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1アビーの結婚

星読みの守り人になるには、試練を乗り越えなくてはならない…

一 カルミスの街


オネストがあんなに荒れるのを見て、バルザンは、いやな予感に襲われた。


だいたいの想像はできても、いつも冷静な彼しか知らないから、バルザンは、心から驚いた。


夕べ傷ついた様子で帰って来て、そのまま大酒をして、床に付く頃には、顔色が酷く悪かった。


バルザンがいくら聞いても、何があったのか言おうとしない。


兎に角、明日、ついてくれば分かる、と言ったきり、不機嫌な顔でふてくされている。


男同士の長旅だから、喧嘩になることもあるだろうと覚悟はしていたが、こんなに険悪な関係になってしまうなんて、思いもよらないことだ。

一晩眠ったら、仲は治っているはずだが、今朝は、朝飯の食卓に、オネストの姿はなかった。


心にとげを残したまま、出かけたくはないのだが、俺にも今日は大切な日だ。

オネストを助けてやる余裕はないだろう。


バルザンは、部屋に帰り、帰りの荷造りを始めた。


どんな結果が出ても、今日で旅は終わりだ。アニタに、自分のすべてを見せて、それで受け入れられないなら、諦めるしかないのだから。


旅に出る前は、胸に満ちていた自信は、今は、跡形もなく崩れ去ってしまった。

自分が役に立つのは、周りの大人達が、そうなるように使ってくれるからだ、自分の力じゃない。


どうしようもなく、悔しいが、それが本当の事だと気がついた。


そろそろ、オネストの様子を見に行ってみるか。

そう思ったとき、オネストが、バルザンのドアを叩いた。


バルザンは、オネストに対して、もう怒りの感情を持ってはいない。

しかし、オネストの顔を見て、笑顔を見せられるかどうかは、少し疑問だ。


だから、顔が合わないように、下を向いて、気分はどうだと聞いた。


最悪だよ、と答えるオネストの声が、いつもと変わらないと分かって、バルザンは、母を見つけた迷子のように安堵した。


年下のオネストを、子供だと思っていた自分の方こそ、ガキもいいところだ。


謝りたいが、それは出来なかった。


「アニタに会いに行く前に、昨日、何があったのか、話してくれないか?俺たちは、運命の友だろ?お前の事を信頼出来るから、旅立ちに誘ったんだ。お前は、俺を信じてくれないのか?」


オネストは、少し申し訳なさそうな顔をした。

それはもう、いつものオネストだった。


「初めは、大したことじゃなかった。泣きそうな、情けない顔を、アルタミスに見られたんだ。泥だらけになって、必死になって、諦めたとき、アルタミスに見つけられた。彼女は、好意を示してくれたのに、俺の方から断ったんだ。なんてバカなんだろう」


バルザンは、傷ついて帰って来たオネストを、殴ったと言うことだ。


オネストにしたら、散々だ。けれど、まだ終わった訳ではない、俺たちはまだここにいる。


「俺がバカだった。お前の話も聞かないで。けれど、まだ終わってないんだぜ。二人ともまだここにいる」


バルザンが、なんとか元気づけようとしても、オネストは、二日酔いが抜けきらないらしく、気のない返事しか返さない。


「頭が痛いのか?ゆっくりしろよ。少しくらい待たせる位がありがたみがあっていいのさ。誰にとってもいい方法なんてないけど、俺はあきらめないぜ」


少し眠れといわれて、オネストは、正直助かった。


アルタミスとの約束は、朝だが、オネストは、歩くのさえつらかったのだ。


「少し寝るよ。酒に酔うなんて、久しぶりだな。両親と、血の繋がりがないと、初めて知った時以来だ」


オネストは、行水をしたいらしく、着替えを持って、宿の裏に向かった。


バルザンは、二人の娘を、どうやって、口説こうか、テラスの椅子にもたれて、考えている。


戦士が養うことを許されるのは、妻と、妻の召使いが一人だ。


召使いは、妻が望んだときのみ許される。


アニタと、その娘がどんな関係なのか、今はわからないが、その手を使うしか無いだろう。


バルザンは、持って来た金塊をもう一度かき集めて、二つに分けた。


初めから、二つの家に、渡す場合もあると、意識していた。

だから、オネストよりも、三倍は重い金を持って旅を続けて来た。


この金塊で、願いが叶うなら、一つも惜しくはない。

金塊は、働いていれば、貯まっていく。

それに、俺たちは、まだ若いんだ。


バルザンは、宿の食堂に、豆の暖かいスープを頼んで、オネストの部屋をノックした。


元気のない返事が聞こえてきて、オネストがドアを開けた。


「おい、これを食ってから休めよ。昼になったら起こすから、ゆっくり眠れ」


オネストは、何か話そうとしたが、バルザンは制して、部屋に帰った。


そして、オネストが持っていた雪薔薇の腰布と、両親と血の繋がりが無いことの意味を考えた。


やはり、素直に考えるのが一番いい。


オネストが、時期国王なのかどうかは、想像するしかないが、少なくとも、その候補の一人であることに間違いない。


バルザンは、かけ替えのない友人を取られたような寂しさを感じた。

寝転んで、天井を眺めている。

オネストは、自分の運命を知らないはずだ。

俺は、なにをすればいい?


バルザンは、星読みの父が、いつも言っていた言葉を、噛み締めた。


自分の中にある宝を見つけよ。

神から授かった、幸福への鍵だ。

たとえ価値の無い物に見えても、疑ってはいけない。


バルザンは、この切ない感情が、その宝のような気がする。


父が、床から起きられなくなった時、聞いてみた。


「父さんの宝ってなに?」


教えてくれなくてもいいや、と言う気持ちで聞いたのだ。

宝物なら、簡単には教えてくれないだろうと、思ったからだ。


父は、とても嬉しそうな顔で、お前だと言った。


バルザンは、びっくりして、顔を紅くし、ぼくの宝は父さんだと言った。


父は、ただ、大きな声で笑うだけだった。


しかし、それからのバルザンは、嫌いだった歴史の勉強も、大嫌いな弓の稽古も、周りの大人が驚くほど頑張った。


父の言葉が、バルザンの中に、大きな勇気の種を植え付けたのだ。


そんな時、バルザンにとっては、大得意の、剣術の道場で出会ったのが、オネストだった。何となく気があった。


それに、バルザンは剣が得意であり、オネストは大弓が得意だった。


互いに負けず嫌いだったこともあり、彼らは、互いに、得意を教え、苦手を習って、友情を育てて行ったのだ。


しかし、性分は、全く違う、オネストは、おっとり構える、どちらかと言えば、他力本願。

バルザンは、自分の力で成し遂げなければ気が済まない自信家だ。


オネストは、少し年上の自信家に憧れ、バルザンは、明るく優しいオネストに、慰められた。


十五になって、職を選択する時、オネストは、父親と同じ戦士の道を選び、バルザンは、父とは違う戦士の道を選んだ。


オネストは、引退した王族の屋敷の護衛に決まり、バルザンは、最も優秀な戦士が選ばれる、王宮の警護に決まった。


五年の付き合いで、互いの事は、本当に良く知っている。


オネストは、落ち込んでも、それでへまをするような、やわな男ではない。

見た目の美しさに反して、頑丈な奴なのだ。

このまま一人で帰るような地味な終わり方は、想像できないと、バルザンは思った。


バルザンは、親友の事を考えて、大らかな気分になった。

寝床に転がり、目を閉じると、それまでの疲れで、深い眠りに落ちて行った。


アルタミスは、弟に彼から渡された綺麗な布を渡した。

弟は、初めから欲しがっていたし、アルタミスは女だから、使い道がなかったのだ。


しかし本当は、昨日見かけた、イルバシット人の彼を、見つけて欲しい気持ちがあった。

弟は、銀食器のご用聞きをしている。

気に入っている腰布を渡せば、きっと、見せびらかして回るだろうと思ったのだ。


思った通りに、弟を見つけて、イルバシット人が、あらわれた。


しかし、彼は、訳の分からない言葉を並べたまま、怒って帰ってしまった。


いったい何だって言うのよ!

こっちから声をかけてあげたって言うのに。

アルタミスは、今度現れたって、口なんか利いてやるもんかと、ムキになっていた。


だから、彼が、アニタの名前を出したとき、ワザとあと十日滞在していると言ったのだ。


本当は、風や天気の関係で、いつ出発してもおかしくないのだ。


少なくとも、今日中に来なければ、彼女の両親を説得する事は出来ないだろう。


なかなか現れない彼を、じれじれしながら待っている事に、アルタミス自身は、気づいていなかった。



アニタは、昨日、アルタミスが、知らない男と話しているのを見ていた。


きっと、あの美しい腰布の男だと思ったから、話しを聞くのを楽しみにしていたのに、帰って来たアルタミスの顔は、何かを怒っているようだった。

だから、何も聞き出せすに、今日になってしまったのだ。


「ねぇ、アルタミス、昨日の人、あの腰布の人じゃないの?秘密にするなんて怪しいわ。私も話したのに、教えてよ」


アニタの一家は、明日には、故郷へのキャラバンが始まる。

女の子同士の話しが出来るのは、今日限りだと思って、自分から、切り出したのだ。


アルタミスは、びっくりしたけれど、でも、アニタにも関係あることだし、いいきっかけだと思って、話し始めた。


「アニタまで、そんな風におもしろがるなんて!あの人おかしいのよ!こっちから声をかけてあげたのに!何だかわけの分からないことを言って、帰っちゃったの。そういえば、アニタの事を知らないかって、あなたの名前を言っていたわ。あなたの探している人は、白人なの?」


アニタは、アルタミスが、何かに傷ついているのだとわかった。

その人の連れが、バルザンだとしたら、会って話したい気がしたのだが、傷ついたアルタミスを、慰めたいと思って、心とは違う事を言った。


「その人の連れが、私を追いかけて来るイルバシット人だとしても、待たせ過ぎだわ!アルタミス、二人で隠れてやりましょうよ!」


アルタミスは、アニタが味方になってくれたことが嬉しかった。


それに、ただでは素直になれなくて、アニタの提案に乗る事にした。

オネストに対して、下手に出たのに、彼が、怒り出した事に、腹が立ったのだ。


この辺りは、旅人に分かる地形じゃないから、椰子の木の実を落としてしまえばいい。


アルタミスは、アニタに持たせたいと父親に言って、五本の椰子の木のうち、三本の椰子の実を落としてしまった。


その上、アルタミスの家の入り口に掛けてある、布の長暖簾の色を変えてしまったのだ。


あの人にとっては、致命的に違いないと、アルタミスは思った。


バルザンは、緊張の続く旅の中で疲れていた。

だから、天井を見つめているうちに、つい本当に、眠ってしまったのだ。


バルザンがはっとして目覚めたのは、もう、昼を回って、小一時間経ったころであった。しかし、もう行くべき場所はわかっているし、今日は、顔をみるだけでもいいと思っていた。


バルザンは、オネストのドアを叩いた。

オネストは、さっぱりした顔で、出て来て、バルザン頑張れよと言った。


オネストも、荷造りは終えていた。

そして少ないけれど、良かったら使ってくれと言って、一袋の金塊を出した。


「わかった、その金は、預かって置くよ、金塊で、何とかなる時には、貸してもらう。じゃぁ案内してくれ」


二人は、少し広い、オネストの部屋だけを借りて荷物をまとめ、少し腹ごしらえをして出かけた。


オネストは、それほど遠くはないから、すぐに着くさ、と言って、すっかり元気だ。


「入り口に、暖簾がかかってるだろ?これは、赤と黄色の太陽だった。そして、裏庭の五本の椰子の右から二番目に実がないんだ。特徴はそんなとこだが、昨日の今日だし、忘れてないさ」


オネストの言うとおり、一度曲がっただけで、アルタミスの家は見つかった。


椰子の様子や、暖簾の柄は変わっていたが、間違いはないと言う。


辺りを見回すと、昨日の少年が、オネストの腰布をつけて、働いていた。

どうやら配達にいくらしい。


「アニタが、その家にいるかは分からないが、間違いないから、聞いてみろよ」


オネストは、自分の役目は終わったとでも言うように、近くの石に座って、通りを行く人達を眺め始めた。


バルザンは、女の子の気持ちが分かるわけじゃないが、昨日と、家の様子がかわっているのは、あまりいい事じゃない。


明らかに、嫌われていると言うことか?


バルザンは、ここで引き返すわけにもいかず、意を決めて、暖簾の内側に、挨拶の声をかけた。


出て来たのは、あの時、バルザンを、乗せてルーコ川を渡ってくれた、あの子の父親だ。


たどたどしいアラビア語で、娘さんは、いますかと聞いてみる。


娘さんの、友達のアニタに会いたい。と言ってみる。


娘の話しではないとわかって、父親は、表情を柔らかくした。


頷いて、なにやら手振りで、ヒラヒラとやっている。

きっと、二人して、化粧品か、服か、何か探しに行ったのだろう。


俺達が来るとわかっていて、お出かけとは…


ますます、立場が悪い事を、認識させられる。


ここにいても、埒があかないので、バルザンは、肩をおとしながらも、オネストを伴って、その場を去る事にした。


まだ、話をした訳じゃないさ。

きっと何かしら誤解があるからだ。

そう自分を勇気づけるが、勇気なんかわいてはこなかった。


オネストは、変な顔をしたが、娘達がいそうもない事が分かるので、バルザンに従って、イルバシットで待っている親類への土産を探す事にした。


やはり、織物か、銀食器がいいだろう。

その話が父親の耳に入ったのか、かれは、敷物や、暖簾や、銀の水差しや、皿、スプーンなどを出して来た。


急に、にこにこと、商売人の顔になる。

オネストは立ち去りたいらしいが、バルザンは、この人の娘も、連れて帰ろうとしているのだから。


「やはり、アラビアの品は、細工が細かいな!この花挿しをもらおう。それから、この膝掛けもな、金を計ってくれ」


金を袋から出す時に、中が見えたらしく、ますます上等な品を進められたが、バルザンは、最初に選んだ品を包んでもらった。


花挿しも、膝掛けも、母親への土産だ。

弟には、腰布の留め金を買った。


思ったよりも、良い品が見つかった。

運のいいこともあるんだなと、バルザンの顔は、少しほころんだ。


「娘は、オアシスだ。友達のキャラバンのために、水を汲みに行った。多分、友達のアニタも一緒だろう」


話しをすれば、バルザンの優しさや、真面目さは、通じるのだった。



同じ、アラビアの顔を持っているバルザンには、親しみが湧くのだ。


しかし、彼に気に入られても、アニタとの絆がどれほどの物なのか、頼りない。

バルザンは、愛想の良いところを見せておくにとどめた。

そして、オネストと二人、オアシスに向けて、その場を離れた。

「俺は、女の子の気持ちなんか分からない。でもな、お前は、アルタミスって娘を怒らせたんだ。それは間違い無さそうだぜ。いったいなにをしたんだ?」


少なくとも、もう一度会いたいと思い、花嫁の候補と考えた大切な人に、こんなに嫌われるなんて、冷静で大人しいオネストを知っているバルザンには、信じられないのだ。


「そんなこと、嫌われるような事は、何もしてないさ、ただ今年は、金も沢山は持っていないし、来年また来るって言ったのさ。もっと、立派な戦士になって、褒美の金塊を沢山貯めてね。このままじゃ情けなくてさ。」


バルザンは、なんと言えばいいか分からない。

アルタミスは、ついて行く気になっていたんだと、はっきり言ってやった方がいいだろうか?


なんだか、これで、自分が振られたら、バカらしくて涙も出ないだろうと思う。


それに、来年まで、アルタミスが独身だとは限らない。


明日、別の男に口説かれて、嫁に行くかも知れないんだ。


「おい、そんなに、悠長に構えていて、後悔しないと思うのか?アルタミスが来年の夏まで、独身でいると、誰が言える?」


バルザンは、また腹が立って来て、そう言った。


「鈍い奴だな!彼女は、お前について行く気になっていたのに」


オネストは、分かっているさ、と言う顔で、バルザンを見た。


「あの腰布の所為さ。父が王族の庭の警備をしていたとき、譲り受けたものだ。棚にあるのを、黙って持って来た。ロメロって名前がはいってる。そんなものまで利用しようとするなんて、自分で情けないよ」


バルザンは、父親の腰布で、女が振り向いてくれるなら、それでいいじゃないかと思ったが、その事は言わずにおいた。


バルザンにとって、大切な友人が、国王となって、バルザンのいる世界から離れて行くことは、もう無くなった。


オネストが国王の候補だと思って、一人で悩んでいたバルザンは、少し気分を軽くして、晴れやかな笑顔をなみせた。


「お前が、時期国王の候補だったらと、気が気じゃなかったよ。俺は国王の友達だと言えないのは、少し残念だけど、でも良かったよ。お前と、話が出来ないなんて、想像出来ないからな」


「君にだけは、言っておくべきだった。心配させて悪かったな。アニタに会ったら、君のことは、精一杯応援するよ」


オネストは、すっかり気持ちを切り替えていて、もう落ち込んだ様子はなかった。

かと言って、げんきなわけじない。


バルザンは、アルタミスも一緒に連れてかえる思いつきを、捨てる気はまだない。

どうしても無理なら諦めるしかないが、でも、連れて帰りたいと思い続けていた。


「それじゃ、そろそろオアシスに行ってみよう、アルタミスの父親が嘘を言って無いとしたら、一本道だから、行き違いになることはないはずだからな」


バルザンは、期待よりも、大きくなろうとする不安と戦いながら、無理やり笑顔を作った。

イルバシットの戦士は十六で大人だ。


しかし、急にそう言われても、まだ弱さを沢山持ったままだ。


バルザンは、オアシスに向かいながら、弱さに飲み込まれそうな心を必死に、奮い立たせた。


本当に、アニタを求めているのか?

もう一度自分に聞いてみる。


トルコの約束の街で、アニタの髪飾りを見つけた時、胸が痛んだ。


待っていてくれたアニタを傷つけたと思った。

そして、必死に追いかけて今、ここにいるのだ。


バルザンは、あの時の胸の痛みを、意味のある事だと思った。


そして、不思議なほど、アニタへの気持ちを信じる事が出来た。


自分はまだ財産らしい物も持たないし、戦士としても、まだ経験は少ない。


男としては、まだ半人前だ。

しかし、心の中には、アニタへの思いが沢山詰まっていた。

だから、アニタを思い出す度、高鳴る胸を、信じるしかないと思うのだ。


初めは、ただ可愛いと思って話しかけた。


トルコでの、待ち合わせも、恋い焦がれての事ではなかった。


アニタは可愛いし、行商人の娘だから、愛想がよく、頭の回転も良い。

だから、自分の花嫁に、ぴったりだと思っただけだ。


しかし、トルコの街で、行き違いになった時、いたたまれないほど、切なかった。


アニタに会えたなら、この切なさは消えるのだ、そう信じてずっと、探し続けていた。


そして、今、オアシスを目指している。


胸が高鳴る。

アニタに会いたい気持ちと、振られるのが怖い気持ちが交錯する。


やがて、向こうの方から話し声が聞こえて来る。

坂の頂点に着くまで、顔は分からないが、聞こえて来る声には、聞き覚えがあった。アニタと、あの時会った、アラビア人の娘、アルタミスに違いない。


バルザンは、高鳴る胸を落ち着かせるために、目を閉じて、大きく息を吸った。


どうか、話しが出来ますように、アニタが、再開を喜んでくれますように。


バルザンは、そう願った。


頂点に達する頃には、アニタの声をはっきりと聞いていた。


バルザンは、いたたまれなくなって、坂の上まで駈けあがった。


そんな事で、息が切れる筈はないが、バルザンの息は、上がっていた。


坂を登り終えた所で、坂道の下を臨むと、彼女達は、楽しそうにしゃべりながら、登って来る。



まだ子供かと思えるほど、二人とも小柄だ。

椰子のみの水筒を二つずつ抱えて、はしゃいでいる。


バルザンは、まだ遠くにいる二人の元まで下って行った。


足音を聞いて、驚いたように二人が顔を上げた。


バルザンは自分でも分かるほど、情けない顔をしていた。


しかし、バルザンの口からは、自然に、いつもと変わらぬ声が出るのだった。


「アニタ、やっと追いついた。随分待たせて悪かったな。用事が済むまで、街で待っている。少し話しをさせてくれないか?」


アニタは、直ぐには返事を返さなかった。


ツンとした顔で、バルザンを追い越して歩いて行く。


バルザンは、一度話し始めると、もう弱気にはならなかった。

しかし、ここには、アルタミスもいるし、押し続けるのも余りいい方法じゃないと思った。


だから、アニタの背中に向かって、話を続けた。


「アニタ、怒らないでくれ。旅立ちの日は、自分では決められない。今年は人数が多くて、初めての者たちは、最後に回された。それだけのことなんだ。アニタ、用が済むまで、街の金細工屋でまってるよ。必ず来てくれ。待っている」


アニタは、僅かに振り向いたように見えた。


さっきまではしゃいでいた少女達は、急にしずかになって、足早に、坂を降りていく。


オネストは、岩陰にでも隠れたらしく、姿が見えない。


バルザンは、オネストを探しながら坂を降りていく。


崩れかけた廃屋から、オネストは出てきた。

何か言いたげな顔をしている。


しかし、バルザンはあえて聞いた。


「オネスト、このままでいいんだな?後悔は、したところで何にもならないぜ。気が変わったら、金細工屋に来いよ。アニタとそこで会う事にしたんだ」


バルザンは、アルタミスが、辺りを探す様子を見せたのを、見のがさなかった。

アルタミスも、オネストを待っているんだ。

それは間違いない。


オネストがどう出るとしても、バルザンは、やはり、二人とも連れて帰りたいと思った。


重い責任がかかるのは分かっている。

肝心のアニタの機嫌も損ねてしまって、実現出来る可能性も低くなった。


それでも、バルザンは、諦めずに知恵を絞った。


冷たい態度は、アニタの期待を裏切った所為だ。


もうすぐ二人で会える、そして、話が出来る。

そうすれば、また笑顔を見せてくれるさ。


バルザンは、元気を取り戻したオネストの後ろを歩きながら、どうして、いつもこいつは、大事なところでは、こうやって立ち直るんだろうかと、頭をひねった。


「バルザン、おれはお前の応援をしに、一緒に行くよ。初めからの約束だからな。アルタミスの事は、もう少し考えてみる」


オネストは、育ちの良い若者らしい、爽やかな笑顔で笑った。


「お前って奴は、肝心な時は、逃さない奴だな。アルタミス嬢は、お前を探していたぞ」


オネストは、見ていたらしく、にこっとしたが、言葉は発しなかった。


父親の腰布を持ち出した事が、後ろめたいのだろう。


バルザンは、硬く緊張した背中をほぐす為、肩を回している。


「君も緊張する事があるんだね」


オネストは、笑いをこらえ、下を向いた。


「お前って奴は、気楽すぎるぞ。ひとを笑う余裕があるなら、もっと頭を捻って彼女の事をかんがえろよ」


オネストは、首を振りながら、


「あの腰布を、うまく使えるなら、君の為に使っていいぞ、あの紋章が王家の物だと言うことは、アラビアの民にも伝わっているからな」


バルザンは、布の事なんか気にするなと言っておきながら、使えと言われると、ためらった。


「気にするななんて言ったけど、やっぱり気になる。悪かったな。もしも、すごい名案がうかんだら、使わせてもらうよ」


先を歩く二人は、左に曲がった。


バルザンとオネストは、アニタが来てくれることを信じて、街に戻った。


金細工屋は、白い暖簾を下げている。


バルザンは、少しだけ、金塊を金に替えた。


アニタが来てくれたら、髪飾りか、腕輪か、何か贈りたいと思ったからだ。


日の光は、少し、赤みを増して、傾き始めたことを商人達に告げている。


今日はもう余り時間がない。


二人は、椰子の実を買って、喉を潤しながら、期待の薄い待ち人を待っていた。


あの若者は、イルバシットで会った時よりも、なんだか少し優しげで大人しく見えた。


アニタは、母親が、あの人は必ず来ると言った事を思い出していた。


「どうして見つかったのかしら。椰子の木も、暖簾も換えてやったのに」


アルタミスは、不思議でならない。

しかし、二人がオアシスに出かけたことは、家族しか知らないんだから、誰かが教えたのだ。


誰かが来ても、何も教えないでって言って出かけたのに。


アルタミスは、黙ったままで、歩くアニタの同意を求めたが、アニタは、そわそわして、頼りない。


「アニタ、どうする気?なんだか、大人しそうな人」


「そんなの分からない。アルタミスだって、あの人を探していたじゃない。会って話をするくらい、なんでもないわよ。断れば、それで終わりなんだから。試しに一緒に行ってみない?あの人もいるかも知れないわよ」


「ついて来てって言うなら、別にいいけど、私は、あの人がいても、話なんて無いわよ。だって、訳が分からないんだもの」


アニタのキャラバンは、もうすぐギリシャに向けて、出発する。

今日心が決まらなければ、アニタも加わって帰るのだ。


アニタの母親は、娘のそわそわとした、浮き立つような様子を見て、別れの近いことを予感した。

すでに、旅立ちの準備は整い、隊長の合図を待つばかりだ。


故郷に帰り着くと、夏の暑さがおさまるまでの間、キャラバンは長い休暇に入る。


仲間達が皆ウキウキとしているのは、故郷に帰った後の休暇を楽しみにするからではない。


その長い休暇の後に、何を感じるのか、すでに分かっているからだ。


新たなキャラバンへの期待。

新たな旅立ちへの胸騒ぎ。

止まる事よりも、旅を選んだ民族の一番の楽しみ。


大いなる旅立ちの日を迎える喜びが、この先に待っているからだ。

ウキウキとした気分は、キャラバン全体に広がっている。



このキャラバンには、若い男女は沢山いる。

皆、旅の間に、仲良くなって、休暇の間に結婚する。


タリキスは、キャラバンの中でも、女の子達に人気がある。

気さくで、頭も良いし、どの子に気があるのか分からないほど、みんなと仲がよい。


それに、隊長が後見人だから、年頃の女の子達は、いつも、彼の周りで、ヒラヒラとしている。


アニタの友達も、彼の周りに集まるから、アニタも、彼の周りをうろうろした事がある。


しかし、この町に着いてからは、キャラバンのいる広場から離れていた。

アルタミスの家の裏庭に、テントを張っているからだ。


アニタは、化粧をし、香水をつけ直して、アルタミスを誘うため、テントを出た。


そこへ、タリキスがやって来た。

出発の日を知らせに来てくれたのだ。

アニタは、にこりとして言った。


「いよいよ、故郷に帰るのね!知らせをありがとうタリキス」


アニタは、父親に、その知らせを届ける為、踵を返そうとした。


しかし、タリキスに阻まれて、アニタはその場に止まった。


「アニタ、これを、君を想い描きながら調合したんだ。使ってくれたら嬉しい。帰りのキャラバンでは、ゆっくり話がしたいな。それじゃ明日ね」


アニタは、隊長の書いた日時を眺めながら、さっきとは違う心と、香水の瓶を持って立っていた。


タリキスの自信を、アニタは嫌った。


アニタも自分の周りをヒラヒラする女の子の一人だと思ったのだ。


イルバシットの彼は、不安そうだった。

肩に力が入っていて、笑顔でもなかった。

だけど、彼は、アニタを追ってここまで来て、そして、今もただ待ち続けている。


アニタの腕を掴んで、話を進めたタリキスとは、違う人だ。

彼が今、どんな顔で自分を待っているのか、アニタは見たいと思った。


しかし、旅立ちの日時を見ると、明日の日の出とある。


もしも彼を選ぶなら、家族と過ごせるのは、後僅かと言うことだ。


アニタの胸はまた揺れた。


自分で、どうしたいのか、はっきり分からない。

イルバシットの彼の事は、断ろうと思っていたのに。

今は、彼の顔を見たいと思う。


アニタは、父親に知らせを渡すと、アルタミスを誘い街へ出かけた。


アルタミスは、アニタの手にある、香水の瓶が気になった。


それに、さっきとは、顔つきも違うのだ。

なんだか元気がない。


「アニタ、さっきの人、旅立ちを知らせに来たんでしょう」


「えぇそう。明日の日の出に出発よ。この腰布の事、聞いてみるわ、あの若い方の彼は、身分の高い人かも知れないから…」


「それどうしたの?上げる訳じゃないんでしょう?」


アルタミスは、黙っていられずに聴いてみた。

アニタは、にこりとして、その瓶をアニタに渡した。


「どんな香りかしら?アルタミスにあげるわ。同じキャラバンのタリキスにもらったの、帰りのキャラバンでは、話をしよう、ですって。私の腕を掴んだのよ」


アニタの様子がへんなのは、その人の所為なのか。


アニタの元気がないことも、すごくいやだけれど、今一番気がかりなのは、アニタが、これから旅をして帰る場所だ。


アルタミスは、親友が、遠い国に行って仕舞うのがいやである。


それは、さっきのイルバシット人が好きか、嫌いかではない。


一年に何度か、会えるのを楽しみにしているのに、それも叶わなくなるのが嫌なのだ。


互いに、寝食を共にすることも、一緒に働くことも、楽しい。


そんな友達は、そうそう出来るものじゃないと思うし、とても大切に思っている。


きっとアニタは断る。さっき会うまでは、アルタミスはそう思っていた。


でも、今、アニタは、彼に会うのを楽しみにしている。

そう言う顔で歩いている。

次の交差点を左に曲がると、金細工屋の白い暖簾が見えるはずだ。

アニタもアルタミスも、ただ不安を抱いて、ゆっくりと歩く。


二 アルタミスとオネスト


イルバシットの城門は固く閉じられてしまった。


総勢十人に満たない、小さな集団が、下り坂をゆっくりと下って行く足音は、もう聞こえなかった。

アリシアは、もう泣いてはいない。

青い薔薇が、ムスタシエラに渡った事を聞いた時、崩れそうになったけれど、泣いている余裕は、今のアリシアには、無いと分かっている。


国王にも、王妃にも、申し開きをしなくてはならない。


ムスタシエラと、勝手に結婚の約束をしたこと、その事を、誰にも言わなかったこと。


そして、ダリアンに止められなければ、城門の外に出ようとしたこと。


第一王女としては、許されざる事だ。


ひとまず、事なきを得たが、父も母も、深く傷つけてしまった。


アリシアは、ダリアンに伴われて、自分の居室に戻された。

外には、ダリアンが立っているのが分かる。


一度、メリナが、ロザンを伴って、やって来たが、通してはもらえなかった。


何をしても、今夜は眠れそうもない。


離れた時から、急に、ムスタシエラの事が、心配になった。


彼は今も、毒を盛った犯人と一緒にいる。


アリシアの戦士、ロクサンを、共に付けたものの、心配でならなかった。


ロクサンは、植物の毒にも、鉱物の毒にも、広い知識を持っている。

そして、戦士としては、刺剣の達人である。


きっと、ムスタシエラを守ってくれると信じているが、常に、不安が付きまとう。


再び彼の顔を見るまで、胸の騒ぎは、消えないだろう。


月が昇る頃、食事だと、ダリアンの声がした。

振り向かず、アリシアは、ずっと窓辺で月を見ていた。


あのダンスの夜、彼は、月が好きなんだと思ったからだ。


心が変われば、月の色も違って見える。

彼はそんな事を言っていた。


今夜も、見上げているのかも知れない。

だから、アリシアもずっと見ている。

月の美しさを感じる事が、ムスタシエラとの繋がりだと思えた。


テーブルを振り返ると、そこにいたのは、アルタミスだった。

食事を置いたダリアンが、何も言葉を発しないのを不思議に思ったのだ。


「お母様…」


「アリシア、独りきりの食事は寂しいわ。メリナは王と一緒よ。さあこちらに来て、今日の糧をいただきましょう。月へのお祈りは頂きました」


アリシアは、母の優しい声に促されるように、月の光に別れを告げて、テーブルについた。


「アリシア、今日は、王子の話しはしないわ。それは、王と三人の時にしましょう、今夜は、私と王の話。アルタミスとオネストの話をしに来たのよ。オネストと言うのは、王の剣に刻まれている、幼き時の名前。王が王宮に戻るまでの名前よ」


「お母様とお父様の話?」


アリシアは、肩に入っていた力をため息と共に抜いた。


「アリシア、私は、あなたの母親なのよ。そして、王は父親です。あなたが怯えるような事が起きる筈は無いわ。この夕餉を覚えている?王子様が初めて食べた、あの満月の晩に出された物と同じよ」


アリシアは、王子を見送ってから初めて、心からの微笑みを浮かべた。


「カキス湖の鱒は、本当に美味しいわ。豆も、羊の肉もアラビアの方が上だけれど、この鱒だけは、イルバシットが上だわ。お嫁に行っても、きっとこの味は覚えているわよ」


アリシアは、鱒を頬張った。

こういう時には、スプーンもフォークも出てこない。


昨日の、朝食の、あの騒ぎの後で、またこんなに楽しい食事が出来るなんて、自分は幸せなんだと思う。


アルタミスは、大皿の料理を平らげて、ワインを飲み、十四才の少女だったころの話を楽しそうに始めた。


アニタは、曲がり角の手前で止まってしまって、動かなかった。


アルタミスは、アニタの横顔を見ながら、しばらく待っていたが、しびれを切らして、角から顔を出して、向こうを覗いて見た。


「アニタ!いたわ!二人で、椰子の水を飲みながら、待ってるわよ。どうするの?」


アニタと話しをしているうちに、アルタミスは、彼らに見つかった。


バルザンは、待ち人がやって来るはずの路地から、あの女の子が顔を出したのを見逃さなかった。


「オネスト、彼女が来たぞ。路地の向こうに隠れてしまった。こっちから会いに行こう」


バルザンは、オネストにそう言った割には、足が動かなかった。


「そうしよう。さぁ行こう。君の気持ちが伝わらないなんて、俺は考えられないよ。あの時の髪飾りを持っているだろ?それに水差しも」


「アリシア、私は、彼に、会いたかったのよ、きっと、王に恋をしていたんだと思うわ。胸が痛いのを、どうすればいいのか、分からなかったの。だから、彼の所為にしたのよ」


アルタミスは、ワインを飲みながら、アニタの目の中の、恋の色を見た。


アリシアは、城門が閉まってからずっと、今にも泣き出しそうな目をしている。


あの日の自分と同じように、どうしてこんなに胸が痛いのか分からない、そんな目の色だ。


「でもね、私は恋をしているなんて気づいていなかったのよ。だから、王には、ずっと冷たかった。こんなに苦しいのは、オネストが、勝手に帰るといったからだ。私はそう思っていたの」


アルタミスが、ワインを注ごうとすると、ダリアンが、給仕をしようとした。


同じ部屋の、柱の陰に隠れて、二人を警備しているのだ。


「ダリアン、ありがとう。でも、あなたは、柱の陰にいて頂戴。今夜は、あなたにも、王にも分からない、内緒の話し。女の子の話しをしているの」


アルタミスは、自分のグラスに自分でワインを注いだ。



アリシアは、なんだか、心が軽くなっていくのを感じていた。


罰を受け、両親との仲も、険悪になって仕舞うのだと覚悟していたのに、待っていたのは、母アルタミスとの、暖かくて、濃密な時間だった。


アルタミスは、美味しそうにワインを飲み干すと、再び話し始めた。


バルザンは、固くなった体を、腰掛けていた石段から無理やりひっぺがして、アルタミスが覗いた路地に向かった。


少し遅れて、オネストも続いた。


しかし、路地を覗いても、二人の少女の姿はない。


買い物をする奥さん達に睨まれ、若者達はたじろいだ。


追われれば逃げる。

単純な関係性で、隠れただけで、二人とも、逃げる気なんかなかった。


近くの仕立て屋に潜り込んで、外をうかがっていると、二人の若者は、そこを通り過ぎ、二軒先のサンダル屋に入った。


アニタとアルタミスは、出るに出られなくなった。

それでも、盗賊ゲームの盗賊になって逃げているようで、とても楽しい。


仕立て屋の主人は、通り過ぎる若者達を見た時、イルバシット人か!と言って、首を振った。


「お嬢さん、奥に隠れていなさいよ。こんな可愛らしい娘さんをさらいに来るなんて、本当に図々しい奴らだ」


二人の少女は、折角の楽しみを取り上げられたように、少し不服そうな顔で、奥に押しやられた。


奥には、大きなテーブルがあって、その近くには、素晴らしい絹の布が巻かれて置いてある。


ここは、庶民には縁遠い店のようだ。


アルタミスは、雪薔薇の腰布を出して、置いてある絹織物と比べてみる。


生地の美しさも、厚さや色も、素晴らしくて、自分の手の中にあることが信じられない。


織物に見とれていると、女将さんが、ミルクティーを持って来てくれた。

店の裏に行く通路があって、竈があるらしい。


女将さんは、アルタミスの手にある腰布に興味があるらしい。


「その腰布はどうしたんだい。ずいぶんいいものだし、この紋章は、イルバシットの王家の物じゃないか」


アルタミスは聞いた。


「小母さん、やっぱりそうなの?」


「あぁ間違いないよ。王様の使う物には、皆ついているんだよ。当人に間違いないさ」


アルタミスは、どうしても確かめたくなって、おっとりしているアニタのカップを無理やりテーブルに置くと、彼女の手をつかんで、外へ飛び出した。


「アルタミス、どうしたの、私、迷っているの、あなたや、両親と別れるのが、やっぱりイヤだわ。それに、今すぐお嫁に行かなくたって困らないし…」


「私もよ、お嫁には行かないけれど、話はしてもいいでしょ。この布のこと確かめなくちゃ」


アルタミスの手にある腰布は、光を浴びると、きらきらと輝いた。


ルーコ川の向こう側で、彼が振り回した時、すごくきれいだったのを思い出す。


辺りをそっと見回すと、彼らが持っていた椰子の実が、紅茶屋の前に置いてあった。


その店に入るのも、気が引ける二人は、約束の金細工屋の前にこっそり戻りそこで待つ事にした。


石段があって、座るのに丁度良い。

二人は、ドキドキする胸を静めるため、並んで座り、深呼吸をした。


店の営業には、迷惑かも知れないが、金細工は、通りがかりのお客を相手にはしていないから、怒られはしないだろう。


夕焼けにはまだ間があるし、アルタミスには、時間がある。


しかし、アニタは明日の夜明けには、キャラバンを始める。

少しずつ日が傾くと、アルタミスは、じれじれし始めた。


路地からは、市場帰りの女将さん達しか現れない。


アルタミスは待ちきれずに立ち上がった。

オネストの腰布をばさりと広げると、頭の上に持ち上げて、辺りを駆け回った。


あの日弟に頼んだ時と同じように、この腰布には、皆の目を引きつける力がある。


大人達は、噂ばなしをすぐに始めてくれた。


アルタミスは、アニタの元に戻って、あがった息を整えた。


「アニタ、彼の事、私応援するわ。だってあの人、いい人そうだもの。本当はイヤだったの。あなたが遠くに行って仕舞うこと。でも、今度は、私が会いに行けばいいのよね」アルタミスの息が収まった頃、路地から、情けない顔の彼らが現れた。


彼らは、少女達を見た途端に、立ち止まってしまって、近づいて来ない。


アルタミスは、アニタの手をとって、若者たちの元に歩みよった。


「まったく、遅いんだから!もうすぐ、アニタは、帰るんだからね」


アルタミスは、バルザンの目を見つめて、言い放った。


「兎に角どこかに座って話そう。トルコで待たせたのが一番いけなかった。キャラバンの旗印も忘れたし、君の父さんの名前も忘れた。でもこうして会えた。俺はうれしいよ」


若者の目は涙で輝いていた。

アニタの表情が、少しつまらなそうなのが気になったが、二人になれば、変わるに違いないと思った。


近くの紅茶屋に席が開いたのを見つけて、二人をそこに座らせた。


オネストは、やはり、昨日とかわりなく、固い表情のままアルタミスに、家まで送ろうと言った。

アニタは、アルタミスの家に帰って来るし、それに、アルタミスがここに残っても、アニタの人生を決める事は出来ない。


だから、オネストの言う事を聞く事にする。


「私は先に帰るわ、あなた、アニタをちゃんと送りなさいよ!」


アルタミスはバルザンにそう言うと、アニタに微笑んで、きびすを返した。


アルタミスは、オネストの後を、黙ったまま歩いた。

彼の背中は、思ったよりも大きくて、

背も高い。

ルーコ川で会った時、こんなにたくましい人だったかしら。

アルタミスは、オネストの腰布を弄びながら、ついて行った。

一言も話しをしないのに、アルタミスは、イヤじゃなかった。


けれど、腰布の事を聞いてくれるはずのアニタはいないから、アルタミスは、また、彼の腰布をブンブン振り回した。


「その腰布は、僕の物じゃない。父さんの物でもないんだ。父さんが若い頃、王族の宮殿の警備をしていた。その時に、王族の子供を助けたんだ。その褒美としてもらった物だ」


アルタミスは、目のさめるような謎解きを聞いて、すっきりしたし、安心した。


アルタミスは、腰布を差し出して、


「これ返すわ。とても大切な物よね。お父様は、あなたの活躍を、期待してるのね」


アルタミスがそう言うと、オネストは、少しうなだれた。

少し待つと、彼は、いかにも話しにくそうに、しゃべりはじめた。


「これは、我が家の家宝なんだ。ここに名前のあるロメロって人がどんな人かは、父さんしか知らないけれど、優しくておおらかな人なんだろう。兄弟で、この人みたいになりたいって。このロメロって人は、我が家では、上に立つべき人の代表なんだよ。僕は、その大切な品を、黙って持って来た。卑しい事をした。だから、君をつれて帰るのはよしたんだ」


「これは、君に預けて置く。もしも、待っていてくれたなら返さなくていい。もしも、他に意中の人ができたなら、返してもらうよ。それでいい。ぼくはまだ、君の人生に責任が持てるほど、強くはないんだ」


アルタミスの胸は切なさに高鳴って、オネストの言うことを聞こうとはしなかった。


「あなたの国には、神様がいるの?きっと、あなたの国の神様は、あなたを許すわ。あなたは、清らかな人、一つも卑しくなんかない。悲しそうな顔をしないで」


オネストは、初めて、アルタミスの顔を見た。


アルタミスの、瞳を見てしまったら、帰れなくなると思っていたからだ。


オネストは、自分を抑える術を見いだせずに、ただ、アルタミスを抱きしめた。


アルタミスの熱が、直に伝わって来て、もう離す事ができなくなった。


オネストの心は、川を渡り終わった時から、この、褐色の肌をもつ少女を見つめていた。


彼女が、目の前にいない時にも、心の中は、アルタミスの事で、一杯だった。


「アルタミス、太陽や、月が、僕を許したとしても、僕は自分を許せないよ。やっぱり、僕は一人で帰る。頑固な意地っ張りだ。それは分かっているよ。でも、どうしても、そうしたいんだ」


アルタミスは、オネストが心を変えたのだと勘違いした。


一緒にいられると、喜んでいた。


だから、期待は、大きな怒りにかわった。


「どうしてなの!好きだったって言ってるのがわからないの!オネストのバカ!あなたを待ってなんかいないわ!」


アルタミスは、悔し涙に濡れながら、走り出した。


暗くなりはじめた細い路地を、アルタミスは思い切り走った。


涙が飛び散るほど、思い切りだ。


オネストは、何にも分かっていやしない。

恋心には、羽があるのに。

今を逃したら、二度と捕まえられないかも知れないのに。


アルタミスは、細い路地を選んで、走った。

オネストの顔も、声も、今は嫌だった。

オネストをまいて仕舞うつもりだ。


しかし、オネストは年上の戦士だ。まいたように思っても、いつのまにか追いつかれた。

それに、アルタミスは泣いている。


家が、見え始めたとき、アルタミスは、腕をつかまれた。


「アルタミス、泣かないで」


オネストは、アルタミスの唇を奪った。

アルタミスの香水が、オネストを誘惑する。

しかし、オネストの心は、しっかりと前を見ていた。


「ルーコ川で別れた時から、忘れられなかった。心臓が、こんなに暴れるほど、君が好きなんだ。泣く必要なんかないさ」


オネストは、アルタミスの手のひらを、自分の胸に当てながら、話し続けた。


「僕は、君が自慢出来るような戦士になって迎えにくるよ。バルザンよりも強く、賢くなって、すぐに迎えに来る。来年の夏なんかすぐさ」


不満そうなアルタミスの口を、オネストは、自分の唇でふさいだ。


とても、激しくて、甘いキスだった。


「アルタミス、僕はここから、君が帰るのを見ている。ここでお別れだ。僕達は明日の朝、イルバシットに向けて、帰途につく。僕を信じて待っていて。こんなに、君が好きだ」


アルタミスは、もう一度、バカ!と言った。

待っていられる自信なんかなかった。

今は、恋の切なさを知り、別れの寂しさに泣いているのに。


アルタミスは、自分から、オネストにキスを返して、腰布を掲げながら、走って帰って行った。


アルタミスは、待っているとは、とうとう言ってはくれなかった。

しかし、オネストは、アルタミスが、待ってくれると信じるしかない。


オネストは、切ない気持ちを抱えたまま、アルタミスが、家の中に入るまで見つめていた。


オネストは、そこに止まりたい気持ちを抑えて、アニタとバルザンがいる紅茶屋に向かった。


うまく、話をしているだろうか?


ちゃんと、自分の話を出来ているだろうか?


そう思った時、自分も、自分の事を何もはなさなかったことに気がついた。


自分の親の事、兄弟の事、仕事の事、そして、親友、バルザンの事。


ただ、君が好きだと告白しただけで、絵を描くことが好きな事も、弓矢で、林檎の実を打ち落とせる事も、何も話してはいなかった。


あまりにも幼い自分が情けなくて、気がつくと、オネストは泣いていた。


そして、すぐ後ろに、アルタミスの香水が香っているのに気づくのだった。


オネストは、恥ずかしさと、嬉しさに、振り向く事が出来なかった。


そして、しばらくの間、ただ一人で嗚咽と戦っていた。


アルタミスは、一度は、家の暖簾をくぐろうとしたが、去って行く、オネストの背中を見たとき、涙が溢れた。


今別れたら、それで終わり、そして、二度と会うことはない。

そんな思いが胸に溢れたのだ。


だから、付いて来た。

ただ見ているだけでも、なんだか、心が静まった。


自分でも、どうしたいのか良くわからないまま、オネストに見つかってしまった。


そんなに近くにいたわけではないが、香水にきがついたのた。


彼は、アルタミスに気が付いたのに、何も言わない。

でも、帰れとも言わない。


オネストが、自分を必要としているのがわかって、アルタミスは、なんだか幸せだった。


そして、暖かい、幸せを手に入れた代わりに、アルタミスは、もう家には帰れなくなるような、そんな寂しさを覚えた。


オネストは、後ろからついて来る美しい娘を、離したくないと思っていた。

自分の卑しさも、不器用さも、なんだか許す事が出来た。


道の先にある廃屋の、入り口の暗がりを見ると、オネストは、アルタミスの手を掴んで、その中に入り込んだ。


唇を唇で塞いで、アルタミスの体に触れた。


雲の切れ間から、半分の月が顔をだして、二人の顔を映し出した。


アルタミスは体を固くしたが、でも逃げようとはしなかった。


抱き合うと、二人の心臓が、ドキドキと暴れていて、もといた場所には戻れないことを教えていた。


アルタミスは、逃げ出す気にはなれなかった。

すごくこわいけれど、でも、オネストもつらそうな顔をしている。


キャラバンの時、父さんと母さんが、大きな椰子のかげで、していること。


私達は、そうしたいんだ。

アルタミスはそう思って、胸の下で結んである金糸の帯を解いた。


彼女の、まだ幼い胸の匂いを嗅ぐと、オネストの心は、なぜか慰められた。


オネストは、自分の締めていた腰布の上で、アルタミスを抱いた。


何を話たらいいのか、分からない。

服を整えると、ただ街に向かって歩きだした。


アルタミスは、歩きながら、もう戻らないだろう家の方を振り返った。


三 バルザンとアニタ


繋いだ手は、さっきまでと変わらないが、伝わる心は、暖かい気がする。


オネストは、アルタミスに、自分の話をしてみたいと思った。そして、独り言のように、小さな声で、話し始めた。


「アルタミス、僕は、絵を描くのがすきなんだ。君の面影を描いて、時々見ていた。それに、僕は、イルバシットで一番の射手だと思う。父さんと母さんと、弟がいる。何が言いたいのか、自分でも分からないんだ。僕にも家族がいて、バルザンと言う親友がいる。君と何もかわりはしない。きっと、そう伝えたいんだ」


夕刻の、雑踏のなかで、かき消されそうな小さな声だったが、アルタミスの耳には、はっきりと聞こえていた。


オネストは、懐から、アルタミスを描いた絵を取り出して、彼女に見せた。

アルタミスは、似てはいないと思ったが、素敵ねと答えた。


アルタミスは、まだ妻になってくれるとは言っていないが、オネストは、不安ではなかった。


そして、もし、アルタミスが、結婚を承諾してくれたら、ロメロの腰布は、置いて行こうと、思っていた。


娘の家と友好を深めるための金塊は、バルザンに渡してしまったし、渡せるものは、腰布位しかなかった。


「アルタミス、僕と一緒にイルバシットに来てくれるか?もう僕の腰布の上で、契りを交わしたけれど、君には聞いていなかった。山国だから、冬には雪が降るけれど、火を焚く燃料には事欠かない。兎に角、僕は君の為に良き戦士になろう。どうか、我妻になって欲しい!」


アルタミスは、驚いたようだ。

オネストが急に、そんな話を始めたから。

しかし、決して嫌そうではなかった。


「オネストと旅をする。昼も夜も、砂漠でも、オアシスでも。そして大いなる旅だちの朝をあなたと共にむかるわ」


アルタミスは、オネストの目をまっすぐに見て言った。


花嫁を手に入れたんだ。


オネストは、アルタミスの手を固く握り、共に旅を続けようと言った。


花嫁を連れて帰ったら、バルザンは、どんな顔をするだろう?


驚いて、喜んでくれて、そして、少しだけ、悔しそうな顔をするんだろう。それが楽しみで、早足になる。

アルタミスは小柄だから、小走りになった。


振り向いて目をみると、彼女も楽しそうに笑っていた。


紅茶屋の椰子の丸太で出来た椅子に座ると、バルザンの体は、そこでまた固まってしまった。


仕事でも、人付き合いでも、いつもバルザンには絶対の自信があった。


自分を表現する事に困った事など、一度もなかった。


報告の相手が、ブルークロスの隊長であっても、バルザンは気後れする事など、経験がない。


初めて、人前で固くなった。


アニタの表情が固いのが気になって、ますます、緊張がたかまり、微笑む事すら出来なくなった。


「彼の事、オネストの事、彼女と何か話したか?」


「えぇ、話したわよ。あの美しい腰布の事。彼は、王族の人なんでしょ?腰布に名前が入っていたもの」


親友の弱みを、いきなり話題にされて、バルザンは、しどろもどろになり、また、黙ってしまった。


「あの名前か、あれは…」


バルザンは、親友の弱みを話せずに、口ごもる。

また沈黙が、二人を緊張させた。


「アニタ、あとどの位、カルミスにいるんだい?俺たちは別に急がない。君の両親にも会ってみたいし、君とも、もっと話がしたいよ」


アニタは、急に腰布の話が終わってしまって、バルザンがおかしい事に気づいた。


ずっと下を向いているし、アニタの方を、見ようともしない。


「余り長くはいないわ、明日の夜明けに、キャラバンに招集されたの。それぞれの家族の長が話し合って、だいたい次の日の夜明けにも、駱駝に乗るわ」


オネストに聞いた話とは、ずいぶん違っていて、バルザンは、焦ってしまった。


「それより、彼の話を聞かせて。アルタミスに聞いて上げるって、言ってあるの」


「あぁ、あの腰布、あれは、彼の物じゃないんだ。あれは…」


「彼の父親の…」


「えっお父さんの…それって、彼が王子だって事なの?」


「違うよ!」


バルザンは、いきなり怒鳴るような声で否定した。


話は、どんどん真実から離れ、彼女の想像をかきたてる。


しかし、その真実は、親友を傷つける。


「何よ!何を怒ってるの、はっきりしない人ね!私の事だって、どうしたいのかわからない。本当はどうでもいいんでしょう?」


「そんな事あるわけないだろう!どんな思いでここまで来たと思ってるんだよ!アニタに会いたくて、ただそれだけでここまで来たっていうのに!」


二人は立ち上がってやりあっていた。

心の行き違いは、心の絆を持った二人にとっては、何でもないが、出会ったばかりの二人にとっては、大きな壁となった。


アニタには、なぜ怒られているのかも分からないし、バルザンが、なぜ楽しそうでないのかも分からない。


ひょっとしたら、アルタミスと彼の逢い引きの、ついでに使われただけなのかも知れないと、変な想像も浮かんで来た。


「私、帰るわ。どうせ、いい返事をするつもりもなかったし。彼らが上手く行けば、それでいいんでしょう?」


バルザンは、オネストの悪く思われるような事は、言いたくない。

けれど、大切な花嫁の心を傷つけてしまった。


だから仕方なく、話はじめる。


「分かった。話すから、座ってくれ。あいつも俺も、女の子と話をするのは初めてみたいなもんだ。だから、こんな顔になっちまう、それだけなんだ。アニタの事をないがしろにしようなんて、思ってもいないさ。あの腰布は…」


バルザンが、ふと通りを見ると、そこにこちらに向かって来る、あの娘とオネストの姿が見えた。


バルザンが予想した通りに、オネストは、見事に、花嫁を連れて帰って来た。

いかにも幸せそうに手を繋いで、歩いて来る。


「あの腰布は…、オネストの父親が、引退した王族の誰かからもらった物だそうだ。俺たちに関係のあるものじゃないさ」


バルザンは、気が抜けたように、力のない声で言った。


「本当に?でも、母さんも、さっき寄った仕立て屋の女将さんも、名前の入っている物は、本人しか持たない物だって言ったけど」


「アニタ、君は、明日には、帰るんだろう。俺たちの話をしよう。黙っていて、悪かった。俺は…」


バルザンが話をしている最中に、彼らは帰って来た。


「アルタミス、どうしたって言うのよ。あなた、まさかイルバシットに行くの?」


アニタは、嬉しそうに、アルタミスの手をとり、もう、バルザンの顔など見ていなかった。


バルザンの暗い顔を見て、オネストは、アルタミスの手を放した。


二人の間にどんな会話があったのか、だいたい読むことができた。


きっと、雪薔薇の腰布の所為だ。



オネストは親友を助けたいと思っただけだった。

それで、腰布の事を話したのだが、それが余計な事だったと後悔した。


どうにかして、バルザンを勇気づけたい。

普段のバルザンなら、どんな困難でも、打ち払う力がある。

自信と勇気に満ちた戦士のはずだ。


「バルザン、腰布の事、黙っていてくれたのだろう。返って傷つけてしまった。悪かったな。僕が、アニタに説明するよ」


「いいんだ。なんとなく、お前は、花嫁をつれて帰って来るような気がしていたよ。俺は何をしてたんだろう。アニタに話すべき事を何も言ってはいない。自分で固くなって、折角の時間を無駄にした。そして、寄りによって、君の所為にしようとしていた。俺は、こんなに弱かったんだな」


バルザンは、親友の顔を見て、正気を取り戻した。


そして、オネストの持って生まれた運の強さを、羨ましく思った。


オネストは、いつもは目立たないが、ここぞと言うときに力を発揮して、確実な成果を上げるのだ。

そして、涼しい顔をして、何でもない、すべて君のお陰だと言う、おおらかさを持っている。


バルザンの越えられない高い壁を、オネストは、軽々と越えてしまう事が時々ある。


親友であるが故、そんな時は、バルザンはオネストに、嫉妬を覚える。


いつもは、自分を刺激してくれる、薬の様なものだが、今日は、少し辛かった。


しかし、バルザンの気性を良く知っているオネストは、慰めずに、わざと、バルザンをたきつけた。


「バルザン、まだ時間はあるさ。まさか、諦める気じゃないだろうな?」


昨日は、バルザンが慰め役だったのに、今は、逆だ。


心に湧き上がる悔しさが、バルザンの心に、わずかについた傷を癒やした。


オネストには負けたくないのだ。

ただそれだけで、バルザンの心は、勇気で満ちた。


アニタの髪飾りを見つけた時の心の震えを、彼女に伝える事が出来れば、たとえ、実らなくても、それでいい。


別れを怖れ、このまま終わるよりも、ずっと自分らしい。


バルザンは、一杯だけ酒を注文した。


女の子達は怪訝慰な顔をしたが、バルザンは、無視した。


アニタは、急に元気を取り戻したバルザンを、膨れた顔で眺めている。


オネストは、アルタミスの手をとって、星の散らばり始めた空を見に行った。


「親友なんでしょう?応援してあげないの?」


オネストが、手を引っ張るので、そう口をついて出た。


「僕達は戦士だから、親友でもあり、ライバルでもある。僕に先を越されたんだ、バルザンは、悔しそうな顔をしていた。負けん気が強いんだよ。だから、余計な事は言わない方がいいんだ」


「それよりも、君の生家に贈るための金塊がもう無いんだ。だから、この腰布を贈ろうと思う。家宝だけれど、君を連れて帰れば、納得してくれるさ」


アルタミスは、雪薔薇の腰布を気に入ったらしく、ベールの代わりに、頭に被りひらひらさせて、遊んでいる。


「イヤよ!これは、あなたの家の宝物なんでしょう?私の家族はすでに、あなたから金塊をもらっているわ。父は、駱駝を買って、弟は、柔らかい鞍を買って、喜んでいる。金塊はもう必要ないわ」


アルタミスは、オネストを見上げて、うったえた。


「私がもらったこの塊は、母に渡すわ、それで、充分だと思わない?私達の家族が仲良く付き合うには」


「そうかな?それに、君の両親は、僕を認めてくれるだろうか」


「私は、もう旅立ちの誓いをしたわ、だから、もう、あなたの花嫁よ。隊長には、私が報告するわ。私はもう大人だもの、両親は反対出来ないわ」


二人は、また見つめあった。

それだけで、オネストの胸は、高鳴る。

駱駝の見張り小屋の影で、また唇を重ねあった。


早く帰って、新しい家をもらい、そこで、アルタミスとくらしたい。


オネストは、祖国で待ち受ける試練を知らずに、夢のような想像の中で、遊んでいた。


そして、祖国の方に光る赤い星に、二人の幸運を祈った。


故郷の強い酒が懐かしい。

アラビアの酒は、旅人には高価で、買えた酒は二人では、一晩も保たなかった。


サボテンの強い酒は、気分を落ち着かせるのに充分だった。


バルザンの口からは、今も、あまり言葉が出てこないが、それでも、心の中には、水差しに結ばれたアニタの髪飾りが浮かんでいる。


「アルタミスの父君にお土産を選んでもらった。弟には、留め金を、母には膝掛けを、我が身には、銀の水差しを頼みました」


水差しと聞いとき、アニタの顔に、何かが浮かんだ。


「アルタミスの父君の細工した水差しだったんだな…。出してもらってわかったんだ。俺が、君を傷つけたんだ。けれど、俺は、まだ、君の前に何も見せていない。それで嫌いにならないでくれ。俺の事が嫌いならそれでいい。でも、まだ何も知らないだろう?」


彼は、サボテンの強い酒を一気に飲んだのに、酔うどころか、顔色一つ変えなかった。


表情はあまり変わらないけれど、声には、力が増したように思えた。


「イルバシットの民は、皆、血の繋がった家族から始まった。国の始まりの時から、他の国から、花嫁をもらって来た。だから、花嫁は宝物なんだ。戦士だって人間だ、年頃になれば、女の子に恋をする、しかし、掟は曲げられない。俺にも初恋の女の子がいる。俺の剣を鍛えてくれた刀鍛冶の娘だ。マリサは、エジプトの商人と結婚して、今でも、エジプトとイルバシットを行き来している。マリサの顔を見る度、皆が誰とでも結婚出来る日が、いつか来ればいいと思うんだ」


アニタは、黙って、聞いていた。


違う国で育った青年の、純粋な心を見せられて、アニタの心は、震えた。


「トルコの街で、君の髪飾りを見つけた時、俺は凄く嬉しかった。これが宝物だと思ったよ。星読みの父が教えてくれたんだ。皆、胸の中に宝物を持っている。見つけたら大切にしろって。君の真心は、そして、俺の君への思いは、俺の宝物だ。だから、大切にする。親友も、国王も、宝物だけれど、君と暮らす事が出来たら、宝物は、どんどん増えて行くだろうな。アニタ、君がいないと、俺は強くなれない。どうか、俺と、イルバシットへ帰ってくれ」


アニタは、なんだか頭がぼうっとしていた。

ただ紅い顔をして、下を向いた。


バルザンは、誠実な人だと思う。

緊張していなければ、話しも面白い。


それでも、暖かい家族と離れ、美しい故郷を離れてイルバシットに嫁ぐ気にはなれなかった。


ただ、下を向いたままのアニタに、バルザンは、もう何をしていいのかわからなかった。


「アニタ、君に聞きたい事はたくさんあるよ。でも一つだけ教えてくれ?俺の事が嫌いなのか?もしそうなら、俺はもう君の前から消えるよ。だから、それだけ答えてくれ」


バルザンは、しばらく待った。


しかし、アニタは困った顔のまま、下を向いている。


「アニタ、家まで送ろう。明日の夜明けに、答えを聞きに行く。それまでゆっくり考えろ。どっちだっていいんだ。俺は変わらないんだから。ただ君の本当の心が知りたい」


バルザンと目が合うとなぜか、涙がこぼれ落ちた。

アニタは差し出された布で涙をふいた。

それは、香水をつけて結んだ、自分の髪飾りだ。


なんだか、間違っているのは、自分のような気がして来た。

でも、一番悪いのは、トルコに来なかったことよ。


アニタの涙は、いつか、悔し涙に変わっていた。


バルザンは、アニタの手をとってたたせると、後ろについているからと言って、促した。


アニタは、始めは泣いているようだったが、家に続く路地に入ると、急に、早足で歩き始めた。


その後ろ姿は、傷ついたと言うよりむしろ、怒っていると言う方が近いだろう。


泣かせたと思ったら、今度は怒らせた。


バルザンは、女の子の心と言うものがますます分からなくなって、遂には、笑い出していた。


俺には手に負えない。

何を言っても、誤解されるなら、自然に任せる事にしよう。


いくら謝っても許してくれず、勝手に泣いたり、怒ったり、これを笑わずにいられるか!


そう思うと、小さな事にこだわっていた自分の小ささが可笑しくなって、また笑った。


路地の横に立っている、駱駝の見張り小屋の影で、誰かが寄り添っている。


顔は分からないのに、オネストとアルタミスに違いないと思った。


素直な気持ちになれば、羨ましくてたまらない。

しかし、戦士になりたてのオネストに、先を越されたかと思うと、悔しくて、涙が出そうだ。


女の子の気持ちは、一つも分からず、二つ年下のオネストには、先を越され、本当は、傷ついているくせに、なぜか、笑っている。


全くいやになるぜ!


また、クスリと、自分の不運を笑った時、急にアニタが振り向いた。


「さっきから、何を笑ってるのよ!私だって、ずっと待ってたんだから!おなかを壊した振りをして、二日ものばしたのに!それでも来ないなんて、ばかにしてるわ」


バルザンは、アニタも、バルザンの心を計りかねて、傷ついていたのを知った。


「アニタ、どうしても、許してくれないのか?俺だって、敵の弓に狙われながら、やっとの事で、行商人に助けられて、ルーコ川を渡ったんだ。そこでアルタミスが、オネストの腰布を見つけてくれなかったら、ルーコ川を渡る事は出来なかった。いくつかの縁が重なって、俺達は会う事が出来たんだ」


アニタは、また大人しくなった。

どうしたら、笑顔を見せてくれる?

それだけが知りたい。


「アニタ、どうしたら、君は、笑顔を見せてくれる?君に会えたら、君の笑顔にまた会えるものだと信じて来たのに…」


ひたすら歩き続けているから、アルタミスの家は、すぐに見えて来た。


「じゃあ明日の夜明けに。俺は、たとえ君が笑ってくれなくとも、会えて良かったと思うよ。喧嘩でも楽しかった」


バルザンは、思い切って、きびすを返した。


そうしないと、何時までも、思い切れないからだ。


アニタは、何も言ってくれなかった。


イルバシットに来た時に見せてくれた笑顔は、商売を上手くするためのつくりものだったのか?


そう思うのだけは嫌だ。

冬のある世界に住むことが、少し気懸かりなだけさ。


バルザンは、本当に懸命な自分をそうやって慰めた。


どれだけ真剣であろうと、どれだけ有能であろうと、アニタが、認めてくれなくては、なんの意味もない。


胸の中の恋心は、アニタに向かって飛び立とうと暴れている。


今夜限りの切ない恋だ。


バルザンは、大弓を引く事よりも、岩を登る事よりも、ずっと辛い経験をした。


心を分かり合うことの難しさ、僅かに、行き違ったすきまを埋める事の難しさ。


何事にも自信のあったバルザンの、初めての挫折だった。


宿に戻ると、オネストの姿はなかった。当然と思っても、少し寂しい。


バルザンは、豆のスープだけを飲んで、そのまま寝床に転がった。


昨日も夜明けまで、寝付けず、オネストを休ませようとして、自分が眠ってしまったんだっけ。


次の日、バルザンが目を覚ましたのは、すでに、夜が明けた後だった。


どこまでついていないんだ。

もう二度と、アニタに会うことは出来ないのに、見事に寝過ごして、しまった。


バルザンは、窓から下の通りを眺め、一筋の涙を流した。


熱烈な恋ではなかったが、バルザンは、真心を捧げたつもりだった。


そして、一度は、アニタの心も動いたのだ。


それでも、恋は実らなかった。


涙が乾くと、バルザンは、自分とオネストの小さな荷物を階下に運んで、外のテラスでオネストを待った。

オネストは、二人になり、急ぎの旅は出来なくなった。


イルバシットが近づいたら、バルザンが先に帰る事になるのだろう。


イルバシットに繋がるあの道に降り立ったら、もうこの旅の事は忘れようと思う。


アニタの事は忘れられないだろう。

しかし、心に出来た傷は残したままにして置く訳には行かない。


振りでもいい、立ち直らなくては、自分は、戦士として、大きくはなれない。


オネストの声が聞こえて来た。

バルザンは、大きく息を吸い込み、立ち上がった。


オネストの恋人は、どんな顔で現れるのだろうか?

せめて、祝福の言葉を捧げよう。

そう思って、オネストを探した。


彼らは、気を遣ってくれるのだろうか?

幸せなのに、申し訳無さそうな顔をするんだろうか?


イルバシットは、敢えて、いろいろな宗教や、民族を受け入れて来た。


だから、他者の言動や、表情に過剰に反応しない訓練が出来ている。


戦士は、他国に入る事も多く、特に、厳しく躾られる。


だから、バルザンも、笑顔を作るのは、簡単な事なのだ。


しかし、オネストの連れが、二人いるのを見て、正直、驚いた。


アルタミスの横で、旅の為のベールをかぶった、もう一人の少女は、誰なのだろう。


アニタであったらと、思ってしまうのは、まだ忘れる事が、出来てはいないからだ。


連れの女の子は、アニタなのか?

ベールが厚く、声を聞かなくては、確信が持てなかった。


「オネスト、連れは二人なのか?」


バルザンの聞きたいのは、もう一人は誰かということだ。


「あぁ、アルタミスの友達だ。イルバシットの生活になれるまで、手伝いをしてもらう。国で待っている、女の子たちは、男の召使いを連れて帰るのを望んでいるだろうが、そうは上手く行かないさ」


バルザンの知りたい事はそんな事ではないが、オネストは、答えなかった。


少女は、アルタミスの後ろで、黙っている。


「バルザン、駱駝は裏に繋いである。本当にもういいのか?」


「あぁ、俺の旅は終わりだ。後悔はない。最後に、アニタに会えなかったのは、月の神の御加護だと思う事にするよ」


アルタミスは、オネストの顔を見た。

月の神の御加護ってなに?

そんな顔をしている。


「イルバシットの神だよ。太陽は、出逢いの神。月は別れの神だ。夕べのように、美しい月の夜に別れると、再会の時に、二人を結びつけてくれるのさ。僕達もそうだっただろ」


「ロマンチックな神さまね、イルバシットに行くのが楽しみになって来たわ」


オネストとアルタミスは、もう仲のいい恋人同士だった。


バルザンは、乱れる心を隠して、二人にお祝いの言葉を捧げた。


「オネスト、おめでとう。お前の恋が実った事、俺は嬉しいよ。夏が来ても、もうお前と旅が出来ないのが残念だが、運命の友が増えるのは、悪い事じゃないさ」


「去年の相棒は、お前の妹星読みのアビーだろ、兄を差し置いて、自分の夫を連れて帰った。しかもその相手は大国ラスカニアの騎士隊の副長だ。本当に大騒ぎだったな」

「あぁ、俺が一番びっくりしたさ。スパイの可能性すらある相手だからな。でも、今は、連れて帰って良かったと思っている。始まりはどうでもいい。今二人はすごく幸せそうだ。俺と旅をする相棒は、すごい幸運に恵まれるのかもしれないな」



四人の若者たちは、晴れ渡る空に見守られながら、イルバシットへの帰途についた。


城門を出てから、すでに、三十五日が過ぎた日の事だった。


四 アラビアの王


イルバシットの城門を出てから、一日が過ぎても、王子ムスタシエラの黄金の輿は、まだイルバシット山の中腹にあった。


荷物の中には、一日を、難なく過ごす用意は、全て整っている


しかし、ロクサンは、王子の、何時もと全く変わらない態度が信じられなかった。


一度は、毒を盛った側近と、変わらず話しをし、彼らの出す皿を平らげている。


ロクサンは、毒にも詳しいが、一度口に入った物を消す事は難しい。

出来るなら、口に入る前に、毒見をしたいのだが、それは、受け入れてもらえなかった。


テントで過ごすのは今夜で二回目だ。

ロクサンは、月を見ながら、まだ伺う事が出来る城門を振り返り、別れの言葉を口にした。


「イルバシットよ、我妻イリサよ、しばしの別れだ。輝く月よ、私のいない間、この国と、我妻イリサに、平和と幸せを与えたまへ」


美しい月だ。

きっと願いを叶えてくれる。

ロクサンは、月に向かって、祈りを捧げた。


そのロクサンを見つめる目があった。

ロクサンは、剣に手をかけたが、その眼差しには、明らかに、敵視も、殺気もない。


剣を握りしめながら、ゆっくりとふりかえると、眼差しの主は、ムスタシエラだった。


共は、若い側近のシェラザドである。

寄りによって、一番怪しいやつと一緒だ。


しかし、ムスタシエラは、ロクサンの所に歩みよると、後は、ロクサンに任せて休めと言って、シェラザドを下げてしまった。


「ロクサン、あの美しい妻をためらいなく置いて旅にでるとは。イルバシットの女は、貞淑らしいな。それとも、イルバシットの男は、女に興味が薄いのか?しかし、月に祈りを捧げている所をみると、やはり、心もとないのだな?」


ムスタシエラは、ロクサンをからかうつもりではなさそうだ。

むしろ、イルバシットの風習に興味があるように見えた。


「王子、イルバシットの神は、太陽や月や湖、おられる場所によって、それぞれの役割を担っています。月におわすのは別れの神。別れ、離れ行く者の再会を約束してくれるのです。そして、月が、美しく輝く夜には、特別の願いを叶えて下さるのです。王子はまだ、独身でいらっしゃるから、そんな風にお思いになるのでしょう。信頼できなければ、結婚は、そもそも、成り立たないものです」


ムスタシエラは、ロクサンを、羨ましげな目で見た。


その表情は、一瞬で消えたが、それは、ムスタシエラの純粋さを表していた。


ムスタシエラは、イルバシットの風習に興味を示し、ロクサンの言葉を真似て、月に祈りを捧げた。


「私のアリシア、しばしのお別れです。私が、戻るまで、あなたと、あなたの家族が、幸せな日々を送れますように」


ムスタシエラは、アラビアの敷きたりの通りに、月に祈りを捧げた。

その姿はやはり、国を継ぐ者の、威厳に満ちていた。


「王子、城門の中の安全は、王子もよくおわかりでしょう。私は、妻を置いて出た事に不安はありませんよ。それに、イルバシットの王女は、戦士とも強い絆で結ばれているのです。妻は、王女の命に従った私に、疑問はもたないでしょう」


「羨ましい限りだ。それほどに女の心を信頼出来るとは」


ムスタシエラは、素直な様子だ。

決して、悪心から発した言葉ではない。


「多くの妻をもてば、浮気をする者もいるかもしれませんが、イルバシットの男は妻を一人しか持てないのです。それに、皆がどこかでつながっている。だから、浮気をする者は、少ないです。もちろん全く無いわけじゃありませんが」

ムスタシエラは、興味深そうに聞いている。


「そうなのか、私も、多くの妻を持つ気は無いのだ。私と弟は、母が違う。私の皿に、毒が盛られたのも、それが原因だ。毒を盛ったのが誰かは、初めから分かっていた。

命令したのは父だ。

そして、毒を盛ったのは、シェラザドだ。

初めから、知っていた。

もっとも、毒を盛ったシェラザドは、すぐに私に皿に手をつけてはいけないと忠告してくれたがな。私の容姿が異型だから父は、私を、どうしたらいいのか分からないのだ。

いろいろな事が、今までにもあった。

でも、もう逃げる事は出来ない。アリシアを妻とするために、私が成すべき事が、はっきり分かってきたからな。私にも、悪い所があったのだ。私が父に抱いていた負の心を捨てれば、父はきっと分かって下さる。母の汚名もきっと返上出来るはずだ。私がイルバシットに来て、ロメロ王の心に触れた事には、深い意味が有るのだと思う。ロクサン、お前も、私に力を貸してくれ」


ムスタシエラの包み隠さない様子に、ロクサンは、驚きを隠し得なかった。


王になるには、特別な強さが必要だ。

それは当然なのだろうが、彼の強さの裏には、計り知れない苦しみが隠されている気がして、ロクサンは、またムスタシエラに惹かれていった。


ロクサンも、この美しく強い王子も、厳しい道の上を歩き始めたのだ。



しかし、厳しく、険しい道が待っているのが分かっても、ロクサンは、一つも怖くはなかった。

それは、ムスタシエラというこの王子の事を、初めてあった日から、不思議と信じる事が出来たからだ。


王女アリシアを、奪いに来たのだと言う事は、誰の目にも、明らかであった。


その王子をどうして信じる事が出来たのだろうか?


それは、初めから、ムスタシエラが目的を明らかにし、そのために行動したからだ。


彼は、アリシアを欲し、その目的を果たした。

王女の心を射止め、王からも、祈りを捧げられるに至った。


それは、ムスタシエラが、嘘を言わず、素直な心を見せ続けたからだ。


ロクサンは、例え、ムスタシエラが、負け、自分が命を賭ける事になっても、後悔はしないだろうと思う。


彼は、どんな時にも自信を失わず、前を見据える目には、輝きがある。


ロクサンよりも、ずいぶん若いが、老獪なところもある。



ロクサンは、彼を自分の主上として、ついて行く気になっている。


それは、王女アリシアに命じられたからではなく、彼を気に入ったからだ。


少なくとも、今はまだ、友好国とは言えない、アラビアとイルバシット。


敵とも言える間柄の国の王から、祝福される者。


この旅は、ロクサンにとって、めったに会う事のない、英雄との出会いの機会となった。


「なぜ、アリシア様の手をお引きにならなかったのです?」


ムスタシエラは、不思議そうな顔をして、ロクサンを見た。


「ロクサン、君は、私の門を守る者に似ているな。彼は、私の従姉妹の姫を攫おうとした。君も私の宮殿に着いたら、親しむがいい。私にも、アリシアにも立場がある。今は、アラビアの国をしっかり治める事を学ぶ時だ。父と弟との絆を深め、アリシアに国の祝福を捧げられるようにしなければならぬ。そうでなくては、ロメロ王にも、我が妻にも顔向けが出来ぬではないか」


ムスタシエラは、何でもないことのように、話を続けた。


「私が毒を盛られた事がそれほどショックか?小魚も死なぬほどの毒が、なにほどのことだ。父は、イルバシットとの交流を望まない。私が逆らうというのなら、覚悟せよとおっしゃりたいだけだ。父が私を殺したいと思っているのなら、私はとうに消されている」


ロクサンは、アラビアにはアラビアの弱みや、問題があることを、一言の問いかけもせずに、聞いてしまった。


「ロクサン、わたしは、君に期待している。我が門番もしかり。イルバシットの者にしか出来ないことだ。イルバシットの民が平和を望んでいる事を我が父に分かってもらいたい。アラビアは、イルバシットを知らないのだ。民に悪意が無い事が分かれば、父も少しは、態度を緩めて下さるかもしれない」


無意識のうちに、下を向いたロクサンに、ムスタシエラは、笑いかけた。


「君は、繊細な男だな。姫を守り続けたからだろうか?君にして欲しい事はただ一つだ。私を信頼して、仕えてくれる事、ただのそれだけだぞ。我が門番にも、君にも、たやすい事であろう?」


ロクサンは、下は見たが、微笑みを絶やしたつもりは無い。


ロクサンは、口には出さなかったが、繊細なのは、王子あなたの方だ。と心の中で思った。


王子は、自分の容姿を異型だといい、母親の汚名を返上したいと言う。


王になる運命を背負っているからこそ、人の感情には敏感になるし、自分の感情は、抑えざるを得なくなるのだろう。


国の状況がどうであれ、女が連れて行ってくれと言ったなら、ロクサンは、迷わず、女の手をとるだろう。


しかし、ムスタシエラは、そうしなかった。


それが、良いことか、悪い事かは、はっきりしないが、事態を複雑にする事は確かだ。


アラビアの王には、アリシアの心はどう写るだろう。



きっと、アラビアの富を引き出す手だてと写るだろう。


どれほど、真剣であっても、信じてもらえなければ、その関係は、無いのと同じだ。


このまま何も策を講じなければ、王女はアラビアの王の記憶のなかに入り込む事すら無く、忘れ去られるだろう。


ロクサンは、王女のためと言うよりもむしろ、純粋な感情を見せるムスタシエラのために、働きたいと思った。


冷酷な策士だと思っていたムスタシエラが、実は、弱さを内に抱いた優しき青年だと分かったからだ。

ロクサンは、運命を切り開く手助けを心からしたいと思うのだった。


「王子、たとえ、殺す気持ちがなかったとしても、あなたの皿に毒を盛った側近を、側に置くことは、納得出来ません。私が遣わされたのは、毒に詳しく、暗殺剣を身に付けているからです。アリシア様が、私を遣わされた事には、重大な意味があるように思えてなりません」


「君は、イルバシットの王室には、なくてはならない家臣なのだろうな。君の勘の良さは、きっと危険を排除してくれるだろう。私には、それで充分だ。シェラザドは、私の幼なじみだ、しかし今は、エラゴシヌの家臣だ。かれは、命を賭けて私を助けてくれたんだよ」


ロクサンは、それ以上、言葉を繋げなかった。

複雑に絡みあった運命は、王子に何を求めるのだろう。


逞しい王子の背中には、不安の色を見ることは出来ないが、王子が、複雑な渦の中に巻き込まれる事はもう避けられない。


しかし、ロクサンは、恐ろしいとも、面倒だともおもわず、ムスタシエラを助けられることに喜びを感じるのだった。


ムスタシエラは、容姿が美しいからと言うだけではなく、その心の優しさや、純粋さで、ロクサンの心を掴んでいたのだ。


ロクサンは、何が待つのか分からないこの旅を、楽しみに思っていた。


そして、ムスタシエラのために働き、その働きが、イルバシットのためになればいいと思っていた。


山を、無事に降りきった所にある森で、王子の軍勢が、主を待っていた。


王族の旅にふさわしく、多くの騎士や剣士も三連隊ずつ連れていた。


彼らがほぼ二月の間旅を出来るだけの、保存食もしくは、食料確保の技術は、学ぶべきものだ。


ロクサンは、それだけは自分の知識にしたいと考えていた。


ムスタシエラは、連隊の長を呼ぶと、ロクサンを、側付きの護衛にすると話した。


家臣達が、何を感じたのかは想像するしかないが、彼らは、ロクサンにも敬意を払い、色眼鏡で彼を見ることはなかった。


これが、王子と、その親衛隊の関係なのだろう。


互いの信頼が、目に見えるようだ。


そして、王子の皿に毒がもられたことがばれないのは、側近達が、ムスタシエラと、シェラザドの関係を良く理解しているからだろう。


シェラザドがどうなるのか、ムスタシエラとアラビアの王の関係がどうなるのか、ロクサンには、想像が出来ない。


しかし、ここにいる親衛隊の大半は、王子の前を守り続けるだろうと思われた。


朝日を浴びながら、アラビアへの帰途に着いた一大旅団は、王子を真ん中にはさみ、整然とすすんだ。


ロクサンは、与えられた馬にまたがり、王子の輿のすぐ隣を歩いている。


ムスタシエラは、満足そうに微笑みながら、輿に揺られていた。


「ロクサン、君はこのまま、戦になる事もあると考えるか?私は、昨日は無しと思い、今日は有りだと思うのだよ」


ロクサンは、鳥肌におそわれながら、目の前を歩く軍隊を眺めた。


「これだけの軍でですか?」


「ここにいるのは、私の軍の極一部だ。国境の街イザヤに非武装の兵を潜ませてある。もしも、我が背中から、剣を向ける者があれば、その敵を討ち果たしてくれよう。どちらにしても、私が決めなければ始まらぬ。弟に次代を譲り、イルバシットを討ち果たすのか、父を討って、友好国となるのか。どちらにしても、私には、茨の道となる。アリシア王女を敢えて伴わなかったのは、私の心が折れぬようにするためだ」


ロクサンは、ムスタシエラが、すでに、心を決めているような気がしてきた。


自分に毒を盛った側近をそばにおき続けることから考えても、父親であるアラビア王と分かり合う事を望んでいる事は明らかだ。


しかし、その道は険しく、危険だ。


王の力と、国を継ぐかどうかわからない王子の力の差は、一口に言えないほど大きいからだ。


とんでもない程の険しい道のりを思って、ロクサンは、後ろを振り返った。

もう二度と妻イリサに会う事が出来ないとしたら、悲しすぎると思ったのだ。


王子は、ロクサンの表情を見ると、もう言葉を接ぐのを止めた。

自分で発した言葉で人を傷つける事は、人の上にいれば経験する事だ。


しかし、これから、重要な役割を担って欲しいと思っている相手を、深く傷つけた。


そのショックは、予想以上に大きかった。


二人は、この時から、しばらくの間、無言のまま、旅を続けた。


ロクサンは、考えが何時までもまとまらなくて、夜陰に乗じて、逃げ帰りたいとも思うのだった。


しかし、戦士として、この軍隊の戦う力を見てみたいという考えも浮かんだ。


旅を始めてから三日がたち、四日がたって来ると、ロクサンは、剣を振るい、鍛錬をする相手が欲しくなった。

イルバシットにいるなら、共に旅をした、リザがいる。


互いに大剣と刺剣に持ち替えて、息が切れるまで、振りあうのだ。


今夜も、王子のテントの見張りをしながら、剣を振るう機会を探していた。


真夜中になると、ロクサンと同じくらいの年の若者が、交代にやって来る。


彼は、大剣のつかい手らしい。

携えている大剣の柄は黒く光っていて、彼の戦いの歴史が、決して浅く無い事を語っていた。


アラビア語とイルバシット語は、ほとんど同じだ。

しかし、外から来た花嫁達の言葉が影響を与えたので、イルバシット語には、アラビア語には無い言葉が混じっている。


交代の若者は、笑顔を見せて、ロクサンに話しかけて来た。


「君は、剣を振りたいんだろう?僕は、フェネルだ。相手をしようか?」


一度も剣を交えたことのない相手を、剣の鍛錬の相手に選ぶのは、勇気がいる。


「君は、大剣の使い手らしいな。私は、大剣は苦手なんだよ。私の使うのは、この刺剣だ。大剣と刺剣では相手にならないさ。大剣は、今は妻の寝床を守っている」


ロクサンは、体よく断ったつもりだった。

剣の相手をかって出てくれたフェネルに感謝をしながらも、何か不都合な事が起きてはと、気を遣ったのだ。


「そうか?君の顔には、剣を振り回したいって書いてあるぞ。大剣だの、刺剣だの、良くわからないが、誰かから同じのを借りて来てやるよ。王子の見張りをしたい者は沢山いるから心配するな。今度からは、俺たちの鍛錬の仲間に入ればいい」


フェネルは、勝手にそんなような事を言って、また兵士達のテントの方へ走って行った。


フェネルは、王子のテントを守る兵士だ、きっと優秀で、強いはずだ。


手合わせはしないと断ったのに、ロクサンは、フェネルの強さを想像して、笑い出しそうになった。


毎日、夕方になると兵士達は、テントや夕食を用意する者と、武術の鍛錬をする者に別れて行動する。


その仲間にと言われたことが非常に嬉しかった。


今は、フェネルが仲間を連れて戻って来るのを待ちわびている。


ロクサンは、すでに、磨きぬかれた細い剣を鞘から抜き、月の光にかざしていた。


ロクサンが自分の剣を眺め、悦に入っているところへ、フェネルは、四、五人の仲間と共に様々な剣を携えて戻って来た。


「やる気になったのか?まずはおれが相手だ。ここでは王子にどがめられる。鍛錬場まで歩こう。彼らが二人で王子の見張りをしてくれる。俺など叶わない達人だから安心しろ」


見張りに残ったのは、小柄な女の子の双子だ。


「女の子の双子か?」


ロクサンは思わずつぶやいてしまった。


「女じゃない!」


ひとりが言うが、可愛らしい声は、まだ子供だ。

本当に良く似ている、声が変わるころになれば、見分けが付くのだろうが、今は、どちらも、可愛らしい。


「坊主、そんなに小さいのに、皆に尊敬されるほどつよいのか?後で手合わせをたのむよ」


ロクサンは、何の気なしにそう言って、フェネルの後を歩き始めた。


鍛錬場とは、名ばかりで、平らな土地の石や切り株などをどけただけの広場だ。


「ヤザも強いが、本当に強いのは、妹のシーナだ。体術と、幻術の名人だ。目が合うと、体が動かなくなるんだよ。聞いても信じられないだろうから、一度手合わせして見ろよ」


フェネルは、とても親密な様子で、新しい鍛錬の相手であるロクサンを、歓迎した。


「なぁ、イルバシットには、鍛錬の前に唱える誓いの言葉があるかい?」


「あぁ、闘技の時以外は、間違えば、死ぬ事もあるから、でも、そうならないよう、先生達が、手合わせをしても良い相手を決めてくれるんだ」


フェネルは、頷きながら、ある人物が、鍛錬場にいるのを差した。


「俺達の師だ。まずかれと剣を交えてくれないか?真剣を使う限り、怪我をする可能性は常にある。君の国と同じだ。危険を回避する能力が低い者は、真剣での手合わせは出来ないんだよ。俺は、君が弾かれるとは思ってないけどな」


ロクサンは、かえって気が楽だと思った。

何かあったら嫌だと、遠慮しなくてすむ。


自分の剣は暗殺剣だ。必殺剣なのだ。


ロクサンは、フェネルを傷つけはしないかと心配していたのだ。


フェネルの師は、逞しい体に、幾つかのふかい古傷を持った、ロクサンの父親の世代の男だった。


傷だらけの体を見せられただけで、ロクサンは、すでに気後れしていた。


フェネルの師は、ロクサンを睨んだ後、ニヤリと笑い、なんの前置きもなく、大剣を振りかざして来た。


刺剣には重みがない。

大剣が相手だと、初めから押される。


しかし、タルファは、打ち込んで来るだけで、ロクサンを追い詰めようとはしない。


刺剣の鍔は、大きく小さな盾の役目をする。


ロクサンは、大剣を鍔で受けながら、一太刀でも打ち込む機会をうかがった。


タルファは、ダリアン先生と同じくらいに強かった。

そして優しいのも同じだ。


五度ほど打ち込まれたところで、ロクサンは、参りました、と言った。


情けないとは思ったが、タルファには隙がない。

これ以上は、時間の無駄だった。


「もしも、殺し合いなら、君にも勝つチャンスがあったな。刺剣とは、恐ろしい武器だ。見せてもらって良かったよ。君の相手ては、フェネルとヤザ、アキム。そんなところだろう。旅の途中であることを忘れるな。怪我は、許されないぞ」


「ありがとうございます。フェネルに誘われて、本当はとても嬉しかったんです。さっき思わず笑ってしまいました」


「そうか、存分にやりなさい。王子も、観戦なさるらしい」


タルファはそう言うと、膝をついて、ムスタシエラを迎えた。


そこにいる、四人の若者は、一斉に振り向いて、膝をついた。


王子は、ヤザとシーナを従えて、歩いて来たのだ。


フェネルとの話し声に気づいたのだろう。


「タルファ、ロクサンの相手にふさわしいのは誰だ?」


「はい、フェネル、ヤザ、アキム。ただ彼の剣は特殊で、仲間との鍛錬では、勝つことはないでしょう。ロクサンには、多少不利ですが。太刀での対決としてはどうでしょう?」


ムスタシエラは、楽しそうに笑い、頷き、ロクサンの顔を見た。


「ロクサン、我が親衛隊を良く見よ。アラビア人でないものもいるのがわかろう。お前も一度手合わせをすれば、彼らの仲間だ。ロクサン、この太刀で戦えるか?」


ムスタシエラは、携えて来た、小振りの太刀を、ロクサンに手渡した。


柄には、とても手の込んだ細工がしてある。


銀細工は、日々磨かれているらしく、白く輝いていた。


刺剣よりは重みがあるが、太刀と呼ばれる大剣よりも刃の幅は狭く、振りやすそうだ。


「この太刀は、私が妃を娶ったら、妃を守る剣士に授ける物だ。お前は、アリシア姫の戦士だったな。ならば、この剣で戦うがよい」


銀細工の柄の上に布を巻きつけて握るらしい。


鍔の所に、薄い絹の布を組んだ紐が数本結んである。


紐をまず柄に巻きつけ、右手で握り、残った紐を左手に巻きつけ、握る。


そうすると、太刀は、剣士の手に馴染んだ。

見た目よりも軽く、刃は薄い。

振り回すと、ヒュンと音を立ててしなった。


しばらく振り回すと、太刀の特徴が分かって来た。


地面に垂直に振り下ろしても、変化はないが、角度をつけると、しなり、倍ほどの速さを発揮する。


動きを読むのが大変難しい剣だ。

ロクサンは、この剣なら、ダリアン先生にも勝てそうだと、嬉しさを露わにした。


しかし、近くで跪いていたタルファが、異論を唱えた。


「ムスタシエラ様、この剣は、王族と、彼らを守る剣士の為のものです。ロクサンが使えば、相手は怪我をします」

タルファは、跪いたまま、ムスタシエラに訴えた。


「それならば、その剣を持ったロクサンともう一度手合わせしてみろ。お前なら、怪我をする心配もなかろう」


「それは…」


タルファは、反論しようと考えたようだが、王子の性分を良く知っているから、諦めて、フェネルとアキムに二人分の防具を、持って来るように命じた。


「フェネル、アキム、いい機会だ。銀柄の太刀の動きを良く見ておくのだ。そして、お前達も、銀柄の太刀を目指せ」


タルファは、自分の太刀を抜き、その刃に月の光を当てている。


峰は厚く、刃は薄く研がれ、白く輝いている。


あの剣の重みを、この薄い両刃で受け止めることが出来るのか?


もしも、タルファが敵だとしたら、彼の弱点は何だろう?


タルファが、ロクサンよりも劣っているところは見あたらない。

一つあるとすれば、それは、相手が、自分の事を良く知らないことだ。


ロクサンが、闘技を得意とする事も、体が柔軟な事も、まだ隠されたままだ。


ならば、戦いは出来る。

ロクサンは得意の、逃げ切り戦法を選択した。


頭の中で、戦いを想像してみる。

そして、イリサのために祈った月を、もう一度見上げて、今後は、手合わせの勝利を願った。


やがて二人の若者が防具を携えて帰って来た。


アキムはタルファの元に、フェネルは、ロクサンの元に、やって来た。


二人とも、息を切らせている。


ロクサンは何がそんなに重いのか?と言う目でフェネルを見た。

彼との間には、少しずつ、友情が芽生え始めていた。


尊敬と、畏怖の混じる、ムスタシエラとの関係とは違う。


もっと暖かいものだ。


いずれはライバル心が芽生えるのかもしれない、そんな、大切な感情だ。


国も、仕える人も、言葉も違うのに、目で話が出来る。

ロクサンは、とても嬉しかった、そう言う事を、暫くしていなくて、寂しかったから。


「この胴着が重いのさ。お前の動きを止める作用もする。しかし着ておけよ。大剣の刃も止まる。肩当てで首が守られる。膝当ては止めておくか?」


ロクサンは、何とも言い難いと言う顔でフェネルを見た。

フェネルは、半分は面白がりながら、ロクサンに防具を付け始める。


「そんな顔はよせ、王妃の剣で、お前は充分に有利なんだからな。この胴着、手には重いが、着ればそうでもない」


タルファは相変わらず、にやにやしながら、ロクサンを見ている。


「分かったよ、とにかく、動き易いように着せてくれ。いまは、おまえが頼りだ」


「はいよ、胴着は動けばゆるみ丁度良くなる、剣を交える前に、動いておけよ。我が師は、見た目より百倍強い、誰でも、あの顔を見て、勝ち目があるかも知れないと思うのさ。だけど、俺の年代で、師に勝てる者はいないんだ。遠慮はいらない、思い切っていけよ」


ロクサンは、フェネルの言う通りに、体を動かし、胴着を馴染ませた。


タルファは、またニヤニヤしながらこっちを見ている。


身震いしそうだ。

思い切り息を吸い込むと、雪薔薇の香りがした。


こんな時のためだ。

もしも、妻との別れが来たとき、寄りどころにしようと、いつも懐に持っているのだ。


ロクサンは、絹の手拭きを取り出して、首の周りに巻きつけた。


「じゃぁ行くか!ここに居たって、始まらないからな!」


「あぁ行ってこい!師を信じて、思い切りやれよ。もしも、お前が勝ったら、俺は、お前を尊敬するよ」


ロクサンは、もう一度、雪薔薇の香りを吸い込むと、名乗りを上げて、タルファに向かって、切り込んでいった。


辺りには、大羊の角突きのような音が、しばらく響き続けた。

駄作にお付き合い頂きありがとう御座います。なんでもいいので、感想をお聞かせ願えれば幸いです

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