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花香と初音の物語  作者: 葉月麗雄
奮闘編

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18/22

花香の追憶 八重の名を捨てた少女は吉原で生きる決意をする 後編

こうして八重は白菊という名を与えられて玉屋での奉公が始まった。

白菊は頭のいい子であった。

字の読み書きは同期の誰よりも早く覚え、和歌や俳句も上手く囲碁、将棋も強かった。

その一方で普段は寡黙でどこか人を寄せつけない雰囲気があった。


利発で怒られるような行動もせず、稽古は至って優秀。

しかし話しかけてもとっつきにくいし、大人からみれば生意気な小娘といったところであろう。

霧右衛門も扱いにくい性格の白菊をあまりよく思っていなかったが、見世のお職である朝霧がその才能を認めて可愛がっていたため、無碍にも出来なかった。


何より自分が女衒から買う時、上品と評価したのだ。

性格はともかく客が取れて売り上げさえ上げてくれれば文句を言う事もない。

実際、美人で頭の回転の早い白菊は客受けも良く、廻しの際には朝霧の代役もよくこなした。


廻しというのは遊女が一晩で何人もの客を相手にする事で、いくら太夫でも身体は一つしかないので一人の客を相手にしている間、他の客は当然待たされる事になる。

その間、場を繋ぐために話し相手として活躍するのが禿と新造である。


普段は寡黙でややもすると高飛車な雰囲気すらかもしだしているのだが、客の前に出ると話術に長けてにこやかな表情に変わるのだから霧右衛門も白菊の性格を読む事は出来なかった。

現代でいう小悪魔的な魅力というものであろう。

しかし客受けがいい以上、昇格させざるを得ない。

白菊が禿から新造に上がるまでにそう時間は掛からなかった。


十二歳になる前に新造に昇格させるのは玉屋でもかなり異例の事である。

普通ならそれだけ期待の大きな新造はもてはやされるのだが、白菊は新造になっても物静かで近寄り難い雰囲気も相変わらずであった。


むしろ年齢を重ねて新造になった今の方が近寄り難い雰囲気がいっそう濃くなった。

あえてそうしている訳ではなく、普段無口な彼女の性格がそういう印象を与えてしまうのだ。

白菊は朝霧にこれをどうにかしたいと相談した。


「白菊、あんたはどこか自分を冷めた目で見ているところがありんすな」


朝霧にそう言われて自分でもそうだなと思った。


「わっちは女衒に買われた時に一度死んだと思っておりんす。今のわっちは玉屋の新造、白菊でありんす。八重ではありんせん」


「ここにくる者はみんなそうでありんす。わっちもそうでありんした。わっちの方がもっと酷かったでありんすけどな」


「朝霧姐さんはどうしてわっちにこんなに良くしてくださるんでありんすか? 自分で言うのもなんでありんすけど、わっちは決して可愛がられる性格じゃありんせんのに」


「自分で言いなんすか」


朝霧は笑ってそう突っ込む。


「そうでありんすな。わっちも玉屋ここに来た時に付いた穂花姐さんが親身になってくれなんして立ち直った経験がありんす。姐さんにしてもらった恩は妹たちに繋げていくのが筋だと思ったから。でありんすかね。わっちも昔は可愛げの無い禿でありんしたからな」


朝霧は幼少時に奉公先で無実であるのにも関わらず盗みの罪を着せられて、そのお金の返済という理由で吉原に売られて来た過去がある。


玉屋に来た時には大人の男を信用出来ず、話す事すら出来ない男性恐怖症になっていた。

それを根気良く世話してくれて立ち直らせてくれたのが当時の見世のお職である穂花であった。


朝霧は穂花に感謝していたが、穂花はその後に起きた阿片事件で命を落とす事になってしまう。


「あんたは同い年の子と比べても頭がいいんでありんす。それと感情を表に出すのが苦手なんでありんしょう。それゆえに冷めた印象を与えてしまいなんすが、わっちから見れば背伸びをしているように見えなんす。


実家では長女として下の子たちの面倒を見ていたと聞きなんしたが、それも原因なのかもしれんせん。ここではあんたは妹分でありんすよ。もう少し年上の姐さんたちに甘えてもいいんでありんす」


甘えていい。

それは白菊にとって肩の荷が降り、気持ちが楽になるひと言であった。

実家にいた時も弟や妹の前では常に長女として振る舞わなくてはならず、親に甘える事など出来なかった。

それが表情に乏しくとっつきにくい印象を与える原因にもなってしまった。


白菊は初めて甘えられる姐さんに出会えた事を感謝した。

吉原に来て良かったとは思わない。

ただ、朝霧に出会えたのは何かの縁なのだろうと思った。

私がここに来たのはこの人に会うためだったんだ。


「朝霧姐さん、ありがとうござりんす」


白菊は朝霧に抱きついて感謝の言葉を言う。

生まれて初めて年上の女性に抱きついた。


「ここで生き抜いていくには強さが必要でありんす。強さというのは心の強さでありんす」


「わっちは全然強くなんてありんせん。弱いから強く見せかけているだけでありんす。もっと強くなりたいと思いなんす」


「あんたは十分に強いでありんすよ。さっき言ったようにこれからは無理をして背伸びしない事でありんす」


この朝霧の言葉で気持ちが楽になった白菊は、ここから少しずつであるが、甘えるところは朝霧に甘えて、年相応の素顔を見せるようになる。

白菊は真面目なのもあるが、表情に乏しくてそれが近寄り難い印象を相手に与えやすい。

まずは笑顔で挨拶するところから始めなんしと教えられて、少しではあるが、笑顔を見せていくようになった。


そうなれば誰もが認める美少女である。

白菊が笑顔で応対するようになってから自然と周りに人が集まりだした。

遊女には必要不可欠である人を惹きつける魅力が白菊にはあった。


白菊はこの頃から見世の清搔を任されるようにもなった。

玉屋では代々、新造がその役目についていた。

見世のお職であった朝霧や紅玉も新造時代は清搔をやって来たのもあって、清搔を任されるのは出世株と言われるようになった。


実際にはそんな事なく、単に清搔をやった新造がその後、自らの努力で太夫になっていったのだが、こうも吉原を代表するような太夫が次々と出てくると人々の噂に尾びれ背びれが付いてそんな伝説めいた話にもなってしまうのであろう。



その後、阿片事件があり、お里が新たな楼主となって朝霧は身請けされ吉原から去っていく。

新たにお職となった紅玉は事件以降は立ち直って見世を背負って立つ存在となっていった。

そんな紅玉も阿片事件の負い目があるのか、白菊には少し遠慮がちな態度であった。


紅玉は朝霧とは違うタイプの太夫であった。

どちらも美人であるのには変わりないのだが、朝霧が正統派美人とすると、紅玉は色気のある男を惑わすタイプといったところか。


紅玉は白菊を朝霧のように特別に可愛がる事はしなかったが、白菊の人を惹きつける魅力は認めていた。

笑顔を見せるようにと朝霧に言われた事を忠実に守っている白菊は、見世の人たちにもすっかり人気者となっていた。


だが、本来が人見知りの性格なので朝霧がいた頃にはあまり話した事のない紅玉と相対する時はどうしてもギクシャクしてしまう。

それに紅玉は阿片事件の際に阿片に手を染めていた。

南町奉行大岡越前の恩赦により、治療後は復帰して朝霧の後を引き継いだが、白菊は内心恐々としていたのも確かである。


「仕方ありんせん。わっちは一度は阿片に手を染めなんした。あんたがわっちをよく思っていなんせんのも承知しておりんす」


「そんな事ありんせん」


白菊は否定したが、紅玉は笑顔を見せて言う。


「無理せんでもいいでありんす。わっちはあんたが太夫になるまでの繋ぎ役に徹するつもりでありんす。朝霧さんから受けた襷は必ずあんたに繋ぐから安心しなんし」


「紅玉姐さん。。」


阿片事件で楼主であった霧右衛門が打首獄門となり、遣手婆のお里が新たな楼主となって玉屋は新しく生まれ変わろうとしていた。

紅玉は自分は霧右衛門時代最後の太夫で、次世代の太夫に白菊を後継者にするとはっきり宣言したのだ。



十四歳になった白菊はいよいよ客を取る遊女として本格的に始動する事となる。

突出しとなるための水揚げは難航したが、何とか終える事が出来た。


白菊はこの水揚げの際も無表情の人形のようであったと言う。

まったく何の反応も示さないため、相手の男はまるで人間ではなく人形相手にしているような不気味な感覚に戸惑いながらも続けた。


後にこの時、自身に催眠のような暗示をかけていたとお里に告白したという。

なんでそんな事したんだい? というお里の問いに花香はこう答えた。


「好きでもない人との行為をする自分が許せなくなりそうだったからでありんす。これも生きていくための修行だと思い、何も考えずに黙々とその作業を終わらせる事を考えたら自然にそうなりんした」


お里はそれを聞いてそんな事が出来るのかと内心驚いた。

朝霧とも紅玉とも違う。もちろん遊女時代の自分とも違う。

新しく生まれ変わった玉屋の今までにないタイプの遊女になりそうだな。

お里はそう思うのだった。


こうして白菊は遊女として散茶に格上げとなった。



「わっちは近寄りがたい雰囲気を出すのがあんたの魅力だと思いなんす。正式な遊女として客を取るようになったんでありんす。いっそ、それを売りにすればまた違った魅力の遊女として商売が出来なんすよ」


紅玉にそう言われ、白菊は新造時代の近寄りがたい雰囲気を逆に売りにして人気が上がっていった。

無論、客を対応する時には笑顔であるが、客と床を一緒にする事はなく、吉原一床入りが難しい遊女として名が知られた。

誰が白菊を射止めるのか、白菊のおゆかり〔馴染み客〕の間でも賭けの対象になるほどであった。


その紅玉も見受けで吉原を去る日が来た。


「これであんたに襷を渡す事が出来たでありんす。朝霧さんとの約束、確かに果たしたでござりんすよ」


「紅玉姐さん、ありがとうござりんす」


「次はあんたの番でありんすな。間夫まぶ〔本命〕はいるんでありんすか?」


「全くでありんすよ。こればかりはわっちの力でどうにかなるもんじゃありんせん」


「年季までまだ長いでありんすよ。それまで体に気いつけなんし」


紅玉が体に気をつけろと言った意味は白菊にもよくわかっている。

遊女は瘡毒にかかる可能性が高く、それ以外にも結核などの大きな病気にかかる危険性もある。

白菊はこの時まだ十五歳。年季まで九年はある。

それまで大きな病気をする事なく無事にいけばいいが、出来るだけ早く吉原から出られたほうがいい。

だから早く良い人を見つけなさいという紅玉なりの気遣いなのだ。



そして白菊が太夫に昇格する時が来た。

名前をどうするかとお里に言われて、いくつか候補があった中で「花香」に決めた。

理由は特にないが、本名が八重で今の名前が白菊なら花繋がりが良いだろうというだけである。

若干十六歳の太夫の誕生であった。


それからの花香は吉原はおろか江戸中でも知れ渡るほどの人気であった。

江戸の楊貴妃とまで言われる美形に頭の良さ、気立ての良さが加わって朝霧と紅玉を凌ぐ玉屋のお職として見世を背負って立つ存在にまでなった。


浮世絵は爆発的な売れ行きで出せば即売り切れという人気ぶりである。

指名すれば一晩で二百両〔約二千万円〕は下らないという金額であったが、江戸の男たちは死ぬまでに一度は会ってみたい人物として花香の名前を挙げた。



あれから六年が経ち、花香は今年〔一七二九年〕で二十三歳になる。

十四歳で突出しになってから九年が経ち、年季まであと一年だが、借金は今年でほぼ返済出来る見込みであった。


普通の遊女であれば年季前に借金が返済し終えるなどまずあり得ないのだが、花香は売り上げが断トツなのとお里が余計な借金を背負わせなかったのもあっての事だ。


借金を払い終えたら見世は遊女を抑えておく理由も権限もなくなるため、年季よりも早く吉原を出る事が出来る。

ただし、これはあくまでも契約上での事である。

現実には吉原の歴史上、花香以外に年季前に借金を払い終えた遊女などいなかった。

これも花香の伝説の一つとして語り継がれる事になるだろう。


吉原一の売り上げの誇る花香の年商は八千両〔約八億円〕近かった。

その七割を見世に渡して借金を返済すると自分の手元には年に八十両〔約八百万円〕ほどしか残らない。

しかし吉原から外に出る事のない身ではお金はあっても使う事はほとんどない。

九年間で貯めたお金は七百両〔約七千万円〕近くあった。


「このまま無事に年季を終えたらどこかでのんびりと暮らしたいでありんすね」


そんな事を考えていた花香に運命的な出会いが来るのであった。

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