花香の追憶 八重の名を捨てた少女は吉原で生きる決意をする 前編
花香の本名は八重。
八重の実家は他の遊女たちと違わず貧しい農家であった。
その年、八重の住む地方は不作続きで一家はその日の食べ物にも事欠く有り様だった。
周りの人達は野草はおろか、野犬まで捕らえて食べて生きていた。
餓死者が出ていないのが奇跡的というほどで、この世の地獄というものがあるのならまさにこれであろうという状況であった。
江戸から吉原の遊郭に売るための娘を探して各地を回っていた女衒が八重の村にやって来たのはそんな時であった。
女衒はこういった危機に瀕している農村を見つけ出してはそこの娘を買い遊郭に売り渡している。
この村で八重は幼少の頃から顔立ちのいい子で有名であった。
将来性のある顔立ちのいい少女を求めている女衒にその噂が届くのも必然であった。
八重はこの年に十歳になったばかりであった。
十歳は禿になるギリギリの年齢であるが、見込みのある少女には年齢制限が撤廃されるのが遊郭の掟であった。
女衒は初めて八重に出会った時の衝撃は今でもはっきり覚えている。
透き通るような白い肌、目はバッチリと大きく淡い桃色の唇は十歳とは思えない大人びた印象の美少女であった。
「噂に聞いてかけつけたが、こんな農村にこれほどの逸材がいるとは、俺は運が良い」
八重ほど顔立ちのいい美少女は稀である。
女衒は破格の十五両〔約百五十万円〕で八重を両親から買い取った。
「八重、すまん」
そう頭を下げる父親に八重は気にしないでといった笑みを浮かべる。
それは悲しさと寂しさが入り混じった笑顔であった。
「どの道このままじゃ全員飢え死にする事になっちゃうんでしょ? 私が江戸に行く事でみんなが助かるのなら喜んで行くよ」
八重の家は五人家族で八重の下には弟と妹がいた。
幼い二人を飢えさせないためには自分が江戸に行くしかない。
そう決意した。
そして、もう二度とここには戻って来られない事も。
田舎の農村は世間体を気にする。
娘が江戸で体を売る遊女になったなどと知られたら八重の一家はもうこの村には住めないであろう。
だが、この時八重は見てしまった。
口ではすまないと言っておきながら、女衒から金を受け取った時の父の嬉しそうな顔。
もう少し悲しげな表情をしてくれると思っていたが、その幻想は脆く崩れていく。
好きなようにどこにでも連れて行ってください。金さえ貰えれば文句はないですと顔に書いてあるなと思いながら父親を見つめていた。
八重に見られているとも知らずにしたり顔で金を受け取っておきながら、さも申し訳なさそうに八重の前に立つ父親。
そんな父の姿を見て八重は別れが辛いとも思わなくなってしまった。
母は泣いていてくれたが、それにも感情を動かされる事はなかった。
「お父さんに役者の才能があるとは思わなかったわ。今後はその才能を活かして弟たちをしっかり守っていって下さいね」
八重はたっぷりと皮肉を込めて親への別れの挨拶言葉とした。
村を出てから江戸までの道中、吉原に行けばいい着物を着られてたらふく食べられると女衒に言われても八重は信用していなかった。
「私のように貧しい農村から売られてきた女の人たちがそんな裕福な生活が出来るとは思えません。それは成功を掴めたごく一部の人たちだけなんでしょう」
十歳の子供とは思えない言葉に女衒は少し驚いたが、そこまでわかっているなら嘘は言わない方がいいだろうと女衒はその通りだと返事をした。
美人だが、妙に大人びていて悪く言えば可愛げのない子供だという印象を女衒は受けていた。
だが、それと同時に大物になりそうな予感もあった。
「俺も長年この商売をやっているが、その年でお前ほどの美人はそうはいねえ。お前は吉原にその名を残すような伝説の遊女になるかもな」
「私は自分の名が残るとか、遊女としての成功にはなんの興味もありません。家族が今の生活より少しでも楽になるならそれでいいんです」
「家族の事は心配しなくていい。十五両あれば二、三年は食うのに困らねえだろう。問題はお前の方だ。成功に興味がねえと言ったが、現実はそうもいかねえんだよ。遊郭というのはな、女が自分の腕一本でのし上がっていける世界なんだ。逆を言えば上に上がれなきゃ自分が苦しむだけの世界でもあるんだ。まあ、これは実際に働いてみればわかる事だがな」
「そうですか」
八重はそう答えるにとどめた。
女衒の言う通り、ここで八重がいくら考えてみても実際に働いてみないとわからない事が多すぎた。
吉原に着いた八重に女衒は大門をくぐる際に売られて来た少女みんなにいう言葉を八重にもかけた。
「この大門をくぐったら次にここを出られるのは身請けされた時か年季を終えた時。あるいは死んじまった時だけだ。それ以外でここを出ることはまかり通らねえ」
女衒にそう言われて八重は大門を見上げていた。
大門をくぐり抜ける事には特に感情はなかった。
ただ、目の前に広がる光景が華やかだった。
それは八重が生まれて初めて見る景色であった。
夜にこんなに明るい場所があるなんて。
私の住んでいた農村は夜になると真っ暗で何もなかった。
それまで表情をあまり変えなかった八重が仲の町通りの華やかさに驚きの表情を見せる。
「天国とはこんなところなんですかね?」
八重のひとり言のような問いに女衒が答える。
「ここは見せかけの天国だな。ただし客にとってのだ。遊女にとっては地獄かも知れねえぞ」
そう言って指を刺した方向には張見世に並んでいる遊女たちがいた。
ああ、私もあの中に座ってお客さんを取らされるんだな。
漠然とそう思ってはいたが、まだ現実として受け止めきれていない。
まるで夢のようだった。
目が覚めたらお父さんお母さんがいて弟と妹がいるいつもの家の光景だった。
。。なんてあるわけないよね。
私はもう十五両で売られたんだ。
そう思うと現実に絶望しそうになる。
八重はこっちを見ている張見世の遊女たちをひと通り見回した。
綺麗な人もいればそれほどでもない人もいる。
手前が下級遊女で奥に居るのがあの中で一番位の高い遊女だと女衒が教えてくれた。
だが、一番位の高い太夫は張見世には出ないという。
太夫は遊女の中でも別格で、張見世など出なくても客がいくらでも寄ってくるからだ。
まるで品定めをするかのようにこっちを見ている遊女たちに八重は嫌悪感を覚えてすぐに前を向いた。
「天国だろうと地獄だろうと行き着いたところで生きていくだけです」
八重の強い眼差しにやっぱりこの少女は大物だと女衒は思ったが口には出さなかった。
肝が据わっているだけでなく、この吉原で生き抜いていくための精神力がこの歳で備わっている。
〔こいつは本当に吉原の歴史に名を残すような遊女になるな。せいぜい高く売り飛ばすか」
八重が連れてこられたのは吉原でも一、二を争う大見世玉屋であった。
見世に入ると若い男たちが忙しそうに動き回っている。
何人かは足を止めて女衒に挨拶をして来た。
見世に入って左手側に楼主の部屋があり、楼主霧右衛門が火鉢の前で座っていた。
「霧右衛門さん、連れて来ましたぜ」
「ご苦労だったな。その娘が噂の八重か?」
「へい。八重、楼主にご挨拶を」
女衒に促されて八重は霧右衛門にお辞儀をして挨拶をする。
「なるほど、これは稀に見る上玉だ」
八重は当時の玉屋楼主であった霧右衛門に上品と品定めされ、女衒は百両〔約一千万円〕もの大金を手にした。
「じゃあな、せいぜい頑張りな」
女衒は大金を手にして満足顔で八重の前から去っていった。
ここまで連れて来てくれて色々と教えてくれたけど、結局あの人もお金が目当てでの親切か。
ここはそういう世界なんだと八重はあらためて思う。
「朝霧を呼んで来い」
霧右衛門の声に妓夫の若い男が反応して二階に上がっていく。
しばらくすると二階から一人の女性が降りて来た。
それは八重が今まで出会った事がない容姿端麗な女性で、他の遊女たちとは別格とひと目でわかる美女であった。
「朝霧、新入りだ。お前が面倒見てやってくれ」
朝霧が八重と初めて目を合わす。
しばらく見つめ合う二人。
これが後に太夫となる八重が唯一慕う姐、朝霧との出会いであった。
〔なんだろう? この朝霧という人からは私が今まで出会った事のない雰囲気を感じる〕
ただ綺麗なだけじゃない。ひと目見ただけで知性的な印象を感じさせる。
さっき張見世で見た遊女たちはこんな感じではなかった。
色目を使って媚びるように男を誘う下品な姿。
自分もいずれはあんな風になってしまうんだと思っていた。
それが八重の描いた初めて見る遊女の印象であったが、朝霧をひと目見た時その印象が吹き飛んだ。
他の遊女は化粧もかなり濃い目で中には白粉をしていた人もいたが、朝霧はすっぴんに近い薄化粧であった。
それでも他の遊女たちを圧倒する美麗さ。
本当に美しいとはこんな人の事を言うのだろうな。
決して男に媚びない強い意志を感じる目に聡明な顔つき。
なにより立っているだけで圧倒的な存在感。
これが太夫なのかと八重は新たな驚きであった。
同じ遊女になるならこの人みたいになりたい。
八重の中に一つの目標が出来た瞬間だった。
朝霧も八重を見ていたが、張見世の遊女たちのような品定めする雰囲気は一切なかった。
八重という娘がどんな子なのかを興味深く見ている。そんな感じであった。
八重は朝霧に見つめられると背筋がピンと伸びるような緊張感を覚えた。
「随分と目鼻立ちのいい利発そうな子でありんすな。今までの禿たちとは違う雰囲気を感じなんす」
朝霧も八重を見て普通の子供とは違う雰囲気を感じ取っていた。
「霧右衛門はん。この娘をわっちに任せてもらえて感謝致しんす」
いつもなら禿の世話を命じられると皮肉の言葉を言う朝霧がお礼を言うなど前代未聞であった。
禿の世話を任せられるというのはそれにかかる費用もすべて姐となる遊女が負担しなければならないため、嫌がる事はあっても感謝する遊女などまずいない。
朝霧にここまで言わせる何かがこの娘にはある。
近くで見ていた遣手婆のお里はそう思った。
お里も元遊女である。
朝霧同様に八重をひと目見て他の禿たちとは違う雰囲気を感じ取っていた。




