勝負如此ニ御座候(三)
三.
嶋左近。
それは通称であり、正しくは嶋清興――という。かの石田治部少輔三成に仕えていたという武将で、関ケ原の合戦で討ち死にしたという。だがその奮闘ぶりは苛烈なものであり、多くの敵した者たちが口々に語り今に伝わっている。
しかしその名は、柳生家にとってはまた別の意味を持っていた。
老人は嶋清秀と名乗った。
「――早朝とはいえ、あまり、立ち話で話せることではない」
それ以上のことは、とりあえずは人目のつかぬところで……ということになり、三之丸にある那古野神社なごやじんじゃの杜の中に二人は入った。
先行する清秀老の背中を眺めながら、厳延は思う。
(なるほど、この背中、歩き方、叔父御によく似ている)
剣術の達者は、強靭な足腰もあってか肩がほとんど上下することなく流れるように進む運足をする。
この清秀老もそうであり、彼の叔父御である浦連也もそうであった。
しかしそのような剣の境地などよりも、その背中の形……雰囲気と言った方がよいのだろうか。何か上手く言葉に言えないものが叔父御に似ているような気がした。
それはもしかしたら、錯覚なのかもしれないが。
(嶋家の者ならば)
嶋左近は、尾張の柳生家にとって特別な意味を持つ。
それは左近の娘である珠は、厳延にとっての祖父、柳生如雲斎――柳生兵庫助利厳の妻であり――つまり、義父に当たる人物なのだ。
父である利方、叔父である厳包にとっては祖父であり、特に叔父は嶋家の跡取りとして育てられ、十六歳まで柳生ではなく、嶋を名乗っていたと聞く。
もしかすれば、この嶋清秀老は自分のまだ知らぬ親戚であるかもしれないのだ。
ただの剣士であるのならまだしも、叔父御に関わりがあったかもしれぬ、血族とも言える者であるのならば捨て置けることはできなかった。
そのような人物がいたとして、なんで父も叔父も教えてくれなかったのかは不審であるが、一族の総領たる身としては把握して置かねばならぬ。
いや、そのようなことも言い訳でしかないのかもしれない。
厳延はこの老人について、今、知りたいと思ったのだ。
それは腹の底から吹き上がってくる衝動のようなものであった。
果たして清秀老は杜の中に入ってから立ち止まり、周囲を軽く見渡してから。
「嶋左近は、儂の祖父だ」
と答えた。
「すると、御老人は……」
「嶋左近の末の娘で、お主のご祖母であられる珠殿の妹、幸の子……兵庫殿のお父上である如流斎殿、連也斎殿とは従兄弟に当たる」
「なんと」
まったく、聞いたことがなかった。
祖母に妹がいることも含めて、父と叔父の従兄弟などというような近い親戚がいたという話を、彼は知らなかった。
そもそも、嶋左近に自分の祖母以外の娘は――確か、小野木重勝の正室になられた方がいたと聞くが、その妹というのは知らなかった。
「庶子であったようだ」
「なるほど……」
とりあえず納得はした。
しかし、それはそれとして、どうしてあなたは自分たちと親戚づきあいをしていないのか――と思った。
嶋家については叔父御のみならず、彼の父である利方も思い入れが強かったようで、晩年は嶋姓を名乗っていた。その辺りのことを直接聞いたこともあるが、はぐらかされてしまっていた。
厳延自身は父たちほど何か拘りがあるわけではないが、自分たちと関わりがあることには違いなく、その上で一瞥で解るほどの使い手となれば、気にならないはずがないのだ。
そのような考えが顔に出ていたのか。
「そうだの……」
清秀老は顎を撫でてから。
「少し、長くなるが――」
まずは、儂の父母の話をせねばなるまい、と語りだした。
清秀の母は祖父が近江国にいた頃、縁あって越前から同じく石田家に仕えた同僚の印牧重頼という人物に嫁したのだという。
この人は織田信長の面前で自害したことで知られる越前朝倉家の猛将、印牧能信に連なる者であったが、朝倉家滅亡の後で石田治部に仕えるまでのことは清秀老当人も詳しくは聞いていないとのこと。関ヶ原の合戦以降、浪人し、元和の大坂の陣に参加するもこれも破れ、なんとか落ち延びることができたが――再起をかけることもできず、大坂の傷が癒えぬままに数年して亡くなっている。
清秀は父が大坂の陣に参加していた渦中、慶長二十年(1615年)に母は父の親族である印牧一族の元に預けられ、そこで生まれた。
父の記憶はまったくない。
母と師の語る思い出話の中でしか父はいない。
師は外他一刀斎。印牧一族の者ではなかったが、印牧一族である鐘捲自斎に外他流を学び、名人として知られていた。関東を中心に剣術指南をしていたが、この頃は故郷の越前に戻っていて、師である自斎の関連から印牧一族と行き来があったものだという。
清秀はこの一刀斎に剣術を学び、寛永九年(1632年)に免状を貰った。
「まってください。外他一刀斎とは、かの一刀流の開祖として知られる名人のことですか!?」
「儂は、外他流として免状を貰ったがな。師父一刀斎の弟子以降での謂よ」
後世に流祖開祖と仰れる人間が、その流派の名を使用していなかったということはままあることである。流派名が一定しないということもよくあることだ。
一刀流も外他一刀斎の弟子としてもっとも高名であり、将軍家指南役をも努めていたという小野忠明の代からの名乗りであるが、忠明は一刀流の他、一刀斎流で免状の発行をしていた。彼の息子の小野忠常の代になってから、一刀流を正式の名乗りとしたと言う。
厳延は一刀流についてはその知見がなかったのだが、言われるとそのようなこともあるかと納得した。
(しかしそれにしても、その一刀斎に十代にして認められるとは……)
あり得ぬ話ではないが。
「お主と同じよ」
と、清秀老は薄く笑った。
厳延は訝る。
「同じ、とは?」
「……余計なことを言った。忘れられよ」
そう言ってから瞼を閉じた清秀老は、僅かに逡巡し。
「その後、母は師という鎹を失ってしまって印牧一族にも居づらくなってしまった」
(話を変えられたか)
いや、元に戻したとも言う方が正確だろう。先程の言葉は気にならなくもないが、本来聞きたいと思っていたのはそちらだ。
厳延は黙って頷き。
「それで、今度は嶋一族である私の祖母と、柳生家を頼って尾張に来られたと――」
「そういうことだ。一時、師の伝手で江戸の小野忠常様の元にもいたりはしたが」
先代である小野忠明は一刀斎からあらかじめ書状を交わし合い、清秀の親子の世話を頼まれていたそうである。
とはいえ、子である忠常も快く自分たちの世話をしてくれてはいたが、関係としては間接的なものだ。小野家に世話になるに当たって、改めて一刀流門下として入門することも考えたが、自分は開祖たる一刀斎に直接の免状を受けた最後の人間だ……という矜持が、それを許さなかった。
どのみち、長くは小野家の世話も受けられぬと思ってはいたが、数年して尾張に母を連れて行った時、母は姉である珠殿と再会し、たいそう喜びあった。それを見て、清秀はこの地で仕官することを決めた。
当然のことながら、下心がなかったわけではない。
珠の夫の柳生利厳は、遠方からの妻の親族たちの来訪を歓迎し、甥の望みに応えようとしてくれた。
「如雲斎様は、見知らぬ甥である儂に、よくしてくださった」
「お祖父様が……」
「今から思えば、先年に儂と似たような歳であったご長男を有馬の乱にて失っておられていたのも、関係しておったのかもしれぬ」
(清厳伯父か)
柳生清厳――柳生如雲斎の長子であり、若くして剣に詩にと多くの才覚を示していたが、病を得てよりは職務を辞し、蟄居して部屋に籠もりきりであったと伝えられている。
その後、有馬の島原で起きた大乱が何ヶ月と平定されないのを聞き、参戦した。死に場所を求めていたのだろうとは父の利方の言葉であるが、そうであったのかもしれない。
有馬の乱――後世に云う島原の乱で遂に戦死した。
この老人は、その清厳伯父と似たような歳であるというが、もしかすれば、体格や顔立ちも似ていたのかもしれない。
(よく見れば、顔も、叔父御にも少し、なんとなく、似ている……)
そんな、気がする。
「如雲斎様は、先々代の藩主の義直様に、大曽根のご隠居様……いや、考えれば、あの頃は如雲斎様も、ご隠居も、まだ今の名ではなかったが……ふむ。言い直すのも面倒だ。とにかく、大曽根のご隠居様のお側仕えできるようにと、取り計らってくだされた」
それで、万事が上手くいくはずであった。
時の藩主、徳川義直公も、その息子である徳川光義公(後の光友、大曽根のご隠居)も、柳生兵庫助利厳に剣を学び、公務とは別に師と仰ぐ間柄だ。滅多なことで公私混同することはない利厳が、わざわざ推挙する若者を悪く扱うはずもない。
素性も、印牧能信の係累にして、かの嶋左近の孫であり、柳生兵庫助の甥ときている。
この上に、若くして外他一刀斎に免状を貰ったという剣の腕前。
これ以上ない人材だった。
厳延は話を聞いていてそう思ったし、少なくとも、先代、先々代の藩主様たちがそれほどの者を、仮にそうでないにしても、祖父の推薦を無下にするとは考えにくいことだった。
しかし。
この清秀老が先代の大曽根のご隠居様に仕えていたなどという話は聞かない。父も叔父御もこの老人についてはまったく触れることはなかった。
(どういうことだ?)
肝心なことが、まだ解らない。
いや、今から遂にそれが解ることなのだ。
清秀老はまだこの期に及んでいても躊躇っていたようであったが。
やがて。
「ご隠居が――」
と言った。
「大曽根のご隠居様も、まだ若い頃であってな。兵庫助が推挙するのなら問題なかろうが、新陰流ならまだしも、外他流……一刀流というのがどうにも解せぬと仰られて」
徳川光義公は、当時、新陰流を学び始めた頃でもあった。
一刀流の高名を知らぬわけではない。一刀斎の名も承知している。しかし、新陰流が尾張徳川家の流儀だ。父もそうであったし、師である兵庫助もそうである。
他流の力を認めないわけではない。ただ、自分が信頼する者たちが側仕えとして推薦した剣士が一刀流であるのが、どうにも当人にも上手く言えないようだったが……つまるところは面白くない――ということだったのだろう。
他に、どうとも言いようがないことだ。
子どもの言い分だ、と厳延は思った。恐らく、清秀老もそう思っていたに違いないが、それについてはおくびにもだすことはない。
そうして、腕前を見せてみよ――と言う話になった。
そのこと自体については誰にも否やはない。兵庫助の推薦があったからには側仕えすることは既定路線ではあるが、仮にも剣士であるからには、どの程度のものかを示すのはむしろ当然のことだ。
だが、と光義公はさらに言う。
『吾は若輩ゆえ、吾を相手にしては勝てて当然。かと言って、兵庫助もその門人も手心を加えるとも限らぬ』
それは師に対する侮辱とも言える言葉であったが、若い光義公は憤りのままに言葉を吐き出していて、そのことには気づかない。
義直公は注意しようとしたし、その場にいた利方も眉をひそめていたのであるが。
続けての言葉に、全員が――柳生利厳ですらも、息を飲んだ。
『ちょうど、尾張に立ち寄った他国の高名な兵法者がいるではないか。小笠原家の筆頭家老の、御父上の、』
『あの、宮本武蔵が』