金したお金を叩いてまで自分に会いたいと言って来てくれたこの定吉という人物に胸が熱くなる感覚を覚えた。
仕事をよくこなし、真面目であると主人が言う通りの人に見える。
物腰柔らかそうな人も良さげな人物であった。
「定吉さんと言いなんしたな。一つだけ教えておくんなし。あなたはわっちになぜそこまでして会いに来たいと思ったんでありんすか」
「実は。。私もあなたと同じ常陸村の出身なのです」
花香は驚きの表情を隠せなかった。
自分と同じ村の出身者に会ったのは江戸に来て初めてであったからだ。
「私は幼少の頃、あなたと一度お会いしています。当時、私は五歳の子供でした。村の中を駆け回り、転んで膝を擦りむいた時にあなたが手拭いで足を縛って止血してくれました」
花香にはまったく記憶にない。
「私はもう一度あなたにお会いして、出来ればお礼とお話がしたいと思っていました。しかしあなたはいつの間にか村からいなくなっていました。私は人伝えにあなたが江戸に行ったと言う話を聞き、まさかとは思いましたが、小さな村です。姿が見えなくなり家の事情を知る者であればおおよその検討は子供でもついてしまいました」
「そうだったんでありんすか」
「私はあなたに会いたいがために江戸に出て奉公人という形で旦那様に拾って頂きました。そして働く傍らで八重という女性が吉原にいないかを確かめていたのです。しかしまさか太夫にでなっているとは思いもよりませんでした。
あなたにお会いするには二百両は必要との事で、私にはとてもそんな大金を払う事は出来ません。そこで旦那様にお願いして三年間で貯めたお金で何とかお会い出来るようご無理を申し上げた次第でございます」
花香は定吉にどうしても聞きたい事があった。
それは村の家族の事である。
「知っていたら教えておくんなし。わっちの家族はどうしていなんすか?」
花香の問いに定吉は少し言いづらそうに首を横に振る仕草をする。
「まことに申し上げ難いんですが。。あなたの父上はあなたを売ったお金で博打に手を出して失敗し、多額の借金を負って首を吊りました」
「え?」
あまりの事に花香は絶句する。
自分を売ったお金で家族が幸せに暮らしていると思っていたのが一瞬にして崩れ去った。
「残された母上と弟さん、妹さんは借金の形に売り飛ばされそうになった所をたまたま村に立ち寄った旅の医師によって救われました」
それを聞いて花香はホッと安堵のため息を漏らす。
「母上はその医者と再婚なされて、医師は村で診療所を開き、弟さんと妹さんはともに新しい父上の手伝いをしています。私が江戸に出て来る頃は人並みの生活をなされていましたよ」
母が再婚。それに弟たちも危機を乗り越えて無事に暮らしていると聞き、その医師に感謝するとともに教えてくれた定吉にもお礼を述べた。
「お教え頂きありがとうござりんす。結局あの人が我が家の元凶だったという事でありんすな」
花香は自分を売った時のにやついた顔をしている父親を思い出して気分が悪くなるのを辛うじて抑えた。
母と弟たちが新しい父親の元で今は幸せに暮らしていると聞いて、ようやく何か荷を下ろしたような気がした。
「あまりいいお話でなかったとは思います。出来ればお話したくなかったのですが」
「いいえ、聞かせてくれなんしてありがたかったでござりんす。今日はお会いできて本当に嬉しかったでありんす」
これは営業用の常套文句でも嘘偽りもなく本音であった。
花香は定吉の人柄と同郷であったという事、花香の記憶にはないが、幼少の頃に会った事を忘れずに貯金をはたいでまで会いにきてくれた事に親近感を感じていた。
この人ならとの思いが強くなっていく。
残念ながら彼の稼ぎでは今日一日ここに来るのが精一杯。
二度とこの吉原で会うことは叶わないであろう。
そう、吉原では。。
花香はそう思い定吉に思いのほどを伝えた。
「私が年季を迎えてここから出たら定吉さんは迎え入れてくださりなんすか?」
「え?」
定吉は花香の言葉に驚いたが、遊女が客に使う常套文句なんだろうとその場合わせの返事を返した。
「もちろんです。私などでよければ」
「約束しなんしたよ」
花香が男の人に自分の思いを伝えたのは生まれて初めてであった。




