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勝負如此ニ御座候(五)


   五





 ――――あれが、宮本武蔵か。




 夕刻の寺尾邸で清秀が初めて見たかの大剣豪は、五尺七、八寸の背丈に右手に五尺ほどの長い杖をついていた。その杖の端に紐を通す穴を空け、紐は手首に巻いている。


『原城で石をぶつけられた』


 とのことであった。


 聞けば、小笠原信濃守様の護衛で最前線まで行かれ、それで投石を受けたとの由。


 名のある兵法者であろうと戦場ではたかがしれているということか、あるいは賊徒たちの最後の抵抗はそれほどまでに激しいものであったのか。


 いずれ戦場の飛び道具の傷は(いさしお)の証しのようなもの。城の間近にまで迫っていたというのならばなおのこと。しかも武蔵はこの時、五十を超えていた。その歳にして苛烈な戦さに挑み、生き延びたというだけでも驚異であった。


 とはいえ。


 口々に武蔵の弟子たち、知人たちは戦場の話を聞きたがって、武蔵は軽妙に受け答えしていた。この時に武蔵の弟子の誰かに聞いたが、飲み食いこそは好まないが、こうして人と話すのは好きなのだとか。


(一刀斎様とは違うのだな)


 と清秀は思った。


 天下無双の大剣豪が愛想よく振る舞い、聞かれるに任せて饒舌に答えるのは意外でもあり、何処か軽薄さが感じられた。


 彼の師である外他一刀斎は人嫌いでこそはなかったが、俗世とはあまり関わりたがろうとしない人だった。


 小野忠常や柳生兵庫助も、殊更に権勢を誇るでもなく、抑制的な生き方をしていたのが雰囲気として伝わった。超然としていたと言ってもいい。


 剣術者は禁欲的であらねばならぬ、と考えてはいなかったが、武蔵が俗っぽく楽しげにしている様は意外に思えたのだ。


『それで、武蔵、お主に仕合してもらいたいのだ』


 宴もたけなわ、お忍びという体で寺尾家にやってきていた義直公は、武蔵に事情を話した。


 武蔵は断った。


 島原にて怪我をしたということに重ねて、自分はすでに老足にて歩くのもままならず、若い兵法上手と仕合するなどとてもとても……


 その言い分に皆は残念がったが、すでに老齢であり、戦傷のある者に無理に仕合させるわけにもいかない、と納得した。


 最初からたまたま逗留した武蔵に、何処ともしれぬ若造と仕合をさせるというのが無茶な話なのである。


 もっとも、その時の清秀は、


(まあ、武蔵ともあろう者がこんなところで負けてしまうのも、風聞が悪いからな)


 そのようなことを考えていた。


 当時の清秀は二十四歳。気力体力ともに充実していた頃合いである。外他一刀斎の薫陶を受けた身であるという自負もあれば、小野忠常、柳生兵庫助に認められたことによって自信もついていた。


 伝説的な存在である宮本武蔵といえども、すでに老いたる身、やわか無様に負けはすまい――


 負傷の身であるのならばなおさらだ。


 万全ならばともかく、怪我の後に長旅の疲れもあるだろうことを考えれば、自分が負けるとは思えなかった。


 それは多分、この時は他の者もそう思っていたはずだ。


『つまらぬことを言うでない』


 と言ったのは、光義公だった。


 父と同道して来ていたのであるが、武蔵と父の対話が終わったと看て言う。


『宴の席の座興のようなものよ。何、音に聞こえた二天一流の太刀筋、少しばかり見せて貰えればそれでよいのだ。老いたる身の汝に、今更勝負も何もなかろうよ。その上に戦働きに疲れていて、誰も汝が勝てるとは思ってはおらぬ』


『――――――』


 武蔵は顔色一つ変えなかったが。


 周囲は、光義公の言葉に息を呑んだ。義直公ですらも口を半ば開けて何か言おうとして、適当な言葉を出せずにいる。


 柳生兵庫助が静かに頭を振った。


 当の光義公も、自身の言葉を失言だったかとすぐに悟り、何か言い添えようとしたが、上手くいえずにいるようだった。


 曰く言い難い沈黙が場を支配したのは、果たしてどれほどの時間だったか。




『――――承知いたしました』




 永劫にも近しい数瞬を経過した後、武蔵はそう言って平伏した。


 そしてその後、すぐに庭に降りた武蔵と清秀とは対峙する。


 その瞬間まで。


 木刀を立てて右に(いん)の構えをした時まで。


 清秀はこの老人に負けるとは思っていなかった。


 さて、どうやって花を持たせる勝ち方をしようか、などと考える余裕さえ持っていた。


 光義公の稚拙な挑発に、武蔵は年甲斐もなく腹を立てたのだろうと思った。いずれ武士ならば面子があるので引き下がれない。そのこと自体は清秀にも理解できることであるが、かと言って、自分がここで武蔵相手に遠慮する理由もない。


 せいぜい、天下無双の名に傷つかない程度に粘ってくれればよい。


 そんな気分であった。


 それが。




 (いわお)のように見えた。




 通常、立ち合いは五間(約10メートル)ほどの距離で対峙するものであるが、庭の広さの都合もあり、三間(約5メートル)ほどで向かうことになった往年の大剣豪は、二刀をだらりと下段にしたままで彼を見ていた。


 二重の瞼の下、琥珀色に薄い眼差しで清秀を見ている。


 背筋に震えがきた。


 怖い、と思った。


 他に言い表しようのない感情だった。


 清秀は生まれて初めて、剣の戦いで恐怖を感じたのだ。


 たちまちのうちに額に汗の珠が幾つも浮かび上がる。


「ッ……ぅうううう……」


 思わず、喉の奥から我がことと思えない唸り声が漏れた。


 清秀は外他流の(いん)の構え――他流に云う八相、發草に近い、木刀を立てて右拳を胸の高さに置いた構えをとっていたが。


 逡巡していたのは一瞬だったか一刻だったか。


 それでも彼は。


 踏み出した。


 


 巌が、動いた。




 先程までは人の丈の巨岩の如き威容であったのが、彼の踏み出しに応じ――いや、踏み出す直前に動き出していた。


 さながらそれは、水流に転がる小石のような淀みのなさであった。




「ずぅ」




 するりと、いつの間にか間合いは一間(約2メートル)にまで詰まっている。


 二刀は中段へと持ち上がっている。


「おおッ!?」


 思わず声を上げた清秀が一歩引き。


 


「たあん」




 低く、決して大きくない、不思議な気合だった。


 それなのに、清秀の身体はそれだけで停止した。


 武蔵も。


 何故か、そのまま動かなかった。


 ただ、目を細めたままで清秀を見ていた。


「――――ッ」


 清秀は肚の底より気合をひねり出し、新たに踏み込み。


 二刀が前に出ていた。


 咄嗟に一歩引くと。


 武蔵の姿勢は変わらなかった。


 間合も変わっていない。


「おお……」


 それが何を意味しているのか、清秀はその時には悟っていた。


 咄嗟に大きく跳び下がりながら、構えを車に引き落とし――


 武蔵の二刀の切っ先は、先程と同じ距離にあった。


「うっ……」


 こちらの跳ぶに合わせて武蔵もそうした、というわけではないことは見ている。武蔵はこちらが動く寸前に動いていたのだ。


 まるで、自分がいつ跳ぶかを知っていたかのようだった。


 そして。


 二刀はかちりと小さな音を立てて組合わされ。


 前に出た。


 武蔵の前進に、清秀はただ下がることでしか応じられなかった。


 最初の一歩から三呼吸の後、また武蔵は出た。二歩。そして次は二呼吸の後に四歩。一呼吸の後に五歩。


 …………


 気がつけば、武蔵の前に出るままに、清秀は下がり続けていた。構えを変えようとしても同じだった。こちらの動作の開始より明らかに半歩早く武蔵は踏み出していた。


 完全に拍子を読まれていた。間合を取られていた。


 どのように打とうとしても、武蔵は前に進むだけで、全てを封殺した。


 ふと、武蔵が立ち止まった。


 そこは、武蔵が木刀を組み合わせた位置だった。


 庭を一周したのだ。


 武蔵は切っ先を落として木刀を二本とも左手に持ち替え、上座で呆然と見ている者たちを見た。




勝負如此(しょうぶかくのごとく)ニ御座候(にござそうろう)




 そのように宣告したのだった。

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