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人生とは、常に一寸先は闇である。
明日死ぬかもしれないというのは些か大袈裟すぎるけど、しかしながら、日常がいつまでも続くとは言い切れない。
ブラック企業勤めのサラリーマン・藍沢征司の日常も、今この時をもって終わりを迎えようとしていた。
「藍沢くん。君、明日から来なくて良いから」
「……は?」
直属の上司から呼び出されたと思ったら、まさかのクビ宣告。征司は脳の処理が追いついていなかった。
「えーと……それは、異動ということでしょうか?」
期待を込めて、征司は尋ねる。
この会社に支社はなく、また基本的に部署変も起こらない。その為異動なんて言葉とは無縁だということくらいわかっているのに。
しかしその希望は、案の定あっさり打ち砕かれた。
「違うよ。君はクビだって言ってるんだ」
「クビ……ですか? どうして?」
営業成績は、確かに良いとは言えない。しかし毎月及第点は取れている筈だ。
それに会社に大々的なダメージを与えるようなミスをした覚えもない。
征司は、クビになる理由に皆目検討がつかなかった。
「クビっていうか、正確にはリストラだね。我が社も最近の不景気にはかなりの痛手をくらっていて、この度大規模なリストラをすることになったんだ。藍沢くんも、リストラの対象に含まれたってわけ」
淡々と、上司はクビの理由を口にする。
征司としては、自分の人生を左右することをさも業務報告のように伝える上司に腹が立った。
「この会社で働けなくなったら、俺は無職になるんですよ? この先どうやって生きていけば良いんですか?」
「君も良い大人だろう? そんなの、自分で考えなよ。私だって、自分の仕事と生活でいっぱいいっぱいなんだ。他人の人生まで面倒見ていられない」
これまで一緒に働いてきた部下を、他人呼ばわりとは。なんとも薄情な上司だろうか?
いや、薄情なのはこの会社そのものか。人をこき使うだけ使って、あっさりクビを切るなんて。
「そういうことだから、今までご苦労さん。最後の一日くらい、会社に恩返しするつもりで大きな契約取ってきてよ」
そんなの、誰がするものか。
バレないように舌打ちをして、征司は踵を返す。
「あっ、そうだ。これまで君を指導してきた身として、最後に一つアドバイスをしておくよ」
部屋を出ようとしたところで、征司は部長に呼び止められる。
「君の顔、営業に向いてないよ。怖すぎるって」
余計なお世話だ、この野郎。征司は内心吐き捨てるのだった。
◇
会社をクビになったけど、ものは考えようだ。あんなクソ会社に人生を捧げずに済んだと考えれば、いくらか気持ちも落ち着いてくる。
とはいえ現実問題、次の仕事を見つけなければ生活出来なくなってしまう。
特に征司には、同棲中の恋人・御園生真依がいる。そして真依とは、結婚を考えている。
征司の人生は、彼一人だけのものではないのだ。
「ハァ。真依に何て伝えようかな」
「リストラされました」というのは、やはり勇気がいる。それが原因で別れを告げられてもおかしくない。
しかし口ではそう言うものの、真依ならば自分を優しく励ましてくれるに違いない。征司はそう思っていた。
この日は残業がなかった為(リストラされたので、当たり前なのだが)、征司は比較的早い時間に帰宅した。
この時間なら、久しぶりに夕食を一緒に食べられるかもしれない。それだけが、最悪な一日の中でたった一つの幸せと言えよう。
「ただいまー」
征司が自宅のドアを開ける。
しかしいつものように、真依が「おかえり」と出迎えてくれることはなかった。
「……出掛けているのか?」
一瞬そう考えた征司だったが、真依の靴が玄関に置かれている為、すぐに在宅であると気づく。
おかしいなと思いながら、リビングに入る。……真依の姿はない。
トイレやシャワーにいる気配もない。となると、真依は一体どこにいるのだろうか?
征司が耳を澄ますと、寝室の方から真依の声が聞こえてきた。
「……真依?」
愛する恋人の名前を呼びながら、征司は寝室に入る。するとまだ7時すら回っていないというのに、真依はベッドの中にいた。
……見知らぬ男と一緒に。
眼前の状況が理解出来ない程、征司はバカじゃない。浮気されていたのだと、彼は悟った。
(そういえば、最近ご無沙汰だったな)
てっきり自分が仕事で忙しいせいだと思っていたけれど、どうやらそういうわけではなかったらしい。
真依の中では既に、征司はそういう対象じゃなかったのだ。
「征司……どうして?」
「いつもはもっと遅いのに、か? ……実はリストラされたんだ」
「リストラ? 嘘でしょ?」
「こんな嘘つくかよ。……次の仕事は、なるべく早く探すつもりだ。だけどどうしても、再就職するまでの期間お前に負担をかけちまう。それでも、俺の彼女でいてくれるか?」
「えっ、無理なんだけど」
即答だった。
まぁ、それもそうだろう。真依には征司の他に愛する男がいるのだ。わざわざ無職の男と恋仲である必要はない。
「ていうかリストラされなくても、その内別れようと思っていたんだよね。好きでもない人と一緒に暮らすのに、限界を感じてたっていうか」
「そこにいるのが、お前の今の好きな人ってわけか」
「うん、そう。半年前に運命的に出会ったんだ」
つまり半年程前から浮気していたということだ。
「だからこれからは、彼と一緒に幸せを掴むことにするよ。ねっ、圭くん!」
そう言うと、真依は圭くんとやらの胸に飛び込む。
そして二人は、征司に見せつけるようにキスをし始めた。
見慣れた寝室に、毎日眠っているベッド。しかしなぜだろうか? 征司には、それが自分の物ではないように思えた。
もう、ここに自分の居場所はない。ここは自分のいて良い場所じゃない。
征司は二人に気付かれないようそっと寝室を出る。
部屋の鍵をダイニングテーブルの上に置くと、最低限の貴重品だけ持って、この場をあとにするのだった。
◇
自宅を去った征司は、薄暗い路地裏を歩いていた。
仕事どころか、恋人まで失った。そして、帰る場所もない。
しかしそれは、かえって好都合だったかもしれない。今の征司は、とにかく誰にも会いたくなかった。
路地を歩いていると、正面から一人の男が歩いてくる。
人相だけなら、征司と同じくらい悪い男だった。
すれ違い様、征司と男の肩がぶつかる。
征司は男を横目で一瞥しただけで、そのまま何も言わずに立ち去ろうとした。すると、
「おい、待てよ」
男は征司を呼び止める。
「人にぶつかっておいて、「ごめんなさい」の一つもないのかよ?」
いつもの征司なら、すぐに謝罪をしていただろう。無駄な争いをするくらいなら、自分が悪くなくても謝った方が得策だ。
しかしこの時の征司は、どうかしていた。征司は男を無視したのだ。
「待てって言ってんだろ」
男は征司の肩を掴むと、その顔を徐ろに殴りつけた。
「……」
征司は無言で男を殴り返す。それもまた、彼らしからぬ行動だった。
その後互いに数回殴打を繰り返し、そして……5分後、ボロボロになった征司は建物の外壁にもたれかかって座り込んでいた。
「……何してんだろ、俺」
自暴自棄になって、つまらないことで喧嘩をする。自分の惨めさに、征司はほとほと呆れた。
空を見上げても、綺麗な星は一つたりとも見られない。それどころか、ポツポツと雨粒が落ちてくる始末。
雨はすぐに本降りとなり、征司はあっという間にずぶ濡れになった。
風邪を引いてしまうとか、そんなの今更だ。もうこのまま朝まで過ごして良いんじゃないかとさえ思えてしまう。
……いや。朝になったところで、何も変わらない。
会社へ行って仕事をしなくちゃならないのは、今朝までのことだ。
(仮にこのままのたれ死んだとしても、誰も気付かないんじゃないだろうか?)
そう思いながらゆっくり目を閉じた、その時だった。
突然雨がやむ。
何が起こったのかわからず、征司が目を開けると、
「えーと、大丈夫ですか?」
若いシスターが、征司に傘を差し伸べていた。