浮気の代償
霞は毎日訪ずれる直樹のことを、首を長くして待っている自分に苦笑を漏らす。
あの美しい妻の泰代に勝ったのだと思った。ついに、直樹を自分のモノにしたのだと思った。端正な顔と育ちの良さ、良妻賢母の代表とでも言いたそうな、潔癖な女性。直樹が、あんな女性と結婚できたことが、不思議な位だ。しかも、三流大学卒の直樹を一流企業にコネ入社させたのは、妻の父親なのだから。直樹は逆玉の輿だとも言える。
子供も男女一人づつ、中学1年生と3年生だと言う。これから子供に、お金がかかることだろう。特に3年生の長男は高校受験ということで、塾にも通っていて家は受験のために気を使っていて息が詰まるらしい。もちろん、子供ができて夫婦の営みは無くなったらしい。どこの夫婦も、子供ができたらセックスレス。男と女から父親と母親の顔へと変貌してしまうものらしい。直樹も「子供が横にいて、妻を抱く気にはなれない」とこぼしていた。
妻の父親の力のおかげで同期よりも早く昇進できた。しかし、義父は昨年、脳梗塞に倒れ、あっけなく逝ってしまった。そうなると、糸が切れた風船のように、直樹の女遊びが始まった。同じ課の霞には、以前からアプローチを受けていた。社内での不倫となれば、妻の親父の耳にでも入ったら殺されると思っていたが。もうコワイものは何も無い。
【据え膳食わねば男の恥】とも言うではないか。一度寝たら、バレるのではないかとドキドキした。しかし、家に帰っても誰も自分の変化に気づかなかった。それで、だんだん大胆になった。週末、出張だと言って温泉に泊まりがけで行った。それでも妻は、出張の用意を快くしてくれて、浮気には全然気がつかなかった。子供たちも、随分前から汚いものでも見るかのように無視していたので、いつもと変わらぬ日常があるだけだった。直樹は家族全員が自分に全然興味が無いことを改めて自覚させられて、少々キズついた。
だから、霞の愛情に溺れてしまった。寂しかったからだ。『妻が相手にしてくれないのが悪いのだ。家族が自分を邪険にするから、こんなことになったのだ。』などと、言い訳を山ほどして自分の行動を正当化していた。
霞との甘い生活。二人だけのデート。若かりし頃の、あの情熱。生活とか家族のために自分を犠牲にしなくてもいい。何も遠慮することなく、行きたい所に行くことができる幸せ。しかも、若い女性の尊敬と愛情のまなざしを受けながら。妻とも、こんなデートはしたことがない。家柄も学歴も器量も優れていて、高嶺の花だった妻と結婚できたことは、まさに奇跡。舞い上がっていた。夢のようだった。しかし、どこか卑屈になっていた。負い目もあった。だから妻の機嫌ばかりを伺っていた。霞は妻に比べれば、平凡で中の上位の器量だったが、自分よりも年齢も給料も下というのが心地良い。
特別ドキドキしたり、頑張ったりしないで済むのが楽でもある。いつも、小さなワンルームマンションで、そう豪華でも無いが家庭的な食事を用意して待っていてくれる。ビールを飲んで、甘えてくる。若いので毎回体を重ね、小さなお風呂でシャワーを浴びて家に帰るのだが、その度に「帰らないで」と切ない目ですがりついてくる。別れなければならないから、今こそこの瞬間が愛おしい。生まれて初めての体験。背徳の悦びなのか?それとも愛欲の泥沼に溺れる、これが本性なのか?
ドアを閉めると、脱落感と共に、霞への恋慕の気持ちが冷めているのに気づく。別れがあるから会っている時間が楽しいのかも知れない。終わりの無い、ずっと一緒の時間を過ごさねばならないとしたら?これほどの情熱で彼女を愛することができるのだろうか?共に白髪が生えるまで、一生を共にするのは妻しかいない。霞は、所詮浮気。一時のつまみ喰いにしか過ぎない。いつでも別れられるし、何の責任も負わなくても良いのだから。愛し合っているのだから、お金だって払わなくてもいい。変な風俗に行くより、ずっと得だ。
妻にさえバレなかったら、単なるレジャーのひとつとして、男の勲章だと思って楽しんでもいい筈だ。そんな気持ちで霞を抱いていた。さすがに疲れるので週に一度か2週間に一度に最近は減って来ている。しかし、若い霞には、それでは満足いかないようで職場でも、迫って来るようになっていた。
付き合い始めた時は、職場では微塵もそんな様子を見せなかった。誰にも悟られないよう、言葉も最小限度、仕事のことしか話さなかった。たまに書類の中にメモで【今日、ご馳走作って待ってます】などと走り書きがあることも。彼女を探すと、目が合って思わず赤面して目を伏せていたのに。今では挑戦的な目で、直樹を睨んで不満そうな顔をする。
昨夜も「奥さんやお子さん達にバラしてもいいの?」と脅して来た。ベッドの中でも大胆でサディスティックになっている。『別れ時か』と吐息を漏らす。新しく入ったばかりの女子社員が満面の笑みで「部長、飲み過ぎで二日酔いなの?顔色悪いですよ」などと言って、さりげなく栄養ドリンクを差し出してくれた。「さっきヤクルトおばさんが来て、営業の男の人が、みんな買っていたから。部長さんにと思って買っちゃいました。」と言って飲むよう勧めてくれる。直樹は遠慮なく頂いて「ご馳走様、おかげで元気が出たよ。今度、お礼にご馳走しないとな」と笑顔で言うと嬉しそうに「本当ですか?嬉しい。部長はウチの部署では人気者だから。他の女の子に嫉妬されそう」などと言う。
霞のおかげで男の色気が出てきたのだろうか?最近、若い女子にモテる。霞も30歳になった。少々しわが立って来た。肌の張りも、急に無くなって来た気もする。妻の康代が40歳になるのだが、最近霞との年齢差を、あまり感じられないのは何故だろう?半年も付き合うと、女房気取りで妻との離婚を強要し始めた。心が病んでいるのかも知れない。妻も女性独特のホルモンバランスの乱れとかで鬱になっていた頃があった。
そういう時は、【触らぬ神に祟りナシ】と、できるだけ顔を合わせないようにしている。そういえば霞の家にも、ご無沙汰している。2回ドタキャンしてしまった。そこから行くのがコワイ。逃げようとすると追いかけて来るのは犬だけではないらしい。
若い女の子を誘ってイタリアンに行った。気分が晴れないからだ。霞といくら体を重ねても最近は、愛も感じない。あのドキドキ感は、初めての浮気で、いつバレないかと心穏やかではなかったからなのだろうか?小さな部屋で、「どうして来てくれないの?私のことが嫌いになったの?」などと責められては、興醒めだ。恋人はいつも夢を与えて欲しいものだ。皆には秘密の許されない恋なのだから。その点は、わきまえて欲しい。30歳にもなると、いや25歳も超えると男は、いきなりセックスアピールを感じなくなる。どれだけ若く見えても、フレッシュな卵の臭いでも嗅ぎ分けているかのようだ。
直樹は、もう子供ができては困るのだから、関係無いのだけど、40歳過ぎた女には、やはり興味が無い。いくら泰代がアラフォーとかで魅力的でも、熟女好みの男なら別だが、やっぱり女は若い方がいい。入社したての女子に手をつけたら、さすがに問題になりそうだが。2人きりで飲んでいたら、やたら挑発的で驚いてしまう。思わずホテルの部屋でも取ろうかと思ったが、霞の姿を見てその気が失せた。「あら。部長、もう新人の女の子を口説いているんですか?隅におけないですね」と皮肉を言われた。「いや。ちょっと、お礼にね。仕事にも慣れた頃だろうしね」と言って誤魔化した。新人女子は霞のことを気にもかけず、無視していた。声をかけるスキも見せないので霞は首をすくめて何事も無いかのように去って行った。「あの人、部長さんの愛人って本当なんですか?」と聞かれて戸惑った。「だって、女子の間では有名な話ですよ」と言ってカクテルをお替りした。「そんな噂が広がってるの?」とおそるおそる尋ねる。「だって、奥様が会社に電話して来て、部長の出張先の電話番号を聞かれた時、部長と彼女の2人だけ有給取ってらして、問題になったことあったんですよ」と。「いつのこと?」と聞くと「2か月前のゴールデンウィークの時あたりだったかしら?会社はイベントで、皆出勤してたのに、2人だけ行方不明だったから。携帯も繋がらなくて、聞きたいことあったのに絡取れなくて困ってた時だったので、皆のウワサになってましたよ」と。
顔から血の気が引くのを感じた。「知らなかった。誰も何も言ってくれなかったから」と言うと。「奥様もですか?」と聞かれる。道理で、最近妻が避けるようになって、元々会話は少なかったのだが、ほとんど無視されていたワケがはじめてわかった。「さっきの彼女さんも知っていますよ。ってか、彼女が言いフラしているんだから」と言われて唖然とした。「私、部長さんに入社した時から憧れていたから、彼女のこと許せなくて。すいません。出しゃばったこと言って」と目を伏せた。「いや、いいよ。ありがとう」と言うと肩に頭を寄りかからせて「あんなに美しい奥様がいらっしゃるのに。どうして浮気なんて。それも、あんな平凡で、普通のオバチャンなんかと」と二十歳なりたての若い女子の言葉は残酷だったが的を得ていた。
ラインが入った音がした。見ると霞からだった。「待ってます」との一言が痛いたしかった。「ごめん。もう会えない」と返事をした。そして、電源を切る。「誰からですか?彼女?」と言う女の耳元に「今日は帰さないよ」と言った。
まるでスポーツでもするかのように、麗奈と抱き合い、今はシャワーを浴びている。若々しい体にはたるみのひとつも無い。長い足、大きな胸、引き締まったウエスト。「ずっと、抱いて欲しかったから。夢みたい」と彼女は泣いた。色気は無いが爽やかで純粋で、明るく元気なので調子が狂ってしまう。それでいてセックスには馴れているのが少し気になった。『アバズレだったのか?可愛い顔をして。男の扱いに慣れ過ぎている。バイトでキャバ嬢でもやっていたのでは?」などと疑惑が頭をもたげる。しかし、快楽に、そんなことはどうでも良くなっていた。『詮索するのはよそう』と今、目の前にある幸せに酔って妻のことも霞のことも忘れたかった。
朝起きると麗奈の姿は無かった。電話番号の交換した覚えなどなかったのだが、ラインに麗奈から「同じ洋服で会社に行くワケにはいかないので、一旦家に帰って着替えて来るね。昨夜は楽しかった。また、誘ってね」とハートマークまでついていた。思わず苦笑して、そのメッセージを消去した。勝手に携帯を覗かれたと思うと不愉快だった。ロッカーに置いているブレザーとネクタイだけ換えて席に着いた。
霞の顔は曇っていた。目の下にはくまがあった。年齢よりも随分老けて見えた。それに比べて、直樹の方は若い女性から精気をもらったのか?顔色も良く、若返った気がした。しかし、社内の皆が霞との関係を知っていると思うと気が滅入った。
その日は、麗奈と社内では会うことは無かった。そもそも総務の麗奈が営業部にいたのは珍しいことだった。久しぶりに後輩たちを飲みに誘って探ってみる。「なんか、社内の女子が良からぬ僕のウワサをしているらしいけれど、誰か知ってるか?」と明るく聞いてみた。「ウワサですか?」と頭をひねりながら豪快にビールで乾杯をした。酔いも進んで来た時、「部長は若い女子たちにもモテるからいいですね。僕も、あやかりたいです」と言ってビンビールをつぎに来た。「そうですよ。あんな美人の奥さんもいるのに。愛人あちこちに作っているって本当なんすか?」と若い入社したての広瀬という新入社員が絡んで来た。
「お前も、早く昇進することだ。常務も社長も美人秘書とやり放題なんだから」などと言う不埒な中堅営業マンの早川が言うのには直樹も驚いた。「女は権力と金が好きすからね」と広瀬が投げやりになって酒を追加注文する。【君主色を好む】とばかり、愛人の一人や二人がいるのは、男の甲斐性とばかり、羨ましがっている。モテてる直樹は男性社員の羨望の的のようだ。ドロドロした愛憎劇など、想像すらしていないようだった。
直樹も、酒の力も借りて、妻に浮気がバレたことなど、たいしたことではないような気がしてきた。『帰って、土下座でもして許してもらおうか?』などと楽天的にに考えて鼻歌交じりに家に帰った。カギを開けると、家の中は真暗で、ほとんどの家財が亡くなっていた。あるのは直樹のベッドに布団、コンピューターがデスクの上にポツンとあるだけだった。電話も外されていた。電気はついたが、お湯を沸かそうにも台所は綺麗に片付いていて何も無かった。驚いて妻の携帯に電話をかけたが通話拒否になっていた。もちろんラインもメールも届かない。実家の方に電話をしたが夜遅いせいか、誰も出ない。
お風呂に入りたいがタオルも無い。そのまま下着姿になって布団の中にもぐりこんだ。とにかく飲み過ぎて、眠りたかった。
次の日は土曜日だった。ゆっくり眠っていたら、カギが開く音がした。妻かと思ったら、知らない男が何人かの人を引き連れて入って来た。「何事ですか?勝手に他人の家に入って来て」と怒鳴って布団にくるまれる。「あっ。奥様から聞かれてはいないんですか?この家は売りに出されているんですけど。僕は不動産会社の者で、ここの物件の売買を任されているんです」と名刺を差し出された。「ちょっと待ってくれ。何も聞いていない。何かの間違いだ」と言うのも聞かずに「ともかく、買いたいというお客様がおいでなので、早く着替えて外に出て行ってくれませんか?」と言われた。
仕方なく、コンピューターとカバンをかかえて外に出た。「このベッドとテーブルは、昼間に引っ越しセンターの人が取りに来るって言ってましたよ。その後は、カギを変えるよう言われていますので、もう勝手にここへは入れませんから、忘れ物など、ありませんように」と、くれぐれも言われた。「このベッドや布団は、どこに運ばれるんだ?」と聞いても首をかしげるだけだった。
とにかく腹がへったので近くの喫茶店のモーニングを食べに行くことにした。妻の実家に電話をする。誰も出ないので諦めて直接行くことにした。電車で40分の横浜の山の手にある家のはずだが、見当たらない。葬式も葬儀会場でやったので、考えてみると、ここ数年行ってなかった。だから、家があった場所に大型ショッピングセンターがあるのには驚いた。カジノ構想もあって横浜の町も様変わりをしていた。では、妻の実家は、どこに移転したのだろう?そんなことも今まで気づかなかった。それだけ夫婦間に会話が無かった証拠だ。そういえば、何日家に帰っていないのだろう?出張する前に霞の家に泊まって、大阪に2泊して、そのまま麗奈の若い肉体に溺れて、5日間留守にしていた。妻の様子も変わりは無かった。仕方ないので、もう一度家に帰って、引っ越しセンターの人が来るのを待った。「そのベットは、どこに送ることになっているんですか?」と荷物を運ぶ引っ越しのアルバイトらしき若い男性に声をかけると、不審がられた。「ここの住人なんです。家に帰ったら家具も何も無くなっていて、妻とも連絡がつかなくって、どうしたら良いのかわからなくて困っているものですから」と言うと荷物を降ろして伝票を見せてくれた。「これは、大型ゴミの収容所みたいですね」と同情して言った。
直樹の実家は岡山だった。だから実家に帰れるワケも無く、会社近くのカプセルホテルに宿泊することにした。ネットでウィークリーマンションなどを調べてみる。しかし、すぐ妻の居所がわかるかも知れないので当分は便利がいいのでカプセルに泊まることにした。
霞には別れを告げてしまったので、麗奈にラインしてみる。しかし、既読がつかない。妻のことを知っている友人知人を住所録で調べる。子供達の携帯の電話番号があった。登録した覚えはあったが、一度も連絡したことなどない。電話をかけてみた。どれも通話拒否。「お繋ぎできません」と言うガイダンスがかかる度に殺意すら感じる。腹立たしい、連絡ひとつなくて、この仕打ちはひどい。
コンビニで歯ブラシや下着やソックスを買う。出張用の下着は全て汚れているのでお風呂に入った後に洗濯をする。カプセルホテルは案外何でもある。ユニクロで私服とジャージを買うと荷物がかさばり始める。仕方ないので会社のロッカーに入れておく。ネクタイと上着を交互に換えて数日誤魔化していたが、さすがに霞も気づいたようで「家に帰っていないの?」と聞いて来た。「いや、帰ったら家族も家具も全部消えていて、どうして良いかわからなくてカプセルホテルに泊まっているんだ」と泣き言を言っていた。霞に頼るのは、お門違いだと思ったが、誰にも相談できない。いや、相談できる友人すらいないのに今回のことで気づいた。「別れた私には関係ない話ね」と霞も薄ら笑いをしていた。「行ってもいいかい?」と聞くと「ダメ。奥さんに棄てられた直樹さんには興味無いもの。私、気がついたの。あんな美人な奥さんが好きになった人だから、きっと素敵な人だと思って魅かれていたのよね。でも、妻の父親のおかげでコネ入社して、その七光りで出世できただけの貴方が、この会社でこれ以上の出世なんてしそうもないし。離婚したら、きっと窓際族よ。いい気味」と言って、あざ笑われた。『そのうち連絡あるに違いない。何なら中学に行って、住所を調べたっていいんだから』と思っていた。しかし、中学でも転校先は教えられないと言われた。
そして、弁護士から離婚調停のために出廷するよう連絡があった。「妻に会わせて下さい」と言っても「暴力の危険もあるので、本人同士は顔を合わすことはありません」と告げられた。そして、長い長い離婚調停が始まった。お給料も差し止められて、子供の養育費と離婚までは生活費を払うように言われた。弁護士費用をケチったおかげで相手の言い成り。年収600万円のほとんどを持って行かれては、自分の生活費は無くなってしまう。どれだけ安い物件でも東京なら6万円はする。女の所に転がり込むにもお金も色気も無い。
仕方ないので会社の仕事の後にも副業としてバーテンダーをはじめた。これが結構社交的な直樹には合っているようで、深夜や朝まで働いていることも多いので、バーの控室で寝泊まりするようになって生活もギリギリできるようになった。あのモテ期だった1年ほどの日々が、それでもなぜか誇らしい。美しい妻がいたことも、若い愛人がいて20代の女子とも関係を持ったことなどなど。確かに妻への裏切り、父親としては最低な男だった。
しかし、ある日突然、姿を消して二度と会えないくらいのひどい仕打ちをされるほどのことはしていないのでは?結婚してからの貯めていたお金もローン返済途中だったにせよマイホームまで取り上げられて成す術も無かった。そして、これからも。健全な未来を夢見ることすらできない。コネで入った会社の収入は、ほとんど差し押されているので自由なお金はほとんど無い。しかし、そこを退職することもできないで窓際族でも毎日通勤している。
たいした仕事をしているわけでもないので、できるだけ早くお店に出て稼がなければならない。アル中寸前だったが、このバーのマスターに拾われ助かった。
離婚は上の息子が就職するまでは、しないらしい。両親が離婚していると差し障りがあるかも知れないからだ。しかし、店に来ている弁護士に聞いたら、離婚したら生活費がもらえなくなるのでしないのでは?」と言っていた。養育費だって高校生まででいいらしい。大学には、お金がいるとかで高い金額を請求されている。
どこに住んでいるのか知らないが、妻は大学時代、テニスしていたので、テニスクラブで教えているとか。そのテニスクラブで知り合った裕福な男性にアプローチされていて、結婚が決まれば離婚届けを出してくれるだろうとのこと。離婚届けは妻が持っていて、いつ出すのかも妻次第。生活費が免除されたら随分暮らしも楽になるだろう。もう妻には何の未練も無い。だから、早く誰かと結婚して幸せになって欲しいと願っている。そして、早く働き、罰のような生活から解き放たれたいと願っている。
(妻との再会)
調停の日、妻を見かけた。結婚していた時とは全然違い、若々しく美しくて目を疑った。「久しぶり」とガマンができなくて声をかけた。妻は目に恐怖の色を映して「調停中は接触してはダメなのを知らないの?」と怒った。「家に帰ると、もぬけの空。あんまりじゃあないか?僕が今、どんなにひどい状況にあるのか?知らないとは言わせない」と、こちらも、強気で応戦してしまった。そんなことをするつもりは無かったのに。子供のことだって聞きたかった。今、どこでどうしているのか?教えてもらいたかった。なのに、口から出た言葉は攻撃的だった。妻の嫌悪に満ちた目に、ショックを受けたせいだ。
妻は美しかった。だから、余計に鋭い目も透声での罵倒も迫力があった。「あなたが長年浮気していたことを知らないとでも思っているの?父が亡くなったら私のことなど役立たずとでも思っていたんでしょう?母も介護が必要になって、大変だった時、相談にも乗ってくれないで、女と温泉三昧。浮気女からもいたずら電話は毎晩かかって来てノイローゼになっていたのに。子供だって、受験でただでさえナイーブな時に、父親不在で家は無茶苦茶。それを訴えると、家にも帰って来ない。もう、たくさん。もう愛せない。子供のために耐えようと思ったこともあったけど。私に愛情が無い夫と一緒にいるのは、子供のためにも良くないと思ったから。誠意を見せてください。そして、二度と私たちの前に姿を見せないで」と叫ぶように言った。「一度、会ってゆっくり話をしよう」と低い声で言うのが精一杯だった。その騒ぎに気付いたのか?弁護士らしき男が走って来て、妻を守るかのように立ちふさがった。「困るよ。勝手に会ってもらっては。」と怒って妻に「何もされなかった?」と優しく慰めるように言っていた。妻は涙を流し、弁護士に付き添われて建物の中に消えて行った。『あの二人はできてるんじゃないか?』と邪推した。法廷では、慰謝料3千万と子供の養育費と生活費の20万円を大学卒業するまで出すように言われた。
ネットであらかじめ調べていたので、浮気の慰謝料なんて、せいぜい200万円位だと知っている。そこに、精神的なものとかを配慮して、この数字なのだと言われた。妻の弁護士からは「本来5000万円請求したいところだが、まけてやる」とまで言われた。こちらに
弁護士がいないのをいいことに言いたい放題だ。弁護士費用はかかるが、こんなに大金を請求されるなら、弁護士に相談しようかと考え始めていた。それを察したのか、「とはいえ、養育費も、ここで決めても払わない夫が多いので、どうです?あなたの銀行口座を調べさせてもらいましたが、1千万近くの預貯金がある。株も、いくらか所有されているようだが、奥様やお子様には、受験や入学金や授業料など、差し当たって現金が入用なので。養育費の20万円と慰謝料として1千万円頂ければ、奥様は生活費はいらないと仰っています。これで、手打ちの方が、互いに後腐れ無くていいんじゃあないですか?」と言われた。「普通、浮気での離婚の慰謝料の平均金額は200万円くらいだと聞いてますが。あまりに、ぼったくりではないんですか?」と反論してみた。「慰謝料と夫婦の共同資産を半分頂くので、その金額になるのですよ。保険とか株などは、あなたの資産になるのですから」と言われた。「家を売っただろう?その利益は、どうなるんだ?」と色々と勉強して来たので聞いてみた。「あの家は6千万円で売れましたけど、ローン返済と不動産売買にかかる様々な経費を引いたら、むしろマイナスでした。忘れてた。その分も払ってもらわないと」とかえってヤブヘビになってしまった。「しかし、売る権利は妻には無いでしょう?僕は、家を失って、住むところも失くして、カプセルホテル住まいだ。僕の洋服も家財も返してくれ。違法だ。訴えてやる」と言うと鼻で笑われた。「どうぞ、それを証明して訴えて、結果が出るのは何年後でしょうね。時間もお金も半端なくいる。そして、たとえ勝訴しても、奥さんたちには払えるはずがない。住む家を売ってまで、あなたに恨みを抱いていた奥様の気持ちが、おわかりですか?」と言われるとグウの音も出ない。「これ以上、長引けば長引くほど、お金と時間を浪費するばかりですよ。離婚届けも出せないし。そうなると、今までどおり、生活費をお給料から差し引かせてもらうことになりますから。その方が、奥様たちにとっては、得になると、おすすめしている位ですから。もっと言えば離婚しないで、別居したまま生活費だけは払い続けてもらってもいいんですよ。でも、そうすると、あなたの生活は成り立たないのでは?私たちも多くの離婚訴訟をタッチして来ましたが。離婚時に、まとめてお金で整理された方が、将来修羅場が少なくて済む。もう、元のサヤには戻れないのですから。まだ若いうちに清算して新たな人生を互いに進んだ方がいい」と人の好さそうに言われて納得してしまった。「子供たちには会うことはできないんですか?」と聞くと「会いたいんですか?お子様たちは、会いたくないと仰っていますが。それでも、今は怒りで、そうおもっているだけかもわかりません。お父様が会いたいとの伝言はしておきましょうか?携帯電話の番号は変わってませんよね。その気になったら、お子様の方から連絡するように言っておきます。ただ、今はお二人とも受験が控えていますので。多分無理でしょうね」と言われた。長男は大学受験。長女は高校受験だと、はじめて気がついた。神経質そうな子供たちのイラついていた顔が目に浮かぶ。「そうでしたね。受験が済んでからでいいです。もう2人とも、大きくなって父親なんてうっとうしいだけでしょうから」と、苦々しく言って、大きなため息をついた。離婚届けも出して、夫婦は他人になった。
チラリと見えた妻は、今更だが惜しいくらいイイ女だった。『逃がした魚は大きい』と思った。愛人たちは、あんなに美しい妻だったので、自分に興味を持ったと言っていた。『こんな人の、どこがいいのだろう?』と興味を抱いて関心を持つうちに好きになってくれたと言っていた。妻というブランドが入っているから自分は価値があっただけなのかも知れない。それが証拠に、あれから会社でも外でも全然モテない。仕事も昇進どころか左遷。『妻はアゲマンだったのか?仕事もプライベートも順調だったのは、妻のおかげだったのでは?』と思うと『幸運の女神に見放されたのだ』とあきらめるしかない。
小さくて狭いバーの上にある休憩所を宿として、何も持たないし女もいないのに、男は何故か幸せだった。妻との思い出、幸福な家族との時間。女にモテて、愛人を何人も作り、仕事も順調だった。あの頃に戻れないのはわかっている。しかし、たいした大学を出たワケでもなく、才能や頭脳があったワケでも無い時分には夢のようなひととき。確かに、そんな日々があったことが、誇らしかった。そのうち、子供も成長し、結婚し、孫も生まれるかも知れない。
確かに自分のDNAが、どこかで引き継がれている。いつか、出会えるかも知れない。独身で子供もいない同僚たちに比べると、子供がいるだけ未来を信じられる。たとえ嫌われていようと。二度と会いたくないと思っていても、親子なのだから切っても切れない。
田舎に親戚や両親もいない。どこかで孤独死しても、だれも困らない。しかし、払い続けている養育費だけが子供とつながっているという絆を感じていられる。
今日も、夜の仕事に疲れ切った女が一杯のカクテルやお酒を求めてカウンターに座っている。愚痴や弱音を聞いて、優しい言葉とリクエストに沿ったオリジナルの味でもてなす。たまに女に誘われたりもするが、恋の終焉は、いつも修羅場。お金と体力を取られてしまうので、なかなか億劫になる。
「お酒は飲めないの」と少しグラスの中のドライマッティーニを嘗めて顔を赤くしていた妻との初めてのデートが、ふいに目に浮かぶ。もう二度とは会えない。手から飛び去って行った、美しい、そもそも僕とは別世界の女。あの時だけシンクロした奇跡。ずっと続くと思っていた家族の団欒。すぐに、また他の女と設けると思っていた家庭。何十億人もの人々がいて、出会えた奇跡。自分のところに選んで生まれて来てくれた2つの命。あの日、強制終了された人生の断崖に立ち、彼岸に見える家族の笑顔を信じている。とんでもない浮気の代償。それを払うほどの価値は、あの女たちとの浮気にはあったのだろうか?後悔しても始まらない。生きていれば、きっとまた運命の女神は微笑むかも知れないのだから。