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征司が教会で暮らし始めて、半月が経過した。
礼拝の作法や牧師(仮)としての仕事内容にも徐々に慣れてきて、いくらか気持ちの余裕も出来てきた。その証拠に、征司は今のこの生活を「楽しい」と思っている。
ただ一つ、4時起きには未だ慣れておらず、毎朝苦労しているのだが……そこは目覚まし時計を5分おきに鳴らすことで、なんとか対応していた。
その日の朝は、何か特別というわけではなかった。
いつも通りの水曜日。だというのに、なぜか日咲がウキウキしていた。
聖歌を口遊みながら、朝食を作る日咲。征司はその姿を、不気味そうに眺めていた。
「……なぁ、シスター。どうしてそんなに上機嫌なんだ?」
たまらず征司は日咲に尋ねる。
「実はですね、今日私の唯一無二の親友が来るんです」
「へー、そうなのか。その親友は、定期的に礼拝に来るのか?」
「定期的に来ますけど、礼拝じゃありませんね。彼女は子供たちを連れて、遊びに来てくれるんです」
その親友は既婚者で、子供を日咲に会わせようとしているのだろうか? そんな征司の推測は、はずれる。
「私の親友、孤児院を経営していましてね。私はシスターとして、身寄りのない子供たちの心を救うお手伝いをしているんですよ」
「孤児院を経営している親友、か」
教会と孤児院。やり方は違えど、誰かを救いたいという思いは同じである。
そういった考え方の同調が、彼女たちの友情を支えているのかもしれない。
「孤児院を経営しているとなると、さぞ優しそうな女性なんだろうな」
日咲の親友なのだから、きっとそうに違いない。
しかし日咲は征司の発言に、「えーと……」となんとも煮え切らない反応を見せた。
「どうした?」
「なんていうか、その……先入観は捨てた方が良いと思いますよ」
苦笑いを見せる日咲。彼女が何を言っているのか、征司にはさっぱりわからなかった。
◇
日咲がどうしてあんなにも煮え切らない反応を見せたのか? 先入観を捨てろとは、どういうことなのか?
数時間後、征司はその答えを知ることになる。
日咲の親友が、孤児院にやって来た。
彼女の姿を見るなり、征司は声を失う。
「よう、日咲。遊びに来たぞ!」
孤児院経営な上日咲の親友でもあることから、征司はてっきり大人しめな女性を想像していた。
しかし、目の前の彼女は、大人しさとはかけ離れた場所にいるような存在で。
金髪にピアスだけでなく、あろうことかTシャツの上に特攻服を着ていた。
日咲は元ヤン全開の女性を指差しながら、征司に彼女を紹介する。
「彼女は私の親友の、桧山侑ちゃんです。孤児院では、子供たちのお母さん代わりをしているんですよ」
「お母さん代わり、ねぇ」
征司は再度侑を見る。
(お母さんっていうか、姐さんって感じじゃねーか!)
征司は内心ツッコんだ。
日咲に紹介された侑は、征司に手を差し出す。
「桧山侑だ。アンタのことは、日咲から聞いているよ。よろしくな」
「えっ? あぁ……俺は藍沢征司。こちらこそよろしく」
自己紹介して握手を交わしつつも、征司の視線は依然特攻服に注がれていた。
あまりに注視しすぎたせいか、侑もその視線に気が付く。
「もしかして、この服が気になるのか? これは高校時代のお古だ。孤児院経営も楽じゃなくてな。おしゃれな服とか、買ってる余裕ないんだよ」
「侑ちゃん、高校の頃いつもその服着てましたよね」
「あの頃はやんちゃしていたからなぁ」
「隣の高校の男子生徒数十人を、再起不能にしたこともありましたっけ?」
「あれはクズ男共が日咲に手を出そうとしたからだろ? 鉄拳制裁或いは正当防衛だよ」
人を信じすぎて仕方ない日咲が、どうして今まで無事でいられたのか? 征司はその理由がわかった気がした。
日咲の優しさに漬け込もうとする輩を、侑が追い返していたのだ。成る程、そういう関係性である。
侑だけは、怒らせちゃいけないな。征司は本能で悟るのだった。
「しかし兄ちゃん、良い体してるよな。なんかスポーツやってんのか?」
「スポーツではないが、定期的に体を鍛えている」
「それでこんなに引き締まった体をしているのか。……少し触っても良いか?」
「別に、構わないぞ」
触られたところで、減るものでもないし。
侑が征司の胸筋に触れようとした直前、日咲が「ちょっ!」と声を上げる。
「ん? どうかしたのか?」
侑が尋ねるも、日咲自身どうして声を上げたのかわかっていないようだった。
「えーと、その……あっ! 神様の前! 神様の前ですから、そういう不埒な行為はすべきでないと思います!」
今思いついたような理由に、征司と侑は「えー……」と返す。
筋肉に触ろうとしただけだ。下心もないし、不埒なことだって何一つない。
「まぁ、シスターにダメだと言われたら、そうするしかないよな。……それより、兄ちゃん、どうだ? 孤児院で働かないか?」
それは何の脈絡もない、突然の勧誘だった。
「兄ちゃん今、仕事がなくて困ってるんだろ? だったら、ウチで雇ってやるよ。アタシとしても、正直男手が欲しいと前々から思っていたんだ」
働き口が欲しい征司と、男手の欲しい侑。二人の利害は、一致していた。
「ありがたい提案ではあるけれど、それは難しいだろ? 俺の人相見てみろよ。子供が泣くっての」
「その点は心配要らねーさ。だってあいつらの母親代わりは、アタシなんだぞ?」
侑の目つきは、征司に負けず劣らず悪い。非常に説得力のある主張だ。
「孤児院の離れが空いているんだ。そこに住んで貰えば良い。勿論、給料だってきちんと出すぞ。沢山は出せねーけど」
最良だと思われた侑の申し出に異論を唱えたのは……第三者である日咲だった。
「ダメです!」
もうこの話は終わりだと言うように、日咲は二人の間に割って入る。
「教会だって、人手不足なんですから!」
「人手不足って……つい最近まで、一人で運営していたじゃんか」
「人手不足なんです!」
理屈もなければ筋も通っていない。それでも頑として「人手不足」を主張し続ける日咲。
そんな彼女を見て、侑は「ははーん」と呟いた。ニヤニヤしながら。
「成る程、そういうことね」
「……何一人でわかったような顔をしているんですか」
「アタシは親友だぞ? 日咲の考えていることくらい、全部理解したっての」
ポンっと、侑は征司の肩を叩く。
「つーわけで、兄ちゃん。孤児院で働くっていう話はなしだ」
「いや、初めから断るつもりだったし」
「そいつは良かった。もしここで泣いて残念がるようなら、半殺しにしていたところだぜ」
笑顔で指をポキポキ鳴らす侑。
どうやら征司は、理不尽に命の危機に瀕していたようだ。
◇
侑の連れて来た子供は、全部で12人。5歳児から中学3年まで、様々な年齢の男児女児だった。
大人しく受験勉強をしている中学生もいれば、活発に走り回る小学生もいる。
征司はその体格のせいで、男児たちからサンドバッグにされていた。
「おい、琢馬! 教会内を走り回るなって言っただろ! 祐馬は日咲のスカートをめくろうとするな! てめぇら、次言うこと聞かなかったら晩飯ピーマン多めにするぞ!」
いけないことは、きちんといけないと言う。教会内に、侑の怒号が響いた。
「そこは、「晩飯抜きにする」じゃないんだな」
「飯はきちんと食わせないと、成長を阻害しちまうからな。その代わり、嫌いな物をたらふく食べさせてやる」
嫌いな物は最低限で済ませたいから、子供たちも侑の言うことを聞くというわけか。案外理にかなった躾なのかもしれない。
因みに日咲は「ピーマン沢山……拷問です」と呟いている。そういえば、彼女もピーマンが苦手だった。
征司は侑の連れて来た子供たちと、すぐに打ち解けた。
子供たちが人懐っこい性格だったこともある。それと同時に、征司が彼らに積極的に歩み寄ろうとしたことが大きいだろう。
子供たちは征司の本質を見抜いたのだ。
夕食は、久しぶりに大人数での晩餐になった。
侑がたんまり用意したピーマンは、大人たちが責任を持って食べたとか。日咲に関しては、半泣きになりながら。
そろそろ良い時間だし、侑が子供たちを連れて帰ろうとしたタイミングで、雨が降り始めた。
結構な豪雨だ。まだ遠いが、雷も鳴っている。
「あちゃー、降ってきやがったか。深夜から朝方にかけての予報じゃなかったか?」
「予報はあくまで予報ですからね。……今夜は泊まって行きますか?」
「雨の様子を見て決めるかな」
「でしたら、お泊まりの方向で準備しておきますね」
そう言うと、日咲はタオルケットを取りに納屋に向かった。
日咲がいなくなったのを確認した侑は、征司に話しかける。
「実を言うとな、今日は兄ちゃんに会いに来たんだよ」
「俺に?」
「あぁ。アタシにとって、日咲は親友であると同時に恩人でもある。こんなアタシと仲良くしてくれる奴なんて、あいつくらいしかいないからな。だから、アタシは日咲が大切で。アイツには、幸せになって欲しいと思っている」
「……」
「そんな日咲から男と暮らし始めたと聞いた時は、マジで心配になった。また悪い男に騙されているんじゃないか、そう思った」
「今日はそれを確かめに来たのか?」
「兄ちゃんには悪いけどな。……でも、日咲の顔を一目見て、わかったのさ。アンタは、悪い男じゃない」
「どうしてそう言い切れる?」
征司の見た目なら、寧ろ一目見て警戒するのが普通である。最悪、通報されてもおかしくない。
「日咲のあんな幸せそうな顔を見たら、そりゃあわかるだろ? それに……」
(自分が損をしても人に優しくしていた日咲が、こいつにだけは執着するなんてな)
日咲に初めて芽生えたであろう感情のことを思うと、嬉しくなる反面寂しくもあった。
「それに?」
「いや、何でもねぇ。とにかくアタシが言いたいのは、これからも日咲をよろしくお願いしますってことだ」
頭を深々と下げながら、侑は言う。
彼女がどれだけ日咲を大切に思っているのか、征司はようやく理解出来た気がした。
「……まぁ、嫌われない限りは支えるさ」
「そうして貰えると助かるよ」
征司と侑は、笑い合う。
その時、一人の女の子が侑の服の裾を引っ張りながら、呟いた。
「ねぇ、侑先生。琢馬くんはどこ?」
◇
侑の連れて来た子供が、一人いない。そのことに気がついた征司たちは、教会内を探し回った。
「おーい、琢馬ぁ! どこにいるんだぁ!」
「琢馬くーん! いるなら返事して下さーい!」
声を張り上げて呼びかけてみるも、琢馬からの返事はない。
これだけ教会内を走り回っていないとなると、教会の外に出てしまったとしか考えられなかった。
「マジかよ……外は雨だぞ」
しかも豪雨だ。雷も鳴っている。
もし外に出たまま教会に戻って来れなくなったのだとしたら……子供一人では、危険な状況だった。
「私、探しに行ってきます!」
教会を飛び出そうとする日咲を、征司が止める。
「おい待て、シスター! 危ねえぞ!」
「でも! 琢馬くんを、放っておけません!」
自分より他人を優先する。それはシスターである以前に、東雲日咲という人間の性格だった。
「雨がやんだら探しに行こう」と言っても、彼女は絶対聞かないだろう。
それに6歳である琢馬の体力を考えると、一刻も早く見つけ出す必要がある。
「……俺が行く」
気付くと征司は、そう口にしていた。
「しかし征司さん、危険すぎます!」
「俺より先に外に飛び出そうとしていたお前が、それを言うかよ? 大丈夫。危なくなる前に、琢馬を見つけて帰ってくるからよ」
「でも……」
「ただ、これ以上子供がいなくなるのは勘弁だからな。シスターは侑さんと残っている子供たちを見ていてくれ」
そんなの、方便だ。日咲を教会に留まらせる口実だ。
だけど何かしら役割を与えておかないと、彼女は「一緒に探しに行く!」と言い出すに決まっている。
「侑さん、お願いします」
「……おう、こっちは任せておけ」
子供たちだけでなく、日咲もお願いします。侑は征司の言葉の真意を、きちんと理解していた。
日咲と子供たちのことは侑に任せて、征司は雷雨の中琢馬を探し回る。
「琢馬ぁ! どこにいるんだぁ! ……クソッ。雷と雨のせいで、何も聞こえねぇ」
それから30分。街中を探し回るものの、琢馬は見つからなかった。
一度仕切り直そうと思い、征司が教会に戻ると……なんと琢馬が、侑に叱られているではないか。
その光景を見て、征司はポカンとした。
呆然としている征司に、日咲が駆け寄ってきた。
「征司さん、おかえりなさい! お怪我はありませんか?」
「ないけど……琢馬、見つかったのか?」
「はい。食器棚の中に、隠れていました」
話を聞くと、琢馬は隠れんぼをしているつもりだったらしい。なんとも人騒がせな話である。
「本当はすぐに知らせようとしたのですが、征司さん、スマホを持たずに出て行ったみたいで」
一刻も早く琢馬を見つけないとと思っていたので、スマホを教会に置いて行ってしまったのだ。
疲労と安堵感から、征司はその場に座り込む。
「何だ、教会にいたのかよ……」
「! すみません! ずぶ濡れになる前に、知らせるべきでし――」
「良かった」
征司は恨み言や文句ではなく、「良かった」呟いた。
彼は立ち上がると、琢馬に近づいて行く。
琢馬の前に立った征司は、その頭に優しく手を乗せた。
「お兄さん、ごめんなさい……」
「坊主、もう心配かけるんじゃねーぞ?」
「……うん!」
その光景を、日咲は微笑んで見ていた。
◇
雷雨は9時頃にはやんで、侑たちは孤児院に帰って行った。
今日は色々あったな。そんなことを思いながら、日咲は湯船に浸かり一日の疲労をとる。
疲れているのは、征司も同じことだろう。なんたって、大雨の中琢馬を探しに行ったのだ。
お風呂から上がった日咲は、征司を労うべく探した。
「征司さーん、どこにいるんですかー? ……って、あれ?」
ようやく見つけた征司は、礼拝堂の長椅子で眠ってしまっていた。
「……頑張ってくれましたもの。眠っちゃうのも、無理ないですよね」
日咲は征司の側にしゃがみ込む。そして彼の寝顔を見つめた。
「征司さんって、本当に優しい人ですよね」
いつも自分のことを気にかけてくれるし、教会に来る人にも優しい。
OLの悩みには親身になるし、老婆の長い話も嫌な顔一つせず最後まで聞くし、孤児院の子供の遊び相手にだってなる。
初めて会った時は喧嘩をした直後で、怖い人だと思った。でもそれはきっと、あの時の彼の心が荒んでいたからで。
過ちは誰にでもある。主の教えではないか。
「……唇の傷、もう治りましたね」
日咲は征司の唇に触れる。
目に見える傷は塞がっても、果たして心の傷はどうだろうか? 少しずつでも、癒えているだろうか?
「私はあなたの心を救うお手伝いが、出来ているのでしょうか?」
それはほんの出来心だった。
まるで吸い寄せられるように、日咲は自身の唇を征司のそれに近付ける。
あと数ミリ接近すれば二人の唇は重なり合うというところで――ガタンと、物音がする。
その物音で我に帰った日咲は、慌てて征司から離れる。
「……ダメよ。主の前で、こんなふしだらな感情を抱くなんて」
雑念を振り解くように、胸の前で十字架を描いて。
逃げるように、彼女は礼拝堂を出て行くのだった。