勝負如此ニ御座候(四)
四.
「宮本武蔵――!」
あるいは、新免武蔵藤原玄信。
厳延の祖父である柳生兵庫助利厳と同世代の剣豪であり、二刀流の使い手として世に知られている。世情では武蔵をこそ天下無双であるという者も多い。この尾張の地にも何年か滞在し、その弟子筋である八田家、左右田家、林家は師範家として多くの弟子を育て上げ、現在、大きく勢力を持ち始めていた。
新陰流の師家であり、柳生家の総領である彼にすれば、その名は頭痛の原因でもあったが。
しかし、同時に憧憬の的でもあった。
それは厳延だけに限った話ではない。
おおよそ剣の道を志した者として、その名に対して何の感情も抱かない者などいるはずもなかった。
宮本武蔵とは、そのような名だ。
思いもかけず出たその名前に、ついつい詰め寄ってしまった。
「ですが、有馬の大乱の直後といえば……寛永十五年か、十六年――その頃、宮本武蔵が尾張にいたという話は聞いたことがない」
島原で起きたかの争乱には、九州の大名は多く参戦したと聞く。当時の宮本武蔵といえば、小倉の小笠原家の食客となっていたはずだ。
清秀老は微かに首を傾げる。何か記憶を探っている様子だ。
「確か……有馬の大乱の後、小笠原候に同道して江戸に下って、所用を済ませたので先に小倉に帰る道すがら、尾張に立ち寄った――とか、そういう話であったかな」
実際にいたのは、二日三日であった。
先んじて、交流があった尾張の弟子や知人たちに書状を送ってあったようで、その一人である家老である寺尾長政は義直公、そして光義公へとそのこと報告していた。
「寺尾直政様は、筆頭同心から家老へと引き立てられ……その先年に八千石に加増されたばかりであった――」
(ふむ……?)
そのようなことは、厳延も知っていることだ。むしろ尾張徳川家中で、その話を知らぬ者などいないはずだ。
今、そのようなことを語ることに違和感があった。
いや。
まだ何か躊躇っている。
この先のことを語ることを、この老人は躊躇っているのだ。
厳延は肚から息を吐き。
「それで、武蔵殿と立ち会われたのですか?」
と、深く踏み込んだ。
清秀老は難しげに眉根を寄せると、口を閉じたままに鼻から息を吐く。溜息を噛み潰したようだった。
「お主は、そんなに武蔵の話が好きか?」
「――――そのように、言われると」
恥ずかしくなる。
殊更に、好きの嫌いのというのではない。
ただとにかく、気になるのだ。
嶋左近から始まり、外他一刀斎、小野忠常、そして彼自身の祖父である柳生利厳……先程から、この老人の話は刺激的な名前があまりにも出すぎている。それらの挙げ句が、宮本武蔵だ。
気にならないはずもない。
「それに……あなたは、何やら話したがっておられぬ様でもある」
「それが解るのなら、察せよ」
「すると……」
清秀老は、苦虫を噛み潰したかのような顔をした。
「聞いたことはないか? かの宮本武蔵が、義直公の御前で仕合した話」
「それは、」
聞いたことがある。
ごくごく、断片的な話だ。
かつて宮本武蔵が尾張に来た折り、御前仕合で二人の兵法者と立ち合ったが、最初の相手は十字に組み合わせた二刀を相手に突きつけ、仕合の場を一周歩き回らせ、
「勝負如此ニ御座候」
勝負とは、このようなものでございます――と述べたのだという。
もう一人にも同様に勝った。
そのような話だ。
この話がいつ頃から伝わるのかは厳延も知らない。そもそも、本当にあったとも思っていなかった。
仕合の内容がおかしい。
(あり得ぬ話だ)
と思う。
若輩に達者が切っ先を突きつけ、間合いの妙で何もさせずに追い詰めること、それ自体はある。彼にもできる。ただしそれは、相手の弱さが条件だ。
一枚二枚の上手というだけでそんなことはできない。
よほどに隔絶した技倆の差がないと、とても不可能である。
相手が武蔵とはいえ、仮にも御前仕合に抜擢される者がそのような無様なことになってしまうなど――
そう一息に話してから。
「それで、その、清秀殿は実際にどのような……、」
「お主の聞いたままだ」
「その話と寸分違わぬ。武蔵殿の二刀に、何もできないままに追い回され、負けた」






